↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/329

98話「ただいま」

数日後。


 始業時刻の十五分前、営業部の扉が開いた。


『おはようございまーす』


 聞き慣れた明るい声に、何人もの社員が同時に顔を上げる。


 陽菜が立っていた。


 頬の腫れはかなり引いている。


 切れていた唇にも、もう血は滲んでいない。


 それでも目元には薄い痣が残り、化粧だけでは完全に隠しきれていなかった。


 肩に掛けた鞄も、普段より少し軽そうに見える。


「陽菜さん!」


 最初に席を立ったのは柚希だった。


 そのまま駆け寄り、陽菜へ抱きつこうとする。


 陽菜は笑顔で両腕を広げた。


『柚希ちゃーん。ただい――痛い痛い痛い!』


 柚希の動きが止まる。


「ご、ごめんなさい!」


『まだ脇腹がちょっとね』


「本当にごめんなさい!」


『大丈夫。柚希ちゃんの愛が強すぎただけだから』


「笑い事じゃないですよ」


 凛も二人のもとへ歩み寄る。


 眼鏡の奥から、陽菜の顔を注意深く見ていた。


「まだ痣が残っていますね」


『化粧で結構隠したんだけどなあ』


「隠しきれていません」


『凛ちゃん、そういうのは見えても言わないのが優しさだよ』


「隠して出社しようとする人には言います」


『厳しい』


「医師から出社の許可は出たんですか」


『出たよ。黒澤部長にも昨日確認してもらった』


「本当ですか」


『みんな、あたしの言うこと疑いすぎじゃない?』


「普段の行いです」


『凛ちゃんまで冷たくなった』


 柚希が陽菜の顔を見つめる。


 明るく話している。


 笑っている。


 それでも、傷を目にすると、LINEで話したときより胸が痛んだ。


「誰にやられたんですか」


 柚希が小さな声で尋ねる。


 陽菜の笑みが僅かに止まる。


『ちょっと、昔の揉め事に巻き込まれたの』


「昔の?」


『うん。でも、もう終わったから』


「本当に?」


『本当』


 陽菜は柚希の頭へ手を置いた。


『心配してくれてありがとう』


「心配しました」


『うん』


「もう、こういう怪我はしないでください」


『努力します』


「約束してください」


『それは難しいなあ』


「陽菜さん」


『でも、一人で無茶はしないって約束した』


 陽菜は凛と柚希を見る。


『何かあったら、ちゃんと誰かに話す。黙っていなくならない』


 以前の陽菜なら、冗談にして終わらせた。


 心配をかけたことだけを謝り、何が変わるのかまでは口にしなかった。


 今は、できる約束を自分の言葉で伝えている。


「誰と約束したんですか」


 柚希が尋ねる。


『日高先輩と、美園さんと、中井くん』


 少し離れたところで、中井の手が止まる。


 照れたように俯いたが、否定はしなかった。


「では、私たちとも約束してください」


 凛が言う。


『凛ちゃんたちとも?』


「心配したのは、その三人だけではありません」


 陽菜は目を見開いた。


 柚希が大きく頷く。


「私も、すごく心配したんですから」


『……うん』


 陽菜の表情から、僅かに笑みが消える。


 ふざけずに、二人を見る。


『約束する』


「何をですか」


『黙っていなくならない』


 凛は静かに頷いた。


「分かりました」


「今度は絶対ですよ」


『うん』


「破ったら、また怒ります」


『柚希ちゃんの予約、今日だったの?』


「何の話ですか」


『怒る予約。三か月待ちって言ったじゃん』


「もう待てません」


『せっかちだなあ』


 陽菜が笑う。


 今度は脇腹を押さえなかった。


 痛みが消えたわけではない。


 ただ、無理に大きく笑わないことを覚えた。


          *


「櫻井さん」


 黒澤に呼ばれ、陽菜が姿勢を正す。


『はい』


「ちょっと来い」


『怒られるかな』


「当然です」


 凛が答える。


『凛ちゃん、ついてきて』


「嫌です」


『柚希ちゃん』


「頑張ってください」


『薄情者』


 陽菜は不満そうな顔をしながら、黒澤の席へ向かった。


『おはようございます、黒澤部長』


「おはよう。顔を見せろ」


『いきなり大胆ですね』


「そういう冗談はいらない」


 黒澤は陽菜の顔を見る。


 目元の痣。


 治りかけた唇。


 そして、庇うような立ち方。


「まだ痛むのか」


『少しだけです』


「医者からは」


『無理をしなければ、仕事へ戻っていいと言われました』


「外回りは」


『問題ありません』


「医者がそう言ったのか?」


『……そこまでは聞いてません』


「なら、今日は内勤だけだ」


『でも』


「客先で体調を崩されても困る」


『体調は悪くないです』


「階段の上り下りは」


『できます』


「重い鞄を持って長時間歩くのは」


『たぶん』


「却下だ」


『黒澤部長』


「今日と明日は内勤。問題がなければ、そのあと考える」


『あたしの仕事が』


「森下さんが引き受けてる」


 陽菜が振り返る。


 彩花は自分の席でパソコンへ向かっていた。


『彩花さんが?』


「不満か」


