102話「忘れ物」
花火大会の話で営業部が騒がしくなった日の午後。
中井のスマートフォンに、青柳からLINEが届いた。
【昨日、遠藤さんが持っていた手帳を、間違えて持ち帰ったみたいだ】
続けて、黒い表紙の小さな手帳の写真が送られてくる。
中井は画面を見たあと、凛の席へ目を向けた。
「遠藤さん」
「はい」
「少しいいですか」
凛が顔を上げる。
中井は席を立ち、自分のスマートフォンを持って凛のもとへ向かった。
「昨日、Roseに手帳を持っていきましたか」
「はい。予定を確認するために」
「今、手元にありますか」
凛は机の上を見る。
続いて、鞄を開いた。
普段なら決まった場所に入っているはずの手帳がない。
内側のポケットまで確認する。
「……ありません」
「青柳さんが、間違えて持ち帰ったそうです」
「青柳さんが?」
中井が送られてきた写真を見せる。
凛は自分の手帳であることを確認した。
「これです」
「昨日、青柳さんの手帳と並んでいたみたいです。色も大きさも似ていたので、確認せず鞄へ入れてしまったと」
「そうだったんですね」
「中は開いていないそうです」
凛の表情が僅かに和らぐ。
仕事の予定が中心とはいえ、個人的な用事も書いてある。
勝手に見られたとは思っていなかったが、先に伝えてくれたことはありがたかった。
「明日、俺が受け取ってきましょうか」
「中井さんが?」
「はい。青柳さんと会う予定を合わせます」
「そこまでしていただかなくても」
凛は少し考える。
「青柳さんは、何と?」
「間違えて持ち帰ったのは自分だから、直接返して謝りたいと言っています」
「直接……」
「遠藤さんが嫌なら、俺が預かります」
凛はスマートフォンの画面に映る手帳を見る。
中井へ頼めば、それで済む。
青柳と会う必要はない。
けれど、食事会の帰り際、青柳は言った。
また会ったときは、話してもいいですか。
凛は、それを拒まなかった。
「私が受け取ります」
「いいんですか」
「私の物ですから」
「では、連絡先を青柳さんへ伝えても構いませんか」
「……はい」
返事をしたあと、凛は少しだけ背筋を伸ばした。
「LINEだけでお願いします」
「分かりました」
中井は自分の席へ戻る。
その会話を聞いていた陽菜が、椅子ごと凛の方へ身体を向けた。
『青柳くんから?』
「手帳を間違えて持ち帰ったそうです」
『わざとじゃない?』
「違います」
『凛ちゃんにもう一度会うために』
「そんなことをする人には見えません」
凛はすぐに否定した。
陽菜が目を細める。
『随分、信用してるね』
「手帳を開いていないと、先に伝えてくれたからです」
『これから会うの?』
「返していただくだけです」
『二人で?』
「そうなると思います」
『今日、花火の話が出たね』
「関係ありません」
『まだ何も言ってないじゃん』
「言おうとしていることが分かります」
『日高先輩と同じこと言うようになった』
『私を巻き込まないでください』
樹里が書類から顔を上げずに答える。
陽菜は楽しそうに笑った。
『せっかくだから、お茶でもしてきたら?』
「手帳を受け取るだけです」
『じゃあ、五分で帰ってくるんだ』
「時間までは決めていません」
『凛ちゃん』
「何ですか」
『楽しみ?』
「仕事中です」
『答えになってないよ』
「櫻井さんも仕事をしてください」
『はーい』
凛はパソコンへ向き直った。
数分後。
机の上に置いていたスマートフォンが短く震える。
青柳から、初めてのLINEが届いていた。
【青柳です。中井さんから連絡先を教えてもらいました】
【昨日は、遠藤さんの手帳を間違えて持ち帰ってしまい、申し訳ありません】
凛は文字を読む。
言葉どおり、用件だけの丁寧な文章だった。
【遠藤です。中井さんから聞きました】
【中を開いていないと伝えてくださり、ありがとうございます】
すぐに既読がつく。
【当然のことです】
【今日の仕事終わりにお返ししたいのですが、ご都合はいかがですか】
凛は今日の予定を確認する。
【18時半以降なら大丈夫です】
【では、会社近くの駅まで伺います】
【私がそちらへ取りに行きます】
【俺が間違えて持ってきたので、届けさせてください】
凛の指が止まる。
食事会のときと同じだった。
強引ではない。
けれど、自分がすべきだと思ったことは譲らない。
【分かりました。お願いします】
【ありがとうございます】
【到着したら連絡します】
やり取りは、それで終わった。
凛は画面を閉じる。
用件だけ。
それなのに、午後の間に何度か、まだ届くはずのないLINEを確認してしまった。
*
18時半を少し過ぎた頃。
仕事を終えた凛が会社を出ると、青柳は駅前の広場で待っていた。
片手に鞄を持ち、もう一方の手には凛の手帳がある。
凛に気づくと、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「遠藤さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
