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103話「二つの誘い」

終業時刻を過ぎ、営業部から一人、また一人と社員が帰り始める。


 樹里は今日最後のメールを送信し、パソコンの画面を閉じた。


 鞄へ書類を入れていると、向かいの席から神谷が立ち上がる。


「日高さん」


『はい』


「少し、お時間をいただけますか」


『仕事の話ですか』


「いえ」


 神谷は周囲へ視線を向ける。


 陽菜はまだ自分の席にいる。


 手は動かしているが、耳だけはこちらへ向いているのが分かった。


「ここでは少し話しづらいので」


『分かりました』


 樹里は鞄を持ち、神谷と一緒に営業部を出た。


 二人の背中が扉の向こうへ消える。


 陽菜が手を止めた。


『絶対、花火だ』


「聞こえていませんよね」


 中井が尋ねる。


『聞こえなくても分かるよ』


「どうしてですか」


『神谷さんの顔』


「いつもと同じに見えましたけど」


『中井くんには、まだ分からないか』


「何がですか」


『恋する男の顔』


「神谷さんのことを、勝手に決めないでください」


『じゃあ、中井くんもあたしのこと好きじゃないの?』


「どうしてそうなるんですか」


『恋する男の顔、してたよ』


「いつですか」


『毎日』


 中井が顔を赤くする。


 その様子を見て、陽菜は満足そうに仕事へ戻った。


          *


 神谷は樹里と並び、エレベーターへ向かった。


 周囲に人はいない。


 それでも神谷は、すぐには話し始めなかった。


『花火大会のことですか』


 樹里から尋ねる。


 神谷が僅かに目を見開く。


「分かりましたか」


『昼休みに、あとで改めて聞くと言っていたので』


「そうでしたね」


『忘れていたんですか』


「忘れてはいません。ただ、日高さんから先に尋ねられるとは思いませんでした」


『私も、今思い出しました』


「そうですか」


 エレベーターが到着する。


 二人で乗り込み、神谷が1階のボタンを押す。


 扉が閉まる。


「来月の花火大会ですが」


『はい』


「もし、まだご予定がなければ、私と一緒に行っていただけませんか」


 静かな声だった。


 昼休みの勢いに乗った言葉ではない。


 誰もいないところで、改めて樹里だけへ向けた誘いだった。


『二人で、ですか』


「はい」


『陽菜たちも行くようですが』


「会場で顔を合わせることはあると思います」


『合流はしないんですか』


「日高さんが、その方が安心するのであれば」


 神谷は樹里を見る。


「ただ、私は日高さんと二人で見たいと思っています」


 樹里の視線が僅かに揺れる。


『どうしてですか』


「食事と同じです」


『同じ?』


「仕事以外の時間を、日高さんと過ごしたいからです」


 神谷は迷わず答えた。


 樹里は前を向く。


 エレベーターの階数表示が、一つずつ下がっていく。


『私は、人の多い場所が得意ではありません』


「そうだと思いました」


『では、なぜ花火大会へ』


「花火は嫌いですか」


『嫌いではありません』


「会場から少し離れた場所に、比較的人の少ない場所があります」


『もう調べたんですか』


「誘う前に、最低限は」


『用意がいいですね』


「断られにくくするためです」


 神谷は隠さなかった。


 樹里は僅かに目を細める。


『断られると思っていたんですか』


「可能性はあると思っています」


『それでも誘ったんですね』


「誘わなければ、一緒に行けませんから」


 エレベーターが1階へ到着する。


 扉が開く。


 神谷は樹里の返事を急かさず、先に降りた。


 樹里もあとに続く。


 外へ出ると、夕方の風が吹いていた。


 駅へ向かう人の流れ。


 行き交う車。


 会社から少し離れたところで、樹里が足を止める。


『神谷さん』


「はい」


『私は浴衣を着ません』


「はい」


 神谷は理由を尋ねなかった。


『陽菜たちと、途中で会うかもしれません』


「構いません」


『人が多ければ、早く帰るかもしれません』


「そのときは一緒に帰ります」


『花火を最後まで見られなくても?』


「日高さんと出かけることが目的ですから」


 樹里は神谷を見る。


 断る理由を探していたわけではない。


 行きたい気持ちを口にする前に、逃げ道を確かめていた。


 途中で帰りたくなってもいい。


 人混みに耐えられなくてもいい。


 誰かに会ってもいい。


 神谷は、そのすべてを受け入れて待っている。


『分かりました』


 樹里は答えた。


『一緒に行きます』


 神谷の表情が僅かに変わる。


「本当ですか」


『嘘をつく理由がありません』


「ありがとうございます」


『まだ1か月近く先ですよ』


「はい」


『そんなに嬉しいんですか』


「嬉しいです」


