111話「怖くても」
花火を見終えた人々が、一斉に帰路へつき始めていた。
駅へ向かう道には長い人の列ができ、先ほどまで静かだった河川敷にも話し声が戻っている。
美園と佐藤は、その流れとは反対の方向へ歩いていた。
繋いだ手は、まだ離れていない。
佐藤の手には力が入っている。
美園が逃げないように掴んでいるのか。
それとも、佐藤自身が緊張に耐えるためなのか。
美園には分からなかった。
『佐藤くん』
「はい」
『手、痛い』
佐藤が慌てて力を緩める。
「すみません」
『離せとは言ってないよ』
「……はい」
佐藤は今度こそ、美園の手を優しく握った。
少し歩くと、人の姿がまばらになっていく。
河川敷から離れた遊歩道。
等間隔に立つ街灯が、足元だけを淡く照らしている。
遠くから聞こえていた祭り囃子も、もうほとんど届かない。
美園は道の脇に置かれたベンチを見つけた。
『ここでいい?』
「はい」
2人は並んで腰を下ろした。
座ったことで、繋いでいた手が自然に離れる。
美園は膝の上で自分の指を組んだ。
急に手元が心細く感じる。
佐藤は何も話さない。
美園も、すぐには急かさなかった。
花火の煙が残る夜空を見上げる。
『終わっちゃったね』
「はい」
『綺麗だった』
「綺麗でした」
『楽しかった?』
「楽しかったです」
『それ、さっきも聞いたね』
「何度聞かれても同じです」
『そう』
会話が途切れる。
佐藤の横顔は固い。
何度も息を整えている。
その姿を見ているうちに、美園の方が耐えられなくなった。
『ねえ』
「はい」
『そんなに緊張されると、私まで怖くなるんだけど』
「すみません」
『謝ってばかりだね』
「思っていたより、うまく話せなくて」
『昨日から考えてたんでしょ?』
「考えました」
『じゃあ、そのまま言えばいいじゃない』
「考えた言葉が、今は全部違う気がしています」
佐藤は苦笑した。
「もっと、きちんと伝えられると思っていました」
『きちんとしてなくてもいいよ』
美園は佐藤を見る。
『佐藤くんの言葉なら』
佐藤も顔を上げた。
しばらく、美園の目を見つめる。
やがて、膝の上で強く握っていた拳を開いた。
「美園さん」
『うん』
「好きです」
飾りのない、短い言葉だった。
「僕と、付き合ってください」
分かっていた。
何を言われるのかも。
自分が、何と答えたいのかも。
それでも実際に言葉を受け取った瞬間、美園の胸は苦しいほど強く鳴った。
『……いつから?』
「分かりません」
『そこは考えてないの?』
「最初は、綺麗な人だと思いました」
『それだけ?』
「話しやすくて、何でも知っていて、大人で、余裕がある人だと思いました」
『実際は違った?』
「違いました」
佐藤の返事は早かった。
『即答しないでよ』
「余裕があるように見せるのが上手なだけでした」
美園は何も言わず、佐藤を見る。
「人のことはよく見ているのに、自分のことになると急に分からなくなる。誰かが悩んでいれば話を聞くのに、自分は何も話さない。平気な顔をして、勝手に1人で答えを出そうとする」
『悪いところばかりだね』
「そういうところも含めて、気づいたら目で追っていました」
佐藤は、美園から視線を逸らさなかった。
「仕事中も、美園さんのことを考えるようになっていました。Roseへ行く理由を探して、行けば帰りたくなくなった」
『仕事中は仕事して』
「しています」
『神谷さんに注意されてたでしょ』
「どうして知っているんですか」
『陽菜からLINEが来た』
「櫻井さん……」
佐藤が額を押さえる。
美園は小さく笑った。
緊張で固まっていた空気が、少しだけ緩む。
「うまく説明できません」
佐藤は改めて、美園へ向き直った。
「好きになった理由を、1つにはできないんです」
『うん』
「ただ、美園さんといる時間を、今日だけで終わらせたくありません」
佐藤の声が、静かな遊歩道に響く。
「また会いたいです。次も、その次も、僕の隣にいてほしいです」
美園は膝の上で組んだ手へ視線を落とした。
『私、佐藤くんより年上だよ』
「知っています」
『店もある。会社員みたいに、休みも時間も合わない』
「それも知っています」