『いえ。意外だなって』


「本人に言ってこい」


『怒られそう』


「俺に言うな」


 陽菜は彩花の席へ向かった。


 机の横に立つ。


『彩花さん』


「何」


『あたしの外回り、代わってくれたんだって?』


「部長に言われたから」


 黒澤が顔を上げる。


「俺は頼んでないぞ」


 彩花の眉が動く。


「……仕事が滞ると迷惑なので、私から申し出ただけです」


『ありがとう』


「礼を言われることじゃない」


『でも、助かった』


「その顔で客先へ行かれたら、私たちまで何をしている会社なのか疑われるでしょ」


『階段から落ちたって言えば』


「その顔、階段に何発殴られたの」


 以前、美園にも同じことを言われた。


 陽菜は思わず笑う。


「何がおかしいの」


『美園さんと同じこと言うなって思って』


「誰、その人」


 彩花は京都旅行で美園と同室になり、すでに顔も人柄も知っている。


 それでも、社内で親しい名前のように出されると僅かに反応が遅れた。


『旅行で一緒の部屋だった美園さん』


「分かってる。確認しただけ」


『仲良くなった?』


「一晩同じ部屋だっただけで、仲良しになるほど単純じゃない」


『でも、美園さんは彩花さんのこと結構好きだと思うよ』


「聞いてない」


『今度一緒に飲もうよ』


「行かない」


『まだ何も決めてないのに』


「あなたが誘う時点で面倒だから」


『ひどい』


「日高」


 彩花が樹里を呼ぶ。


 樹里は自分の席から顔を上げる。


『何だ』


「櫻井、まだ頭も治ってないみたいだけど、本当に出社させていいの?」


『元からだ』


『日高先輩までひどい』


「なら問題ないわね」


『彩花さんまで納得しないでよ』


 周囲に小さな笑いが起こる。


 数日間、空いていた席。


 静かだった営業部。


 陽菜の声が戻っただけで、空気が変わっていく。


 樹里はその様子を、自分の席から見ていた。


 陽菜と目が合う。


『日高先輩』


『何ですか』


『ただいま』


 会社にいる人間の前だから、総長とは呼ばない。


 それでも、その言葉には会社へ戻った以上の意味があった。


 樹里は僅かに目を細める。


『おかえりなさい』


 短い返事。


 陽菜は嬉しそうに笑い、自分の席へ座った。


          *


 仕事が始まると、中井は何度も陽菜の様子を確認した。


 陽菜が書類へ手を伸ばせば立ち上がろうとする。


 コピー機へ向かえば、その後ろを目で追う。


 椅子から身体を捻っただけで、心配そうに眉を寄せる。


 最初のうち、陽菜は何も言わなかった。


 中井が心配する気持ちは分かっている。


 過去を明かしたことで、以前より不安にさせていることも。


 しかし、午前中だけで六度目の視線を感じたところで、陽菜は耐えられなくなった。


『中井くん』


「はい」


『見すぎ』


「見ていません」


『今、見てた』


「様子を確認しただけです」


『それを見てるって言うんだよ』


「痛そうだったので」


『痛かったら言う』


「本当ですか」


『約束したじゃん』


「……はい」


 中井は自分の席へ視線を戻す。


 だが、陽菜が床に落としたペンを拾おうとした瞬間、再び立ち上がった。


「俺が取ります」


『待って』


 中井の動きが止まる。


『先に聞いて』


「何をですか」


『手伝った方がいいか』


 陽菜は中井を見る。


『あたし、自分でできることまで全部やってもらいたいわけじゃないよ』


「でも、怪我が」


『心配してくれるのは嬉しい』


「はい」


『でも、何でも先にやられたら、あたし何もできなくなる』


 中井は床のペンを見る。


「では、拾えますか」


『ちょっと痛い』


「手伝いましょうか」


『お願いします』


 中井はペンを拾い、陽菜へ渡した。


『ありがとう』


「どういたしまして」


『今の感じでよろしく』


「分かりました」


 中井は席へ戻る。


 二人のやり取りを、柚希が離れた席から見ていた。


「何か、夫婦みたい」


 陽菜がすぐに振り返る。


『そう見える?』


「嬉しそうですね」


『だって夫婦だって』


「まだ付き合っているだけですよね」


『細かいことはいいの』


「よくありません」


 中井が口を挟む。


『中井くん、あたしと結婚したくないの?』


「仕事中です」


『否定しなかった』


「櫻井さん」


 黒澤の声が飛んでくる。


「元気になったなら仕事をしろ」


『元気の確認をしてもらってたんです』


「誰に」


『中井くんに』


「もう十分確認できた。働け」


『はーい』


 営業部に、また笑いが起こった。


          *


 昼休み。


 陽菜の机の周りには、凛、柚希、中井が集まっていた。


 陽菜は弁当を食べながら、三人を見渡す。


『ねえ、今度みんなでRoseに行かない?』


「中村さんのお店ですか」


 凛が尋ねる。


『うん。復帰祝い』


「自分で企画するんですか」


『誰もやってくれないから』


「まだ復帰したばかりでしょう」


『だから先に予定だけ決めとくの』


「身体が治ってからにしてください」