 神谷は照れを隠そうとしなかった。


 樹里の胸が僅かに騒ぐ。


『では、詳しいことはまた』


「はい。場所や時間は、こちらでいくつか考えておきます」


『1人で全部決めないでください』


 神谷の動きが止まる。


『私も一緒に行くんですから、相談してください』


「……分かりました」


『また、ご自分だけで準備を抱えるつもりでしたね』


「花火大会の予定くらいは、抱えるとは言いません」


『同じです』


「では、日高さんにも手伝っていただきます」


『はい』


「何をお願いしましょうか」


『それも一緒に考えてください』


 神谷が小さく笑う。


「承知しました」


 二人は再び歩き出す。


 神谷が先に用意し、樹里がついていくだけの約束ではない。


 二人で決める、次の時間。


 それが樹里には、少しくすぐったかった。


          *


 その日の夜。


 佐藤はRoseの扉の前に立っていた。


 すぐに入らず、スマートフォンで時刻を確認する。


 開店からまだ、それほど時間は経っていない。


 店内に客がいれば、花火の話はできない。


 後日にした方がいいかもしれない。


 そう考えているうちに、内側から扉が開いた。


『何してるの?』


 美園が立っていた。


「……気づいていたんですか」


『扉の前を行ったり来たりされたらね』


「そんなに動いていました?」


『3往復くらい』


「すみません」


『入らないの?』


「お客さんは?」


『まだ誰もいないよ』


「では、お邪魔します」


『どうぞ』


 佐藤は店内へ入る。


 美園はカウンターの内側へ戻り、いつもの席へおしぼりを置いた。


『何飲む?』


「今日は、まだいいです」


『飲まないの?』


「先に話したいことがあります」


 美園の手が止まる。


 あの夜のことだ。


 すぐに分かった。


 佐藤は『今は聞かないで』と言われ、引き下がった。


 しかし、なかったことにはしないとも言った。


『座らないの?』


「座ります」


 佐藤はカウンター席へ腰を下ろす。


 美園と向かい合う。


「この前のことですが」


『今は聞かないでって言ったよね』


「はい」


『もう待てなくなった?』


「キスの意味を聞きに来たわけではありません」


 美園が僅かに目を見開く。


「聞きたいです。でも、今日は別の話です」


『何?』


「来月、花火大会があります」


『うん』


「俺と一緒に行ってもらえませんか」


 真っ直ぐな誘いだった。


 美園は佐藤を見つめる。


『二人で?』


「はい」


『会社の人たちも行くんでしょ』


「櫻井さんと中井は行くと思います。日高さんたちも話していました」


『みんなで行けばいいんじゃない?』


「俺は、美園さんを誘っています」


『合流するのは嫌?』


「嫌ではありません」


 佐藤は首を振る。


「でも、最初から最後まで大勢で行くのではなく、美園さんと二人で歩きたいです」


 美園の胸が、僅かに高鳴る。


『キスしたから?』


「関係ないとは言いません」


『正直だね』


「何もなかったふりをするつもりはありませんから」


『花火に行ったら、答えを聞くの?』


「今すぐ答えを出してほしいとは思っていません」


『じゃあ、ずっと待つ?』


「ずっとは待ちません」


 美園の表情が僅かに変わる。


 佐藤は目を逸らさなかった。


「美園さんが何も答えないまま、俺だけが期待し続けるのは嫌です」


『……うん』


「でも、今はまだ、考える時間が必要なんですよね」


『たぶん』


「なら、待ちます」


『いつまで?』


「少なくとも、花火大会までは」


 佐藤は、期限を美園へ押しつけているわけではない。


 ただ、自分がどうするのかを明確に伝えている。


「その日、一緒に過ごしてから考えてほしいです」


『私が断ったら?』


「残念です」


『それだけ?』


「簡単には諦めないと思います」


『しつこいね』


「美園さんを相手にするには必要です」


 美園は、あの夜にも聞いた言葉を思い出す。


『私、浴衣は着ないよ』


「構いません」


『人混み、好きじゃない』


「俺も得意ではありません」


『店を休まないといけないかもしれない』


「無理なら、開店前まででもいいです」


『花火を見られないじゃん』


「美園さんと少し歩けるなら、それでも」


『何それ』


 美園は困ったように笑う。


 佐藤は、本当に美園と花火を見たい。


 しかしそれ以上に、自分のために時間を使ってほしいと思っている。


『少し、考えてもいい?』


「はい」


『すぐには決められない』


「分かりました」


『いつまでに返事すればいい?』


「美園さんが決めたときに」


『ずっと待たないって言ったのに?』


「花火大会の準備に間に合う頃には聞きます」


『準備って何するの』


「集合場所を決めたり」


『それくらいでしょ』


