105話「消さなかった言葉」
凛は、途中まで入力した文章を見つめていた。
【花火大会の日は――】
続く言葉を打とうとすると、指が動かなくなる。
誘いたい。
だが、誘った先に何があるのかは分からない。
青柳ともう一度会いたいだけなのか。
それとも、自分はすでに別の何かを求め始めているのか。
凛には、まだ判断できなかった。
『難しく考えすぎじゃない?』
グラスを洗う美園が、背中を向けたまま言った。
「考えない方が難しいです」
『花火に誘ったら、告白したことになるわけじゃないよ』
「それは分かっています」
『本当に?』
「……分かってはいます」
凛は言い直した。
美園が蛇口を閉める。
振り返ったその顔には、先ほどまでの揶揄うような笑みはなかった。
『凛ちゃんは、青柳くんと一緒に花火を見たいの?』
凛はスマートフォンへ視線を落とした。
「会って、もう少し話したいとは思っています」
『だったら、それで充分じゃない』
「でも、それがどういう気持ちなのか、私にはまだ分かりません」
『分からないから会うんでしょ』
凛が顔を上げる。
『好きだと決めてから会うんじゃないよ。何度も会って、その人のことを知って、それから分かることもある』
「美園さんは、そうだったんですか」
『私の話は今しなくていいの』
「自分のことだけ話さないのは、ずるいと思います」
『少し前まで、私を卑怯って言ってた人に言われたくないな』
「それは別の話です」
『はいはい』
美園は洗い終えたグラスを布巾で拭き始める。
それ以上、凛を急かすことはなかった。
店内には、グラスを磨く小さな音だけが響いている。
凛は再び画面を見た。
入力した途中の文章を、最後まで完成させる。
【花火大会の日は、お時間ありますか】
だが、これでは予定を聞いただけだ。
一緒に行きたいという意思が伝わらない。
凛は文章を消した。
【花火大会に行く予定はありますか】
これも違う。
青柳に予定があると言われたら、そのまま会話が終わってしまう。
また消す。
そんなことを何度か繰り返したあと、凛は隣に立つ美園を見た。
「美園さん」
『何?』
「見ないでください」
『見てないよ』
「先ほどから、グラスを1つ拭くのに時間をかけすぎです」
美園の手が止まる。
もう充分に磨かれたグラスが、手の中で不自然なほど輝いていた。
『気のせいじゃない?』
「向こうを向いていてください」
『はい』
美園は素直に背を向けた。
だが、肩がわずかに揺れている。
「笑わないでください」
『笑ってないよ』
「笑っています」
『早く送らないと、店の戸締まりができないんだけど』
「私を待つ必要はありません」
『ここに置いて帰ったら、朝まで悩んでそうだから待つ』
凛は小さく息を吐いた。
もう一度、文字を打つ。
【突然すみません。花火大会の日、もし予定がなければ、私と一緒に行きませんか】
読み返す。
自分の気持ちが、必要以上に見透かされる文章ではない。
それでも、会いたいという意思は伝わる。
これ以上直せば、また送れなくなる。
「……送ります」
『うん』
「こちらを見ないでください」
『見ないって』
凛は送信ボタンに触れた。
メッセージが、画面の右側へ表示される。
送った直後、胸の奥が大きく鳴った。
「送りました」
『お疲れさま』
「まだ何も終わっていません」
『凛ちゃんにとっては、もう半分くらい終わったでしょ』
否定できなかった。
青柳がLINEを見るまで、どのくらいかかるのだろう。
入浴中かもしれない。
すでに眠っている可能性もある。
そもそも、別の誰かと行く約束をしているかもしれない。
考え始めた直後、メッセージに既読がついた。
凛の背筋が伸びる。
『ついた?』
「どうして分かるんですか」
『分かりやすいから』
返事は来ない。
画面を見つめている数秒が、異様に長く感じられた。
青柳も、断る言葉を考えているのかもしれない。
そう思ったとき、画面に新しいメッセージが表示された。
【予定はありません】
それだけだった。
凛の表情が固まる。
『何て?』
「予定はないそうです」
『それだけ?』
「それだけです」
