104話「それは卑怯です」
その日のRoseは、開店直後から忙しかった。
近くの会社の送別会が入り、予約席はほとんど埋まっている。
カウンターにも常連客が並び、グラスを置く音と笑い声が途切れることなく続いていた。
凛がRoseの手伝いに入るのは、もう初めてではない。
以前、陽菜に頼まれて団体予約の日を手伝って以来、人手が必要な夜には美園から声がかかるようになっていた。
「美園さん、7番テーブルの追加です」
『ありがとう。こっちは私が持っていくから、凛ちゃんはカウンターお願い』
「はい」
凛は空いたグラスを下げながら、注文を待つ客へ視線を移す。
最初に手伝った頃と比べれば、動きに迷いがなくなっていた。
客のグラスが空く前に声をかけ、酔いの回った者にはさりげなく水を差し出す。
常連客の中には、すでに凛の顔を覚えている者もいた。
「凛ちゃん、こっちもお願い」
「今行きます」
美園は酒を作りながら、その姿を横目で見る。
仕事を覚えるのが早いだけではない。
凛は、相手が何を求めているのかを言葉にされる前に察する。
踏み込みすぎず、離れすぎない。
その距離感は、この店によく馴染んでいた。
日付が変わる少し前、最後の客が店を出た。
扉が閉まり、賑やかだった店内に静けさが戻ってくる。
「ありがとうございました」
凛が扉へ向かって頭を下げる。
美園はカウンターの中から、その背中を見つめていた。
『お疲れさま。今日は助かった』
「いえ。前よりは動けるようになったと思います」
『前よりどころじゃないよ。もう普通に戦力』
「本当ですか」
『うん。だから今度から、少しくらい忙しくても遠慮なく呼ぶことにする』
「少しくらいなら、自分で何とかしてください」
真顔で返され、美園が笑う。
『そういうことも言うようになったんだ』
「美園さんが遠慮なくと言ったので」
『言ったけどね』
2人は話しながら、閉店後の片づけを始めた。
凛がテーブルを拭き、美園が洗い終えたグラスを棚へ戻す。
店内には、静かな音楽だけが流れていた。
やがて、カウンターに置かれていた凛のスマートフォンが短く震えた。
凛は画面を見る。
表示された名前を確認した途端、その指がわずかに止まった。
すぐに画面を伏せ、何事もなかったように布巾を動かし始める。
美園はグラスを磨きながら尋ねた。
『青柳くん?』
「……どうして分かったんですか」
『顔』
「何も変わっていません」
『変わってるよ。ほんの少しだけ嬉しそう』
「気のせいです」
『そういうことにしておく』
美園はそれ以上追及しなかった。
凛もスマートフォンへ手を伸ばさない。
片づけを終えるまでは仕事だと、自分に言い聞かせているようだった。
最後のグラスを棚に戻し、美園が照明を少し落とす。
『凛ちゃん、何か飲む?』
「では、烏龍茶をいただいてもいいですか」
『もちろん』
美園は烏龍茶を2つ用意し、片方を凛の前へ置いた。
凛が意外そうに、美園のグラスを見る。
「美園さんも、お酒ではないんですね」
『今日はやめておく』
「珍しいですね」
『少し、考えたいことがあるから』
美園はカウンターに頬杖をついた。
先ほどまで客へ向けていた柔らかな笑顔は、もう消えている。
凛は向かいの席に座り、黙って言葉を待った。
『佐藤くんに、花火へ誘われた』
凛の目がわずかに開く。
「そうなんですか」
『2人で行きたいって』
「それで、美園さんは何と答えたんですか」
『考えさせてって言った』
「まだ返事をしていないんですね」
『うん』
美園はグラスについた水滴を、指先でなぞる。
そして、何でもないことのように言った。
『断ろうと思う』
「……どうしてですか」
『どうしてって』
「行きたくないんですか」
『そういうわけじゃないよ』
「では、佐藤さんのことが嫌いなんですか」
『嫌いなら、こんなに悩まない』
凛は黙って美園を見る。
逃げ道を塞ごうとしているわけではない。
ただ、美園が何から目を逸らそうとしているのかを確かめるような目だった。
『佐藤くんは、まだ若い』
「はい」
『仕事だってある。これから先、普通に結婚して、家庭を持つことだってできる』
「そうですね」
『私といるより、もっと佐藤くんに合う人がいるよ』
「それは、誰が決めるんですか」
『客を見ていれば分かることもある』
「今は客の話をしていません」
凛の声は静かだった。
それでも、その言葉には美園の逃げ道を許さない強さがあった。
美園はわずかに目を伏せる。
『私には、まだ話していないこともある』
「それを聞いた佐藤さんがどう思うかは、佐藤さんが決めることではないでしょうか」
『聞いてから傷つくくらいなら、今のうちに離れた方がいい』
「美園さんが傷つきたくないのではなくて?」
美園の指が止まった。
凛は責めるような声を出していない。
だからこそ、その一言はまっすぐに届いた。
『……そうかもしれない』
短い沈黙のあと、美園が笑う。
いつもの、相手を安心させるための笑い方ではなかった。
諦めを隠すための、薄い笑みだった。
『佐藤くんは優しいから。今は何を話しても、受け止めるって言うと思う』
「それでは、信じられませんか」
『最初に優しかった人が、最後まで優しいとは限らないよ』
その声の奥に、凛の知らない時間があった。