「美園さんと出かける準備です。俺には大事です」


 美園は視線を逸らす。


『大袈裟だよ』


「そうかもしれません」


『断るかもしれないよ』


「それでも、誘わないよりはいいです」


 その言葉に、美園の胸が痛んだ。


 佐藤は、自分の気持ちを差し出した。


 美園が受け取るかどうかは、美園に任せている。


 それでも、傷つく可能性から逃げずに誘った。


『……分かった』


「はい」


『考えておく』


「お願いします」


 佐藤が、ようやく僅かに表情を緩める。


『まだ何も決まってないよ』


「誘うことはできました」


『それだけで満足?』


「美園さんの顔を見たら、少し期待してもいい気がしました」


『どういう顔』


「嬉しそうな顔です」


『してない』


「しています」


『見すぎ』


「美園さんを見に来ているので」


『飲みに来たんじゃないの?』


「先ほど、まだいらないと言いました」


『じゃあ、用事は終わったね』


「追い出すんですか」


『返事はあとでいいんでしょ』


「1杯だけ飲んでいきます」


『結局飲むんだ』


「美園さんが作ったものを飲みたいので」


『それ、誰にでも言ってる?』


「美園さんにしか言いません」


 美園は酒の棚へ向き直る。


 佐藤から顔が見えなくなったところで、僅かに息を吐いた。


 嬉しかった。


 誘われた瞬間、行きたいと思った。


 佐藤と二人で花火を見る自分を、思い浮かべた。


 それなのに、すぐに答えられなかった。


 行けば、キスの続きを求められる。


 曖昧なままではいられなくなる。


 自分が佐藤を好きだと認めれば、その先にあるものまで考えてしまう。


 年齢。


 生活。


 将来。


 そして、まだ佐藤へ話していないこと。


『何にする?』


 美園は振り返る。


 いつもと変わらない顔へ戻っていた。


「美園さんのおすすめで」


『苦いのでもいい?』


「はい」


『後悔するよ』


「飲んでから決めます」


『最近、そういうことばかり言うね』


「美園さんに、勝手に決められたくないので」


 美園の手が止まる。


「俺が後悔するかどうかは、俺が決めます」


『……そう』


 美園は酒を作り始める。


 自分が断れば、佐藤は傷つく。


 けれど、佐藤の未来を守れる。


 そんな考えが、すでに美園の中で形を作り始めていた。


          *


 佐藤が帰ったあと、美園は一人でカウンターに座っていた。


 グラスを拭く必要はない。


 店内も片づいている。


 それでも帰宅する気になれず、佐藤が座っていた場所を見つめている。


 花火大会。


 二人で。


 誘われた瞬間、行きたいと思った。


 その答えは、考えるまでもなく分かっている。


 それでも美園は、佐藤へ返事を送れなかった。


 スマートフォンを手に取り、佐藤とのLINEを開く。


【今日は誘ってくれてありがとう】


 文字を打つ。


 送信する直前で、指が止まる。


 ありがとうと伝えれば、期待させる。


 期待させたあとで断れば、余計に傷つける。


 ならば、最初から何も言わない方がいい。


 美園は打った文字を、すべて消した。


 画面に残ったのは、佐藤の名前だけだった。


『私より、いい人がいるよ』


 誰もいない店内で呟く。


 年齢も近くて。


 同じ時間に働き、同じ休日を過ごせて。


 普通に家庭を作ることのできる女性。


 佐藤には、そんな相手の方がいい。


 自分が断れば、佐藤はいつか別の誰かと出会える。


 今は傷ついても、長い目で見れば、その方が幸せになれる。


 美園は、そう言い聞かせる。


 だが、胸の奥から返ってくる言葉があった。


 俺が後悔するかどうかは、俺が決めます。


 佐藤の声が、何度も蘇る。


『分かってるよ』


 美園はスマートフォンを伏せた。


 佐藤の未来を勝手に決めようとしている。


 分かっている。


 それでも、自分がその未来へ入ることの方が怖かった。


 手に入れれば、いつか失う。


 近づけば、離れるときに傷つく。


 自分が佐藤の重荷になったとき、あの優しい目が変わるかもしれない。


 それを見るくらいなら、今のうちに離れた方がいい。


 まだ、戻れるうちに。


『……断ろう』


 声に出してみる。


 胸が痛んだ。


 それでも、美園はもう一度言う。


『断った方がいい』


 正しい選択のように聞こえるまで、何度でも言い聞かせようとした。


 しかし、店内に残るのは自分の声だけだった。


 賛成してくれる人も、正しいと言ってくれる人もいない。


 後日。


 凛が再びこの店へバイトに入る。


 そのとき美園は、今夜出せなかった答えを、思いがけず口にすることになる。


 自分が最も隠したかった弱さを、見抜く人の前で。

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