『青柳くん、そういうところが不器用だね』
「断るために、続きの文章を考えているのかもしれません」
『まだ数秒でしょ』
再びスマートフォンが震えた。
【ぜひ、一緒に行きたいです】
【誘ってもらえると思っていなかったので、少し驚いています】
【嬉しいです】
凛は、その3つのメッセージを何度も読み返した。
最後の一文だけが、ほかの文字よりも強く目に入る。
『今度は何て?』
「……一緒に行くそうです」
『よかったね』
「はい」
凛は答えてから、すぐに言葉を足した。
「まだ、一緒に花火を見るだけです」
『分かってるよ』
「それ以上の意味はありません」
『私は何も言ってないけど』
「顔に書いてあります」
美園は笑いながら、ようやく磨き終えたグラスを棚へ戻した。
『じゃあ、待ち合わせの時間と場所も決めないとね』
「今からですか」
『返事が来たんだから、決めればいいでしょ』
「一度に何通も送ると、必死だと思われませんか」
『花火に誘っておいて、今さら何を隠すの?』
「必死ではありません」
『はいはい』
凛は不満そうに美園を見たあと、青柳への返事を打ち始めた。
少し迷ってから、簡潔に送る。
【ありがとうございます。私も嬉しいです】
送信してから、自分の文章を見返す。
その瞬間、凛の頬がわずかに赤くなった。
「今のは、少し違います」
『何が?』
「花火へ行けることが嬉しいという意味です」
『それ以外に、どう読めるの?』
「……送った相手にしか分かりません」
『だったら、青柳くんにそう読んでもらえばいいじゃない』
凛は訂正のメッセージを打とうとした。
しかし、それを送れば余計に不自然になる。
結局、何も付け足せないままスマートフォンを伏せた。
美園はそんな凛を見ながら、静かに笑った。
先ほどまで、自分も同じように佐藤への返事を迷っていた。
凛の言葉がなければ、今頃は断る文章を送っていたかもしれない。
その自分が、今は凛の背中を押している。
人の気持ちは、外側からならよく見える。
自分のことになった途端、誰もが急に不器用になる。
『凛ちゃん』
「何ですか」
『さっきは、ありがとう』
凛は美園を見る。
『言ってくれなかったら、私、逃げてたと思う』
「まだ、花火へ行くと決めただけです」
『それでいいんだよ。今は』
「佐藤さんに、きちんと向き合うんですか」
『……花火の日にね』
美園の返事には、まだ迷いが残っていた。
それでも、先ほどのような諦めはない。
『凛ちゃんも、青柳くんにちゃんと向き合いなよ』
「私は、まだ何も決めていません」
『決めなくていい。でも、自分が何を感じてるのかは、誤魔化さないこと』
「美園さんにだけは言われたくありません」
『だからこそ言えるの』
凛は小さく息を吐いた。
美園は楽しそうに笑い、店内の照明を落とした。
2人がRoseを出ると、夜の空気が火照った頬に触れた。
駅へ向かって並んで歩きながら、凛は何度もスマートフォンを確認する。
青柳とのLINEには、待ち合わせについての言葉が続いていた。
【当日は、こちらから迎えに行ってもいいですか】
凛は少し考える。
【大丈夫です。私が待ち合わせ場所まで行きます】
すぐに返事が届いた。
【では、駅まで迎えに行きます】
【人が多いと思うので、合流できるまで電話を繋ぎましょう】
待ち合わせのことまで、きちんと考えてくれている。
不器用に見えて、必要なところでは迷わない。
前に会ったときもそうだった。
歩く速度を合わせることも、話す言葉を待つことも、青柳は特別なことのように見せなかった。
凛は自分でも気づかないうちに、わずかに口元を緩めていた。
『やっぱり嬉しそう』
「見ないでください」
『同じ方向に歩いてるんだから、見えるよ』
「美園さんも先ほどから、佐藤さんとのLINEを何度も見ています」
『私はいいの』
「よくありません」
今度は凛が、美園のスマートフォンへ視線を向ける。
美園は画面を隠すように胸元へ引き寄せた。
『人のLINEを見ないで』
「同じ方向に歩いているので、見えました」
『凛ちゃん、本当に可愛くなくなったね』
「美園さんに教わりました」
『陽菜の影響じゃない?』
