106話「零と行きたい」
休日の午後。
陽菜、凛、柚希の3人は、駅前の呉服店に来ていた。
店内には色とりどりの浴衣が並び、壁際には帯や巾着、髪飾りが種類ごとに飾られている。
「本当に、買うところまで決まっていたんですね」
凛が店内を見回しながら言った。
『当たり前じゃん。見るだけで帰るつもりだったの?』
「自分の浴衣を持っていないとは言っていません」
『持ってるの?』
「実家にあります」
『いつ買ったやつ?』
「高校生の頃です」
『じゃあ新しいの買おう』
「どうしてそうなるんですか」
『青柳くんと初めて花火に行くんだよ。高校生の頃の浴衣でいいの?』
「青柳さんのために買うわけではありません」
『だったら、凛ちゃん自身のために買えばいいじゃん』
陽菜はそう言うと、さっそく浴衣の並ぶ棚へ向かった。
隣で話を聞いていた柚希が、小さく笑う。
「陽菜さんに逆らっても無駄だよ、凛ちゃん」
「柚希ちゃんまで、そちら側につかないでください」
「私は最初から、新しい浴衣を買うつもりだったから」
『さすが柚希ちゃん。話が早い』
「でも、零ちゃんを誘うかはまだ決めていません」
柚希が付け加える。
陽菜は棚から1着の浴衣を取り出しながら、柚希を見た。
『昨日、自分で誘うって言ってなかった?』
「あれは、陽菜さんが勝手に誘おうとしたからです」
『じゃあ、あたしが誘っていい?』
「それは駄目です」
『ほら。一緒に行きたいんじゃん』
「……そういう言い方をしないでください」
柚希が視線を逸らす。
陽菜は満足そうに笑うと、手に持った浴衣を凛の身体へ合わせた。
落ち着いた藍色の生地に、白い花が控えめに散っている。
『凛ちゃん、これ似合いそう』
「地味ではありませんか」
『凛ちゃんが着るなら、これくらいがちょうどいい。帯を明るくすれば華やかになるし』
陽菜は淡い銀色の帯を手に取り、浴衣へ重ねる。
凛は近くの鏡に映る自分を見た。
普段の服とは違う。
仕事着とも、Roseで着るエプロン姿とも違う。
この格好で青柳の前に立つ自分を想像した途端、鏡から目を逸らした。
『今、青柳くんのこと考えたでしょ』
「考えていません」
『絶対考えた』
「決めつけないでください」
『じゃあ、その浴衣やめる?』
陽菜が浴衣を身体から離そうとする。
凛は反射的に、その袖を掴んだ。
「やめるとは言っていません」
『気に入った?』
「悪くはないと思います」
『青柳くんに見せたい?』
「……陽菜さん」
『ごめん、ごめん』
口では謝りながらも、陽菜の顔には笑みが浮かんでいる。
凛は浴衣を受け取り、もう一度鏡の前で合わせた。
今度は、すぐに目を逸らさなかった。
「これを試着してみます」
『うん。絶対似合う』
凛が店員に案内され、試着室へ向かう。
それを見送ったあと、陽菜は柚希の背中を押した。
『次は柚希ちゃんね』
「私は、自分で選びます」
『分かってるって。勝手に決めないから』
「凛ちゃんには勝手に選んでいましたよね」
『凛ちゃんは、放っておくと一番無難なの選ぶから』
「私は違うんですか」
『柚希ちゃんは、好きなものが顔に出る』
「そんなことありません」
『じゃあ、さっきから見てるそれは?』
陽菜が指差した先には、白に近い淡い桃色の浴衣があった。
赤や薄紫の小さな花が、裾から袖へ流れるように描かれている。
「見ていただけです」
『着てみればいいじゃん』
「少し、可愛すぎませんか」
『柚希ちゃんに似合うと思うけど』
「私、もう子どもじゃないですよ」
『子どもじゃないから似合うんだよ』
陽菜は浴衣を取り、柚希へ渡した。
『可愛い格好をするのに、年齢なんて関係ないじゃん。着たいなら着ればいいの』
