108話「待ち合わせ」
花火大会当日の夕方。
営業を休みにしたRoseには、普段とは違う賑やかな声が響いていた。
『陽菜、動かないで』
『動いてないよ』
『喋るたびにお腹へ力が入るの。帯がずれるでしょ』
『帯って、こんなに苦しかったっけ』
『さっきから少しずつ緩めてる。苦しいのは、陽菜が昼に食べすぎたせい』
『だって、夜は露店で食べるから昼を軽くしろって美園さんが言ったじゃん』
『言ったけど、軽くする前の食事にケーキは含まれないよ』
店内の姿見の前で、美園が陽菜の帯を整えている。
黒に近い濃紺の浴衣には、大きな赤い花が鮮やかに咲いていた。
元々目を引く陽菜が着れば、華やかさはさらに増す。
髪も普段とは違い、緩くまとめられている。
美園は最後に帯締めを整え、陽菜の肩を軽く叩いた。
『はい。終わり』
陽菜は姿見の前で身体の向きを変える。
『どう?』
『似合ってるよ』
『中井くん、驚くかな』
『固まるんじゃない?』
『楽しみ』
陽菜は満足そうに笑った。
その後ろでは、凛と柚希が順番を待っている。
「帯を締めてもらった直後に、彼氏の反応しか気にしないんですね」
凛が呆れたように言った。
『そのために着たところもあるから』
「否定しないんですか」
『凛ちゃんだって、青柳くんの反応が気になるでしょ?』
「私は、自分が着たいと思ったから着るだけです」
『じゃあ青柳くんが何も言わなくても平気?』
「……不快に思われなければ」
『それ、前にも聞いた』
陽菜は凛の隣へ近づき、その顔を覗き込む。
『本当は、綺麗って言われたいくせに』
「櫻井さん」
『会社じゃないんだから、陽菜でいいよ』
「では、陽菜さん。少し黙っていてください」
『名前を変えただけじゃん』
美園が笑いを堪えながら、凛を呼ぶ。
『次、凛ちゃん』
「お願いします」
凛は姿見の前に立った。
藍色の浴衣に、白い花。
明るすぎない銀色の帯が、落ち着いた色合いの中に華やかさを添えている。
美園が手際よく帯を結んでいく。
凛は鏡の中の自分を見つめながら、少しだけ身体を強張らせていた。
『苦しい?』
「大丈夫です」
『緊張してるの?』
「していません」
『陽菜と同じくらい分かりやすいよ』
「一緒にしないでください」
『何であたしまで悪く言われるの?』
陽菜が不満そうに口を挟む。
美園は帯を結び終えると、凛の後ろ姿を確認した。
『綺麗だよ、凛ちゃん』
「ありがとうございます」
『青柳くん、ちゃんと言葉にできるかな』
「美園さんまで、その話をするんですか」
『私は、言われなくても顔を見れば分かると思うけどね』
「顔に出る方でしょうか」
『男の人って、思ったより出るよ』
美園が意味ありげに笑う。
凛は鏡から目を逸らし、巾着の持ち手を握った。
「期待はしていません」
『そういうことにしておく』
最後は柚希だった。
淡い桃色の浴衣に、赤や薄紫の小さな花。
帯は鮮やかな赤色で、柚希の柔らかな雰囲気を引き締めている。
美園に帯を結ばれながら、柚希は何度も姿見を確認していた。
「変ではありませんか」
『全然。可愛いよ』
「子どもっぽく見えませんか」
『見えないって』
陽菜が柚希の横へ並ぶ。
『零、絶対びっくりするよ』
「別に、驚かせるために着るわけではありません」
『じゃあ、先に写真送る?』
「それは駄目です」
『どうして?』
「……会ったときに見てもらいたいので」
言ったあと、柚希が恥ずかしそうに俯く。
陽菜は一瞬だけ目を見開き、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
『柚希ちゃん、可愛い』
「そういう反応をしないでください」
『だって可愛いんだもん』
「写真は撮らないでくださいね」
『まだ撮ってないよ』
「スマートフォンを構えながら言わないでください」
柚希が陽菜の手を押し下げる。
美園は2人のやり取りを見ながら、柚希の髪へ小さな花飾りを挿した。
