↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
106/329

106話「零と行きたい」

休日の午後。


 陽菜、凛、柚希の3人は、駅前の呉服店に来ていた。


 店内には色とりどりの浴衣が並び、壁際には帯や巾着、髪飾りが種類ごとに飾られている。


「本当に、買うところまで決まっていたんですね」


 凛が店内を見回しながら言った。


『当たり前じゃん。見るだけで帰るつもりだったの?』


「自分の浴衣を持っていないとは言っていません」


『持ってるの?』


「実家にあります」


『いつ買ったやつ?』


「高校生の頃です」


『じゃあ新しいの買おう』


「どうしてそうなるんですか」


『青柳くんと初めて花火に行くんだよ。高校生の頃の浴衣でいいの?』


「青柳さんのために買うわけではありません」


『だったら、凛ちゃん自身のために買えばいいじゃん』


 陽菜はそう言うと、さっそく浴衣の並ぶ棚へ向かった。


 隣で話を聞いていた柚希が、小さく笑う。


「陽菜さんに逆らっても無駄だよ、凛ちゃん」


「柚希ちゃんまで、そちら側につかないでください」


「私は最初から、新しい浴衣を買うつもりだったから」


『さすが柚希ちゃん。話が早い』


「でも、零ちゃんを誘うかはまだ決めていません」


 柚希が付け加える。


 陽菜は棚から1着の浴衣を取り出しながら、柚希を見た。


『昨日、自分で誘うって言ってなかった?』


「あれは、陽菜さんが勝手に誘おうとしたからです」


『じゃあ、あたしが誘っていい?』


「それは駄目です」


『ほら。一緒に行きたいんじゃん』


「……そういう言い方をしないでください」


 柚希が視線を逸らす。


 陽菜は満足そうに笑うと、手に持った浴衣を凛の身体へ合わせた。


 落ち着いた藍色の生地に、白い花が控えめに散っている。


『凛ちゃん、これ似合いそう』


「地味ではありませんか」


『凛ちゃんが着るなら、これくらいがちょうどいい。帯を明るくすれば華やかになるし』


 陽菜は淡い銀色の帯を手に取り、浴衣へ重ねる。


 凛は近くの鏡に映る自分を見た。


 普段の服とは違う。


 仕事着とも、Roseで着るエプロン姿とも違う。


 この格好で青柳の前に立つ自分を想像した途端、鏡から目を逸らした。


『今、青柳くんのこと考えたでしょ』


「考えていません」


『絶対考えた』


「決めつけないでください」


『じゃあ、その浴衣やめる?』


 陽菜が浴衣を身体から離そうとする。


 凛は反射的に、その袖を掴んだ。


「やめるとは言っていません」


『気に入った?』


「悪くはないと思います」


『青柳くんに見せたい?』


「……陽菜さん」


『ごめん、ごめん』


 口では謝りながらも、陽菜の顔には笑みが浮かんでいる。


 凛は浴衣を受け取り、もう一度鏡の前で合わせた。


 今度は、すぐに目を逸らさなかった。


「これを試着してみます」


『うん。絶対似合う』


 凛が店員に案内され、試着室へ向かう。


 それを見送ったあと、陽菜は柚希の背中を押した。


『次は柚希ちゃんね』


「私は、自分で選びます」


『分かってるって。勝手に決めないから』


「凛ちゃんには勝手に選んでいましたよね」


『凛ちゃんは、放っておくと一番無難なの選ぶから』


「私は違うんですか」


『柚希ちゃんは、好きなものが顔に出る』


「そんなことありません」


『じゃあ、さっきから見てるそれは?』


 陽菜が指差した先には、白に近い淡い桃色の浴衣があった。


 赤や薄紫の小さな花が、裾から袖へ流れるように描かれている。


「見ていただけです」


『着てみればいいじゃん』


「少し、可愛すぎませんか」


『柚希ちゃんに似合うと思うけど』


「私、もう子どもじゃないですよ」


『子どもじゃないから似合うんだよ』


 陽菜は浴衣を取り、柚希へ渡した。