柚希は渡された浴衣を見つめる。
「……零ちゃんは、こういうのを見ても何も言わなそうです」
『言わないだけで、見てると思うよ』
「そうでしょうか」
『見てほしいの?』
柚希の指が、浴衣の生地を強く握った。
「それは……せっかく着るなら、少しくらいは」
『だったら、それにしよう』
「まだ試着もしていません」
『じゃあ早く着てきて』
陽菜に背中を押され、柚希も試着室へ向かった。
1人残された陽菜は、改めて自分の浴衣を探し始める。
可愛らしいもの。
大人っぽいもの。
何着かを手に取ったあと、黒に近い濃紺の生地に、大きな赤い花が咲いた浴衣を選んだ。
派手ではある。
だが、今の陽菜が着れば、過去を思わせる威圧感よりも華やかさが先に立つ。
『これかな』
肩に合わせ、鏡を見る。
その姿を、中井がどんな顔で見るのか。
想像するだけで、自然と笑みが浮かんだ。
しばらくして、試着を終えた凛が出てくる。
藍色の浴衣に銀色の帯。
落ち着いた色合いが凛の雰囲気によく合い、立ち姿を普段よりも柔らかく見せていた。
『やっぱり似合う』
「帯が少し明るすぎる気もします」
『それくらいでいいよ。青柳くん、たぶん見た瞬間に固まるから』
「固まらせたいわけではありません」
『でも、綺麗だとは思われたいでしょ?』
「……不快に思われなければ、それで充分です」
『不快に思うわけないじゃん』
陽菜は凛の帯を整えながら、鏡越しに目を合わせる。
『もっと自信持ちなよ。本当に綺麗だよ』
揶揄いではない声だった。
凛は鏡の中の自分を見つめ、わずかに口元を緩める。
「ありがとうございます」
続いて、隣の試着室から柚希が姿を現した。
淡い桃色の浴衣が、柚希の柔らかな雰囲気に馴染んでいる。
赤い帯が全体を引き締め、幼さよりも上品な可愛らしさを際立たせていた。
だが、柚希は試着室から出たところで立ち止まっている。
「やっぱり、少し恥ずかしいです」
『何で? すごく似合ってるよ』
「普段と違いすぎませんか」
「似合ってるよ、柚希ちゃん」
凛も素直に言った。
「本当に?」
「うん。可愛いと思う」
柚希は照れたように帯へ手を添える。
鏡に映る自分を見ながら、その隣に零が立つ姿を思い浮かべた。
零は浴衣を着ないだろう。
いつものような動きやすい服で、自分の少し前を歩く。
人混みではぐれないように、何も言わず歩調を合わせてくれる。
そんな姿が、不思議なほど自然に浮かんだ。
『零に見せたくなった?』
「……少しだけ」
『じゃあ決まり』
「浴衣は、これにします」
『そっちじゃなくて、零を誘う方』
「それは、まだ心の準備ができていません」
柚希は慌てて否定する。
その直後、陽菜が自分のために選んだ浴衣を2人へ見せた。
『あたしはこれ』
「陽菜さんらしいですね」
凛が答える。
「中井さん、驚くと思います」
柚希の言葉に、陽菜は嬉しそうに笑った。
『うん。できれば、しばらく目を離せなくなってほしい』
「素直ですね」
『彼氏に見せるために着るんだから、当然じゃん』
「自分のためではなかったんですか」
『自分が着たいのもあるし、中井くんに見てほしいのもある。両方でいいでしょ』
陽菜は鏡の前で浴衣を身体へ合わせる。
『まあ、最後には脱がされるんだけど』
「陽菜さん」
凛が即座に止めた。
近くにいた店員が、聞こえなかったふりをして視線を逸らす。
「どうして、そういうことをお店で平気で言えるんですか」
『だって、浴衣って脱がせにくそうじゃない?』
「その先を説明しなくて結構です」
「私も聞きたくありません」
柚希まで加わり、陽菜は不満そうに唇を尖らせる。
『2人とも固いなあ』
「陽菜さんが柔らかすぎるんです」
『何が? 身体?』
