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100話「待つだけでは」

最後の客が帰ったあとのRoseには、食器の触れ合う音だけが響いていた。


 佐藤はテーブルの上に残された皿を重ね、カウンターへ運ぶ。


 美園はそれを受け取り、シンクへ置いた。


『本当に手伝うんだ』


「残ると言ったじゃないですか」


『社交辞令かと思った』


「美園さんには通じないでしょう」


『どうして?』


「社交辞令だと思ったら、遠慮なく帰すからです」


『よく分かってるね』


「少しは分かるようになりました」


『まだまだだよ』


「では、もっと教えてください」


 佐藤は空いたグラスを集めに戻る。


 美園はその背中を見つめた。


 以前の佐藤なら、美園に何か言われるたびに言葉を失っていた。


 今も緊張していないわけではない。


 それでも、少しずつ言い返すようになった。


 美園の機嫌を窺うだけではなく、自分がどうしたいのかを口にするようになっている。


 すべての食器を運び終えると、佐藤は洗い物に手を伸ばした。


『そこは私がやる』


「量が多いですよ」


『店の仕事だから』


「拭くくらいはできます」


『スーツが汚れるよ』


「上着は脱いでいます」


『シャツも濡れる』


「袖をまくります」


 佐藤は両方の袖を肘までまくった。


 美園がその腕を見る。


 仕事をしているときとは違う姿だった。


『準備がいいね』


「何度か手伝っていますから」


『勝手にね』


「追い出されていないので、許可されていると思っています」


『都合よく解釈するようになった』


「美園さんを相手にするには、それくらい必要だと学びました」


『誰に教わったの?』


「自分で学びました」


『成長したね』


「ありがとうございます」


 佐藤は褒め言葉として受け取った。


 美園は笑いながら、水の流れるシンクへ手を入れる。


 二人で並んで皿を洗う。


 美園が洗い、佐藤が拭く。


 単純な作業だった。


 それでも、一人でするときより早く片づいていく。


『佐藤くん』


「はい」


『今日は楽しかった?』


「はい」


『陽菜も元気になったしね』


「まだ完全ではなさそうですけど」


『あれだけ喋れれば大丈夫』


「無理をしていないといいんですが」


『中井くんが見てるから』


「過保護になっていましたね」


『気持ちは分かるよ』


「そうですね」


『佐藤くんも、同じことする?』


「誰にですか」


『彼女が怪我したら』


 佐藤の手が僅かに止まる。


「心配すると思います」


『何でもやってあげる?』


「必要なら」


『必要じゃないって言われたら?』


「できることは本人に任せます」


『意外』


「どうしてですか」


『全部やりたがると思った』


「俺にできることをしたいとは思います」


 佐藤は拭き終えた皿を棚へ戻す。


「でも、自分でできることまで奪ったら、その人のためにはならないでしょう」


『ちゃんと考えてるんだ』


「俺を何だと思っているんですか」


『可愛い年下の男の子』


 佐藤の手が止まる。


『どうしたの?』


「それは褒めていますか」


『可愛いは褒め言葉でしょ』


「年下は事実です」


『うん』


「男の子は、少し違うと思います」


 佐藤は美園を見る。


「俺は子供ではありません」


 声は穏やかだった。


 それでも、目は逸らさなかった。


 美園の笑みが僅かに薄くなる。


『怒った?』


「少しだけ」


『ごめん』


「謝るんですね」


『私だって謝るよ』


「知っています」


『何でも知ってるみたいに言うね』


「何でもは知りません」


 佐藤は布巾を置く。


「もっと知りたいとは思っています」


 美園は水を止めた。


 急に静かになった店内で、互いの呼吸が聞こえる。


『何を?』


「美園さんのことを」


『知ってどうするの』


「それは、知ってから考えます」


『無責任だね』


「知らないうちから、全部受け止めますと言う方が無責任だと思います」


 美園の目が僅かに動く。


 数日前、中井も似たことを言った。


 陽菜の過去を知り、すぐに理解したふりをしなかった。


 分からないから聞く。


 納得できないから怒る。


 それでも、同じ場所から逃げない。


 美園は、洗い終えた最後のグラスを佐藤へ渡した。


『重い女かもしれないよ』


「グラスがですか」


『私が』


「そうなんですか」


『否定しないんだ』


「美園さんがそう言うなら、何か理由があるんでしょう」


『面倒な過去もある』


「誰にでもあると思います」


『普通じゃないことも』


「今すぐ聞いた方がいいですか」


『……聞かないの?』


「美園さんが話したいなら聞きます」


『話したくないって言ったら?』


「待ちます」


 その言葉に、美園の表情が止まる。


「でも、ずっと聞かないふりはしません」


『どうして』


「美園さんが一人で抱えているものなら、知りたいからです」


 待つ。


 佐藤は簡単にそう言った。


 その言葉が、美園の胸へ深く刺さる。


 待たせる側は、その時間を知らない。


 いつか戻ると言われたわけでもない。


 帰ってくる保証もない。


