98話「ただいま」
数日後。
始業時刻の十五分前、営業部の扉が開いた。
『おはようございまーす』
聞き慣れた明るい声に、何人もの社員が同時に顔を上げる。
陽菜が立っていた。
頬の腫れはかなり引いている。
切れていた唇にも、もう血は滲んでいない。
それでも目元には薄い痣が残り、化粧だけでは完全に隠しきれていなかった。
肩に掛けた鞄も、普段より少し軽そうに見える。
「陽菜さん!」
最初に席を立ったのは柚希だった。
そのまま駆け寄り、陽菜へ抱きつこうとする。
陽菜は笑顔で両腕を広げた。
『柚希ちゃーん。ただい――痛い痛い痛い!』
柚希の動きが止まる。
「ご、ごめんなさい!」
『まだ脇腹がちょっとね』
「本当にごめんなさい!」
『大丈夫。柚希ちゃんの愛が強すぎただけだから』
「笑い事じゃないですよ」
凛も二人のもとへ歩み寄る。
眼鏡の奥から、陽菜の顔を注意深く見ていた。
「まだ痣が残っていますね」
『化粧で結構隠したんだけどなあ』
「隠しきれていません」
『凛ちゃん、そういうのは見えても言わないのが優しさだよ』
「隠して出社しようとする人には言います」
『厳しい』
「医師から出社の許可は出たんですか」
『出たよ。黒澤部長にも昨日確認してもらった』
「本当ですか」
『みんな、あたしの言うこと疑いすぎじゃない?』
「普段の行いです」
『凛ちゃんまで冷たくなった』
柚希が陽菜の顔を見つめる。
明るく話している。
笑っている。
それでも、傷を目にすると、LINEで話したときより胸が痛んだ。
「誰にやられたんですか」
柚希が小さな声で尋ねる。
陽菜の笑みが僅かに止まる。
『ちょっと、昔の揉め事に巻き込まれたの』
「昔の?」
『うん。でも、もう終わったから』
「本当に?」
『本当』
陽菜は柚希の頭へ手を置いた。
『心配してくれてありがとう』
「心配しました」
『うん』
「もう、こういう怪我はしないでください」
『努力します』
「約束してください」
『それは難しいなあ』
「陽菜さん」
『でも、一人で無茶はしないって約束した』
陽菜は凛と柚希を見る。
『何かあったら、ちゃんと誰かに話す。黙っていなくならない』
以前の陽菜なら、冗談にして終わらせた。
心配をかけたことだけを謝り、何が変わるのかまでは口にしなかった。
今は、できる約束を自分の言葉で伝えている。
「誰と約束したんですか」
柚希が尋ねる。
『日高先輩と、美園さんと、中井くん』
少し離れたところで、中井の手が止まる。
照れたように俯いたが、否定はしなかった。
「では、私たちとも約束してください」
凛が言う。
『凛ちゃんたちとも?』
「心配したのは、その三人だけではありません」
陽菜は目を見開いた。
柚希が大きく頷く。
「私も、すごく心配したんですから」
『……うん』
陽菜の表情から、僅かに笑みが消える。
ふざけずに、二人を見る。
『約束する』
「何をですか」
『黙っていなくならない』
凛は静かに頷いた。
「分かりました」
「今度は絶対ですよ」
『うん』
「破ったら、また怒ります」
『柚希ちゃんの予約、今日だったの?』
「何の話ですか」
『怒る予約。三か月待ちって言ったじゃん』
「もう待てません」
『せっかちだなあ』
陽菜が笑う。
今度は脇腹を押さえなかった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、無理に大きく笑わないことを覚えた。
*
「櫻井さん」
黒澤に呼ばれ、陽菜が姿勢を正す。
『はい』
「ちょっと来い」
『怒られるかな』
「当然です」
凛が答える。
『凛ちゃん、ついてきて』
「嫌です」
『柚希ちゃん』
「頑張ってください」
『薄情者』
陽菜は不満そうな顔をしながら、黒澤の席へ向かった。
『おはようございます、黒澤部長』
「おはよう。顔を見せろ」
『いきなり大胆ですね』
「そういう冗談はいらない」
黒澤は陽菜の顔を見る。
目元の痣。
治りかけた唇。
そして、庇うような立ち方。
「まだ痛むのか」
『少しだけです』
「医者からは」
『無理をしなければ、仕事へ戻っていいと言われました』
「外回りは」
『問題ありません』
「医者がそう言ったのか?」
『……そこまでは聞いてません』
「なら、今日は内勤だけだ」
『でも』
「客先で体調を崩されても困る」
『体調は悪くないです』
「階段の上り下りは」
『できます』
「重い鞄を持って長時間歩くのは」
『たぶん』
「却下だ」
『黒澤部長』
「今日と明日は内勤。問題がなければ、そのあと考える」
『あたしの仕事が』
「森下さんが引き受けてる」
陽菜が振り返る。
彩花は自分の席でパソコンへ向かっていた。
『彩花さんが?』
「不満か」
『いえ。意外だなって』