「話を広げないでください」
凛が額に手を当てる。
柚希は顔を赤くしながら、陽菜から距離を取った。
それでも3人の間には、自然な笑いが広がっていた。
浴衣と帯を決め、髪飾りや巾着まで選び終える頃には、店に入ってから2時間近くが経っていた。
買い物を終えた3人は、近くの喫茶店へ入った。
陽菜はアイスコーヒー、凛と柚希は紅茶を注文する。
席につくなり、陽菜が柚希を見る。
『じゃあ、誘おうか』
「今ですか」
『後にしたら、また悩むでしょ』
「零ちゃんにも予定があるかもしれません」
『だったら聞けばいいじゃん』
「仕事中かもしれません」
『今日はガソリンスタンドにいるって言ってたよ』
「どうして知っているんですか」
『この前、バイクの話でLINEしたから』
陽菜は何でもないことのように答える。
『休憩中に見るかもしれないし、今送っておけばいいよ』
「簡単に言わないでください」
『凛ちゃんは昨日、自分から誘ったんだよ』
柚希が隣を見る。
凛は紅茶のカップを持ったまま、わずかに目を逸らした。
「かなり時間はかかりました」
「怖くなかった?」
「断られることは考えたよ」
「それでも送れたんだ」
「……会いたいと思ったから」
凛は静かに答えた。
「その気持ちまで、なかったことにしたくなかった」
柚希は、自分のスマートフォンへ視線を落とす。
零と花火へ行きたい。
その理由は、まだ自分でも分からない。
ただ、ほかの誰かではなく、零の隣で見てみたいと思っている。
「LINEで誘っても、いいと思いますか」
『いいに決まってるじゃん』
「急に誘ったら、迷惑じゃないでしょうか」
「零ちゃんは、迷惑ならきちんと断ると思う」
凛が言った。
「だから、返事まで柚希ちゃんが決めなくていいよ」
柚希は小さく頷き、零とのLINEを開いた。
以前より連絡を取る回数は増えている。
それでも、内容は何気ないものばかりだった。
仕事が終わった。
今日は暑かった。
陽菜から無茶を言われた。
そんな短い言葉が、ときどき送られてくる。
それだけなのに、零の名前が画面に表示されると、少しだけ嬉しくなった。
柚希は文字を打つ。
【零ちゃん、花火大会の日って予定ある?】
送信する前に、指が止まる。
「これで大丈夫でしょうか」
『見せなくていいよ』
陽菜が答えた。
「でも――」
『柚希ちゃんが零に送りたい言葉で送った方がいい』
陽菜は笑っていた。
だが、その声には揶揄いがなかった。
『あたしたちに直してもらったら、柚希ちゃんの誘いじゃなくなるじゃん』
柚希は画面へ視線を戻す。
誘う相手は零だ。
陽菜でも、凛でもない。
自分の言葉で、零に伝えなければ意味がない。
柚希は送信ボタンを押した。
既読はつかない。
「送りました」
『偉い』
「子ども扱いしないでください」
『だって、昨日まで誘わないって言ってたじゃん』
「まだ、一緒に行ってほしいとは送っていません」
『予定を聞いたあとで逃げたら、一番不自然だよ』
「分かっています」
柚希はスマートフォンをテーブルへ置いた。
しかし、数秒ごとに画面へ視線が向かう。
注文した紅茶が届いても、ほとんど口をつけられなかった。
一方、その頃。
零はガソリンスタンドの休憩室で、遅めの休憩を取っていた。
水を飲みながらスマートフォンを確認し、柚希から届いたLINEを見る。
【零ちゃん、花火大会の日って予定ある?】
零の手が止まった。
花火大会があることは知っていた。
陽菜からも、当日は仕事を入れないようにと何度か言われている。
だが、誰と行くかまでは決めていなかった。
柚希は、なぜ自分の予定を聞いたのか。
考えた途端、胸が落ち着かなくなる。
【予定はないっす】
