↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
109/329

109話「花火の前に」

会場へ近づくにつれ、人の流れは大きくなっていった。


 道の両側には露店が並び、焼きそばのソースや甘い綿菓子の匂いが入り交じっている。


 祭り囃子。


 子どもたちの笑い声。


 客を呼び込む店主の声。


 まだ花火は上がっていない。


 それでも会場には、今夜を待ちきれない熱気が満ちていた。


『中井くん、あれ食べたい』


 陽菜が指差した先には、焼きそばの露店があった。


「さっき、たこ焼きを食べませんでしたか」


『食べたよ』


「その前に唐揚げも食べましたよね」


『食べた』


「まだ食べるんですか」


『半分あげるから』


「結局、僕も食べるんですね」


『嫌?』


「嫌ではありませんけど」


『じゃあ決まり』


 陽菜は中井の腕を引き、焼きそばの列へ向かう。


 中井の片手には、すでに陽菜の巾着と飲み物がある。


 もう片方の手には、食べかけのりんご飴まで持たされていた。


 列へ並んだところで、中井が手元を見る。


「陽菜さん」


『何?』


「りんご飴、どうします?」


『食べていいよ』


「僕、焼きそばも半分食べるんですよね」


『今日はいっぱい歩くから大丈夫』


「そういう問題でしょうか」


 中井は困った顔をしながら、りんご飴を一口かじった。


 その様子を見た陽菜が笑う。


『間接キスだね』


「もう何度も、それ以上のことをしてるでしょう」


 中井は小声で返した。


 今度は陽菜が目を瞬かせる。


『中井くん』


「はい」


『強くなったね』


「陽菜さんに鍛えられました」


『じゃあ、焼きそば食べさせてあげる』


「自分で食べられます」


『あーんしてあげる』


「人前ですよ」


『あたしは平気』


「僕が平気ではありません」


 言いながらも、中井の口元には笑みが浮かんでいる。


 以前のように、陽菜に振り回されているだけではなかった。


 恥ずかしがりながらも言葉を返し、嫌なことには困った顔で抵抗する。


 それでも最後には、陽菜の望みに付き合う。


 焼きそばを受け取った陽菜は、割り箸で一口分を取り、中井の口元へ差し出した。


『はい』


「本当にやるんですか」


『いらない?』


「……いただきます」


 中井が顔を赤くしながら口を開く。


 陽菜は満足そうに食べさせた。


『おいしい?』


「味がよく分かりません」


『緊張しすぎ』


「周りの人が見ています」


 中井の言葉に、陽菜が周囲へ目を向ける。


 何人かの男が、浴衣姿の陽菜を振り返っていた。


 陽菜は自分へ向けられる視線に慣れている。


 気に留める様子もなく、再び焼きそばを食べ始めた。


『あたしが見られてるの、嫌?』


「少しは」


 中井は正直に答えた。


「でも、陽菜さんに見るなとは言えませんし、見ている人に怒るつもりもありません」


『じゃあ、どうするの?』


「僕が隣にいます」


 中井は陽菜の荷物を持ったまま、少しだけ距離を詰めた。


「それで充分です」


 陽菜はしばらく中井の横顔を見つめる。


 嫉妬しても、縛らない。


 自分の不安を理由に、陽菜の振る舞いを変えようとはしない。


『そっか』


 陽菜は中井の腕を取り、自分の身体を寄せた。


『じゃあ、今日はずっと隣にいてね』


「はい」


『帰ったあとも』


「それは最初から、そのつもりです」


『やっぱり強くなった』


 陽菜は嬉しそうに笑い、中井と同じ焼きそばを食べた。


 少し離れた通りでは、凛と青柳が射的の露店の前で足を止めていた。


 凛の視線は、景品の棚へ向いている。


 小さなガラス細工の風鈴。


 透明な硝子に淡い青色が混じり、店の灯りを受けて輝いている。


「気になりますか」


 青柳に尋ねられ、凛は視線を戻した。


「見ていただけです」


「欲しくはありませんか」


「欲しいというほどではありません」


「では、僕がやってもいいですか」


「青柳さんが欲しいんですか」


「僕も、今から欲しくなる予定です」


「無理に理由を作らなくていいですよ」


 凛の指摘に、青柳が少しだけ笑う。


「遠藤さんが見ていたので、取れたら渡したいと思いました」


「射的は得意なんですか」


「やったことはあります」


「得意かを聞いています」


「……得意ではありません」


「それなら、無理をしなくても」


「1回だけやらせてください」


