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114話「招かれざる客」

花火大会から数日が過ぎた。


 Roseには、いつもの夜が戻っていた。


 カウンターには常連客が座り、静かな音楽とグラスの触れ合う音が流れている。


 美園は客の好みに合わせて酒を作り、凛は空いたグラスを下げながら次の注文へ目を配っていた。


「凛ちゃん、こっちの水割りお願い」


「はい」


 常連客に呼ばれ、凛がボトルを手に取る。


 以前は美園に確認していた量も、今では迷わず注げるようになっていた。


「上手くなったねえ」


「ありがとうございます」


「もう美園ちゃんがいなくても店を任せられるんじゃない?」


『それは困るなあ。私の店を取らないでよ』


 美園が笑いながら会話へ入る。


「美園ちゃんも、たまには休んだ方がいいよ。最近は彼氏もできたんだろ?」


 美園の手が止まった。


『誰から聞いたの?』


「この前、嬉しそうな顔で若い男と歩いてたって聞いた」


『狭い街だね』


「否定しないんだ」


『ご想像にお任せします』


 美園は慣れた笑顔で受け流す。


 だが、凛はその頬がわずかに緩んでいることに気づいていた。


 佐藤と付き合い始めてから、美園の働き方が変わったわけではない。


 客への接し方も、店で出す酒も同じだ。


 それでも、ときどきスマートフォンへ視線を落とすようになった。


 LINEが届くと、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。


 本人は隠せていると思っているらしい。


 だが、人の変化をよく見る凛には分かった。


『凛ちゃん』


「何でしょう」


『今、笑った?』


「笑っていません」


『絶対笑った』


「美園さんの気のせいです」


 凛は何事もなかったようにグラスを磨く。


 そのとき、カウンターの内側に置かれた凛のスマートフォンが震えた。


 休憩に入ったところで画面を見る。


 青柳からのLINEだった。


【次の日曜日ですが、水族館はいかがでしょうか】


【人の多い場所が苦手でしたら、別の場所を考えます】


 凛は少し考え、返事を送った。


【水族館で大丈夫です】


【行ってみたいです】


 送信すると、すぐに既読がつく。


 美園が、凛の顔を横から覗き込んだ。


『青柳くん?』


「見ないでください」


『見てないよ。顔を見ただけ』


「美園さんも、佐藤さんからLINEが届くたびに同じ顔をしています」


『私はもう付き合ってるからいいの』


「どういう理屈ですか」


『凛ちゃんも早く付き合えば、隠さなくて済むよ』


「まだ、そういう話ではありません」


『水族館?』


 凛がスマートフォンを伏せる。


「見ていますよね」


『見てないって。少しだけ文字が見えた』


「それを見たと言うんです」


 2人のやり取りを聞き、常連客たちが笑う。


 穏やかな夜だった。


 かつてのことを知らない客たちが酒を飲み、明日の仕事や家族の話をする。


 凛も、その日常の中へ少しずつ馴染んでいる。


 美園にとってRoseは、過去を隠すための場所ではない。


 過去のあとに、自分で築いた場所だった。


 午後11時を過ぎると、客は少しずつ帰り始めた。


 最後の常連客を見送り、凛が入口の札を裏返そうとする。


『凛ちゃん、まだいいよ』


「この時間から、お客さんが来ますか」


『たまにね。あと30分だけ開けておこう』


「分かりました」


 凛は入口の札へ伸ばしていた手を戻した。


 美園はカウンターへ戻り、残っているグラスを片づけ始める。


 店内には、2人だけになった。


 先ほどまでの笑い声が消え、静かな音楽だけが残っている。


 数分後、入口の扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 凛が振り返る。


 男が1人、店内へ入ってきた。


 年齢は、美園と大きくは変わらないように見える。


 落ち着いた服装。


 目立つ傷も、威圧的な格好もしていない。


 それでも、客として入ってきた者とはどこか違っていた。


 男は店内をゆっくりと見回す。


 酒の並ぶ棚。


 磨かれたカウンター。


 壁に飾られた小さな絵。


 そして、カウンターの中に立つ美園。


「随分まともな店を持ったな、中村美園」


 美園の手が止まった。


 グラスを持ったまま、男を見る。


 その顔から、客へ向けていた笑みが消えていた。


『……一ノ宮』


 名前を呼ぶ声は低い。


 凛は美園を見る。


 今までRoseで聞いたことのない声だった。


「覚えてたか」


『忘れるほど昔じゃないよ』


「俺は、忘れられてると思ってた」


『忘れたい相手ではあるけどね』


 一ノ宮は笑い、カウンター席へ座った。


 美園は酒を出そうとしない。


『何しに来たの?』


「店に来たんだから、酒を飲みに決まってるだろ」


『嘘が下手になったね』


「昔から上手くはない」


『なら、用件だけ言って帰って』


 一ノ宮は頬杖をつき、美園の顔を見つめる。


「客への態度じゃないな」


『客ならね』


 美園の返事には、一切の迷いがなかった。


 凛はカウンターの端に立ったまま、2人の会話を聞いている。


 古い知人。


 それだけではない。


 美園は、一ノ宮を警戒している。


 身体の向き。


 声の高さ。


 カウンターへ置いた指の位置。


 先ほどまでとは、すべてが違っていた。


「日高樹里は、ここへ来るのか」


 一ノ宮の口から出た名前に、凛の目が動く。


 美園の表情は変わらない。


『日高さんに、何の用?』


「日高さん、か」


 一ノ宮が鼻で笑う。


「随分、他人行儀な呼び方をするようになったな」