『佐藤くんが思ってるような女じゃないよ』
「僕がどんな人だと思っているか、美園さんには分からないでしょう」
責めるような言葉ではなかった。
ただ、佐藤は困ったように笑っている。
「僕も、美園さんの全部を知っているとは思っていません」
『言ってないこともある』
「はい」
『簡単には話せないこと』
「今、話してほしいとは言いません」
佐藤の声は変わらない。
受け入れるとも、何があっても変わらないとも言わなかった。
「知らないことまで、分かったふりはできません。何を聞いても絶対に何も変わらないと、今ここで約束するのも無責任だと思います」
美園の指が、わずかに動く。
「でも、まだ知らないことがあるというだけで、美園さんから離れたいとは思いません」
『いつか、気持ちが変わるかもしれないよ』
「未来の僕がどう思うかは、今の僕にも分かりません」
佐藤は正直に答えた。
「美園さんに、絶対に後悔させないとも言えません。失敗することも、傷つけることもあると思います」
『告白でそんなこと言う人、初めて見た』
「嘘を言いたくないので」
佐藤は一度息を吸った。
「今、分かっているのは、美園さんが好きだということだけです」
美園は顔を上げる。
「それでは、足りませんか」
強い言葉ではなかった。
佐藤は美園へ答えを迫っているのではない。
自分に差し出せるものを、ただ正直に見せている。
美園の胸に残っていた恐怖は、消えていなかった。
いつか佐藤の気持ちが変わるかもしれない。
自分の秘密を知り、離れていくかもしれない。
今までとは違う生活を望み始めるかもしれない。
そのすべてが怖い。
だが、佐藤は永遠を約束しなかった。
美園が欲しがっている綺麗な言葉を、安易には与えなかった。
分からないことを分からないまま、それでも今は一緒にいたいと言っている。
『足りないよ』
美園が言う。
佐藤の表情が、わずかに強張った。
『そんな真面目な顔で、現実的なことばかり言われても嬉しくない』
「すみません」
『そこは、ずっと好きでいるくらい言えばいいのに』
「言っていいんですか」
『言われても信じないけど』
「難しいですね」
『女は面倒なの』
「美園さんが、ではなく?」
『今、断られたい?』
「嫌です」
佐藤はすぐに答えた。
その必死な顔を見て、美園の口元が緩む。
『でも、今の佐藤くんの言葉は信じられる』
美園は、ゆっくりと手を伸ばした。
膝の上に置かれていた佐藤の手へ、自分の手を重ねる。
『私も、佐藤くんが好き』
佐藤が息を止めた。
『自分からキスするくらいには、ずっと前から気になってた』
「では」
『怖いよ』
美園は、佐藤の言葉を遮った。
『今も怖い。付き合ったら、もっと欲しくなる。ずっと一緒にいたいって思うかもしれない』
重ねた手が、わずかに震えている。
『それで、いつか駄目になったら。今よりずっと苦しくなる』
「はい」
『本当は、始めない方が楽』
「……はい」
『それでも』
美園は佐藤の目を見る。
逃げずに、正面から。
『佐藤くんと一緒にいたい』
佐藤の目が、大きく開かれる。
『だから、こんな私でよければ――』
「美園さんがいいです」
今度は佐藤が、美園の言葉を遮った。
「美園さんでなければ、意味がありません」
『最後まで言わせてよ』
「すみません」
『また謝った』
「今のは、本当にすみません」
『もういいよ』
美園は笑った。
その目には、わずかに涙が滲んでいる。
泣くつもりはなかった。
悲しいわけでもない。
ただ、自分を守るために閉じていたものが、少しだけ緩んだ。
『お願いします』
美園は改めて言った。
『私と、付き合ってください』
「はい」
佐藤の声が震える。
「お願いします」
しばらく、2人は見つめ合っていた。
付き合うと決まった。
それなのに、何をすればいいのか分からない。
先に動いたのは佐藤だった。
「美園さん」
『何?』
「抱きしめてもいいですか」
『そこは聞くんだ』
「勝手にはできません」
『キスしたとき、私は聞かなかったけど』
「あれは驚きました」
『嫌だった?』
「嬉しかったです」
『じゃあ、お互い様』
美園は座ったまま、わずかに両腕を広げた。
『おいで』
「僕が行くんですか」