「本人に言ってこい」
『怒られそう』
「俺に言うな」
陽菜は彩花の席へ向かった。
机の横に立つ。
『彩花さん』
「何」
『あたしの外回り、代わってくれたんだって?』
「部長に言われたから」
黒澤が顔を上げる。
「俺は頼んでないぞ」
彩花の眉が動く。
「……仕事が滞ると迷惑なので、私から申し出ただけです」
『ありがとう』
「礼を言われることじゃない」
『でも、助かった』
「その顔で客先へ行かれたら、私たちまで何をしている会社なのか疑われるでしょ」
『階段から落ちたって言えば』
「その顔、階段に何発殴られたの」
以前、美園にも同じことを言われた。
陽菜は思わず笑う。
「何がおかしいの」
『美園さんと同じこと言うなって思って』
「誰、その人」
彩花は京都旅行で美園と同室になり、すでに顔も人柄も知っている。
それでも、社内で親しい名前のように出されると僅かに反応が遅れた。
『旅行で一緒の部屋だった美園さん』
「分かってる。確認しただけ」
『仲良くなった?』
「一晩同じ部屋だっただけで、仲良しになるほど単純じゃない」
『でも、美園さんは彩花さんのこと結構好きだと思うよ』
「聞いてない」
『今度一緒に飲もうよ』
「行かない」
『まだ何も決めてないのに』
「あなたが誘う時点で面倒だから」
『ひどい』
「日高」
彩花が樹里を呼ぶ。
樹里は自分の席から顔を上げる。
『何だ』
「櫻井、まだ頭も治ってないみたいだけど、本当に出社させていいの?」
『元からだ』
『日高先輩までひどい』
「なら問題ないわね」
『彩花さんまで納得しないでよ』
周囲に小さな笑いが起こる。
数日間、空いていた席。
静かだった営業部。
陽菜の声が戻っただけで、空気が変わっていく。
樹里はその様子を、自分の席から見ていた。
陽菜と目が合う。
『日高先輩』
『何ですか』
『ただいま』
会社にいる人間の前だから、総長とは呼ばない。
それでも、その言葉には会社へ戻った以上の意味があった。
樹里は僅かに目を細める。
『おかえりなさい』
短い返事。
陽菜は嬉しそうに笑い、自分の席へ座った。
*
仕事が始まると、中井は何度も陽菜の様子を確認した。
陽菜が書類へ手を伸ばせば立ち上がろうとする。
コピー機へ向かえば、その後ろを目で追う。
椅子から身体を捻っただけで、心配そうに眉を寄せる。
最初のうち、陽菜は何も言わなかった。
中井が心配する気持ちは分かっている。
過去を明かしたことで、以前より不安にさせていることも。
しかし、午前中だけで六度目の視線を感じたところで、陽菜は耐えられなくなった。
『中井くん』
「はい」
『見すぎ』
「見ていません」
『今、見てた』
「様子を確認しただけです」
『それを見てるって言うんだよ』
「痛そうだったので」
『痛かったら言う』
「本当ですか」
『約束したじゃん』
「……はい」
中井は自分の席へ視線を戻す。
だが、陽菜が床に落としたペンを拾おうとした瞬間、再び立ち上がった。
「俺が取ります」
『待って』
中井の動きが止まる。
『先に聞いて』
「何をですか」
『手伝った方がいいか』
陽菜は中井を見る。
『あたし、自分でできることまで全部やってもらいたいわけじゃないよ』
「でも、怪我が」
『心配してくれるのは嬉しい』
「はい」
『でも、何でも先にやられたら、あたし何もできなくなる』
中井は床のペンを見る。
「では、拾えますか」
『ちょっと痛い』
「手伝いましょうか」
『お願いします』
中井はペンを拾い、陽菜へ渡した。
『ありがとう』
「どういたしまして」
『今の感じでよろしく』
「分かりました」
中井は席へ戻る。
二人のやり取りを、柚希が離れた席から見ていた。
「何か、夫婦みたい」
陽菜がすぐに振り返る。
『そう見える?』
「嬉しそうですね」
『だって夫婦だって』
「まだ付き合っているだけですよね」
『細かいことはいいの』
「よくありません」
中井が口を挟む。
『中井くん、あたしと結婚したくないの?』
「仕事中です」
『否定しなかった』
「櫻井さん」
黒澤の声が飛んでくる。
「元気になったなら仕事をしろ」
『元気の確認をしてもらってたんです』
「誰に」
『中井くんに』
「もう十分確認できた。働け」
『はーい』
営業部に、また笑いが起こった。
*
昼休み。
陽菜の机の周りには、凛、柚希、中井が集まっていた。
陽菜は弁当を食べながら、三人を見渡す。
『ねえ、今度みんなでRoseに行かない?』
「中村さんのお店ですか」
凛が尋ねる。
『うん。復帰祝い』
「自分で企画するんですか」
『誰もやってくれないから』
「まだ復帰したばかりでしょう」
『だから先に予定だけ決めとくの』
「身体が治ってからにしてください」