『はい。これで完成』
「ありがとうございます」
3人が姿見の前に並ぶ。
華やかな陽菜。
静かな美しさを纏う凛。
柔らかく可憐な柚希。
それぞれが、まったく違う浴衣姿だった。
『いいね』
陽菜が鏡越しに2人を見る。
『3人とも、すごく可愛い』
「自分で言うんですね」
『だって本当じゃん』
陽菜は振り返り、美園を見た。
『美園さんは?』
『何が?』
『まだ着替えてないでしょ』
『みんなが出てから着替えるよ』
『見せて』
『嫌』
『何で?』
『佐藤くんより先に陽菜へ見せる必要ないでしょ』
その返事に、陽菜の目が輝く。
『ちゃんとデートする気じゃん』
『うるさい』
美園は陽菜の肩を軽く押し、入口へ向かわせた。
『中井くん、もう外にいるよ。待たせないの』
『はーい』
陽菜は草履を履き、Roseの扉へ手をかける。
その直前、美園へ振り返った。
『美園さん』
『何?』
『今日は、逃げないでね』
美園の表情がわずかに止まる。
陽菜は笑っていた。
けれど、その目は真剣だった。
『分かってるよ』
美園も、静かに答える。
『陽菜も、気をつけて行ってきて』
『うん。行ってきます』
Roseの外では、中井が待っていた。
約束の時間よりも15分早い。
何度も時計を確認しながら、店の入口へ視線を向けている。
やがて扉が開いた。
陽菜が姿を現す。
「……」
中井は動かなかった。
普段とは違う髪型。
濃紺の浴衣に咲く、大きな赤い花。
帯の上で揺れる飾り。
陽菜は中井の前まで歩き、その顔を覗き込んだ。
『中井くん?』
「はい」
『何か言うことない?』
「……すみません」
『どうして謝るの?』
「見すぎました」
陽菜は一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。
『いいよ。見せるために着たんだから』
「すごく綺麗です」
『可愛いは?』
「可愛いです」
『どっち?』
「どちらもです」
『欲張りだね』
「陽菜さんが聞いたんでしょう」
中井は照れながらも、陽菜から目を逸らさなかった。
「本当に、似合っています」
今度の言葉には、迷いがなかった。
陽菜の表情が柔らかくなる。
『ありがと』
素直に礼を言ったあと、中井の腕へ自分の腕を絡めた。
『どう? 連れて歩きたい?』
「はい」
『早いね』
「今日は、正直に言った方がいいと思って」
『じゃあ、帰ったあと帯をほどきたい?』
「どうして、すぐそっちへ行くんですか」
『正直に言う日なんでしょ?』
「まだ会場にも着いていません」
『帰るまでは駄目って言ったもんね』
中井の顔が赤くなる。
陽菜は楽しそうに笑いながら、その腕をさらに強く抱いた。
『行こっか』
「はい」
2人は並んで、駅へ向かって歩き始めた。
少し遅れて、凛もRoseを出た。
青柳との待ち合わせ場所は、会場から2駅離れた駅だった。
混雑を避けるために、そこで合流してから向かうことになっている。
凛が駅へ着くと、青柳はすでに改札の前に立っていた。
凛に気づき、顔を上げる。
「遠藤さん」
青柳の視線が止まった。
凛は、無意識に巾着を両手で持つ。
「お待たせしました」
「いえ。僕も今来たところです」
青柳はそう答えたものの、まだ凛を見ている。
凛は落ち着かなくなり、自分の浴衣へ視線を落とした。
「……変でしょうか」
「違います」
青柳がすぐに否定する。
「とても綺麗です」
飾ることのない、真っ直ぐな言葉だった。
凛の指先が巾着の持ち手を強く握る。
「ありがとうございます」
「浴衣を着てくるとは思っていなかったので、驚きました」
「言わない方がいいかと思って」
「どうしてですか」
「……今のような反応が見られるかと思ったので」
言ったあと、凛は自分の言葉に驚いた。
青柳も目を瞬かせる。
「すみません。今のは忘れてください」
「嫌です」
思いがけない返事だった。
凛が顔を上げる。
「忘れたくありません」
