107話「それぞれの前夜」
花火大会を翌日に控えた金曜日。
島川不動産の営業部では、朝から普段と変わらない時間が流れていた。
電話が鳴り、キーボードを叩く音が重なり、営業から戻った社員が慌ただしく資料を整理する。
ただ、その中で何人かだけは、翌日のことを少し意識していた。
「佐藤」
神谷に呼ばれ、佐藤が顔を上げる。
「はい」
「さっきから同じページを何度見てる」
「見てません」
「見てる。そこ、もう確認印が押してあるだろ」
佐藤は手元の資料を見る。
確かに、確認を終えたページをもう一度めくろうとしていた。
「……すみません」
「明日のことで頭がいっぱいか」
その言葉に、佐藤の肩が揺れる。
近くの席にいた中井が、聞こえないふりをしながら耳を傾けた。
「何のことですか」
「隠すなら、もう少しましな顔をしろ」
神谷は呆れたように言うと、佐藤の机に別の資料を置いた。
「明日は休みだ。好きなだけ悩め。ただし、今日の仕事は今日終わらせろ」
「はい」
「返事は」
「終わらせます」
「よし」
神谷が離れていく。
その背中を見送ったあと、中井が椅子を寄せてきた。
「佐藤さん」
「何だ」
「美園さんから、返事来たんですよね」
「何で知ってる」
「顔です」
「神谷さんと同じこと言うな」
「分かりやすいんですよ」
中井は小声で言いながら、嬉しそうに笑った。
「よかったですね」
「まだ花火に行くだけだ」
「でも、断られなかったんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ、あとは告白するだけじゃないですか」
佐藤は無言で中井を見る。
その視線に気づき、中井が姿勢を正した。
「すみません。簡単に言いすぎました」
「本当に簡単に言うな」
「でも、言うんですよね」
「……言う」
佐藤は短く答えた。
迷いのない声だった。
「明日、言うと決めてる」
「何て言うかは、もう考えてあるんですか」
「一応な」
「練習します?」
「絶対に嫌だ」
「僕、美園さん役やりますよ」
「余計に嫌だ」
佐藤が即答すると、中井は残念そうに椅子を戻した。
そこへ、書類を持った陽菜が通りかかる。
『何の話?』
「何でもありません」
佐藤が答える。
陽菜は佐藤と中井の顔を交互に見た。
『ああ。明日の告白の練習?』
「何で櫻井さんまで知ってるんですか」
『美園さんから花火に行くって聞いたから』
「告白するとは言っていません」
『するでしょ』
「声が大きいです」
佐藤が周囲を気にする。
陽菜は少しだけ声を落とした。
『じゃあ、小さい声で言うけど。失敗しても落ち込まないでね』
「始まる前から不吉なことを言わないでもらえますか」
『美園さん、面倒だから』
「知っています」
佐藤の返事は早かった。
陽菜が目を瞬かせる。
「怖がりだし、すぐに自分だけで答えを決めるし、こっちが何も言ってないのに勝手に身を引こうとする」
『……そこまで分かってるんだ』
「分かっていて好きなんです」
陽菜はしばらく佐藤を見つめたあと、口元を緩めた。
『そっか』
その一言だけを残し、自分の席へ戻っていく。
佐藤は陽菜の背中を見送り、小さく息を吐いた。
「櫻井さんに認めてもらえたみたいですね」
中井が言う。
「別に、許可が欲しいわけじゃない」
「でも、少し嬉しそうですよ」
「仕事に戻れ」
「はい」
中井が自分の席へ戻る。
佐藤は机の引き出しを開けた。
その奥には、小さく折り畳まれた便箋が入っている。
昨夜、自分の気持ちを整理するために書いたものだった。
美園へ渡すつもりはない。
決めた言葉を読み上げるつもりもない。
何度書き直しても、文字にすると綺麗にまとまりすぎてしまう。
明日は、美園の顔を見て、自分の言葉で伝える。
佐藤は便箋を一度だけ見て、引き出しを閉めた。
昼休み。
陽菜は弁当を食べ終えると、樹里の机の横へやってきた。
『日高先輩』
会社にいる以上、その呼び方は崩さない。
樹里は書類から顔を上げた。
『何でしょうか』
『明日の花火、誰と行くんですか』
『急ですね』
『みんな相手が決まり始めたので』
『私は静かに見られれば、誰とでも構いません』
『じゃあ、あたしと中井くんと一緒に――』
『神谷さんと行きます』
陽菜の口が止まった。
次の瞬間、その目が大きく見開かれる。
『えっ』
『声が大きいです』
『神谷さんと2人で?』
『そうです』
『デートじゃないですか』
『花火を見に行くだけです』
『凛ちゃんも同じこと言ってた』
陽菜が樹里の机へ身を乗り出す。
『日高先輩、浴衣は?』
『着ません』
『何でですか。絶対似合うのに』
『持っていませんし、わざわざ買うつもりもありません』
『神谷さんに見せたくないんですか』