 青柳は店主に代金を払い、銃を受け取った。


 狙いを定める。


 引き金を引くと、乾いた音が鳴った。


 弾は風鈴から大きく外れ、後ろに置かれていた箱の端へ当たる。


 凛は何も言わない。


 青柳も銃を構えたまま動かなかった。


「今のは、照準の確認です」


「弾は1発減りました」


「次は当てます」


 2発目。


 今度は風鈴の下に置かれた菓子へ当たった。


 しかし倒れない。


「青柳さん」


「もう少しです」


「最初から風鈴を狙っていますか」


「もちろんです」


 青柳の声から、先ほどまでの余裕が消えている。


 3発目も外れた。


 弾を撃ち終え、青柳は無言で銃を置く。


「……すみません」


「どうして謝るんですか」


「いいところを見せるつもりでした」


 あまりにも正直な言葉だった。


 凛は堪えきれず、小さく笑った。


 青柳が顔を上げる。


「笑いましたね」


「すみません。でも、青柳さんもそういうことを考えるんだと思って」


「考えます。遠藤さんには、格好悪いところばかり見られている気がしますが」


「私は、今の青柳さんも嫌いではありません」


 口にしたあと、凛の笑みが止まる。


 青柳も目を見開いた。


「今のは、射的に失敗した青柳さんの話です」


「分かっています」


「ほかの意味はありません」


「分かっていますから、これ以上説明しないでください」


 青柳はそう言いながらも、嬉しそうだった。


 凛は恥ずかしさを隠すように、射的の景品へ目を戻す。


「私もやります」


「遠藤さんが?」


「やってはいけませんか」


「いえ。ただ、浴衣なので」


「銃を構えるくらいなら問題ありません」


 凛は代金を払い、店主から銃を受け取った。


 頬を寄せ、狙いを定める。


 1発目が、風鈴を吊るしていた台へ正確に当たった。


 小さな風鈴が揺れ、そのまま下へ落ちる。


 店主が驚いた顔をしながら、景品を凛へ渡した。


「……お見事です」


 青柳が言う。


「偶然です」


「構え方が、初めてには見えませんでした」


「昔、少しだけ遊んだことがあります」


 凛は風鈴を受け取ると、青柳へ差し出した。


「どうぞ」


「僕にですか」


「青柳さんも、今から欲しくなる予定だったんでしょう?」


 青柳は一瞬言葉を失い、やがて笑った。


「そうでした」


 風鈴を受け取る。


「大切にします」


「それほど高価なものではありません」


「値段の話はしていません」


 青柳の手の中で、小さな風鈴が澄んだ音を鳴らした。


 凛はその音を聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。


 柚希と零は、人の流れに合わせて露店の間を歩いていた。


 先ほどよりも会場は混み始めている。


 柚希の歩幅に合わせていた零も、何度か他の客に押されていた。


「零ちゃん、大丈夫?」


「自分は大丈夫っす」


 そう答えた直後、2人の間を子どもが駆け抜ける。


 柚希の身体が人の流れに押され、零から離れた。


「柚希さん」


 零が振り返る。


 浴衣姿の人々に遮られ、一瞬だけ柚希の姿が見えなくなった。


 零はすぐに人の間へ戻り、柚希の前まで来る。


「すみません」


「柚希さんが謝ることじゃないっす」


「思っていたより、混んでるね」


「はい」


 零は周囲を見たあと、自分の右手を差し出した。


「掴んでください」


 柚希が、その手を見る。


「袖を?」


「……手の方が、離れないっす」


 零の視線は柚希から外れていた。


 差し出された手だけが、少し固くなっている。


 柚希は迷いながら、自分の手を重ねた。


 零の手は、想像していたよりも硬かった。


 ガソリンスタンドの仕事でついた、小さな傷や荒れが指先に残っている。


 零が手を握る。


 強すぎず、それでも簡単には離れない力だった。


「これなら、はぐれないね」


「はい」


 零は前を向いたまま歩き始める。


 手を繋ぐことについて、それ以上は何も言わなかった。


 柚希も、離してほしいとは言わない。


 人に押されるたび、繋いだ手に少しだけ力が入る。


 それがどちらからなのかは、もう分からなかった。


 しばらく歩いたところで、前方から陽菜と中井がやってきた。


『柚希ちゃん、零』


 陽菜に呼ばれ、柚希が顔を上げる。


「陽菜さん」


「櫻井さん、中井さん。こんばんはっす」


 零も足を止める。


 陽菜の視線が、2人の繋いだ手へ向いた。