青柳は少し恥ずかしそうにしながらも、視線を逸らさなかった。
「僕に見せようと思ってくれたなら、嬉しいです」
凛は返事ができなかった。
陽菜や美園に何を言われても、誤魔化すことはできた。
だが、本人を前にすると、用意していた言い訳は何の役にも立たない。
「……行きましょうか」
「はい」
凛が歩き出す。
慣れない草履では、普段と同じ速さでは歩けない。
青柳は何も言わず、その歩調に合わせた。
先へ行って待つのではない。
手を引くわけでもない。
自然に、凛の隣を歩く。
しばらくして、凛が口を開いた。
「青柳さん」
「何でしょう」
「ゆっくり歩いてくれて、ありがとうございます」
「遠藤さんと歩きたいので」
青柳は前を向いたまま答えた。
「先に着いても、意味がありませんから」
凛は、その横顔を見つめた。
この人は慎重だ。
けれど、言うと決めたことからは逃げない。
凛の胸の中にあった緊張が、少しずつ解けていった。
柚希が待ち合わせ場所に選んだのは、駅近くの小さな広場だった。
会場へ向かう人の波から、少しだけ外れている。
零は約束の時間より早く到着していた。
黒い半袖のシャツに、細身のパンツ。
いつもより髪も整えられているが、本人は落ち着かない様子で何度も周囲を見回していた。
やがて、人の間から柚希が現れる。
「零ちゃん」
名前を呼ばれ、零が振り返る。
そのまま動かなくなった。
淡い桃色の浴衣。
まとめられた髪には、小さな花飾りがついている。
普段とは違う柚希の姿を前に、零は何を言えばいいのか分からなくなった。
「待った?」
「……」
「零ちゃん?」
「待ってないっす」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「よかった」
柚希は零の前まで歩いてくる。
零の視線が、自分の顔と浴衣の間を何度も行き来していることに気づいた。
「どうかな」
「何がっすか」
「浴衣」
「ああ」
零はそこで初めて気づいたような反応をした。
明らかに無理がある。
「変?」
「変じゃないっす」
「じゃあ、似合ってる?」
「似合ってるっす」
「それだけ?」
柚希が少しだけ不満そうに尋ねる。
零は困ったように視線を逸らした。
「可愛いっす」
小さな声だった。
周囲の音に消えそうなほどだったが、柚希には聞こえた。
「もう一回言って」
「言わないっす」
「聞こえなかったかもしれない」
「絶対聞こえてたっす」
零は耳まで赤くしている。
柚希は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「……はい」
零は柚希と目を合わせられないまま、会場の方角を見る。
「行きますか」
「うん」
2人が人の流れへ入る。
次第に道幅が狭くなり、周囲を歩く人との距離が近くなっていく。
柚希の肩へ、横を通った男の腕がぶつかりそうになる。
零はすぐに柚希との位置を入れ替え、自分が人の流れに近い側へ立った。
「零ちゃん」
「人が多いっす」
零は前を見たまま言う。
「はぐれたら探すのが面倒なんで、自分の近くにいてください」
「うん」
柚希は零の隣へ近づいた。
袖と袖が、ときどき触れる。
手を繋いでいるわけではない。
それでも、普段より近い距離に零がいる。
柚希はそのことを、少しだけ意識しながら歩いた。
3人を送り出したRoseでは、美園が1人で着替えを終えていた。
黒いワンピース。
胸元は控えめに開き、腰の辺りで細く絞られている。
裾には深い切れ込みが入っているが、派手には見えない。
髪も店に立つときとは違い、柔らかくまとめていた。
鏡の前で口紅を引き直す。
客に見られることには慣れている。
そのために服を選び、化粧をすることもある。
だが、たった1人にどう見られるかを考えて準備するのは、久しぶりだった。
店の外で足音が止まる。
間もなく、扉が開いた。
「美園さん」
