109話「花火の前に」
会場へ近づくにつれ、人の流れは大きくなっていった。
道の両側には露店が並び、焼きそばのソースや甘い綿菓子の匂いが入り交じっている。
祭り囃子。
子どもたちの笑い声。
客を呼び込む店主の声。
まだ花火は上がっていない。
それでも会場には、今夜を待ちきれない熱気が満ちていた。
『中井くん、あれ食べたい』
陽菜が指差した先には、焼きそばの露店があった。
「さっき、たこ焼きを食べませんでしたか」
『食べたよ』
「その前に唐揚げも食べましたよね」
『食べた』
「まだ食べるんですか」
『半分あげるから』
「結局、僕も食べるんですね」
『嫌?』
「嫌ではありませんけど」
『じゃあ決まり』
陽菜は中井の腕を引き、焼きそばの列へ向かう。
中井の片手には、すでに陽菜の巾着と飲み物がある。
もう片方の手には、食べかけのりんご飴まで持たされていた。
列へ並んだところで、中井が手元を見る。
「陽菜さん」
『何?』
「りんご飴、どうします?」
『食べていいよ』
「僕、焼きそばも半分食べるんですよね」
『今日はいっぱい歩くから大丈夫』
「そういう問題でしょうか」
中井は困った顔をしながら、りんご飴を一口かじった。
その様子を見た陽菜が笑う。
『間接キスだね』
「もう何度も、それ以上のことをしてるでしょう」
中井は小声で返した。
今度は陽菜が目を瞬かせる。
『中井くん』
「はい」
『強くなったね』
「陽菜さんに鍛えられました」
『じゃあ、焼きそば食べさせてあげる』
「自分で食べられます」
『あーんしてあげる』
「人前ですよ」
『あたしは平気』
「僕が平気ではありません」
言いながらも、中井の口元には笑みが浮かんでいる。
以前のように、陽菜に振り回されているだけではなかった。
恥ずかしがりながらも言葉を返し、嫌なことには困った顔で抵抗する。
それでも最後には、陽菜の望みに付き合う。
焼きそばを受け取った陽菜は、割り箸で一口分を取り、中井の口元へ差し出した。
『はい』
「本当にやるんですか」
『いらない?』
「……いただきます」
中井が顔を赤くしながら口を開く。
陽菜は満足そうに食べさせた。
『おいしい?』
「味がよく分かりません」
『緊張しすぎ』
「周りの人が見ています」
中井の言葉に、陽菜が周囲へ目を向ける。
何人かの男が、浴衣姿の陽菜を振り返っていた。
陽菜は自分へ向けられる視線に慣れている。
気に留める様子もなく、再び焼きそばを食べ始めた。
『あたしが見られてるの、嫌?』
「少しは」
中井は正直に答えた。
「でも、陽菜さんに見るなとは言えませんし、見ている人に怒るつもりもありません」
『じゃあ、どうするの?』
「僕が隣にいます」
中井は陽菜の荷物を持ったまま、少しだけ距離を詰めた。
「それで充分です」
陽菜はしばらく中井の横顔を見つめる。
嫉妬しても、縛らない。
自分の不安を理由に、陽菜の振る舞いを変えようとはしない。
『そっか』
陽菜は中井の腕を取り、自分の身体を寄せた。
『じゃあ、今日はずっと隣にいてね』
「はい」
『帰ったあとも』
「それは最初から、そのつもりです」
『やっぱり強くなった』
陽菜は嬉しそうに笑い、中井と同じ焼きそばを食べた。
少し離れた通りでは、凛と青柳が射的の露店の前で足を止めていた。
凛の視線は、景品の棚へ向いている。
小さなガラス細工の風鈴。
透明な硝子に淡い青色が混じり、店の灯りを受けて輝いている。
「気になりますか」
青柳に尋ねられ、凛は視線を戻した。
「見ていただけです」
「欲しくはありませんか」
「欲しいというほどではありません」
「では、僕がやってもいいですか」
「青柳さんが欲しいんですか」
「僕も、今から欲しくなる予定です」
「無理に理由を作らなくていいですよ」
凛の指摘に、青柳が少しだけ笑う。
「遠藤さんが見ていたので、取れたら渡したいと思いました」
「射的は得意なんですか」
「やったことはあります」
「得意かを聞いています」
「……得意ではありません」
「それなら、無理をしなくても」
「1回だけやらせてください」
青柳は店主に代金を払い、銃を受け取った。
狙いを定める。