 それでも、美園は樹里を待った。


 四年間。


 樹里がいない日常に慣れてしまうことを恐れながら。


『待つのは、つらいよ』


「そうかもしれません」


『いつ話してくれるか分からなくても?』


「聞かれたくないから離れてくれと言われない限りは」


『離れてって言ったら?』


「理由を聞きます」


『答えなかったら?』


「それでも、すぐには離れません」


『しつこいね』


「美園さんを相手にするには、必要だと思っています」


 先ほどと同じ言葉。


 美園は笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 誰かが自分のために残る。


 自分の答えを待つ。


 それが嬉しい。


 同時に、怖かった。


 待たせたくない。


 傷つけたくない。


 相手が失望する前に、自分から距離を取った方がいい。


 そう考える自分がいる。


「美園さん?」


『何でもない』


「何でもない顔には見えません」


『佐藤くんまで、人の顔を読むようになったの?』


「美園さんを見ているので」


『……そう』


 美園は視線を逸らす。


 洗い物は終わっていた。


 佐藤が棚へ最後のグラスを戻す。


「ほかに何かありますか」


『もうないよ』


「では、帰ります」


 佐藤は布巾を畳み、元の場所へ置いた。


 袖を下ろし、外していた腕時計を着ける。


 椅子の背に掛けていた上着を手に取る。


「今日はありがとうございました」


『こちらこそ』


「櫻井さんが戻ってきて、本当によかったです」


『うん』


「美園さんも、少し安心しましたか」


『どうして私に聞くの』


「ずっと櫻井さんを見ていたからです」


『みんな見てたでしょ』


「美園さんは、少し違いました」


『どう違った?』


「無事に戻ってきたことを、何度も確かめているように見えました」


 美園は答えられなかった。


 食事会の間、陽菜の顔を何度も見た。


 笑っているか。


 痛みを隠していないか。


 席にいるか。


 突然いなくなっていないか。


 目の前に陽菜がいることを、確かめ続けていた。


「すみません。余計なことを言いました」


『ううん』


 佐藤が店の扉へ向かう。


 美園はその背中を見る。


 このまま扉が閉まる。


 佐藤は帰り、自分は一人になる。


 いつもどおりだった。


 明日になれば、また店を開ける。


 佐藤も、きっとまた来る。


 それでも今夜、美園は、その背中を見送ることができなかった。


『佐藤くん』


 佐藤が振り返る。


「はい」


『もう少し、時間ある?』


「あります」


 返事は早かった。


『一杯だけ、飲んでいかない?』


「美園さんも飲むんですか」


『少しだけ』


「では、いただきます」


 佐藤は上着を椅子へ戻した。


          *


 二人はカウンターを挟んで向かい合った。


 美園は佐藤へ酒を作り、自分の前にもグラスを置く。


『乾杯する?』


「何にですか」


『陽菜が戻ってきたことに』


「さっきしましたよ」


『じゃあ、二回目』


「何度してもいいことですからね」


 二つのグラスが、静かに触れる。


 美園は一口だけ飲んだ。


 佐藤もグラスへ口をつける。


『佐藤くん』


「はい」


『もし、大切な人が急にいなくなったらどうする?』


 佐藤はグラスを置いた。


「捜します」


『見つからなかったら?』


「それでも捜します」


『もう来ないでって言われたら?』


「理由を聞きます」


『またそれ』


「大事だと思うので」


『理由を聞いて、納得したら?』


「納得しても、腹は立つと思います」


『どうして』


「一人で決められたことにです」


 美園はグラスの中を見る。


「ただ、本当に俺と会いたくないと言われたら、離れるしかありません」


『そうだよね』


「でも、俺のために離れるとは言ってほしくないです」


 美園の指が止まる。


「俺のためかどうかは、俺が決めます」


『最近、みんな同じことを言うね』


「誰かにも言われたんですか」


『似たようなことを』


 陽菜。


 中井。


 樹里。


 そして佐藤。


 一人で決めるな。


 相手の気持ちまで勝手に決めるな。


 何度も同じ言葉が、美園へ届く。


『佐藤くんは、私のこと好き?』


「はい」


 迷いのない返事だった。


 美園の方が戸惑う。


『即答するんだ』


「もう隠していないので」


『いつから?』


「正確には分かりません」


『きっかけは?』


「それも分かりません」


『何も分からないじゃん』


「気づいたときには、会いたいと思っていました」


 佐藤は美園を見る。


「仕事が終わると、ここへ来る理由を探していました」


『飲みに来ればいいでしょ』


「飲みたいわけではありません」


『じゃあ、何しに来てたの』


「美園さんに会いにです」


 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


 美園は目を逸らす。


『私のどこが好きなの』


「それは、たくさんあります」


『例えば?』


「綺麗なところ」


『見た目?』


「それもあります」