佐藤が店内へ入ってくる。
『いらっしゃい』
「今日は客ではありません」
『分かってるよ』
美園がカウンターの奥から姿を現す。
佐藤は、その場で立ち止まった。
『何?』
「……綺麗です」
『それだけ?』
「櫻井さんと同じことを言うんですね」
『陽菜にも言われたの?』
「言われる前に、中井へ言えと教えられました」
『私には自分で言えたんだ』
「美園さんには、言いたかったので」
佐藤は真っ直ぐに美園を見ている。
美園は、その視線から逃げるように髪へ触れた。
『浴衣じゃなくて、残念だった?』
「いいえ」
『会場には、若くて可愛い浴衣姿の子がたくさんいるよ』
「そうでしょうね」
『見惚れないでね』
「見ません」
佐藤の返事には、一瞬の迷いもなかった。
「今日は、美園さんを見るために来ました」
『そういうこと、よく平気で言えるね』
「平気ではありません」
佐藤の耳がわずかに赤い。
「それでも、言わないと伝わらないので」
美園は言葉を失った。
言わなくても分かることはある。
だが、言わなければ分からないことの方が、きっと多い。
『行こっか』
「はい」
美園が佐藤の前を通り、店の外へ出る。
佐藤もそのあとを追った。
美園が扉へ鍵をかける間、佐藤は黙って隣で待っている。
『佐藤くん』
「何ですか」
『昨日の約束、覚えてるよ』
「約束?」
『言いたいこと、最後まで聞くって話』
佐藤の表情が引き締まる。
「ありがとうございます」
『でも、今は言わないでね』
「分かっています」
『せっかく来たんだから、花火は楽しみたい』
「僕も、そのつもりです」
『本当に? 顔が固いけど』
「緊張はしています」
『正直だね』
「今さら隠しても仕方ないので」
美園は笑い、佐藤の隣へ並んだ。
2人の間には、まだ触れられるほどの距離がある。
それでも美園は離れなかった。
樹里と神谷の待ち合わせは、ほかの者たちより少し遅い時間だった。
人混みを避けるため、会場から離れた駅を選んでいる。
神谷が改札を出ると、樹里はすでに柱のそばで待っていた。
白いブラウスに、黒いロングスカート。
派手な装飾はなく、髪も普段と大きくは変わらない。
それでも、仕事中の姿とはどこか違って見えた。
「日高さん」
神谷に呼ばれ、樹里が顔を上げる。
『お疲れさまです』
「お待たせしました」
『まだ待ち合わせの10分前です』
「日高さんなら、早く来ていると思いました」
『神谷さんも早いですね』
「お互い様です」
神谷はそう答えながら、樹里を見る。
視線に気づき、樹里が首を傾げた。
『何かおかしいでしょうか』
「いえ」
神谷は一度言葉を切った。
「よく似合っています」
『普通の服ですが』
「普段とは雰囲気が違います」
『そうですか』
「はい。素敵です」
樹里は目を逸らさなかった。
以前なら、どう返せばいいか分からず、話を終わらせていただろう。
『ありがとうございます』
きちんと受け取る。
それだけで、神谷の表情がわずかに和らいだ。
樹里も神谷の服装を見る。
仕事中よりも力の抜けたシャツ姿は、普段の厳しさを少しだけ薄めていた。
『神谷さんも、お似合いです』
「私も普通の服ですよ」
『先ほど私に言ったことと同じです』
「そうでしたね」
神谷が小さく笑う。
「では、行きましょうか」
『はい』
2人は駅を出て、会場へ続く道を歩き始めた。
神谷がすべてを決めて、その後ろを樹里がついていくのではない。
どの道を歩くか。
露店へ先に寄るか。
何を食べるか。
その都度、2人で話しながら決めていく。
遠くから、祭り囃子が聞こえ始める。
同じ空の下。
それぞれが、それぞれの相手と並んで歩いていた。
まだ触れられない距離。
触れようと思えば届く距離。
すでに迷わず寄り添える距離。
関係の形は違っていても、誰もが隣にいる相手を意識している。
空にはまだ、花火は上がっていない。
けれど、その夜はもう、静かに始まっていた。




