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101話「誰と見る」

 Roseを出た柚希と零は、並んで駅へ向かっていた。


 夜の歩道には、仕事帰りの人や飲食店から出てきた客が行き交っている。


 零は車道側を歩いていた。


 柚希が歩調を緩めれば、何も言わずに速度を合わせる。


 後ろから自転車が近づいてくると、柚希の肩へ触れない距離で腕を上げ、歩道の端へ寄らないようにした。


 意識しているようには見えない。


 昔からそうしてきたかのような自然な動きだった。


「零ちゃん」


「何すか」


「どうしてそっち歩いてるの?」


 柚希が車道側を指す。


「どっちでもよくないっすか」


「私がこっちにいるから?」


「柚希さんを車道側に歩かせる理由もないんで」


「そういうこと、普通に言うんだ」


「変なこと言いました?」


「ううん」


 柚希は小さく笑った。


「ありがとう」


「お礼を言われることでもないっす」


「零ちゃんにとっては、そうなんだね」


 零は意味が分からないような顔をした。


 そのまま少し歩く。


 食事会でたくさん話したはずなのに、二人きりになると会話が途切れた。


 柚希は隣にいる零を、気づかれないように見る。


 京都で初めて普段着を見たときにも思った。


 零は、黙って歩いていると近寄りがたく見える。


 目つきも鋭い。


 愛想よく誰にでも笑いかけるタイプでもない。


 だが、自分へ向けられる言葉や動作は、見た目よりずっと優しかった。


「今日は楽しかった?」


「楽しかったっす」


「本当?」


「どうして疑うんすか」


「最初、緊張してたから」


「知らない人もいましたし」


「青柳さん?」


「はい。佐藤さんも、ちゃんと話したのは初めてでした」


「じゃあ、私がいてよかった?」


 零が柚希を見る。


「よかったっす」


 即答だった。


 柚希の胸が僅かに跳ねる。


「どうして?」


「京都で一緒にいたから、話しやすいんで」


「それだけ?」


 聞いた直後、柚希は自分の言葉に戸惑った。


 何を期待しているのか。


 零は少し考える。


「自分が行くか聞かれたとき、柚希さんが誘ってくれたから」


「うん」


「だから、柚希さんがいないなら行く意味がないと思いました」


 柚希は足を止めそうになった。


 零は前を向いたまま歩いている。


 特別な言葉を口にしたつもりはないらしい。


「陽菜さんの復帰祝いだったのに?」


「それは、陽菜さんが元気なら直接会わなくても分かるんで」


「零ちゃん、結構ひどいこと言ってない?」


「違います」


 零が慌てて否定する。


「陽菜さんのことも心配してました。でも、行くきっかけをくれたのは柚希さんだったってことです」


「そっか」


「変っすか」


「変じゃないよ」


 柚希は再び歩き出す。


「私も、零ちゃんが来てくれてよかった」


「どうしてっすか」


「話しやすいから」


「自分の真似ですか」


「違うよ」


「では、ほかに理由があるんすか」


「……秘密」


 零が柚希を見る。


「自分には聞いたのに?」


「女の子には秘密があるの」


「ずるくないっすか」


「そうかも」


 柚希は笑ってごまかす。


 本当は、自分にも理由が分からなかった。


 隣に零がいると安心する。


 零が別の席へ移ろうとしたとき、嫌だと思った。


 参加すると聞いたときも、自分が参加すると伝えて『よかった』と言われたときも嬉しかった。


 それが友情と何が違うのか。


 柚希には、まだ分からなかった。


          *


 駅前の横断歩道で、信号が赤に変わった。


 二人は足を止める。


 その直後、後ろから来た酔った男が柚希の肩へぶつかった。


「きゃっ」


 柚希の身体が前へ傾く。


 零が腕を掴み、引き戻した。


「危ないっす」


 零は柚希を自分の後ろへ庇うように立つ。


 男は振り返りもせず、そのまま人混みへ消えていった。