引き金を引くと、乾いた音が鳴った。
弾は風鈴から大きく外れ、後ろに置かれていた箱の端へ当たる。
凛は何も言わない。
青柳も銃を構えたまま動かなかった。
「今のは、照準の確認です」
「弾は1発減りました」
「次は当てます」
2発目。
今度は風鈴の下に置かれた菓子へ当たった。
しかし倒れない。
「青柳さん」
「もう少しです」
「最初から風鈴を狙っていますか」
「もちろんです」
青柳の声から、先ほどまでの余裕が消えている。
3発目も外れた。
弾を撃ち終え、青柳は無言で銃を置く。
「……すみません」
「どうして謝るんですか」
「いいところを見せるつもりでした」
あまりにも正直な言葉だった。
凛は堪えきれず、小さく笑った。
青柳が顔を上げる。
「笑いましたね」
「すみません。でも、青柳さんもそういうことを考えるんだと思って」
「考えます。遠藤さんには、格好悪いところばかり見られている気がしますが」
「私は、今の青柳さんも嫌いではありません」
口にしたあと、凛の笑みが止まる。
青柳も目を見開いた。
「今のは、射的に失敗した青柳さんの話です」
「分かっています」
「ほかの意味はありません」
「分かっていますから、これ以上説明しないでください」
青柳はそう言いながらも、嬉しそうだった。
凛は恥ずかしさを隠すように、射的の景品へ目を戻す。
「私もやります」
「遠藤さんが?」
「やってはいけませんか」
「いえ。ただ、浴衣なので」
「銃を構えるくらいなら問題ありません」
凛は代金を払い、店主から銃を受け取った。
頬を寄せ、狙いを定める。
1発目が、風鈴を吊るしていた台へ正確に当たった。
小さな風鈴が揺れ、そのまま下へ落ちる。
店主が驚いた顔をしながら、景品を凛へ渡した。
「……お見事です」
青柳が言う。
「偶然です」
「構え方が、初めてには見えませんでした」
「昔、少しだけ遊んだことがあります」
凛は風鈴を受け取ると、青柳へ差し出した。
「どうぞ」
「僕にですか」
「青柳さんも、今から欲しくなる予定だったんでしょう?」
青柳は一瞬言葉を失い、やがて笑った。
「そうでした」
風鈴を受け取る。
「大切にします」
「それほど高価なものではありません」
「値段の話はしていません」
青柳の手の中で、小さな風鈴が澄んだ音を鳴らした。
凛はその音を聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
柚希と零は、人の流れに合わせて露店の間を歩いていた。
先ほどよりも会場は混み始めている。
柚希の歩幅に合わせていた零も、何度か他の客に押されていた。
「零ちゃん、大丈夫?」
「自分は大丈夫っす」
そう答えた直後、2人の間を子どもが駆け抜ける。
柚希の身体が人の流れに押され、零から離れた。
「柚希さん」
零が振り返る。
浴衣姿の人々に遮られ、一瞬だけ柚希の姿が見えなくなった。
零はすぐに人の間へ戻り、柚希の前まで来る。
「すみません」
「柚希さんが謝ることじゃないっす」
「思っていたより、混んでるね」
「はい」
零は周囲を見たあと、自分の右手を差し出した。
「掴んでください」
柚希が、その手を見る。
「袖を?」
「……手の方が、離れないっす」
零の視線は柚希から外れていた。
差し出された手だけが、少し固くなっている。
柚希は迷いながら、自分の手を重ねた。
零の手は、想像していたよりも硬かった。
ガソリンスタンドの仕事でついた、小さな傷や荒れが指先に残っている。
零が手を握る。
強すぎず、それでも簡単には離れない力だった。
「これなら、はぐれないね」
「はい」
零は前を向いたまま歩き始める。
手を繋ぐことについて、それ以上は何も言わなかった。
柚希も、離してほしいとは言わない。
人に押されるたび、繋いだ手に少しだけ力が入る。
それがどちらからなのかは、もう分からなかった。
しばらく歩いたところで、前方から陽菜と中井がやってきた。
『柚希ちゃん、零』
陽菜に呼ばれ、柚希が顔を上げる。
「陽菜さん」
「櫻井さん、中井さん。こんばんはっす」
零も足を止める。
陽菜の視線が、2人の繋いだ手へ向いた。
零が気づき、反射的に手を緩めようとする。
