110話「隣で見る光」
会場の灯りが落ち、辺りを薄い闇が包んだ。
それまで絶え間なく続いていた人々の声も、少しずつ静かになっていく。
誰もが顔を上げ、暗い夜空を見つめていた。
数秒の静寂。
やがて、地面の奥まで響くような音とともに、1本の光が打ち上がる。
光は真っ直ぐに夜空を昇り、頂点へ届いた。
大きな音が弾ける。
赤い花火が空一面に広がり、遅れて会場から歓声が上がった。
『すごい』
陽菜が子どものように目を輝かせる。
続けて、青、緑、金色の光が夜空に咲いた。
浴衣姿の陽菜が、次々と打ち上がる花火を目で追う。
その隣で、中井は夜空ではなく陽菜を見ていた。
『中井くん』
「はい」
『どこ見てるの?』
「陽菜さんです」
『花火見なよ』
「見ています」
『今、あたしって言ったじゃん』
「花火に照らされている陽菜さんを見ています」
中井は、誤魔化さなかった。
陽菜が目を瞬かせる。
『それ、誰かに教わった?』
「自分で思ったことを言っただけです」
『本当に強くなったね』
「陽菜さんが、言葉にしないと分からないと言うので」
『そこまで素直に言われると、あたしでもちょっと恥ずかしい』
「少しは僕の気持ちが分かりましたか」
『うん。少しだけ』
陽菜は笑い、中井の肩へ自分の頭を預けた。
中井の身体が一瞬だけ固くなる。
『そこはまだ慣れないんだ』
「急だったので」
『嫌?』
「嫌ではありません」
『じゃあ、このまま』
「はい」
中井も、陽菜の頭へ自分の頭をわずかに寄せた。
夜空では大きな花火が開いている。
だが、陽菜はしばらく空を見なかった。
花火の光に照らされる中井の横顔を見つめていた。
『ねえ、中井くん』
「何ですか」
『来年も一緒に来ようね』
「はい」
中井は一瞬も迷わなかった。
「再来年も、その次も来ましょう」
『そこまで花火好きだった?』
「花火ではなくて、陽菜さんと来たいんです」
『そっか』
陽菜は、今度こそ恥ずかしそうに夜空へ顔を向けた。
『じゃあ、約束ね』
2人の頭上で、金色の光が長い尾を引きながら降り注いだ。
凛と青柳は、人の少ない河川敷の端に立っていた。
打ち上がるたびに、風鈴の硝子へ色とりどりの光が映る。
青柳は受け取った景品が傷つかないよう、鞄の外側へ丁寧に取りつけていた。
風が吹くたび、小さく澄んだ音が鳴る。
「本当に、そこにつけるんですか」
凛が尋ねる。
「家に帰るまで、音が聞けますから」
「割れたらどうするんですか」
「そのときは、本気で落ち込みます」
「射的の景品ですよ」
「遠藤さんにもらったものです」
青柳は夜空を見上げたまま答えた。
「僕にとっては、それだけではありません」
凛は何も言えなくなり、再び花火へ視線を向ける。
大きな音が響く。
白い光が夜空で細かく弾け、無数の星のように降ってくる。
「綺麗ですね」
凛が呟く。
「はい」
「青柳さん」
「何でしょう」
「花火を見ていますか」
「見ています」
「先ほどから、こちらを見ている気がします」
青柳の表情が止まる。
「すみません」
「謝るんですね」
「見すぎたと思ったので」
「嫌だとは言っていません」
凛の言葉に、青柳が目を見開く。
凛は花火を見たまま続けた。
「私も、青柳さんの反応が気になっていましたから」
「浴衣のですか」
「はい」
「それなら、何度でも言います。とても綺麗です」
「何度もは結構です」
「では、あと1回だけ」
「今言ったので、それが最後です」
青柳が笑う。
凛も、わずかに口元を緩めた。
「青柳さん」
「はい」
「今日は、誘ってよかったです」
花火の音に消されないよう、凛は先ほどより少しだけ声を大きくした。
「まだ終わっていませんが、そう思っています」
「僕も、誘ってもらえて嬉しかったです」
「青柳さんから誘うつもりはなかったんですか」
「ありました」
「そうなんですか」
「ですが、遠藤さんを急かすような気がして、迷っていました」
「私が誘わなければ、どうしていましたか」
「花火が終わったあと、別の場所へ誘っていたと思います」
「別の場所?」
「食事でも、どこかへ出かけるのでも構いません。もう一度、2人で会いたかったので」
青柳は、凛の目を見る。