 零が気づき、反射的に手を緩めようとする。


 だが、その前に柚希の指へ力が入った。


 零の手は離れなかった。


『楽しんでる?』


「はい」


 柚希が答える。


 陽菜は何かを言いたそうに笑ったが、手のことには触れなかった。


『そっか。じゃあ、またあとでね』


「はい」


『零、柚希ちゃんをちゃんと連れてってね』


「分かってるっす」


 陽菜と中井が人混みの中へ消えていく。


 零は繋いだ手を見た。


「柚希さん」


「何?」


「もう、今はそんなに混んでないっす」


「また混むかもしれないよ」


「……そうっすね」


 柚希は手を離さなかった。


 零も、それ以上は何も言わなかった。


 少し先を歩く陽菜が、隣の中井へ小声で話しかける。


『見た?』


「見ました」


『繋いでたね』


「はい」


『零、耳まで真っ赤だった』


「櫻井さん、よく黙っていられましたね」


『あそこで言ったら、離しちゃうじゃん』


「意外と気を遣うんですね」


『意外とは余計』


 陽菜はそう言いながら、嬉しそうに後ろを振り返った。


 だが、人混みの向こうに2人の姿はもう見えない。


『あとで柚希ちゃんに詳しく聞くけど』


「やっぱり黙ってはいられないんですね」


『今は、だよ』


 中井は笑いながら、陽菜と並んで歩いた。


 美園と佐藤は、会場の端に近い通りを歩いていた。


 佐藤は、いつになく口数が少ない。


 美園が横目でその顔を見る。


『緊張してる?』


「しています」


『まだ花火も始まってないよ』


「分かっています」


『告白することばかり考えてたら、楽しくないでしょ』


「美園さん」


『何?』


「今、告白って言いました?」


『言ったよ』


「分かってるんですか」


『分かるでしょ。あれだけ予告されたら』


「……そうですね」


 佐藤は気まずそうに視線を逸らす。


 美園は少し笑った。


『今は忘れよう』


「忘れられません」


『じゃあ、考えないで』


「難しいことを言いますね」


『せっかく来たんだから、普通に楽しみたいの』


 美園は近くの露店へ目を向ける。


『佐藤くん、何か食べたいものある?』


「美園さんは?」


『今、私が聞いたんだけど』


「また先に僕へ決めさせるつもりですか」


 美園が足を止める。


「美園さんが食べたいものを、一緒に食べたいです」


『……たこ焼き』


「では、買いましょう」


『子どもっぽいって言わない?』


「たこ焼きに年齢は関係ありません」


『そういうところ、真面目だよね』


 2人はたこ焼きを買い、通りの端にあるベンチへ腰を下ろした。


 美園が爪楊枝で1つ取り、口へ運ぶ。


『熱っ』


「気をつけてください」


『先に言ってよ』


「湯気が出ていたでしょう」


 佐藤が呆れながら、自分のたこ焼きを割って冷ます。


 美園は涙の滲んだ目で佐藤を睨んだあと、笑った。


『何その食べ方』


「美園さんのようになりたくないので」


『可愛くないなあ』


「火傷するよりましです」


 佐藤が食べる。


 今度はソースが口元についていた。


『佐藤くん』


「何ですか」


『動かないで』


 美園は自然に手を伸ばし、親指で佐藤の口元を拭った。


 佐藤の身体が固まる。


 美園も、自分が何をしたのかに遅れて気づいた。


『ソース、ついてたから』


「はい」


『それだけだよ』


「分かっています」


『何で赤くなるの?』


「美園さんのせいです」


 佐藤は美園の手首を掴みかけ、途中で止めた。


 触れていいのか、まだ迷ったのだろう。


 その手をゆっくりと下ろす。


 美園は、それを見ていた。


 無理に近づかない。


 返事を急かさない。


 それでも、何もなかったことにはしない。


 佐藤は、ずっとその場所に立っている。


『佐藤くん』


「はい」


『楽しい?』


「楽しいです」


『緊張してるのに?』


「緊張していることと、楽しいことは別です」


『器用なのか不器用なのか、分からないね』


「美園さんと一緒にいるのが楽しい。それだけは分かっています」


 美園は手元のたこ焼きへ視線を落とした。


『私も』


 小さく答える。


『楽しいよ』


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に別の感情が生まれた。


 この時間が、終わらなければいい。


 花火が始まる前から、終わったあとのことを考えてしまう。


 佐藤に何かを言われれば、今の関係ではいられなくなる。


