112話「おめでとう、美園」
花火大会の翌朝。
美園が目を覚ますと、枕元のスマートフォンにLINEが届いていた。
送信者の名前は、佐藤。
【おはようございます】
【昨日のことが夢ではないか、起きてから少し不安になりました】
美園はベッドの上で、しばらくその文章を見つめた。
昨日までと同じ名前。
同じLINEの画面。
それなのに、佐藤との間にあるものは、もう昨日までとは違っている。
美園は返信を打った。
【夢だったら、もう一度告白してくれる?】
送ってから、少し意地悪だったかもしれないと思う。
だが、佐藤の返事はすぐに届いた。
【何度でもします】
【美園さんが信じてくれるまで言います】
美園の口元が緩む。
【じゃあ、夢じゃないことにする】
【おはよう、佐藤くん】
返信を送ると、美園はスマートフォンを胸元へ置いた。
付き合った。
その事実を、改めて心の中で繰り返す。
喜びと同じ場所に、まだ怖さが残っている。
それでも今朝は、怖さよりも先に佐藤の顔を思い浮かべた。
美園はしばらく天井を見つめたあと、スマートフォンを手に取る。
陽菜と樹里を含めた3人のLINEを開いた。
【今日、2人ともRoseに来られる?】
最初に既読をつけたのは陽菜だった。
【行けるよ】
【何かあった?】
少し遅れて、樹里からも返事が届く。
【行けます】
【夕方でよければ伺います】
美園は時間だけを送り、詳しい理由は書かなかった。
書けば、陽菜はLINEだけですべてを聞き出そうとする。
樹里は無理に聞かないだろう。
だが、あの短い文章だけで、何かがあったことには気づいているはずだった。
夕方。
Roseの開店前に、陽菜が店へやってきた。
『美園さん』
『いらっしゃい』
美園がカウンターの中から顔を上げる。
陽菜は店へ入るなり、その顔をじっと見つめた。
『何?』
『付き合った?』
あまりにも早い質問だった。
美園の手が止まる。
『まだ何も言ってないけど』
『顔が違う』
『そんなに?』
『うん。昨日より、ちょっとだけ気持ち悪い』
『帰っていいよ』
『嘘。幸せそう』
陽菜は笑いながら、いつもの席へ腰を下ろした。
『それで?』
『総長が来てから話す』
『今聞きたい』
『2回説明するの面倒だから』
『じゃあ、キスしたかだけ教えて』
『教えない』
『したんだ』
『何でそうなるの?』
『してなかったら、してないって言うでしょ』
美園は答えず、開店準備を続ける。
その耳がわずかに赤くなっているのを、陽菜は見逃さなかった。
『何回?』
『陽菜』
『1回? 2回?』
『黙って待ってて』
『そのあとRoseに入れた?』
『総長が来たら、最初に陽菜を帰してもらう』
『入れたんだ』
『入れてない』
美園が思わず答える。
陽菜の笑みがさらに深くなった。
『そこは教えてくれるんだ』
『……本当にうるさい』
入口の扉が開く。
樹里が店内へ入ってきた。
『何を騒いでいる』
『総長、聞いてください。美園さん、佐藤くんと付き合いました』
『私から言いたかったんだけど』
美園が呆れた声を出す。
樹里は一度、美園を見る。
驚いた様子はない。
LINEが届いた時点で、ある程度察していたのかもしれない。
『そうか』
樹里は短く答え、美園の前まで歩いてきた。
『おめでとう、美園』
たった一言だった。
だが、その声はどこまでも柔らかい。
美園の胸に、昨日とは違う熱が広がった。
『……ありがとう、総長』
声が、わずかに震えた。
陽菜が席を立ち、美園の隣へ回り込む。
『美園さん』
『何?』
『おめでとう』
陽菜は、美園の身体へ抱きついた。
『本当に、よかった』
最初は笑っていた陽菜の声が、途中から震え始める。
美園は驚きながらも、その背中へ腕を回した。
『陽菜が泣くことじゃないでしょ』
『だって、美園さん、ずっと逃げてたから』
『そこまで長く逃げてないよ』
『佐藤くんからじゃない』
陽菜は美園の肩へ顔を埋めたまま言う。
『幸せになることから』
美園の表情が止まる。
『陽菜』
『美園さんは、あたしたちのことばっかり考えてた』
Rose girlsだった頃も。
樹里が消えたあとの4年間も。
そして今も。
美園はいつも、誰かの帰る場所を守ってきた。
自分が何を失ったのかは、ほとんど口にせずに。
『あたしも総長も、美園さんのこと大好きだよ』
陽菜はゆっくりと身体を離した。
目元には、うっすらと涙が滲んでいる。
『でも、あたしたちがいても、あたしたちじゃ届かない場所もあるじゃん』
美園は何も言えなかった。
『だから、佐藤くんがそこにいてくれるなら、嬉しい』
『陽菜……』
『まあ、美園さんを泣かせたら許さないけど』
『私が泣かせる可能性は考えないの?』
『ある』
『あるんだ』
『美園さん、面倒だから』
『昨日も佐藤くんに同じようなこと言われた』
『やっぱり分かってるじゃん』
陽菜が笑う。
美園も泣きそうな顔のまま笑った。
樹里は2人のそばに立ち、黙ってその様子を見ていた。
『総長』
美園が呼ぶ。
『何だ』
『総長は、何かないの?』
『何かとは』
『陽菜ばかり喋ってる』
『いつものことだろ』
『そうだけど』
樹里は、わずかに考える。
そしてカウンターの上にあったティッシュの箱を取り、美園の前へ置いた。
『泣いてないけど』
『もうすぐ泣くだろ』
『泣かないよ』
『そうか』
樹里は、それ以上押しつけなかった。