『可愛い格好をするのに、年齢なんて関係ないじゃん。着たいなら着ればいいの』


 柚希は渡された浴衣を見つめる。


「……零ちゃんは、こういうのを見ても何も言わなそうです」


『言わないだけで、見てると思うよ』


「そうでしょうか」


『見てほしいの?』


 柚希の指が、浴衣の生地を強く握った。


「それは……せっかく着るなら、少しくらいは」


『だったら、それにしよう』


「まだ試着もしていません」


『じゃあ早く着てきて』


 陽菜に背中を押され、柚希も試着室へ向かった。


 1人残された陽菜は、改めて自分の浴衣を探し始める。


 可愛らしいもの。


 大人っぽいもの。


 何着かを手に取ったあと、黒に近い濃紺の生地に、大きな赤い花が咲いた浴衣を選んだ。


 派手ではある。


 だが、今の陽菜が着れば、過去を思わせる威圧感よりも華やかさが先に立つ。


『これかな』


 肩に合わせ、鏡を見る。


 その姿を、中井がどんな顔で見るのか。


 想像するだけで、自然と笑みが浮かんだ。


 しばらくして、試着を終えた凛が出てくる。


 藍色の浴衣に銀色の帯。


 落ち着いた色合いが凛の雰囲気によく合い、立ち姿を普段よりも柔らかく見せていた。


『やっぱり似合う』


「帯が少し明るすぎる気もします」


『それくらいでいいよ。青柳くん、たぶん見た瞬間に固まるから』


「固まらせたいわけではありません」


『でも、綺麗だとは思われたいでしょ?』


「……不快に思われなければ、それで充分です」


『不快に思うわけないじゃん』


 陽菜は凛の帯を整えながら、鏡越しに目を合わせる。


『もっと自信持ちなよ。本当に綺麗だよ』


 揶揄いではない声だった。


 凛は鏡の中の自分を見つめ、わずかに口元を緩める。


「ありがとうございます」


 続いて、隣の試着室から柚希が姿を現した。


 淡い桃色の浴衣が、柚希の柔らかな雰囲気に馴染んでいる。


 赤い帯が全体を引き締め、幼さよりも上品な可愛らしさを際立たせていた。


 だが、柚希は試着室から出たところで立ち止まっている。


「やっぱり、少し恥ずかしいです」


『何で? すごく似合ってるよ』


「普段と違いすぎませんか」


「似合ってるよ、柚希ちゃん」


 凛も素直に言った。


「本当に?」


「うん。可愛いと思う」


 柚希は照れたように帯へ手を添える。


 鏡に映る自分を見ながら、その隣に零が立つ姿を思い浮かべた。


 零は浴衣を着ないだろう。


 いつものような動きやすい服で、自分の少し前を歩く。


 人混みではぐれないように、何も言わず歩調を合わせてくれる。


 そんな姿が、不思議なほど自然に浮かんだ。


『零に見せたくなった?』


「……少しだけ」


『じゃあ決まり』


「浴衣は、これにします」


『そっちじゃなくて、零を誘う方』


「それは、まだ心の準備ができていません」


 柚希は慌てて否定する。


 その直後、陽菜が自分のために選んだ浴衣を2人へ見せた。


『あたしはこれ』


「陽菜さんらしいですね」


 凛が答える。


「中井さん、驚くと思います」


 柚希の言葉に、陽菜は嬉しそうに笑った。


『うん。できれば、しばらく目を離せなくなってほしい』


「素直ですね」


『彼氏に見せるために着るんだから、当然じゃん』


「自分のためではなかったんですか」


『自分が着たいのもあるし、中井くんに見てほしいのもある。両方でいいでしょ』


 陽菜は鏡の前で浴衣を身体へ合わせる。


『まあ、最後には脱がされるんだけど』


「陽菜さん」


 凛が即座に止めた。


 近くにいた店員が、聞こえなかったふりをして視線を逸らす。


「どうして、そういうことをお店で平気で言えるんですか」


『だって、浴衣って脱がせにくそうじゃない?』


「その先を説明しなくて結構です」


「私も聞きたくありません」


 柚希まで加わり、陽菜は不満そうに唇を尖らせる。


『2人とも固いなあ』


「陽菜さんが柔らかすぎるんです」


『何が? 身体?』