中井が言う。
『分かってるよ。一週間後くらいなら平気でしょ』
「医師に確認してください」
『中井くんも来る?』
「確認してからです」
『来るんだ』
「それは行きます」
陽菜は満足そうに頷く。
『凛ちゃんと柚希ちゃんもね』
「私は構いません」
「私も行きたいです」
『彩花さんも誘おうかな』
「私は行かない」
少し離れた席から、彩花が即答する。
『まだ誘ってないよ』
「聞こえたから先に断ったの」
『美園さんに会いたくない?』
「別に」
『本当に?』
「行かない」
『じゃあ、日が決まったらまた聞くね』
「聞かなくていい」
断りながらも、本当に嫌ならもっと強く拒絶するはずだ。
陽菜はそれ以上追及せず、次へ目を向ける。
『零も誘おう』
柚希の箸が僅かに止まった。
『柚希ちゃん、零にLINEしてくれる?』
「私がですか?」
『京都で交換したでしょ』
「しましたけど、陽菜さんから誘った方が自然じゃないですか」
『あたしの復帰祝いを、あたしが全員誘うの?』
「さっきまで自分で企画していたじゃないですか」
『柚希ちゃん、零に会いたくないの?』
「そういう話ではありません」
『じゃあお願い』
「……分かりました」
柚希は平静を装いながら、スマートフォンを取り出す。
零とのLINEを開く。
京都から戻ったあとも、短いやり取りは何度かあった。
だが、特別な理由もなく自分から連絡するのは初めてだった。
【零ちゃん、今度みんなでRoseに行くんだけど、来ない?】
送信する。
すぐには既読がつかなかった。
柚希はスマートフォンを伏せる。
気にしていないふりをしながら、数秒後にはまた画面を見る。
陽菜はその様子に気づいていたが、何も言わなかった。
『中井くん』
「はい」
『青柳くんも誘ってよ』
「青柳さんですか」
『この前、Roseで凛ちゃんと話してたじゃん』
凛の手が止まる。
「少し話しただけです」
『また話したい?』
「どうして私に聞くんですか」
『青柳くんを誘っていいか確認』
「中井さんのお知り合いでしょう。私に確認する必要はありません」
『来てほしくない?』
「そうは言っていません」
『じゃあ、誘っていい?』
「……構いません」
陽菜が笑う。
『顔赤くない?』
「赤くありません」
「少し赤いです」
柚希が凛の顔を覗き込む。
「柚希ちゃん」
「ごめん」
中井は陽菜を見る。
「青柳さんへは、俺から聞いてみます」
『よろしく』
「藤崎さんはどうしますか」
『今回は青柳くんだけでいいかな』
「理由を聞かれそうです」
『あたしが会いたがってたって言って』
「藤崎さんが、自分も行くと言い出します」
『じゃあ、美園さんの店が少人数しか入れないって』
「以前、団体でも使っていましたよね」
『中井くん、真面目だね』
「嘘をつかせようとしないでください」
『じゃあ、青柳くんが凛ちゃんに会いたがってたって』
「言っていません」
凛が即座に否定する。
『凛ちゃん、青柳くんの気持ち分かるの?』
「そういう意味ではありません」
『じゃあ、聞いてみないとね』
「櫻井さん」
『冗談だって』
陽菜は笑いながら、弁当の続きを食べる。
そのとき、柚希のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
零からだった。
【自分も行きたいっす。日が決まったら教えてください】
柚希の表情が、自然に明るくなる。
「零ちゃん、来るそうです」
『よかったね』
「何がですか」
『連絡係が成功して』
「それだけですよ」
『あたし、何も言ってないじゃん』
柚希はスマートフォンを伏せた。
少しして、もう一度震える。
【柚希さんも行くんすよね?】
その一文を見た柚希の指が止まる。
零は、陽菜の復帰祝いへ誘われた。
ほかにも大勢いる。
それなのに、自分が参加するかを確認してきた。
【行くよ】
返信する。
すぐに既読がつく。
【よかったっす】
たったそれだけだった。
柚希は画面を閉じようとして、もう一度その文字を見る。
「どうしたんですか」
凛に尋ねられる。
「何でもない」
柚希はスマートフォンを胸元へ寄せた。
「零ちゃんも来るって」
『それはもう聞いたよ』
「そうだった」
柚希自身にも、なぜ同じことを繰り返したのか分からなかった。
ただ、零が参加すること。
自分が参加すると伝えたとき、『よかった』と返ってきたこと。
その二つが、思っていたよりも嬉しかった。
数日間空いていた陽菜の席から、新しい約束が生まれていく。
過去を知った者。
何も知らなくても、帰りを待った者。
旅先で僅かに距離を縮めた者。
一度しか会っていない相手を、少しだけ気にしている者。
それぞれの思いが、再びRoseへ集まろうとしていた。