だが、その前に柚希の指へ力が入った。
零の手は離れなかった。
『楽しんでる?』
「はい」
柚希が答える。
陽菜は何かを言いたそうに笑ったが、手のことには触れなかった。
『そっか。じゃあ、またあとでね』
「はい」
『零、柚希ちゃんをちゃんと連れてってね』
「分かってるっす」
陽菜と中井が人混みの中へ消えていく。
零は繋いだ手を見た。
「柚希さん」
「何?」
「もう、今はそんなに混んでないっす」
「また混むかもしれないよ」
「……そうっすね」
柚希は手を離さなかった。
零も、それ以上は何も言わなかった。
少し先を歩く陽菜が、隣の中井へ小声で話しかける。
『見た?』
「見ました」
『繋いでたね』
「はい」
『零、耳まで真っ赤だった』
「櫻井さん、よく黙っていられましたね」
『あそこで言ったら、離しちゃうじゃん』
「意外と気を遣うんですね」
『意外とは余計』
陽菜はそう言いながら、嬉しそうに後ろを振り返った。
だが、人混みの向こうに2人の姿はもう見えない。
『あとで柚希ちゃんに詳しく聞くけど』
「やっぱり黙ってはいられないんですね」
『今は、だよ』
中井は笑いながら、陽菜と並んで歩いた。
美園と佐藤は、会場の端に近い通りを歩いていた。
佐藤は、いつになく口数が少ない。
美園が横目でその顔を見る。
『緊張してる?』
「しています」
『まだ花火も始まってないよ』
「分かっています」
『告白することばかり考えてたら、楽しくないでしょ』
「美園さん」
『何?』
「今、告白って言いました?」
『言ったよ』
「分かってるんですか」
『分かるでしょ。あれだけ予告されたら』
「……そうですね」
佐藤は気まずそうに視線を逸らす。
美園は少し笑った。
『今は忘れよう』
「忘れられません」
『じゃあ、考えないで』
「難しいことを言いますね」
『せっかく来たんだから、普通に楽しみたいの』
美園は近くの露店へ目を向ける。
『佐藤くん、何か食べたいものある?』
「美園さんは?」
『今、私が聞いたんだけど』
「また先に僕へ決めさせるつもりですか」
美園が足を止める。
「美園さんが食べたいものを、一緒に食べたいです」
『……たこ焼き』
「では、買いましょう」
『子どもっぽいって言わない?』
「たこ焼きに年齢は関係ありません」
『そういうところ、真面目だよね』
2人はたこ焼きを買い、通りの端にあるベンチへ腰を下ろした。
美園が爪楊枝で1つ取り、口へ運ぶ。
『熱っ』
「気をつけてください」
『先に言ってよ』
「湯気が出ていたでしょう」
佐藤が呆れながら、自分のたこ焼きを割って冷ます。
美園は涙の滲んだ目で佐藤を睨んだあと、笑った。
『何その食べ方』
「美園さんのようになりたくないので」
『可愛くないなあ』
「火傷するよりましです」
佐藤が食べる。
今度はソースが口元についていた。
『佐藤くん』
「何ですか」
『動かないで』
美園は自然に手を伸ばし、親指で佐藤の口元を拭った。
佐藤の身体が固まる。
美園も、自分が何をしたのかに遅れて気づいた。
『ソース、ついてたから』
「はい」
『それだけだよ』
「分かっています」
『何で赤くなるの?』
「美園さんのせいです」
佐藤は美園の手首を掴みかけ、途中で止めた。
触れていいのか、まだ迷ったのだろう。
その手をゆっくりと下ろす。
美園は、それを見ていた。
無理に近づかない。
返事を急かさない。
それでも、何もなかったことにはしない。
佐藤は、ずっとその場所に立っている。
『佐藤くん』
「はい」
『楽しい?』
「楽しいです」
『緊張してるのに?』
「緊張していることと、楽しいことは別です」
『器用なのか不器用なのか、分からないね』
「美園さんと一緒にいるのが楽しい。それだけは分かっています」
美園は手元のたこ焼きへ視線を落とした。
『私も』
小さく答える。
『楽しいよ』
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に別の感情が生まれた。
この時間が、終わらなければいい。
花火が始まる前から、終わったあとのことを考えてしまう。
佐藤に何かを言われれば、今の関係ではいられなくなる。