『今はそう呼んでる。それだけだよ』


「俺の前でまで隠す必要はないだろ」


『隠してない』


「今でも、総長って呼んでるんじゃないのか」


 凛の指が止まった。


 総長。


 その言葉が指す人物は、考えるまでもなかった。


 一ノ宮は凛の反応に気づいたようだった。


 視線だけを向ける。


「その子は、何も知らないのか」


『この子は関係ない』


「そうか」


 一ノ宮は再び美園を見る。


「Rose girlsの名前を背負っていた女が、その名前を知らない人間と店に立ってる。面白いな」


 Rose girls。


 凛は、その名前を知っている。


 美園の背中に刻まれていた、黒と赤の薔薇。


 その下にあった文字。


 昔、一緒に走っていた仲間たちの名前だと、美園は話していた。


「Rose girls……」


 凛の口から、小さく声が漏れる。


 一ノ宮が笑う。


「名前は知ってるのか」


『一ノ宮』


 美園の声がさらに低くなる。


『凛ちゃんに話しかけないで』


「別に、取って食おうとしてるわけじゃない」


『いいから、用件を言って』


 一ノ宮は美園を見つめたあと、笑みを消した。


「樹里に会いたい」


『断る』


「お前が決めることじゃない」


『少なくとも、私が居場所を教えることはないよ』


「俺は、あいつに聞きたいだけだ」


『何を?』


「今の生活が、本当にあいつの望んだものなのか」


 美園の目が細くなる。


「会社員になって、昔のことを何も知らない連中に囲まれて、普通の女みたいな顔をしてる」


『それの何が悪いの?』


「悪いとは言ってない」


 一ノ宮は薄く笑う。


「ただ、あいつがそれで終われるとは思えない」


『何が言いたいの』


「昔の樹里は、あんな女じゃなかった」


『昔と今が同じ人間なんていないよ』


「お前は、そう思いたいだけじゃないのか」


 一ノ宮の言葉に、美園の指がわずかに動く。


「あいつは誰かの後ろで、大人しく生きられる女じゃない。誰かに守られて満足できる女でもない」


『知ったようなこと言わないで』


「知ってるさ」


 一ノ宮の目に、歪んだ熱が宿る。


「少なくとも、今あいつの隣にいる連中よりはな」


 美園はカウンターの上へ両手を置いた。


『帰って』


「樹里に伝えろ」


『伝えない』


「俺が来たことだけでいい」


『嫌だと言ったら?』


「また来る」


 一ノ宮は立ち上がった。


 最初から酒を飲むつもりなどなかったのだろう。


 代金も置かず、入口へ向かう。


 扉へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。


「昔の樹里を、一番近くで見ていたのはお前たちだ」


『だから何?』


「今の姿を見て、本当に何も思わないのか」


『思ってるよ』


 美園は一ノ宮をまっすぐに見た。


『今のあの人が、好きだと思ってる』


 一ノ宮の笑みが消えた。


『昔の総長も、今の日高さんも、どちらもあの人だよ』


「綺麗にまとめるようになったな」


『帰れ』


 一ノ宮は答えなかった。


 扉を開け、そのままRoseを出ていく。


 美園は、一ノ宮の姿が見えなくなるまで動かなかった。


 やがて扉へ鍵をかけ、入口の札を裏返す。


 店内の灯りを少しだけ落とした。


「美園さん」


 凛が呼ぶ。


 美園は背を向けたまま、すぐには振り返らなかった。


「先ほどの人は、誰ですか」


『昔の知り合い』


「それだけではありませんよね」


『……うん』


 美園はカウンターへ戻る。


 煙草を1本取り出しかけ、凛がいることに気づいて手を止めた。


「吸っていただいて構いません」


『ごめんね』


 美園は換気扇を回し、煙草へ火をつけた。


 深く煙を吸う。


 それでも、指先の震えは止まらなかった。


「Rose girlsというのは、美園さんの背中にある名前ですよね」


『そうだよ』


「日高先輩が、総長だったんですか」


 美園は答えなかった。


 否定しないことが、何より明確な答えになっていた。


「では、陽菜さんも?」


『凛ちゃん』


 美園は煙を吐き、凛を見る。


『ごめん。今、私1人からは話せない』


「話したくないということですか」


『違うよ』


 美園は首を振った。


『私だけの過去じゃないから』


 スマートフォンを取り、3人のLINEを開く。


『2人を呼ぶ』


「今からですか」


『うん』


「日高先輩も?」


『来てもらう』


 美園は短い文章を送り、スマートフォンをカウンターへ置いた。


 凛は何も言わず、向かいの席へ座る。


 帰ろうとはしなかった。


 しばらくして、店の外に足音が聞こえた。


 扉が開く。


 先に入ってきたのは陽菜だった。


『美園さん、何があったの?』


 その後ろから、樹里も店内へ入る。


 2人は普段着のままだった。


 LINEを受け取り、急いで来たのだろう。


 美園は煙草を灰皿へ押しつけた。


『一ノ宮が来た』


 樹里の足が止まる。


『……一ノ宮が?』


『日高さんを探してる』


 美園が会社で使う呼び方をしたことで、樹里は初めて凛の存在に気づいた。


 カウンター席に座る凛を見る。


 凛も、樹里から目を逸らさなかった。


『遠藤さんも、いらしたんですね』


「はい」


 短い沈黙が落ちる。


「日高先輩」


 凛は静かに尋ねた。


「Rose girlsの総長だったというのは、どういう意味ですか」


 樹里は答えなかった。


 ただ、美園と陽菜を一度ずつ見る。


 隠してきた過去が、今の生活へ触れた。


 もう、何もなかったことにはできなかった。

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