青柳は手帳を両手で差し出した。
「本当にすみませんでした」
「色も大きさも似ていたんですよね」
「はい。言い訳にはなりませんが」
凛は手帳を受け取る。
外側に汚れも傷もない。
「中は見ていません」
「分かっています」
「鞄から出した時点で、遠藤さんのものだと気づきました」
「どうして、私のものだと分かったんですか」
「昨日、何度か予定を確認していましたから」
「そこまで見ていたんですね」
凛の声が僅かに硬くなる。
青柳は一瞬黙り、頭を下げた。
「また、見すぎました」
「……そうですね」
「気をつけると言ったばかりなのに、すみません」
凛は青柳を見る。
言い訳をしない。
褒めるつもりだったとも言わない。
不快にさせたと感じれば、すぐに引く。
「いえ」
凛は手帳を鞄へ入れる。
「今回は、見ていたから私のものだと分かったんですよね」
「はい」
「なら、謝らなくても大丈夫です」
「そうですか」
「ただし、手帳の中身まで見ようとしたら怒ります」
「それは当然です」
「当然だと言い切るんですね」
「見ていいものではありませんから」
「青柳さんにも、そういう線引きはあるんですね」
「俺を何だと思っているんですか」
「人を見すぎる人です」
「否定できません」
青柳が困ったように笑う。
凛はその表情を初めて見た。
落ち着いていて、何でも見抜く人だと思っていた。
けれど、間違えて他人の手帳を持ち帰る。
言葉の選び方を誤り、謝る。
完璧に人の心を読めるわけでもない。
そのことに、凛は少しだけ安心していた。
「お詫びに、何かご馳走させてください」
「必要ありません」
「でも」
「本当に中を開いていないなら、それで十分です」
「開いていません」
「では、終わりです」
凛は小さく頭を下げる。
「届けてくださり、ありがとうございました」
「はい」
これで帰る。
そのはずだった。
凛は駅へ向かおうとする。
青柳も無理に引き止めなかった。
「では、また」
「……はい」
数歩進んだところで、凛の足が止まった。
振り返る。
青柳はまだ同じ場所に立っていた。
目が合う。
「どうしましたか」
「青柳さん」
「はい」
「時間は、ありますか」
青柳の表情が僅かに変わる。
「あります」
「手帳を届けてもらったので、飲み物くらいなら私が」
「それでは、お詫びになりません」
「私は、青柳さんともう少し話したいだけです」
言ってから、凛は自分の言葉に気づく。
頬が熱くなる。
「……嫌なら、構いません」
「嫌ではありません」
青柳の返事は早かった。
「ぜひ、お願いします」
「では、近くの店で」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
凛は前を向いたまま、鞄の持ち手を握り直す。
手帳を受け取るだけなら、もう用事は終わっている。
ここから先は、誰かに頼まれたことではない。
陽菜に勧められたからでもない。
自分が、もう少し話したいと思った。
その気持ちを認めるだけで、胸が落ち着かなくなった。
*
二人が入ったのは、駅近くの小さなカフェだった。
向かい合って座り、それぞれ飲み物を注文する。
凛は紅茶。
青柳はコーヒーを選んだ。
「先ほどの言葉、嬉しかったです」
注文を終えた青柳が言う。
「先ほど?」
「俺と、もう少し話したいと言ってくれたことです」
「そのまま受け取らないでください」
「ほかに受け取り方がありますか」
「手帳を届けてくださったお礼です」
「お礼は必要ないと言っていました」
凛が黙る。
「すみません」
青柳が僅かに笑う。
「困らせるつもりではありませんでした」
「青柳さんは、思ったことをすぐに言うんですね」
「言わない方がいいこともあります」
「では、今のは言っていいと思ったんですか」
「伝えたかったので」
凛は運ばれてきた紅茶へ手を伸ばす。
まだ熱く、口をつけることはできなかった。
「食事会のときは、すみませんでした」
青柳が続ける。
「遠藤さんのことを勝手に決めつけました」
「気を抜くのが苦手だと言ったことですか」
「はい」
「間違ってはいません」
「それでも、俺が言っていいことではなかったと思います」
凛は青柳を見る。
「どうして、そこまで私を見ていたんですか」
今度は凛から尋ねた。
青柳が僅かに考える。
「最初は、よく気がつく人だと思ったからです」
「はい」
「でも、二度目に会ったときも、同じように周りを見ていました」
「癖です」
「そうだと思います」
「それだけですか」
「気になったからです」
青柳は凛から目を逸らさない。
「遠藤さんのことが」
凛の指先が、カップの取っ手に触れたまま止まる。
「どういう意味ですか」
「まだ、俺にも分かりません」
「分からないんですか」
「はい」
青柳は正直に答えた。