「それもあります」
2人は顔を見合わせ、同時に笑った。
翌日の昼休み。
凛が自分の席で弁当を開くと、陽菜が椅子を引いて隣へ座った。
『凛ちゃん』
「何ですか」
『花火、誰と行くの?』
あまりにも唐突な質問だった。
凛は箸を持ったまま、陽菜を見る。
「急にどうしたんですか」
『昨日、美園さんとLINEしてたら聞いた』
「美園さんは、何を話したんですか」
『凛ちゃんが青柳くんを誘ったって』
「……本人の許可なく話さないでほしいです」
『そこは美園さんに言って。でも、やるじゃん』
陽菜は嬉しそうに凛の肩を軽く叩く。
「花火へ行くだけです」
『最初はみんなそう言うんだよ』
「櫻井さんと同じにしないでください」
『あたしだって最初は、中井くんならいい人だしいっか、くらいだったよ』
近くで昼食を取っていた中井の手が止まる。
「陽菜さん、それ、今ここで言います?」
『でも今は大好きじゃん』
「それも、みんなの前で言うんですね……」
『本当のことだし』
陽菜は恥ずかしがる様子もなく答えた。
中井は周囲の視線に耐えきれず、弁当へ顔を伏せる。
凛はそれを見たあと、陽菜へ視線を戻した。
「私は、まだ青柳さんを好きだと決めたわけではありません」
『分かってるって。だから、一緒に行って確かめてくればいいじゃん』
「何をですか」
『会えたら嬉しいのか。隣にいると落ち着くのか。帰りたくないって思うのか』
陽菜は指を1本ずつ立てていく。
『それで、手を繋ぎたいと思うのか。キスされてもいいと思うのか。その先まで――』
「昼休みの会社で、それ以上話さないでください」
凛が低い声で止めた。
陽菜は口元を押さえながら笑う。
『凛ちゃん、顔赤いよ』
「暑いだけです」
『冷房ついてるけど』
「櫻井さんのせいです」
その会話を、少し離れた席で柚希が聞いていた。
手に持った箸は、先ほどからほとんど動いていない。
陽菜がそれに気づく。
『柚希ちゃんは?』
「えっ」
『花火。誰と行くの?』
「私は、まだ何も……」
『零は?』
名前を出された瞬間、柚希の肩が揺れた。
「どうして零ちゃんが出てくるんですか」
『一緒に行きたそうな顔してるから』
「してません」
『凛ちゃんと同じこと言ってる』
「凛ちゃんと一緒にしないでください」
「私は何もしていません」
凛がすぐに反論する。
陽菜は2人を交互に見て、楽しそうに笑った。
『じゃあ決まりね』
「何がですか」
『浴衣、見に行こう』
「話が飛びすぎです」
『あたしと凛ちゃんと柚希ちゃん。花火は3人とも浴衣』
「私は、まだ着るとは言っていません」
『青柳くん、絶対喜ぶよ』
「だからといって――」
『柚希ちゃんも。零、たぶん固まるよ』
「零ちゃんは、そういうの気にしないと思います」
『だったら確かめればいいじゃん』
陽菜はすでにスマートフォンを取り出していた。
間もなく、凛と柚希のスマートフォンが同時に震える。
陽菜が新しく作ったLINEグループだった。
グループ名は、【浴衣で花火】。
「まだ行くと決めていません」
柚希が抗議する。
『浴衣を見に行くだけ。零を誘うかどうかは、それから決めればいいよ』
陽菜は笑いながら、自分のスマートフォンへ視線を落とした。
『まあ、柚希ちゃんが誘えないなら、あたしが零に――』
「自分で誘います」
柚希の言葉が、陽菜を遮った。
言った本人が、いちばん驚いた顔をしている。
凛も箸を止め、柚希を見る。
『そっか』
陽菜は、それ以上揶揄わなかった。
『じゃあ、頑張って』
柚希は顔を赤くしたまま、俯く。
まだ誘っていない。
零と花火を見たいという気持ちが、恋なのかも分からない。
それでも、陽菜に代わりに誘われるのだけは嫌だった。
自分の隣に零がいる約束を、ほかの誰かの言葉で作りたくなかった。
そんな柚希の前で、凛のスマートフォンが震える。
青柳から届いたLINEだった。
【花火の日を、楽しみにしています】
凛はその言葉を見つめ、静かに返信する。
【私も、楽しみにしています】
今度は、送ったあとに言い訳を考えなかった。
自分の中に生まれた小さな期待を、消さずにそのまま残した。