「零ちゃん」


「怪我してないっすか」


「うん。大丈夫」


 掴まれた腕へ目を落とす。


 零の手が、まだそこにある。


 柚希が見ていることに気づき、零はすぐに離した。


「すみません」


「どうして謝るの?」


「勝手に触ったから」


「助けてくれたんでしょ」


「でも」


「嫌じゃないよ」


 柚希は自分の腕を押さえる。


「むしろ、ありがとう」


「……はい」


 零が前を向く。


 信号はまだ赤だった。


 柚希の隣ではなく、半歩前に立っている。


 人がぶつからないように、その身体で道を作っていた。


「零ちゃんって、誰にでもそうなの?」


「何がっすか」


「今みたいに助けたり、車道側を歩いたり」


「危なければ、誰でも助けます」


「そっか」


 胸の奥に、僅かな寂しさが生まれる。


 自分だけではなかった。


 当然のことだった。


「でも、ずっと周りを見ているわけではないっす」


「え?」


「柚希さんが隣にいるから、今日は見てます」


 零は前を向いたまま言った。


「誘ってもらったのに、怪我させたら嫌なんで」


「……うん」


「どうしました?」


「何でもない」


 信号が青へ変わる。


「行こっか」


「はい」


 二人は横断歩道を渡る。


 零は半歩前を歩きながら、ときどき後ろを確認した。


 柚希がついてきていることを確かめるように。


 柚希の目は、その背中から離れなくなっていた。


          *


 翌日の昼休み。


 陽菜はスマートフォンを見ながら、突然声を上げた。


『あ、今年もやるんだ』


「何がですか」


 隣にいた柚希が画面を覗こうとする。


『花火大会』


「もうそんな時期なんですね」


『来月だって』


 陽菜は地域情報のページを開き、開催日を確認する。


『土曜日。ちょうど休みじゃん』


「行くんですか?」


『行くよ』


「誰と?」


『中井くん』


 陽菜は当然のように答えた。


 少し離れた席にいた中井が顔を上げる。


「初めて聞きました」


『今決めたから』


「俺の予定は確認しないんですか」


『何かあるの?』


「今のところはありません」


『じゃあ決まり』


「俺に断るという選択肢は」


『あるよ』


「あるんですか」


『あたし以外と行くなら教えて』


「行きません」


『じゃあ決まりじゃん』


 陽菜は満足そうに笑う。


『浴衣着るから、楽しみにしててね』


「はい」


『脱がせるのも中井くんだから』


 中井が咳き込んだ。


「会社で何を言っているんですか」


『だって、帰ったあと二人で――』


「言わなくていいです」


『まだ何も言ってないじゃん』


「続きが分かります」


『中井くん、あたしのこと分かるようになったね』


「今のは誰でも分かります」


「櫻井さん」


 黒澤の声が飛んでくる。


「昼休みでも、話す内容を少し考えろ」


『聞いてたんですか』


「聞こえたんだ」


『黒澤部長も花火行きます?』


「話を変えるな」


 営業部に小さな笑いが起こる。


 陽菜は気にした様子もなく、今度は柚希へ顔を向けた。


『柚希ちゃんは誰と行くの?』


「まだ行くとは言ってません」


『行かないの?』


「そういうわけではないですけど」


『じゃあ、誰か誘う?』


「友達と行くかもしれません」


『零とか?』


 柚希の指が止まる。


「どうして零ちゃんなんですか」


『昨日、一緒に帰ったんでしょ』


「帰る方向が同じだったからです」


『楽しかった?』


「楽しかったです」


『じゃあ誘えばいいじゃん』


「まだ行くかどうかも決めていません」


『柚希ちゃんも浴衣着ようよ』


「陽菜さんも着るんですか?」


『着るよ。柚希ちゃんも似合いそう』


「浴衣は好きですけど」


 柚希は、自分が浴衣を着た姿を思い浮かべる。


 その隣へ、昨夜の零が重なった。


 車道側を歩き、人混みでは半歩前に立つ。


 零は浴衣を着るより、動きやすい服で歩いている方が似合う気がした。