「もっと話してみたい。もう一度会えたらと思っていた。それ以上は、まだ勝手に決めたくありません」
凛の胸の奥が、僅かに騒ぐ。
青柳は人を見て、簡単に言葉へする。
しかし、自分の感情には、すぐ名前をつけようとしなかった。
「遠藤さんは?」
「私?」
「もう一度話したいと思ってくれた理由です」
「今、言ったとおりです。手帳のお礼で」
「それだけですか」
食事会の帰り、陽菜から尋ねられた言葉と似ていた。
凛は紅茶へ目を落とす。
「青柳さんが、完璧な人ではないと分かったからです」
「手帳を間違えたから?」
「はい」
「随分、情けない理由ですね」
「安心しました」
「安心?」
「人のことを何でも見抜く人だと思っていたので」
「そんなことはありません」
「今日、分かりました」
「俺も、間違えます」
「はい」
「言ってから後悔することもあります」
「それも分かりました」
「遠藤さんは、少し楽しそうですね」
「人の失敗を喜んでいるわけではありません」
「では、何を?」
「青柳さんにも、分からないことがあるんだと思っただけです」
「たくさんあります」
青柳はコーヒーを一口飲む。
「遠藤さんのことも、ほとんど知りません」
「私も、青柳さんのことを知りません」
「では、これから知ってもいいですか」
凛の心臓が大きく動く。
青柳は穏やかな顔をしている。
軽い気持ちで言っているようには見えない。
「……私に聞くんですね」
「勝手に知ろうとして、また怒られたくないので」
凛は僅かに笑った。
「少しずつなら」
「ありがとうございます」
「ただし、見ているだけではなく、青柳さんのことも話してください」
「もちろんです」
「私ばかり観察されるのは不公平です」
「では、何が知りたいですか」
凛は尋ねられ、困った。
青柳の何を知りたいのか。
まだ具体的な質問を考えていたわけではない。
「休日は、何をしているんですか」
「よく歩きます」
「散歩ですか」
「目的を決めずに、知らない場所を歩くのが好きです」
「意外です」
「予定を立てそうに見えますか」
「はい」
「よく言われます」
「ほかには?」
「写真を撮ります」
「人を?」
「風景が多いです。人を勝手に撮ることはしません」
「そこにも線引きがあるんですね」
「あります」
青柳のことを一つ知る。
すると、もう一つ知りたくなる。
凛は自分から質問を続けていた。
気づけば、紅茶は飲みやすい温度まで冷めている。
時間も、想定していたよりずっと過ぎていた。
*
店を出ると、駅前には花火大会の告知が貼られていた。
昼休みに陽菜が話していたものと同じ大会だった。
凛の視線が、ポスターの花火へ向く。
「花火大会、行くんですか」
青柳が尋ねた。
「まだ決めていません」
「会社で話題になっていたんですか」
「はい。櫻井さんが見つけて」
「中井は、櫻井さんと行くんでしょうね」
「本人たちは、そのつもりみたいです」
「遠藤さんは?」
「予定はありません」
「花火は好きですか」
「嫌いではありません」
「俺もです」
青柳もポスターを見る。
「ただ、人混みは少し苦手です」
「私もです」
「また同じですね」
「そうですね」
誘うなら、今かもしれない。
凛の頭に、その考えが浮かぶ。
昼休みに陽菜から言われた。
一緒に見たいなら、それが理由になる。
青柳は花火が嫌いではない。
予定があるとも言っていない。
それでも、凛は言葉にできなかった。
「では、俺はここで」
青柳が駅の反対側を指す。
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。俺と話したいと言ってくれて、嬉しかったです」
「それは、もう忘れてください」
「難しいです」
「どうしてですか」
「今日一番嬉しかった言葉なので」
凛は何も返せなかった。
「またLINEしてもいいですか」
「手帳を間違えなくても?」
「はい」
「……構いません」
「ありがとうございます」
青柳は軽く頭を下げ、歩き出す。
凛はその背中を見送った。
花火大会へ誘うことはできなかった。
けれど、もう一度話したいという気持ちは、自分の口で伝えられた。
それだけでも、以前の凛にはできなかったことだった。
*
帰りの電車に乗ると、スマートフォンが震えた。
青柳からのLINEだった。
【今日はありがとうございました】
【手帳の件、本当に申し訳ありませんでした】
凛は返信する。
【こちらこそ、届けてくださりありがとうございました】
それだけ打ち、送信しようとする。
しかし、指が止まった。
一文を加える。
【お話しできて、楽しかったです】
何度か読み返す。
消そうか迷った。
それでも、凛は送信した。
すぐに既読がつく。
【俺も楽しかったです】
【また話してください】
凛は画面を見つめる。
少し考えてから、
【はい】
と返した。
短い一文字。
けれど今回は、必要最低限の返信ではなかった。
自分から次の時間を受け入れる、凛の答えだった。