美園はティッシュの箱を見つめる。
言葉は少ない。
けれど、樹里が自分のことを見ているのは分かっている。
『総長』
『何だ』
『私、まだ佐藤くんに話してないことがある』
陽菜の表情から笑みが消える。
何を指しているのか、2人には分かっていた。
『昨日も、全部は話せないって言った』
『佐藤さんは何と?』
『今すぐ話してほしいとは言わなかった。知らないことまで分かったふりはできないって』
美園は自分の指を見つめる。
『何を聞いても変わらないなんて、無責任な約束はできないって言われた』
『佐藤くんらしいね』
陽菜が静かに言う。
『それで?』
樹里が尋ねる。
『それでも、知らないことがあるだけで離れたくはないって』
『そうか』
『いつかは、話さないといけないと思ってる』
美園の声が小さくなる。
『でも、そのときに佐藤くんがどう思うのか、まだ怖い』
樹里は、美園を見た。
『話す時期は、美園が決めればいい』
『うん』
『ただし』
樹里は一度、言葉を切る。
『佐藤さんの答えまで、お前が先に決めるな』
美園の目が揺れる。
それは、凛にも言われたことだった。
佐藤のため。
傷つけないため。
美園はそう言いながら、本当は自分が傷つくことから逃げようとしていた。
『……うん』
美園は小さく頷く。
『今度は、ちゃんと聞く』
樹里はそれ以上何も言わなかった。
美園なら、もう分かっている。
同じ言葉を重ねる必要はない。
陽菜が、カウンターの中へ視線を向ける。
『何か飲もうよ』
『まだ開店前だよ』
『お祝いでしょ』
『お酒は駄目。陽菜は昨日も飲んだでしょ』
『少しくらい平気』
『そのあと中井くんと何回したの?』
美園が突然尋ねる。
陽菜は一瞬も迷わなかった。
『2回』
『答えるんだ』
美園が呆れ、樹里が目を閉じる。
『陽菜』
『何、総長』
『私は聞きたくなかった』
『美園さんが聞いたんじゃん』
『聞いた私が悪かった』
美園は冷蔵庫から炭酸水を3本取り出した。
酒ではない。
それでも、今は充分だった。
3人はカウンターへ並ぶ。
美園が、それぞれのグラスへ炭酸水を注いだ。
細かな泡が、音を立てながら上がっていく。
『美園さんと佐藤くんに』
陽菜がグラスを持ち上げる。
『まだ結婚したわけじゃないよ』
『いいじゃん。今日くらい』
美園もグラスを持つ。
樹里は2人を見たあと、自分のグラスを上げた。
『美園の幸せに』
美園の目に、今度こそ涙が滲んだ。
『総長、そういうのずるい』
『何がだ』
『泣かせるつもりで言ってる?』
『そんなつもりはない』
『本当に?』
『早くしないと、炭酸が抜ける』
樹里は美園からわずかに目を逸らした。
その横顔を見て、美園は樹里も少しだけ照れていることに気づく。
『うん』
美園は笑いながら、目元を指で拭った。
『ありがとう。2人とも』
3つのグラスが、軽く触れ合う。
澄んだ音が、開店前のRoseに響いた。
陽菜と樹里が帰ったあと、美園は1人で開店準備を続けた。
グラスを並べる。
酒の残量を確かめる。
カウンターを、もう一度丁寧に拭く。
やっていることは、いつもと変わらない。
それでも、何度も入口へ視線が向いた。
開店時刻を少し過ぎた頃、扉が開く。
「こんばんは」
佐藤だった。
昨日と同じ顔。
いつものスーツ姿。
何度もRoseへ来ているはずなのに、どこか落ち着かない様子で立っている。
『いらっしゃい』
「はい」
佐藤はいつもの席へ向かおうとして、一度足を止めた。
「今までと同じ場所でいいですか」
『何で?』
「付き合ったので、何か変わるのかと思って」
『座る席は変わらないよ』
「そうですよね」
佐藤は照れたように笑い、いつもの席へ腰を下ろした。
美園はいつものグラスを取り出す。
いつもの酒を注ぎ、佐藤の前へ置いた。
『はい』
「ありがとうございます」
何も変わっていない。
だが、グラスを渡すときに触れた指を、2人とも少しだけ意識した。
「美園さん」
『何?』
「今日は、日高さんと櫻井さんに話したんですか」
『話したよ』
「何と?」
『おめでとうって』
「それだけですか」
『陽菜には泣かれた』
「櫻井さんが?」
『うん。総長にも祝ってもらった』
佐藤の表情が、少しだけ安堵したものへ変わる。
「よかったです」
『緊張してた?』
「少し」
『許可をもらわないと付き合えないわけじゃないよ』
「分かっています。でも、美園さんにとって大切な2人でしょう」
『うん』
「その2人にも、喜んでもらいたかったので」
美園は佐藤の前に立ち、その顔を見つめた。
昨日、自分が選んだ人。
今日も会いたいと思った人。
『佐藤くん』
「はい」
『おかえり』
佐藤が目を見開く。
美園は、自分でもなぜその言葉が出たのか分からなかった。
Roseは、美園が守ってきた場所だ。
誰かを迎え、酒を出し、最後には見送る場所。
その店へ来た佐藤に、初めて帰ってきた人へ向ける言葉を使った。
「……ただいま」
佐藤は、ゆっくりと答えた。
美園は笑い、カウンターの中へ戻る。
幸せになることは、怖くなくなることではない。
帰ってくる人を待つことも。
帰ってこなくなる日を想像することも。
きっと、これから何度も怖くなる。
それでも美園は、もう始まる前に扉を閉ざさない。
今夜もRoseの扉は開いている。
佐藤が座る、いつもの席のために。