「話を広げないでください」


 凛が額に手を当てる。


 柚希は顔を赤くしながら、陽菜から距離を取った。


 それでも3人の間には、自然な笑いが広がっていた。


 浴衣と帯を決め、髪飾りや巾着まで選び終える頃には、店に入ってから2時間近くが経っていた。


 買い物を終えた3人は、近くの喫茶店へ入った。


 陽菜はアイスコーヒー、凛と柚希は紅茶を注文する。


 席につくなり、陽菜が柚希を見る。


『じゃあ、誘おうか』


「今ですか」


『後にしたら、また悩むでしょ』


「零ちゃんにも予定があるかもしれません」


『だったら聞けばいいじゃん』


「仕事中かもしれません」


『今日はガソリンスタンドにいるって言ってたよ』


「どうして知っているんですか」


『この前、バイクの話でLINEしたから』


 陽菜は何でもないことのように答える。


『休憩中に見るかもしれないし、今送っておけばいいよ』


「簡単に言わないでください」


『凛ちゃんは昨日、自分から誘ったんだよ』


 柚希が隣を見る。


 凛は紅茶のカップを持ったまま、わずかに目を逸らした。


「かなり時間はかかりました」


「怖くなかった?」


「断られることは考えたよ」


「それでも送れたんだ」


「……会いたいと思ったから」


 凛は静かに答えた。


「その気持ちまで、なかったことにしたくなかった」


 柚希は、自分のスマートフォンへ視線を落とす。


 零と花火へ行きたい。


 その理由は、まだ自分でも分からない。


 ただ、ほかの誰かではなく、零の隣で見てみたいと思っている。


「LINEで誘っても、いいと思いますか」


『いいに決まってるじゃん』


「急に誘ったら、迷惑じゃないでしょうか」


「零ちゃんは、迷惑ならきちんと断ると思う」


 凛が言った。


「だから、返事まで柚希ちゃんが決めなくていいよ」


 柚希は小さく頷き、零とのLINEを開いた。


 以前より連絡を取る回数は増えている。


 それでも、内容は何気ないものばかりだった。


 仕事が終わった。


 今日は暑かった。


 陽菜から無茶を言われた。


 そんな短い言葉が、ときどき送られてくる。


 それだけなのに、零の名前が画面に表示されると、少しだけ嬉しくなった。


 柚希は文字を打つ。


【零ちゃん、花火大会の日って予定ある?】


 送信する前に、指が止まる。


「これで大丈夫でしょうか」


『見せなくていいよ』


 陽菜が答えた。


「でも――」


『柚希ちゃんが零に送りたい言葉で送った方がいい』


 陽菜は笑っていた。


 だが、その声には揶揄いがなかった。


『あたしたちに直してもらったら、柚希ちゃんの誘いじゃなくなるじゃん』


 柚希は画面へ視線を戻す。


 誘う相手は零だ。


 陽菜でも、凛でもない。


 自分の言葉で、零に伝えなければ意味がない。


 柚希は送信ボタンを押した。


 既読はつかない。


「送りました」


『偉い』


「子ども扱いしないでください」


『だって、昨日まで誘わないって言ってたじゃん』


「まだ、一緒に行ってほしいとは送っていません」


『予定を聞いたあとで逃げたら、一番不自然だよ』


「分かっています」


 柚希はスマートフォンをテーブルへ置いた。


 しかし、数秒ごとに画面へ視線が向かう。


 注文した紅茶が届いても、ほとんど口をつけられなかった。


 一方、その頃。


 零はガソリンスタンドの休憩室で、遅めの休憩を取っていた。


 水を飲みながらスマートフォンを確認し、柚希から届いたLINEを見る。


【零ちゃん、花火大会の日って予定ある?】


 零の手が止まった。


 花火大会があることは知っていた。


 陽菜からも、当日は仕事を入れないようにと何度か言われている。


 だが、誰と行くかまでは決めていなかった。


 柚希は、なぜ自分の予定を聞いたのか。


 考えた途端、胸が落ち着かなくなる。


【予定はないっす】