 受け入れても、断っても、何かが変わる。


 怖い。


 それでも、以前のように変わる前から捨てようとは思わなかった。


 終わってほしくないと思える時間を、自分から終わらせたくない。


『ねえ、佐藤くん』


「何ですか」


『花火が終わっても、すぐに帰らないでね』


 佐藤が美園を見る。


『少しくらいなら、話を聞く時間あるから』


 美園は、わざと軽い調子で言った。


 だが、その目は逸らさなかった。


「はい」


 佐藤も、真剣な表情で頷く。


「帰りません」


 会場から少し離れた通りでは、樹里と神谷が露店を見ていた。


 中心部ほど混雑しておらず、落ち着いて歩くことができる。


 神谷が、たい焼きの露店へ目を向ける。


「日高さん、食べますか」


『神谷さんが召し上がるなら』


「私は食べたいですが、日高さんにも聞いています」


『では、いただきます』


「中身は、あんことカスタードがあるそうです」


『あんこでお願いします』


「私もです」


 2人は顔を見合わせる。


 以前の食事で、互いにあんこが好きだと知ったばかりだった。


『また同じですね』


「好みが合うのは、悪いことではないでしょう」


『そうですね』


 神谷が2つ買い、片方を樹里へ渡す。


 樹里は財布を出そうとしたが、神谷が首を振った。


「今日は私に払わせてください」


『ですが』


「次に日高さんが払ってください」


 樹里の手が止まる。


 次。


 神谷は、ごく自然にその言葉を使った。


『分かりました』


 樹里は財布を戻す。


『次は、私がご馳走します』


「約束ですよ」


『はい』


 2人は人通りの少ない場所にあるベンチへ座った。


 焼きたてのたい焼きを割ると、中から湯気が上がる。


 樹里は一口食べ、わずかに目を細めた。


「おいしいですか」


『はい』


「それならよかったです」


『神谷さんが作ったわけではないでしょう』


「私が選んだ店ではあります」


『たい焼きの露店まで調べていたんですか』


「調べてはいません。偶然です」


『そうですか』


「何ですか、その顔は」


『いえ。神谷さんなら、出店の配置まで確認していても不思議ではないと思っただけです』


「そこまではしません」


 神谷は否定したあと、少し間を置く。


「会場の避難経路と、混雑しにくい道は確認しましたが」


『充分調べています』


「必要なことです」


『仕事ではありませんよ』


「分かっています」


 神谷はたい焼きを見つめながら、小さく息を吐いた。


「私も、こういう時間の過ごし方に慣れていないんです」


 樹里は何も言わず、続きを待つ。


「仕事なら、先に調べて準備をすれば大抵のことには対応できます」


『はい』


「ですが、今日は何を準備すれば日高さんに楽しんでもらえるのか、正解が分かりませんでした」


『正解は必要ありません』


 樹里は静かに答えた。


『私も、慣れていませんから』


「そうですか」


『はい。それに』


 樹里は手元のたい焼きへ視線を落とす。


『今のところ、楽しいです』


 神谷が顔を上げる。


 樹里は照れを誤魔化すことも、言葉を撤回することもしなかった。


『神谷さんは、楽しくありませんか』


「楽しいです」


 神谷の返事は早かった。


「思っていた以上に」


『それなら、よかったです』


 2人はそれ以上言葉を重ねず、並んでたい焼きを食べた。


 話さなくても、居心地の悪い沈黙にはならない。


 遠くから聞こえる祭り囃子と、人々の笑い声。


 いつも仕事に追われている2人にとって、それだけで充分に特別な時間だった。


 やがて、会場内の放送が花火の開始時刻を告げた。


 露店を歩いていた人々が、それぞれの観覧場所へ向かい始める。


 陽菜は中井の腕を引き、空がよく見える場所を探す。


 凛と青柳は、青柳が手にした小さな風鈴の音を聞きながら歩く。


 柚希と零は、今も手を繋いだまま、人の流れを離れた。


 美園と佐藤は、言葉を交わす時間を花火のあとに残している。


 樹里と神谷は、相談して決めた静かな場所へ向かう。


 やがて祭り囃子が止まり、会場の灯りが少しだけ落とされた。


 空はまだ暗いまま。


 誰もが同じ夜空を見上げ、最初の光を待っている。


 花火が始まれば、この夜は終わりへ向かい始める。


 だからこそ、その直前の時間が、誰にとっても愛おしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。