『正直だね』


「笑うと、思っていたより幼く見えるところも」


『それ、褒めてる?』


「褒めています」


『ほかは?』


「人のことをよく見ているところ」


 美園の表情が僅かに変わる。


「誰かが一人にならないように、いつも気にしているところ」


『そんなことしてない』


「しています」


『してないよ』


「では、俺が勝手にそう見ているだけです」


 佐藤は穏やかに続ける。


「強そうに見えるのに、本当は傷つきやすいところも」


『佐藤くん』


「はい」


『それ以上は言わないで』


「嫌でしたか」


『違う』


 美園はグラスを置いた。


『今、それ以上言われたら困る』


「どうしてですか」


『分からない』


 佐藤は黙る。


 美園が話せるようになるまで待っている。


 まただ。


 この男は、美園が言葉を選ぶ時間を急かさない。


 答えを出せない自分を、責めない。


 それでも、離れない。


『佐藤くん』


「はい」


『少し、こっちに来て』


「そちらへ?」


『うん』


 佐藤が椅子から立ち上がる。


 カウンターの端を回り、美園のいる内側へ入る。


「どうしましたか」


 美園の前で足を止める。


 近い。


 手を伸ばせば届く距離だった。


『目、閉じて』


「なぜですか」


『嫌ならいい』


「嫌とは言っていません」


 佐藤は緊張した顔で目を閉じた。


 美園は、その顔を見つめる。


 自分から求めることが、怖かった。


 手に入れれば、失うことが怖くなる。


 近づけば、いつか離れる日が来る。


 だから、待つことを選んできた。


 相手が来れば迎える。


 帰るなら見送る。


 自分から追いかけなければ、置いていかれたとは思わずに済む。


 けれど、それでは何も変わらない。


 美園は佐藤のシャツを、指先で僅かに掴んだ。


 背伸びをする。


 二人の唇が、静かに触れた。


 ほんの一瞬。


 すぐに離れるつもりだった。


 だが、触れた瞬間、美園は動けなくなった。


 佐藤も目を開けない。


 美園が離れるまで、何もしなかった。


 数秒後。


 美園はゆっくりと唇を離した。


 掴んでいたシャツから手を放す。


 佐藤が目を開けた。


 驚いたまま、美園を見つめている。


『何、その顔』


「驚いています」


『見れば分かる』


「今のは」


『聞かないで』


「でも」


『今は、聞かないで』


 美園は佐藤から目を逸らした。


『私にも、まだ分からないから』


「俺のことを好きかどうかも?」


 美園の唇が僅かに動く。


『それは……』


「違うなら、そう言ってください」


『違わない』


 佐藤の目が大きくなる。


『でも、今はそれ以上言えない』


「どうしてですか」


『分からないって言ったでしょ』


 美園の声が僅かに震えていた。


 佐藤は追及しようとした。


 けれど、強がる美園の目に怯えがあることへ気づく。


「一つだけ聞いてもいいですか」


『何?』


「後悔していますか」


 美園は、今度はすぐに答えた。


『してない』


「分かりました」


『それだけ?』


「今は聞かないでと言われたので」


『素直だね』


「ただし」


 佐藤は美園から目を逸らさない。


「なかったことにはしません」


『……うん』


「美園さんも、忘れたふりをしないでください」


『分かった』


「いつか、続きを聞きます」


『いつかね』


「逃げませんか」


 美園は答えに詰まる。


 逃げないと約束できるのか。


 怖くなったとき、自分から佐藤を遠ざけずにいられるのか。


 今の美園には分からない。


『努力する』


「そこは約束してほしいです」


『できない約束はしたくない』


「では、逃げたら追いかけます」


『しつこいね』


「先ほども言いました」


 佐藤が僅かに笑う。


「美園さんを相手にするには、必要です」


 美園はその顔を見た。


『じゃあ、追いつけるくらいには、ゆっくり逃げる』


「逃げないでください」


『努力する』


「またそれですか」


『今は、これが精一杯』


 佐藤は少し考え、頷いた。


「分かりました」


『帰らないの?』


「帰ってほしいですか」


『……分からない』


「なら、もう少しいます」


『明日も仕事でしょ』


「あと十分だけ」


『時間を決めるんだ』


「決めないと、帰れなくなりそうなので」


 美園の頬が、僅かに赤くなる。


『もう一杯飲む?』


「いただきます」


 佐藤はカウンターの内側から出ず、美園の隣へ座った。


 二人の肩の間には、少しだけ距離がある。


 先ほど唇を重ねた距離より、ずっと遠い。


 それでも、今までより近かった。


 美園は新しい酒を作る。


 グラスを渡すとき、二人の指先が触れる。


 どちらも、すぐには離さなかった。


 待つだけでは、始まらない。


 追われるだけでも、届かない。


 美園は今夜、初めて自分から一歩を踏み出した。


 その一歩がどこへ続くのか、まだ分からない。


 分からないままでも、佐藤は隣にいた。


 それが今は、怖いほど嬉しかった。

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