113話「花火のあと」
花火大会の翌朝。
陽菜が目を覚ますと、隣に中井の姿はなかった。
枕元へ手を伸ばし、時間を確認する。
まだ、午前8時を少し過ぎたところだった。
『中井くん?』
身体を起こす。
部屋の外から、何かを動かす小さな音が聞こえた。
陽菜は中井から借りたシャツを羽織り、寝室を出る。
中井は居間の床に座り、昨夜の浴衣を畳んでいた。
『何してるの?』
「起こしましたか」
『起こしてないけど』
陽菜は中井の隣へ座る。
濃紺の浴衣は丁寧に皺を伸ばされ、帯も別にまとめられていた。
『そんなことできるんだ』
「畳み方は調べました」
『朝から?』
「美園さんに着つけてもらった浴衣でしょう。適当に扱ったら怒られそうなので」
『怒ると思う』
「やっぱり」
『でも、脱がすときは結構大胆だったよね』
中井の手が止まる。
「朝から言いますか」
『本当のことじゃん』
「帯をどう外せばいいか分からなかっただけです」
『最初は触るのも怖がってたくせに』
「陽菜さんが急かしたからでしょう」
『待てなかったから』
「そういうことを恥ずかしがらずに言いますよね」
『今さら中井くんに隠しても仕方ないじゃん』
陽菜は中井の肩へ頭を預けた。
『昨日、楽しかったね』
「はい」
『花火も綺麗だった』
「はい」
『浴衣のあたしも?』
「綺麗でした」
『普段のあたしは?』
「綺麗です」
『どっちが好き?』
「どちらも陽菜さんでしょう」
中井は浴衣を畳む手を止め、陽菜を見る。
「比べる必要がありません」
『正解』
「試したんですか」
『聞きたくなっただけ』
陽菜は満足そうに笑う。
『来年も着ようかな』
「楽しみにしています」
『来年は、中井くんが選んでよ』
「僕が?」
『うん。中井くんが、あたしに着てほしいやつ』
「責任が重いですね」
『選んだ浴衣を着てるあたしを、堂々と見られるよ』
「そう言われると、悪くない気がします」
『でしょ?』
中井が笑い、畳み終えた浴衣を陽菜へ渡す。
陽菜は受け取ると、それを大切そうに膝へ置いた。
昨夜の花火は終わった。
それでも2人の間には、もう来年の約束が残っている。
凛の元には、朝早く青柳からLINEが届いていた。
【おはようございます】
【昨日はありがとうございました】
その下には、1枚の写真が添えられている。
凛が射的で取った風鈴が、窓辺へ飾られていた。
朝の光を受け、淡い青色の硝子が輝いている。
【風が吹くたびに、綺麗な音がします】
【大切にします】
凛は写真を拡大する。
射的の景品だ。
もっと品質のいい風鈴なら、店へ行けばいくらでも買える。
それでも青柳は、凛が渡したものだから大切にすると言った。
【こちらこそ、昨日はありがとうございました】
【飾っていただけて嬉しいです】
返信を送る。
しばらくして、青柳から新しいメッセージが届いた。
【昨日話した、次に会う約束ですが】
【迷惑でなければ、今度は僕からお誘いしてもいいでしょうか】
凛の指が止まる。
花火の夜だけで終わらせない。
確かに、2人でそう話した。
それでも実際に誘われると、胸の奥が落ち着かなくなる。
予定を確認する前に、行きたいと思っている自分がいた。
【はい】
それだけでは素っ気ない気がする。
凛は一度消し、書き直した。
【はい。お誘いいただけたら嬉しいです】
送信する。
以前なら、最後の一文は消していたかもしれない。
期待していると思われたくない。
好意を見透かされたくない。
そんな理由を並べ、自分の気持ちまで隠していた。
だが今は、会いたいと思っている。
それを伝えることは、恥ずかしくても間違いではないと思えた。
すぐに青柳から返事が届く。
【ありがとうございます】
【行きたい場所を考えて、改めて連絡します】
凛は画面を見つめ、口元を緩めた。
次は、青柳が選ぶ場所。
その風景の中に、自分がいる。
想像するだけで、昨日とは違う小さな楽しみが生まれていた。
柚希は、自分の右手を見つめていた。
もう零の手はない。
それでも、指先にはまだ温度が残っているような気がした。
帰宅後、零とは互いに無事に着いたことをLINEで確認している。
最後のやり取りは、零から届いた言葉で終わっていた。
【今日はありがとうございました】
【浴衣、本当に似合ってたっす】
待ち合わせのときだけではない。
花火を見ている間にも、零は可愛いと言ってくれた。
柚希は何度もその言葉を読み返した。
嬉しい。
だが、どうして嬉しいのかを考えると、胸の中が急に曖昧になる。
柚希は返信を打った。
【こちらこそありがとう】
【零ちゃんと一緒に行けて楽しかった】
そこまで書いて、手を止める。
繋いだ手のことが、頭から離れない。
【人混みで手を繋いでくれてありがとう】
文章を加える。
重いだろうか。
零は、はぐれないために手を繋いだだけだ。
特別な意味を持たせれば、困らせてしまうかもしれない。
柚希は最後の一文を消そうとした。
だが、指を止める。
嬉しかったことまで、なかったことにする必要はない。
そのまま送信した。
返事は、少し時間を置いて届いた。
【自分も楽しかったっす】
【手は、自分が繋ぎたかっただけなんで、気にしないでください】
柚希の胸が鳴る。
はぐれないためだけではなかった。
零も、自分と手を繋ぎたいと思っていた。
その意味を、今すぐ確かめる勇気はない。
【そっか】
【でも、嬉しかった】
短く返す。
それ以上は書かなかった。
零からも、すぐには返事が来ない。