そこまで打って、零は文章を消した。
普段の返事と変わらなさすぎる気がした。
だからといって、何を足せばいいのか分からない。
休憩室の時計を見る。
返事を待たせる方が不自然だ。
零はもう一度、文字を打った。
【予定はないっす。どうしたんすか】
送信する。
その直後、自分の文章を見返し、眉を寄せた。
(どうしたんすか、は余計だったかもしれないっす)
だが、送ったものは戻せない。
零はスマートフォンを手にしたまま、柚希からの返事を待った。
喫茶店では、柚希のスマートフォンが震えていた。
「返事が来ました」
『予定は?』
「ないそうです」
『じゃあ、次』
柚希は息を整える。
再び文字を打ち始めた。
【もしよかったら、一緒に花火大会へ行かない?】
書いてはみたものの、最後の送信ができない。
陽菜と凛は、何も言わずに待っている。
やがて柚希は、もう一度文章を読み返した。
誰でもいいわけではない。
花火を見るだけなら、陽菜や凛と一緒でもいい。
それでも零を誘いたいと思った。
その気持ちを、曖昧な言葉に隠したくなかった。
柚希は文章を少しだけ変えた。
【零ちゃんと一緒に花火を見たいんだけど、駄目かな】
送信する。
指先が震えていた。
しばらくして既読がつく。
だが、返事はすぐには来なかった。
「迷っているんでしょうか」
『まだ10秒だよ』
「10秒あれば、断る文章くらい打てます」
「柚希ちゃん、落ち着いて」
凛に言われ、柚希は紅茶のカップを手に取る。
口をつける前に、スマートフォンが震えた。
【自分でいいんすか】
柚希は、その言葉を見つめた。
零は断ろうとしているのではない。
自分が誘われたことを、信じられずにいる。
「零ちゃん、自分でいいのかって」
『何それ。零らしい』
陽菜が呆れたように笑う。
『柚希ちゃん、ちゃんと言ってあげて』
柚希は、今度は迷わなかった。
【零ちゃんがいいの】
送ったあとで、言葉の強さに気づく。
慌てて補足しようとした瞬間、零から返事が届いた。
【行きたいっす】
【自分も、柚希さんと見たいっす】
柚希の指が止まる。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
恋なのかは、まだ分からない。
ただ、零も同じように思ってくれていたことが嬉しかった。
『よかったね』
陽菜が笑う。
「……はい」
『じゃあ、浴衣買って正解だったじゃん』
「浴衣のことは、まだ言いません」
『当日まで内緒にするの?』
「その方が、零ちゃんがどんな反応をするか分かるから」
『柚希ちゃんも、結構やるね』
「陽菜さんにだけは言われたくありません」
柚希は顔を赤くしながらも、嬉しそうにLINEの画面を見つめていた。
ガソリンスタンドの休憩室では、零がスマートフォンを握ったまま動けずにいた。
【零ちゃんがいいの】
何度読み返しても、書かれている言葉は変わらない。
柚希が、ほかの誰かではなく自分を選んだ。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
休憩終了を知らせる時計の音が響き、零は我に返った。
スマートフォンをポケットへ入れ、立ち上がる。
ドアを開ける直前、もう一度だけ画面を確認した。
【楽しみにしてるね】
零は小さく息を吐く。
自分がどんな顔をしているのかは、見なくても分かった。
【自分も楽しみにしてるっす】
返事を送り、休憩室を出る。
仕事へ戻る足取りは、入ってきたときよりもわずかに軽くなっていた。
花火を見る約束をしただけ。
2人の関係には、まだ名前がない。
それでも柚希と零は、その日が来ることを同じ気持ちで待ち始めていた。