『早く』
佐藤は美園の身体へ腕を回した。
壊れやすいものへ触れるような、遠慮のある抱き方だった。
『もっと普通でいいよ』
「普通が分かりません」
『こう』
美園も佐藤の背中へ腕を回し、自分から身体を寄せた。
その瞬間、佐藤の腕へ力が入る。
美園は目を閉じた。
誰かの腕の中にいる。
逃げるためでも、寂しさを埋めるためでもない。
好きな人に、自分の意思で抱かれている。
『佐藤くん』
「はい」
『苦しい』
佐藤が慌てて腕を緩めようとする。
『嘘』
「美園さん」
『仕返し』
「何のですか」
『私を待たせた分』
「待たせたのは、美園さんでしょう」
『付き合った初日に言い返すんだ』
「これくらいは言わせてください」
佐藤の声は、先ほどまでよりも柔らかくなっていた。
美園も腕の中で笑う。
やがて身体を離すと、佐藤が美園の目を見る。
「もう1つ、聞いてもいいですか」
『何?』
「キスしてもいいですか」
『それも聞くの?』
「今度は、僕からしたいので」
美園は佐藤を見つめる。
緊張している。
告白を終えたはずなのに、先ほどよりも顔が固い。
『嫌なら、手を握らないよ』
「それは、いいという意味ですか」
『佐藤くん、本当に真面目だね』
美園は目を閉じた。
『これで分かって』
佐藤が、ゆっくりと顔を近づける。
唇が重なる。
以前、美園から奪うようにしたキスとは違う。
触れるだけの、短いキスだった。
離れたあとも、2人の距離は近いままだった。
『短い』
「初めてなので」
『私とは2回目』
「僕からは初めてです」
『じゃあ、もう1回』
美園は佐藤の服を掴み、今度は自分から距離を縮めた。
2度目のキスは、先ほどより少しだけ長かった。
唇が離れる。
佐藤の顔は赤くなっていた。
『佐藤くん』
「はい」
『今、ものすごく嬉しそう』
「嬉しいので」
『隠さないんだ』
「美園さんも、笑っています」
指摘され、美園は自分の口元へ触れた。
意識して作った笑顔ではない。
客を安心させるためのものでも、弱さを隠すためのものでもない。
『帰ろっか』
「Roseまで送ります」
『うん』
2人はベンチから立ち上がった。
佐藤が手を差し出す。
美園はその手を見たあと、迷わず自分の手を重ねた。
帰り道。
2人は行きよりも近い距離で歩いた。
何か特別な話をするわけではない。
次の休みはいつか。
今度はどこへ行くか。
Roseの定休日に合わせられるか。
そんな、これからの話をした。
店の前へ着くと、美園が鍵を取り出す。
『寄っていく?』
佐藤の動きが止まった。
『何、その顔』
「いえ」
『変なこと考えた?』
「少しだけ」
『正直だね』
「美園さんが聞いたんでしょう」
美園は笑いながら、店の扉を開けた。
『1杯くらいなら作るよ』
「今日は帰ります」
『私に誘われて断るの?』
「入ったら、帰りたくなくなるので」
佐藤の言葉に、美園が目を細める。
「今日は、ここまでを大事にしたいです」
『……そう』
「嫌でしたか」
『少しだけ』
「すみません」
『でも、それ以上に嬉しい』
美園は扉の前に立ち、佐藤を見つめた。
『じゃあ、ちゃんと家に着いたらLINEして』
「はい」
『明日からも、連絡していい?』
「毎日してください」
『毎日は面倒かも』
「では、僕からします」
『それも面倒かもしれない』
「どうすればいいんですか」
『冗談』
美園は声を上げて笑った。
『おやすみ、佐藤くん』
「おやすみなさい、美園さん」
佐藤が歩き出す。
数歩進んだところで、もう一度振り返った。
美園はまだ、店の前に立っている。
「美園さん」
『何?』
「好きです」
『さっき聞いた』
「もう一度言いたくなったので」
美園の胸が、また強く鳴った。
『私も好きだよ』
今度は、迷わずに言えた。
佐藤は嬉しそうに笑い、帰っていく。
その背中が見えなくなるまで、美園は店の前に立っていた。
未来への怖さは消えていない。
話していないことも、まだ残っている。
それでも今夜、美園は終わる前に逃げることをやめた。
失うかもしれない未来より、佐藤と始めたい今を選んだ。
花火はもう消えている。
だが、美園の胸には、あの夜空よりも温かな光が残っていた。