やがて届いたのは、たった一言だった。
【自分もっす】
柚希はスマートフォンを胸元へ抱いた。
好きだと決めたわけではない。
それでも、零が同じ気持ちだったことを知り、安心している自分がいた。
一方、零は自室でLINEの画面を見つめていた。
【でも、嬉しかった】
その言葉へ、何度も別の返事を打っては消していた。
また手を繋ぎたい。
花火がなくても会いたい。
次は自分から誘いたい。
どれも送るには早い気がして、結局【自分もっす】としか返せなかった。
(何してるんだ、自分)
零はベッドへ仰向けに倒れる。
片腕で目元を覆っても、柚希の浴衣姿が浮かんでくる。
初めて感じるものではない。
だが、それが何なのかを言葉にすることから、零もまだ逃げていた。
翌日の月曜日。
島川不動産の営業部には、いつもの慌ただしさが戻っていた。
花火大会へ行った者も、行かなかった者も、朝からそれぞれの仕事に取りかかっている。
その中で、佐藤だけは分かりやすく落ち着きがなかった。
何度も時計を見る。
スマートフォンへ視線を落とす。
口元が緩みそうになるたび、慌てて表情を戻している。
「佐藤さん」
中井が声をかける。
「何だ」
「昨日、何かいいことありました?」
「どうしてそう思う」
「朝から顔が違います」
「普通だ」
「普通ではないと思います」
『あたしも普通じゃないと思う』
陽菜まで会話へ加わる。
佐藤が陽菜を見る。
「櫻井さんは、もう知っているでしょう」
『何のこと?』
「とぼけないでください」
『佐藤くんの口から聞いてないけど』
「ここで言うんですか」
『中井くんも気にしてるよ』
「気にはなっています」
中井が正直に頷く。
佐藤は周囲を見る。
柚希や凛も、それとなくこちらへ耳を向けていた。
樹里は書類へ視線を落としたまま、会話には入らない。
神谷だけは、佐藤をまっすぐに見ていた。
「仕事に関係のない話なら、休憩時間にしろ」
「すみません」
佐藤が自分の席へ戻ろうとする。
「ただし」
神谷が呼び止めた。
「その顔の理由くらいなら、今聞いてもいい」
「神谷さんまで何なんですか」
「昨日から仕事に影響が出ていた。結果を確認する責任がある」
「そんな責任はありません」
「早く言え」
逃げられないと悟り、佐藤は小さく息を吐いた。
「中村さんと、付き合うことになりました」
一瞬の静寂。
最初に声を上げたのは中井だった。
「本当ですか」
「本当だ」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
中井は自分のことのように嬉しそうに笑った。
陽菜も満足そうに頷く。
『よく頑張ったね』
「どうして櫻井さんが上からなんですか」
『美園さん、面倒だったでしょ』
「本人に言いますよ」
『本人にも言ってるから平気』
凛は席を立ち、佐藤の近くまで来る。
「佐藤さん、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「美園さんを、よろしくお願いします」
その言葉には、凛自身の思いが込められていた。
美園へ逃げていると伝えたのは凛だ。
だが、最後に佐藤と向き合うと決めたのは美園自身だった。
「はい」
佐藤は真剣な顔で頷く。
「大切にします」
少し離れたところから、樹里も声をかけた。
『佐藤さん』
「はい」
『おめでとうございます』
「ありがとうございます、日高さん」
それだけだった。
樹里は、余計なことを言わない。
美園を任せるとも、泣かせるなとも言わなかった。
2人の関係は、2人で作っていくものだ。
ただ、その選択を祝う。
樹里の短い言葉には、それで充分な温度があった。
最後に神谷が、佐藤を見る。
「そうか」
「はい」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「だが、仕事中に顔を緩めるな」
「緩めていません」
「緩んでる」
「神谷さんも、花火は楽しかったんですか」
佐藤が反撃するように尋ねる。
今度は、神谷の動きが止まった。
「今はお前の話だ」
「日高さんと一緒だったんですよね」
「誰から聞いた」
『あたしです』
陽菜が手を挙げる。
神谷は深く息を吐き、樹里は静かに目を閉じた。
『櫻井さん』
『だって、隠すことじゃないでしょ』
『言いふらすことでもありません』
『で、次の約束もしたんですか?』
陽菜に尋ねられ、樹里は返事をしなかった。
その沈黙だけで、陽菜には充分だった。
『したんだ』
『仕事に戻ってください』
『はーい』
陽菜は楽しそうに自分の席へ戻る。
神谷も何事もなかったように書類へ視線を戻したが、耳がわずかに赤くなっていた。
佐藤は、それ以上追及しなかった。
昼休み。
凛のスマートフォンには、青柳から次の誘いが届いた。
柚希のLINEには、零から何気ない昼食の写真が届く。
中井は、来年の浴衣を今から調べようとする陽菜を止めていた。
佐藤は、美園から届いた短いメッセージを見て笑っている。
そして樹里は、神谷を誘う場所を探していた。
花火は、もう終わった。
夜空に咲いた光も、煙も残っていない。
それでも、あの夜に生まれたものは消えなかった。
恋人になった者。
まだ名前のない気持ちを抱えた者。
次に会う約束をした者。
それぞれが、花火のあとの日常へ小さな変化を持ち帰っていた。
穏やかな時間は、当たり前のように続いていく。
このときは、誰もがそう思っていた。