 そこまで打って、零は文章を消した。


 普段の返事と変わらなさすぎる気がした。


 だからといって、何を足せばいいのか分からない。


 休憩室の時計を見る。


 返事を待たせる方が不自然だ。


 零はもう一度、文字を打った。


【予定はないっす。どうしたんすか】


 送信する。


 その直後、自分の文章を見返し、眉を寄せた。


(どうしたんすか、は余計だったかもしれないっす)


 だが、送ったものは戻せない。


 零はスマートフォンを手にしたまま、柚希からの返事を待った。


 喫茶店では、柚希のスマートフォンが震えていた。


「返事が来ました」


『予定は?』


「ないそうです」


『じゃあ、次』


 柚希は息を整える。


 再び文字を打ち始めた。


【もしよかったら、一緒に花火大会へ行かない?】


 書いてはみたものの、最後の送信ができない。


 陽菜と凛は、何も言わずに待っている。


 やがて柚希は、もう一度文章を読み返した。


 誰でもいいわけではない。


 花火を見るだけなら、陽菜や凛と一緒でもいい。


 それでも零を誘いたいと思った。


 その気持ちを、曖昧な言葉に隠したくなかった。


 柚希は文章を少しだけ変えた。


【零ちゃんと一緒に花火を見たいんだけど、駄目かな】


 送信する。


 指先が震えていた。


 しばらくして既読がつく。


 だが、返事はすぐには来なかった。


「迷っているんでしょうか」


『まだ10秒だよ』


「10秒あれば、断る文章くらい打てます」


「柚希ちゃん、落ち着いて」


 凛に言われ、柚希は紅茶のカップを手に取る。


 口をつける前に、スマートフォンが震えた。


【自分でいいんすか】


 柚希は、その言葉を見つめた。


 零は断ろうとしているのではない。


 自分が誘われたことを、信じられずにいる。


「零ちゃん、自分でいいのかって」


『何それ。零らしい』


 陽菜が呆れたように笑う。


『柚希ちゃん、ちゃんと言ってあげて』


 柚希は、今度は迷わなかった。


【零ちゃんがいいの】


 送ったあとで、言葉の強さに気づく。


 慌てて補足しようとした瞬間、零から返事が届いた。


【行きたいっす】


【自分も、柚希さんと見たいっす】


 柚希の指が止まる。


 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。


 恋なのかは、まだ分からない。


 ただ、零も同じように思ってくれていたことが嬉しかった。


『よかったね』


 陽菜が笑う。


「……はい」


『じゃあ、浴衣買って正解だったじゃん』


「浴衣のことは、まだ言いません」


『当日まで内緒にするの?』


「その方が、零ちゃんがどんな反応をするか分かるから」


『柚希ちゃんも、結構やるね』


「陽菜さんにだけは言われたくありません」


 柚希は顔を赤くしながらも、嬉しそうにLINEの画面を見つめていた。


 ガソリンスタンドの休憩室では、零がスマートフォンを握ったまま動けずにいた。


【零ちゃんがいいの】


 何度読み返しても、書かれている言葉は変わらない。


 柚希が、ほかの誰かではなく自分を選んだ。


 それだけで、胸の奥が熱くなる。


 休憩終了を知らせる時計の音が響き、零は我に返った。


 スマートフォンをポケットへ入れ、立ち上がる。


 ドアを開ける直前、もう一度だけ画面を確認した。


【楽しみにしてるね】


 零は小さく息を吐く。


 自分がどんな顔をしているのかは、見なくても分かった。


【自分も楽しみにしてるっす】


 返事を送り、休憩室を出る。


 仕事へ戻る足取りは、入ってきたときよりもわずかに軽くなっていた。


 花火を見る約束をしただけ。


 2人の関係には、まだ名前がない。


 それでも柚希と零は、その日が来ることを同じ気持ちで待ち始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。