「今も、その気持ちは変わっていません」
凛の胸が大きく鳴った。
今日が楽しかったという話だけではない。
青柳は、今日の先を望んでいる。
「それは、次も会いたいという意味ですか」
「はい」
「今日の私を見たあとでも?」
「今日の遠藤さんを見たから、もっと会いたいと思っています」
青柳は迷わず答えた。
「迷惑でしょうか」
「……いいえ」
凛は小さく首を振る。
「私も、またお会いしたいです」
その返事を聞いた青柳は、ようやく安心したように笑った。
告白ではない。
付き合う約束でもない。
ただ、今日だけで終わらせない約束。
今の2人には、それで充分だった。
柚希と零は、少し高くなった土手の上から花火を見ていた。
繋いだ手は、まだ離れていない。
花火が打ち上がるたび、零の横顔が明るく照らされ、すぐに暗闇へ戻る。
「綺麗だね」
柚希が言う。
「はい」
「零ちゃんと来られてよかった」
零の指が、わずかに動いた。
「自分もっす」
「本当に?」
「本当っす」
「さっきから、ほとんど喋らないから」
「花火を見てたんで」
「私も見てるけど、喋ってるよ」
零は返事に困り、夜空へ視線を向ける。
本当は花火だけを見ていたわけではない。
隣にいる柚希が気になって仕方がなかった。
浴衣の袖。
花火を見上げる横顔。
繋いだ手から伝わる温度。
どれも普段とは違い、どう振る舞えばいいのか分からない。
「零ちゃん」
「何すか」
「さっきから、何回も私を見てるよね」
零の表情が固まった。
「見てないっす」
「見てたよ」
「浴衣が珍しかっただけっす」
「それだけ?」
待ち合わせのときと同じ質問だった。
零は目を逸らす。
逃げるように黙れば、柚希を不安にさせるかもしれない。
それは嫌だった。
「……すごく似合ってるっす」
今度は、聞こえる声で言った。
「可愛いと思って見てたっす」
柚希の頬が赤くなる。
花火の光があるから、零には分からないかもしれない。
「ありがとう」
「はい」
「零ちゃんも、今日の服、似合ってるよ」
「自分は普通っす」
「いつもより格好いいと思う」
零が柚希を見る。
「格好いい?」
「うん」
「可愛いじゃなくて?」
「零ちゃんは、格好いいの方が嬉しいかなと思って」
零は少し考えたあと、視線を前へ戻した。
「柚希さんに言われるなら、どっちでも嬉しいっす」
柚希の胸の奥が、また温かくなる。
好きなのか。
まだ、その答えは分からない。
以前好きだった男へ向けた気持ちとは、形が違う。
胸が苦しくなるような熱ではない。
零の隣にいると、不思議と安心する。
大切に扱われていると感じる。
それを恋と呼んでいいのか、今の柚希にはまだ決められなかった。
「零ちゃん」
「何すか」
「手、痛くない?」
「大丈夫っす」
「ずっと繋いでるから」
「離しますか」
零の手から、わずかに力が抜ける。
柚希は、その手を握り直した。
「離してほしいとは言ってないよ」
零が柚希を見る。
「花火が終わるまでは、このままがいい」
「……分かったっす」
今度は零も、しっかりと握り返した。
2人の間に、関係を決める言葉はない。
それでも繋いだ手だけは、互いを選んでいた。
樹里と神谷は、河川敷から少し離れた高台にいた。
花火の音はわずかに遅れて届く。
会場の喧騒も遠く、周囲には同じように静かに花火を眺める者が何組かいるだけだった。
神谷が選んだ場所だが、ここへ来ることは2人で相談して決めた。
樹里は柵の前に立ち、夜空を見上げている。
『よく見えますね』
「人混みからも離れています。ここにして正解でした」
『神谷さんが調べてくださったおかげです』
「最後に決めたのは2人です」
以前なら、自分の準備が正しかったことに満足していたかもしれない。
だが今の神谷は、樹里が一緒に選んだことを大切にしている。
樹里も、それに気づいていた。
赤い花火が開く。
そのあとを追うように、金色の光が空へ広がった。
「日高さん」
『はい』
「今日は、来てくださってありがとうございます」
『私も来たかったので』
「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」