 そんな零の隣を、自分が浴衣で歩く。


 想像しただけで、頬が熱くなる。


『柚希ちゃん?』


「何ですか」


『今、誰かと花火見てた?』


「見てません」


『頭の中で』


「見てません!」


『零は何着るのかな』


「浴衣じゃなくていいと思います」


 言ったあと、柚希は口を閉じた。


 陽菜が目を細める。


『もう隣にいる前提なんだ』


「違います」


『何が?』


「零ちゃんは、普段着の方が似合うと思っただけです」


『隣を浴衣で歩きたい?』


「陽菜さん」


『はい』


「それ以上言ったら怒ります」


『もう怒ってるじゃん』


 陽菜は楽しそうに笑い、次に凛を見る。


『凛ちゃんも浴衣着よう』


「どうして決定事項なんですか」


『似合うと思うから』


「浴衣を着るかどうか以前に、花火大会へ行くとは言っていません」


『じゃあ、誰かに誘われたら行く?』


「相手によります」


『青柳くんとか』


 凛の手が止まった。


「どうして青柳さんが出てくるんですか」


『この前、楽しそうに話してたから』


「楽しそうにはしていません」


『料理まで取り分けてもらってたじゃん』


「それは、私が食べていなかったからです」


『よく見てくれてるね』


「見すぎなんです」


『嫌なの?』


 凛はすぐに答えられなかった。


 食事会で踏み込まれたときは、確かに不快だった。


 自分でも触れようとしなかった部分を、簡単に見つけられた。


 けれど、もう話したくないとは思わなかった。


 別れ際に「また話してもいいですか」と聞かれたときも、拒絶しなかった。


「……それと、花火大会は関係ありません」


『関係ないなら誘ってもいい?』


「誰がですか」


『凛ちゃんが』


「私から?」


『うん』


「誘う理由がありません」


『一緒に見たいなら、それが理由じゃん』


「一緒に見たいとは言っていません」


『じゃあ、嫌?』


「嫌とも言っていません」


 陽菜が笑う。


『凛ちゃん、さっきからそればっかり』


「櫻井さんが、勝手なことばかり言うからです」


『浴衣は?』


「……行くなら着てもいいです」


『やった。三人で選びに行こう』


「まだ行くとは言っていません」


『でも浴衣は選ぶんでしょ』


「話を進めないでください」


 柚希が隣で笑う。


「でも、三人で選びに行くのは楽しそう」


「柚希ちゃんまで」


『決まりね』


「決まっていません」


『じゃあ、仮決まり』


「何ですか、それ」


 三人の会話を、佐藤は自分の席で聞いていた。


 花火大会。


 美園と二人で歩く姿を想像する。


 昨夜、美園から唇を重ねた。


 好きではないわけではないと言った。


 それでも、二人の関係にはまだ名前がない。


 花火へ誘えば、意味を求めているように思われるかもしれない。


 困らせるかもしれない。


 だが、何もなかったように振る舞うことは、もうできなかった。


「櫻井さん」


『何?』


「花火大会、何日ですか」


 陽菜がゆっくり佐藤を見る。


『誰か誘うの?』


「先に日にちを聞いただけです」


『美園さん?』


「どうしてそこで中村さんが出てくるんですか」


『昨日、最後まで残ってたから』


「片づけを手伝っただけです」


『へえ』


「何ですか」


『何もなかった?』


 佐藤は答えなかった。


 陽菜の目が鋭くなる。


『あったんだ』


「何も言っていません」


『顔が言ってる』


「言っていません」


『どこまで?』


「聞かないでください」


『美園さんから?』


 佐藤の動きが止まる。


 陽菜が机へ身を乗り出す。


『美園さんから何かしたんだ』


「櫻井さん」


『え、何? 教えて』


「教えません」


『キス?』


 佐藤の顔が赤くなる。


 陽菜の目が大きく見開かれた。


『本当にキスしたの!?』


 営業部に響き渡る声だった。


 樹里の手が止まる。


 神谷が顔を上げる。