受け入れても、断っても、何かが変わる。
怖い。
それでも、以前のように変わる前から捨てようとは思わなかった。
終わってほしくないと思える時間を、自分から終わらせたくない。
『ねえ、佐藤くん』
「何ですか」
『花火が終わっても、すぐに帰らないでね』
佐藤が美園を見る。
『少しくらいなら、話を聞く時間あるから』
美園は、わざと軽い調子で言った。
だが、その目は逸らさなかった。
「はい」
佐藤も、真剣な表情で頷く。
「帰りません」
会場から少し離れた通りでは、樹里と神谷が露店を見ていた。
中心部ほど混雑しておらず、落ち着いて歩くことができる。
神谷が、たい焼きの露店へ目を向ける。
「日高さん、食べますか」
『神谷さんが召し上がるなら』
「私は食べたいですが、日高さんにも聞いています」
『では、いただきます』
「中身は、あんことカスタードがあるそうです」
『あんこでお願いします』
「私もです」
2人は顔を見合わせる。
以前の食事で、互いにあんこが好きだと知ったばかりだった。
『また同じですね』
「好みが合うのは、悪いことではないでしょう」
『そうですね』
神谷が2つ買い、片方を樹里へ渡す。
樹里は財布を出そうとしたが、神谷が首を振った。
「今日は私に払わせてください」
『ですが』
「次に日高さんが払ってください」
樹里の手が止まる。
次。
神谷は、ごく自然にその言葉を使った。
『分かりました』
樹里は財布を戻す。
『次は、私がご馳走します』
「約束ですよ」
『はい』
2人は人通りの少ない場所にあるベンチへ座った。
焼きたてのたい焼きを割ると、中から湯気が上がる。
樹里は一口食べ、わずかに目を細めた。
「おいしいですか」
『はい』
「それならよかったです」
『神谷さんが作ったわけではないでしょう』
「私が選んだ店ではあります」
『たい焼きの露店まで調べていたんですか』
「調べてはいません。偶然です」
『そうですか』
「何ですか、その顔は」
『いえ。神谷さんなら、出店の配置まで確認していても不思議ではないと思っただけです』
「そこまではしません」
神谷は否定したあと、少し間を置く。
「会場の避難経路と、混雑しにくい道は確認しましたが」
『充分調べています』
「必要なことです」
『仕事ではありませんよ』
「分かっています」
神谷はたい焼きを見つめながら、小さく息を吐いた。
「私も、こういう時間の過ごし方に慣れていないんです」
樹里は何も言わず、続きを待つ。
「仕事なら、先に調べて準備をすれば大抵のことには対応できます」
『はい』
「ですが、今日は何を準備すれば日高さんに楽しんでもらえるのか、正解が分かりませんでした」
『正解は必要ありません』
樹里は静かに答えた。
『私も、慣れていませんから』
「そうですか」
『はい。それに』
樹里は手元のたい焼きへ視線を落とす。
『今のところ、楽しいです』
神谷が顔を上げる。
樹里は照れを誤魔化すことも、言葉を撤回することもしなかった。
『神谷さんは、楽しくありませんか』
「楽しいです」
神谷の返事は早かった。
「思っていた以上に」
『それなら、よかったです』
2人はそれ以上言葉を重ねず、並んでたい焼きを食べた。
話さなくても、居心地の悪い沈黙にはならない。
遠くから聞こえる祭り囃子と、人々の笑い声。
いつも仕事に追われている2人にとって、それだけで充分に特別な時間だった。
やがて、会場内の放送が花火の開始時刻を告げた。
露店を歩いていた人々が、それぞれの観覧場所へ向かい始める。
陽菜は中井の腕を引き、空がよく見える場所を探す。
凛と青柳は、青柳が手にした小さな風鈴の音を聞きながら歩く。
柚希と零は、今も手を繋いだまま、人の流れを離れた。
美園と佐藤は、言葉を交わす時間を花火のあとに残している。
樹里と神谷は、相談して決めた静かな場所へ向かう。
やがて祭り囃子が止まり、会場の灯りが少しだけ落とされた。
空はまだ暗いまま。
誰もが同じ夜空を見上げ、最初の光を待っている。
花火が始まれば、この夜は終わりへ向かい始める。
だからこそ、その直前の時間が、誰にとっても愛おしかった。