『そのために浴衣を買う関係ではありません』
『じゃあ、どんな服で行くんですか』
『普通の服です』
『普通って一番困るやつじゃないですか』
陽菜は腕を組み、真剣な顔で樹里を見る。
『今日の帰り、服を見に行きましょう』
『行きません』
『あたしが選びます』
『結構です』
『日高先輩、放っておいたら仕事に行くみたいな格好で来そうだから』
『休日にスーツは着ません』
『そういう意味じゃないです』
2人の会話を聞いていた神谷が、書類を手に近づいてくる。
「櫻井さん、日高さんを困らせるな」
『神谷さんは、日高先輩の浴衣姿を見たくないんですか』
「話をこちらに振らないでください」
『見たいか見たくないかだけです』
「……似合うとは思います」
樹里が神谷を見る。
神谷はわずかに視線を逸らした。
「ですが、日高さんが着たい服で来ればいいです」
『そういうところですよ、神谷さん』
「何がですか」
『なんか、あと一歩足りないんですよね』
「櫻井さんに評価される筋合いはありません」
神谷は樹里の机へ書類を置く。
「明日の待ち合わせですが、駅前は混むので、1つ隣の駅にしませんか」
『分かりました。そこから歩くんですね』
「はい。20分ほどかかりますが、大丈夫ですか」
『問題ありません』
「場所は昨日送った辺りを考えています。ただ、露店からは少し離れます」
『花火を見る前に、露店にも寄りたいです』
神谷が樹里を見る。
以前の神谷なら、自分が立てた予定をそのまま説明し、それに樹里を合わせようとしていただろう。
だが、樹里は先日の誘いを受けたとき、決める前に相談してほしいと伝えている。
「分かりました。では、少し早めに待ち合わせましょう」
『ありがとうございます』
「食べたいものはありますか」
『当日に見て決めたいです』
「そうしましょう」
2人が自然に予定を決めていく。
陽菜は黙ったまま、その様子を見ていた。
『……何ですか』
樹里が尋ねる。
『いや、なんか思ったよりちゃんとデートしてるなって』
『櫻井さん』
『戻ります』
陽菜は笑いを堪えながら、自分の席へ戻っていった。
樹里は小さく息を吐き、神谷へ向き直る。
『すみません』
「いつものことです」
『それはそれで、申し訳ありません』
「私は、嫌ではありませんよ」
神谷はそう言って、自分の席へ戻っていく。
樹里は返事をする機会を失い、その背中を目で追った。
嫌ではない。
その言葉が何を指しているのか、聞き返すことはできなかった。
終業後。
陽菜と中井は、駅まで並んで歩いていた。
中井はいつもより大きな鞄を持つ陽菜へ視線を向ける。
「陽菜さん、それ、浴衣ですか」
『うん。今日、美園さんのところへ持っていくの』
「Roseで着替えるんですか」
『明日は休みにするって。店で美園さんに着付けてもらう』
「自分で着られないんですか」
『着られるけど、帯は美園さんの方が上手いから』
陽菜は中井の顔を覗き込む。
『楽しみ?』
「楽しみです」
『どれくらい?』
「どれくらいと言われても……」
『あたしが浴衣で来たら、ちゃんと褒めてね』
「もちろんです」
『可愛いだけじゃ駄目だよ』
「では、綺麗です」
『まだ見てないじゃん』
「陽菜さんなら、どちらも似合います」
『中井くん、最近そういうこと平気で言うようになったね』
「陽菜さんと付き合っていれば、鍛えられます」
以前なら、顔を真っ赤にして言葉に詰まっていただろう。
今も恥ずかしそうではある。
それでも、中井は陽菜から目を逸らさなくなっていた。
『帯、勝手にほどいたら怒るからね』
「しませんよ」
『帰るまでは』
「帰ったあとも、陽菜さんが嫌ならしません」
『嫌じゃなかったら?』
「……駅前で聞くことですか」
『答えてよ』
「明日考えます」
『逃げた』
「陽菜さんが楽しんでるだけでしょう」
『うん』
陽菜は悪びれずに笑う。
中井も困ったように笑ったあと、陽菜の持つ鞄へ手を伸ばした。
「持ちます」
『これくらい大丈夫だよ』
「知っています。でも、持ちたいので」
中井は返事を待たずに鞄を受け取った。
陽菜は、その横顔を見つめる。
どれほど揶揄っても、最後には真っ直ぐ返してくる。
強引に引っ張るわけではない。
陽菜が自分で歩けることを知ったうえで、それでも隣に立とうとする。
『中井くん』
「はい」
『明日、楽しみだね』
「はい。僕もです」
陽菜は中井の腕へ自分の腕を絡めた。
中井は驚いたものの、もう足を止めることはなかった。
同じ頃。
凛のスマートフォンには、青柳からLINEが届いていた。
【明日はかなり混雑するそうです】
【会場へ着く前に、軽く食事をしておきませんか】
凛はしばらく考えたあと、返事を送る。