 彩花と柚希まで佐藤を見る。


「声が大きいです!」


『だって! 美園さんから?』


「俺は何も言っていません」


『顔に書いてあるって』


「書いていません」


『日高先輩、聞いた?』


『聞こえました』


「日高さんまで答えないでください」


『私は何も聞いていません』


『絶対気になるでしょ』


『仕事中です』


 樹里は書類へ視線を戻す。


 だが、ページをめくる手が先ほどから止まっていた。


 陽菜は佐藤へ向き直る。


『花火、誘うんでしょ』


「……そのつもりです」


『頑張って』


「急に普通に応援しないでください」


『美園さん、面倒だよ』


「知っています」


『怖くなったら逃げるよ』


「それも、少し分かっています」


『じゃあ、逃がさないでね』


 佐藤の表情が変わる。


「はい」


 今度の返事には、迷いがなかった。


 陽菜は満足そうに頷く。


          *


 一連の会話が落ち着いたあと、樹里は仕事へ戻ろうとした。


 だが、向かいの席から視線を感じる。


 顔を上げると、陽菜がこちらを見ていた。


『何ですか』


『日高先輩は?』


『何がですか』


『花火』


『予定はありません』


『行かないの?』


『人が多い場所は苦手です』


『神谷さんとなら?』


 樹里の手が止まる。


 神谷も、手元の資料から顔を上げた。


『どうして神谷さんが出てくるんですか』


『この前、二人でご飯行ったじゃん』


『食事と花火は関係ありません』


『また行く約束もしたんでしょ』


『なぜ知っているんですか』


『日高先輩が言った』


『言っていません』


『顔が言ってる』


『さっきから、そればかりですね』


 陽菜は神谷を見る。


『神谷さん、花火好きですか?』


「嫌いではありません」


『じゃあ――』


『櫻井さん』


 樹里の低い声が止める。


『それ以上は結構です』


『まだ何も言ってないじゃん』


『言おうとしていることは分かります』


「私から、お誘いしても構いませんか」


 神谷が口を開いた。


 樹里が神谷を見る。


「日高さんが、ご迷惑でなければ」


『神谷さんまで、陽菜に乗らないでください』


「私は、日高さんに尋ねています」


 周囲の視線が二人へ集まる。


 樹里は僅かに眉を寄せた。


『ここで答えるんですか』


「それは、申し訳ありません」


 神谷も周囲の視線に気づく。


「あとで、改めてお尋ねします」


『……そうしてください』


 断らなかった。


 そのことに気づいた陽菜が、嬉しそうに笑う。


『日高先輩、顔赤いよ』


『赤くありません』


『凛ちゃんと同じこと言ってる』


「私は赤くありません」


 凛まで反論する。


「早川さんはどうなんですか」


「どうして私に来るの?」


「零さんを思い浮かべていましたよね」


「思い浮かべてない」


『柚希ちゃんも赤い』


「陽菜さん!」


「お前たち」


 黒澤が深く息を吐く。


「花火の話は構わないが、営業部を祭り会場にするな」


『まだ花火も上がってません』


「櫻井さん」


『はい』


「昼休みが終わるまであと二分だ」


『みんな、続きはLINEでね』


「仕事をしろと言ってるんだ」


 営業部に笑いが起こる。


 それぞれが、自分の席へ戻っていく。


 花火大会へ行くことは、まだ決まっていない。


 誰かを誘った者もいない。


 それでも、陽菜が口にした一つの話題によって、全員の心に浮かぶ人がいた。


 中井にとっては、浴衣姿で隣を歩く陽菜。


 佐藤にとっては、昨夜唇を重ねた美園。


 柚希にとっては、人混みで半歩前を歩く零。


 凛にとっては、自分を見すぎる青柳。


 そして樹里にとっては、仕事以外の時間を、また一緒に過ごしたいと思えた神谷。


 同じ花火を、誰と見るのか。


 その答えを選ぶ夏が、ゆっくりと近づいていた。

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