 中井が言う。


『分かってるよ。一週間後くらいなら平気でしょ』


「医師に確認してください」


『中井くんも来る?』


「確認してからです」


『来るんだ』


「それは行きます」


 陽菜は満足そうに頷く。


『凛ちゃんと柚希ちゃんもね』


「私は構いません」


「私も行きたいです」


『彩花さんも誘おうかな』


「私は行かない」


 少し離れた席から、彩花が即答する。


『まだ誘ってないよ』


「聞こえたから先に断ったの」


『美園さんに会いたくない?』


「別に」


『本当に?』


「行かない」


『じゃあ、日が決まったらまた聞くね』


「聞かなくていい」


 断りながらも、本当に嫌ならもっと強く拒絶するはずだ。


 陽菜はそれ以上追及せず、次へ目を向ける。


『零も誘おう』


 柚希の箸が僅かに止まった。


『柚希ちゃん、零にLINEしてくれる?』


「私がですか?」


『京都で交換したでしょ』


「しましたけど、陽菜さんから誘った方が自然じゃないですか」


『あたしの復帰祝いを、あたしが全員誘うの?』


「さっきまで自分で企画していたじゃないですか」


『柚希ちゃん、零に会いたくないの?』


「そういう話ではありません」


『じゃあお願い』


「……分かりました」


 柚希は平静を装いながら、スマートフォンを取り出す。


 零とのLINEを開く。


 京都から戻ったあとも、短いやり取りは何度かあった。


 だが、特別な理由もなく自分から連絡するのは初めてだった。


【零ちゃん、今度みんなでRoseに行くんだけど、来ない?】


 送信する。


 すぐには既読がつかなかった。


 柚希はスマートフォンを伏せる。


 気にしていないふりをしながら、数秒後にはまた画面を見る。


 陽菜はその様子に気づいていたが、何も言わなかった。


『中井くん』


「はい」


『青柳くんも誘ってよ』


「青柳さんですか」


『この前、Roseで凛ちゃんと話してたじゃん』


 凛の手が止まる。


「少し話しただけです」


『また話したい?』


「どうして私に聞くんですか」


『青柳くんを誘っていいか確認』


「中井さんのお知り合いでしょう。私に確認する必要はありません」


『来てほしくない?』


「そうは言っていません」


『じゃあ、誘っていい?』


「……構いません」


 陽菜が笑う。


『顔赤くない?』


「赤くありません」


「少し赤いです」


 柚希が凛の顔を覗き込む。


「柚希ちゃん」


「ごめん」


 中井は陽菜を見る。


「青柳さんへは、俺から聞いてみます」


『よろしく』


「藤崎さんはどうしますか」


『今回は青柳くんだけでいいかな』


「理由を聞かれそうです」


『あたしが会いたがってたって言って』


「藤崎さんが、自分も行くと言い出します」


『じゃあ、美園さんの店が少人数しか入れないって』


「以前、団体でも使っていましたよね」


『中井くん、真面目だね』


「嘘をつかせようとしないでください」


『じゃあ、青柳くんが凛ちゃんに会いたがってたって』


「言っていません」


 凛が即座に否定する。


『凛ちゃん、青柳くんの気持ち分かるの?』


「そういう意味ではありません」


『じゃあ、聞いてみないとね』


「櫻井さん」


『冗談だって』


 陽菜は笑いながら、弁当の続きを食べる。


 そのとき、柚希のスマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 零からだった。


【自分も行きたいっす。日が決まったら教えてください】


 柚希の表情が、自然に明るくなる。


「零ちゃん、来るそうです」


『よかったね』


「何がですか」


『連絡係が成功して』


「それだけですよ」


『あたし、何も言ってないじゃん』


 柚希はスマートフォンを伏せた。


 少しして、もう一度震える。


【柚希さんも行くんすよね?】


 その一文を見た柚希の指が止まる。


 零は、陽菜の復帰祝いへ誘われた。


 ほかにも大勢いる。


 それなのに、自分が参加するかを確認してきた。


【行くよ】


 返信する。


 すぐに既読がつく。


【よかったっす】


 たったそれだけだった。


 柚希は画面を閉じようとして、もう一度その文字を見る。


「どうしたんですか」


 凛に尋ねられる。


「何でもない」


 柚希はスマートフォンを胸元へ寄せた。


「零ちゃんも来るって」


『それはもう聞いたよ』


「そうだった」


 柚希自身にも、なぜ同じことを繰り返したのか分からなかった。


 ただ、零が参加すること。


 自分が参加すると伝えたとき、『よかった』と返ってきたこと。


 その二つが、思っていたよりも嬉しかった。


 数日間空いていた陽菜の席から、新しい約束が生まれていく。


 過去を知った者。


 何も知らなくても、帰りを待った者。


 旅先で僅かに距離を縮めた者。


 一度しか会っていない相手を、少しだけ気にしている者。


 それぞれの思いが、再びRoseへ集まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。