【露店も見たいと思っています】
少しして、青柳から返信が届く。
【分かりました。では、食事は決めずに行きましょう】
【混雑していたら、そのときに相談させてください】
青柳は、予定をすべて決めようとはしなかった。
凛がどうしたいのかを聞き、そのたびに2人で決めようとする。
慎重すぎるほど慎重だ。
それでも、その距離の取り方が今の凛には心地よかった。
【はい。明日、よろしくお願いします】
送信したあと、凛はクローゼットへ目を向ける。
そこには、今日受け取ってきた浴衣が掛けられていた。
青柳には、浴衣を着ることをまだ伝えていない。
驚かせたいわけではない。
ただ、伝えるのが恥ずかしかっただけだ。
(似合わないと思われたら、どうしよう)
そんな不安を抱くこと自体が、今までの凛にはなかった。
凛は浴衣の袖へ、そっと触れた。
その頃、青柳も自宅で翌日の天気予報を確認していた。
降水確率は低い。
それでも夜は風が出る可能性がある。
何を持っていけば役に立つか。
どの道なら、人混みを避けられるか。
調べ始めてから、青柳は手を止めた。
凛は、自分で判断できる人だ。
何もかも先回りして用意すれば、気を遣わせてしまうかもしれない。
青柳は検索画面を閉じ、凛とのLINEを開いた。
【明日、会えるのを楽しみにしています】
そこまで打って、消す。
今朝も似たような言葉を送っている。
何度も言えば、重いと思われるかもしれない。
迷った末に、別の文章を送った。
【明日は暑くなりそうなので、無理せずゆっくり歩きましょう】
送信後、青柳は自分の文章を見つめる。
好意を隠したいわけではない。
だが、急いで凛を困らせたくもなかった。
近づきたい気持ちと、急かしたくない気持ち。
その両方を抱えたまま、青柳は翌日を待っていた。
夜。
Roseでは閉店後の片づけが始まっていた。
美園がカウンターを拭いていると、入口の扉が開く。
すでに看板の灯りは消してある。
入ってきた佐藤を見て、美園が眉を上げた。
『もう閉店したよ』
「知っています」
『じゃあ、何しに来たの?』
「明日の確認です」
『LINEでいいでしょ』
「顔を見ておきたかったので」
佐藤は迷うことなく、カウンターの前まで歩いてきた。
「本当に、明日来てくれますか」
『行くって言ったでしょ』
「あとから、やっぱり断ると言われそうな気がして」
『信用ないなあ』
「一度、断ろうとしていた人ですから」
美園の手が止まる。
『凛ちゃんから聞いた?』
「聞いていません。でも、美園さんなら考えそうです」
『佐藤くんまで、私のこと分かったように言うようになったね』
「分かりたいと思っています」
美園は、佐藤の顔を見る。
真っ直ぐだった。
年下だから。
優しいから。
何も知らないから。
いくら理由を並べても、佐藤の目は逸れない。
『行くよ』
美園は、今度ははっきり答えた。
『私が行きたいと思ったから、行く』
「分かりました」
『それを確認するためだけに来たの?』
「もう1つあります」
佐藤の表情が変わる。
緊張している。
それでも、その場から逃げる様子はなかった。
「明日、美園さんに伝えたいことがあります」
『今じゃ駄目なの?』
「駄目です」
『どうして?』
「花火に誘った日に言うと決めたからです」
『変なところで頑固だね』
「美園さんには言われたくありません」
美園が小さく笑う。
何を言われるのかは、聞かなくても分かっていた。
だからこそ、怖い。
答えを出せば、何かが始まる。
始まったものは、いつか終わるかもしれない。
それでも、今度はその恐怖を理由に逃げたくなかった。
『分かった』
美園は佐藤の目を見て答えた。
『最後まで聞く』
「約束ですよ」
『うん』
「それでは、明日迎えに来ます」
『場所を送ってくれれば、私が行くよ』
「迎えに来たいんです」
『歩けるけど』
「知っています」
佐藤の返事に、美園の表情が止まる。
同じ言葉を、少し前にも聞いた気がした。
1人でできることと、誰かの気持ちを受け取ることは別なのかもしれない。
『じゃあ、お願いしようかな』
「はい」
佐藤は安心したように笑い、Roseを出ていった。
扉が閉じたあと、美園は1人になった店内で胸元へ手を当てる。
心臓が、普段よりも速く動いていた。
樹里は静かな場所で、神谷と花火を見る。
陽菜は浴衣を着て、中井の隣を歩く。
凛は青柳と待ち合わせ、柚希は零と花火を見る約束をした。
そして美園は、佐藤の言葉を聞く。
同じ花火大会へ向かいながら、抱えているものは誰もが違っている。
期待。
緊張。
迷い。
そして、まだ口にされていない想い。
翌日の夜、それぞれの気持ちが、同じ空の下で動き始める。