深く踏み込めば、美園が口を閉ざすことも分かっている。
凛は問いたださなかった。
ただ、目の前にある事実だけを口にする。
「美園さんから、佐藤さんにキスをしたんですよね」
美園が凛を見る。
『……陽菜から聞いた?』
「いいえ。今、美園さんの顔を見て、そう思っただけです」
『凛ちゃん、本当に怖いね』
「違いましたか」
『違わない。私からした』
「佐藤さんのことが好きだからですか」
美園はすぐには答えなかった。
カウンターの木目へ視線を落とし、長い時間をかけて息を吐く。
『好きなんだと思う』
「思う、ですか」
『認めたら、先へ進まないといけなくなるから』
「進まなくてもいいと思います」
凛の言葉に、美園が顔を上げる。
「好きだから必ず付き合わなければいけないとは思いません。佐藤さんを好きではないなら、断るべきです。付き合うことが怖くて、どうしても無理なら、それも美園さんの答えです」
『だったら、断ってもいいでしょ』
「はい。ただし、自分のために断るのなら」
凛は美園の目を見た。
「自分からキスをして、佐藤さんに期待を持たせて、自分も好きなのに――佐藤さんのためだと言って、佐藤さんに何も選ばせないまま離れるのは」
一度、言葉を切る。
それでも凛は目を逸らさなかった。
「それは卑怯です」
店内に流れる音楽が、やけに遠く聞こえた。
美園は何も言わない。
凛も、言葉を重ねなかった。
しばらくして、凛がわずかに視線を下げる。
「……すみません。言い過ぎました」
『ううん』
美園は小さく首を振った。
『言われて当然だよ』
「でも、私は美園さんの過去を知りません。知らない人間が、簡単に口を出していいことでは――』
『知らなくても分かることがあるって、さっき凛ちゃんが教えてくれたでしょ』
凛が口を閉じる。
美園は自分のスマートフォンを手に取った。
LINEを開き、佐藤との画面を表示する。
最後に届いているのは、佐藤からの短いメッセージだった。
【急がなくていいです。でも、待っています】
美園はその文字を見つめる。
断る言葉なら、何度も考えた。
佐藤のためだと言えば、綺麗に終わらせられると思っていた。
だが、それは彼のためではない。
いつか捨てられる自分を、今のうちに守りたいだけだ。
傷つく前に離れようとしている。
自分から近づいたくせに、相手が伸ばしてきた手から逃げようとしている。
美園は文字を打った。
【花火、行く】
少し考え、もう一文を加える。
【返事が遅くなってごめん】
指が、送信の直前で止まる。
凛は何も言わずに待っていた。
美園は小さく息を吐き、送信ボタンに触れた。
既読は、ほとんど間を置かずについた。
【本当ですか】
【無理していませんか】
続けて届いた言葉に、美園が目を細める。
【無理してない。私が行きたいから行く】
送信すると、今度は少しだけ間が空いた。
【嬉しいです】
【当日、迎えに行きます】
美園はしばらく画面を見つめたあと、スマートフォンを伏せた。
『返事した』
「はい」
『凛ちゃんに怒られたからじゃないよ』
「分かっています」
『私が行きたいから、行くことにした』
「それなら、よかったです」
凛はようやく、わずかに表情を緩めた。
美園は烏龍茶を一口飲む。
そして、カウンターに伏せられたままの凛のスマートフォンへ目を向けた。
『それで』
「何でしょう」
『凛ちゃんは、青柳くんと花火へ行かないの?』
凛の表情が固まる。
「どうして、今その話になるんですか」
『人にあれだけ言ったんだから、自分も逃げないよね』
「私は青柳さんにキスをしていません」
『そこまでしてからじゃ遅いでしょ』
「まだ、そういう関係ではありません」
『だから誘うんじゃない?』
「無理です」
答えは早かった。
美園は頬杖をついたまま、面白そうに凛を見る。
『行きたくないの?』
「そういうわけではありません」
『嫌いなの?』
「嫌いではありません」
『だったら、誰が青柳くんに合うか決めるの?』
「……美園さん」
『今のは凛ちゃんが言ったことだよ』
「私は、そこまで言っていません」
『だいたい同じ』
凛は何も返せなくなり、伏せていたスマートフォンへ視線を落とした。
画面の向こうでは、青柳から届いたLINEがまだ開かれるのを待っている。
「美園さんは、仕返しをしていますか」
『まさか。背中を押してあげてるの』
「押し方が乱暴です」
『凛ちゃんほどじゃないよ』
美園は立ち上がり、2人分のグラスを手に取った。
凛はスマートフォンを持ち上げる。
青柳から届いていたのは、何気ないメッセージだった。
【今日は暑かったですね。仕事、お疲れさまでした】
誘うなら、今なのかもしれない。
だが、花火へ一緒に行ってほしいという言葉は、簡単には打てなかった。
何度か文字を入力しては消す。
その様子を、美園は何も言わずに見守っていた。
凛は結局、いつもと変わらない返事だけを送った。
【青柳さんも、お疲れさまでした】
画面を閉じようとして、指が止まる。
そして、その下にもう一文を打ち始めた。
【花火大会の日は――】
そこまで入力したところで、凛の指は再び止まった。
美園が小さく笑う。
『今度は、凛ちゃんの番だね』
凛は答えなかった。
ただ、途中まで打った言葉を、今度は消さなかった。