『先ほども申し上げましたが、楽しいです』
「はい」
『何度も言わせないでください』
「何度聞いても嬉しいので」
神谷が冗談とも本気ともつかない声で答える。
樹里は困ったように目を細めた。
だが、拒むような表情ではなかった。
『神谷さん』
「何でしょう」
『次は、私からお誘いします』
神谷が樹里を見る。
『今日は、神谷さんに場所を探していただきました。食べるものも、ほとんど選んでいただいています』
「相談して決めたつもりですが」
『はい。ですが、次は私が考えたいです』
「次があると思っていいんですか」
『そのつもりで申し上げました』
樹里は正面から神谷を見る。
『ご迷惑でしょうか』
「まさか」
神谷の表情が、静かに和らいだ。
「楽しみにしています」
『あまり期待しないでください』
「それは無理ですね」
『困ります』
「日高さんが誘ってくださるんです。期待しない方が難しいでしょう」
樹里は返す言葉を失い、夜空へ視線を戻した。
その耳がわずかに赤くなっていることに、神谷は気づいていた。
だが、口にはしない。
今は、隣にいられるだけでよかった。
少し離れた観覧場所では、美園と佐藤が並んで空を見上げていた。
大きな花火が上がるたび、周囲から歓声が起こる。
美園はその音に紛れ、何度か佐藤の横顔を見た。
佐藤は真剣な顔で花火を見ている。
だが、ときどき何かを言おうとして、口を閉じていた。
『今は言わない約束でしょ』
「分かっています」
『だったら、花火見て』
「見ています」
『顔が固い』
「緊張していると言ったでしょう」
『そんなに大事なこと言うの?』
「僕にとっては」
美園は、佐藤から目を逸らした。
胸の奥が落ち着かない。
何を言われるかは分かっている。
それでも、実際にその言葉を聞くことが怖かった。
次の花火が上がる。
白い光が夜空いっぱいに広がった。
その光を見上げた佐藤の横顔が、柔らかく照らされる。
美園は思う。
この人と、またどこかへ行きたい。
今日だけでは足りない。
佐藤がくだらないことで緊張する顔も、真っ直ぐにこちらを見る目も、もっと見ていたい。
その気持ちを認めれば、怖さが消えるわけではない。
むしろ、失いたくないものが増える。
それでも、今は逃げたくなかった。
『佐藤くん』
「はい」
『手、出して』
「手?」
『早く』
佐藤は戸惑いながら、右手を差し出した。
美園はその手へ、自分の手を重ねる。
佐藤の身体が固まった。
『嫌?』
「嫌なわけないでしょう」
『だったら、握って』
佐藤は美園の手を握った。
強くはない。
美園がいつでも離せるように、確かめるような力だった。
『もっと普通に握っていいよ』
「本当に?」
『何度聞くの?』
「美園さんが、急にいなくなりそうなので」
その言葉に、美園の胸が痛んだ。
『今日は、いなくならない』
「今日だけですか」
佐藤が、美園を見る。
花火の音が響く。
美園は、すぐには答えられなかった。
『それは』
一度言葉を切り、繋いだ手に力を込める。
『このあと、佐藤くんの話を聞いてから答える』
「分かりました」
佐藤も、美園の手を握り返した。
やがて花火は、終盤へ入った。
間を置かずに光が打ち上がり、夜空を埋め尽くしていく。
赤。
青。
緑。
紫。
金。
無数の光が重なり、空から降り注ぐ。
陽菜は中井の肩へ頭を預けたまま、その光を見た。
凛と青柳は、次に会う約束を胸に並んでいた。
柚希と零は、最後まで手を離さなかった。
樹里と神谷は、今日の先にある次を約束した。
美園と佐藤は、これから交わす言葉を待ちながら手を繋いでいた。
最後の大きな花火が、夜空に開く。
遅れて、腹の底へ響く音が届いた。
光が消える。
真っ暗になった空へ、煙だけが残った。
数秒の静寂のあと、会場中から大きな拍手が起こる。
花火は終わった。
人々が帰路につき始め、止まっていた時間が再び動き出す。
美園は繋いだ手を離さないまま、佐藤を見る。
『少し歩こうか』
「はい」
『人の少ないところで、話を聞く』
佐藤は緊張した表情で頷いた。
2人は帰っていく人々とは違う方向へ歩き始める。
花火の消えた夜空の下。
今度は、誰の声にも遮られない場所へ向かって。




