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97話「境界線」

神谷との食事から帰宅したあと、樹里はしばらく玄関に立っていた。


 部屋の照明もつけず、片手にヘルメットを持ったまま、暗い室内を見る。


 静かだった。


 少し前まで、この静けさが当たり前だった。


 一人で帰り、一人で食事を取り、一人で眠る。


 誰にも行き先を告げず、帰宅したことを知らせる必要もない。


 その方が楽だと思っていた。


 誰かを心配しなくていい。


 誰かに心配されることもない。


 だが今は、その静けさが以前とは違って感じられた。


 樹里は照明をつけ、ヘルメットを置く。


 スマートフォンを確認すると、三人のLINEグループに新しいメッセージが届いていた。


【中井くん帰ってきたよ】


 陽菜からだった。


 続けて、美園。


【じゃあ私は帰るね】


【美園さんも泊まればいいのに】


【邪魔でしょ】


【三人で寝ればいいじゃん】


【嫌】


【即答】


 樹里は二人のやり取りを見つめた。


 返事を打とうとして、指が止まる。


 何を送ればいいのか分からない。


 迷った末に、


【帰宅した】


 とだけ送る。


 すぐに陽菜から返ってきた。


【おかえり、総長】


 美園からも届く。


【おかえり】


 短い二つの言葉。


 樹里は画面を見つめたまま、動けなくなった。


 自分の部屋には誰もいない。


 それでも、帰ったことを知っている人がいる。


 帰宅を伝えれば、迎える言葉が返ってくる。


【ただいま】


 樹里はそう返信した。


 送信した直後、もう一件の通知が表示される。


 沙月からではない。


 組事務所へ行く前、沙月と連絡を取るために使った番号からの着信履歴だった。


 樹里は画面を見つめる。


 すぐにはかけ直さなかった。


 美園へ個別にLINEを送る。


【明日、時間はあるか】


【店が始まる前なら】


【沙月と話をしたい】


 既読がつく。


【一人で?】


【美園にも来てほしい】


 少し間が空いた。


【分かった】


 続けて、陽菜から個別に届く。


【美園さんから聞いた】


 樹里は僅かに眉を寄せる。


【早いな】


【情報共有は大事でしょ】


【身体は】


【痛い。でも中井くんがいる】


【そうか】


【沙月に会うの?】


【ああ】


【あたしも行く】


【駄目だ】


【ほら、また勝手に決める】


 樹里の指が止まる。


 すぐに否定する言葉が浮かんだ。


 怪我人を連れ出すつもりはない。


 沙月と再び会わせる必要もない。


 それは陽菜を守るためだ。


 だが、その結論だけを伝えれば、以前と同じになる。


【来てほしくない】


 樹里は言葉を選び直した。


【理由は、まだ怪我が治っていないからだ】


 陽菜から、しばらく返信が来なかった。


【美園さんは一緒?】


【一緒に来てもらう】


【場所は?】


【以前、沙月と会った公園】


【終わったら連絡くれる?】


【連絡する】


【何を話したかも?】


【話す】


 そこで陽菜の入力が止まる。


【分かった。今回は任せる】


 樹里は小さく息を吐く。


 許可を得なければ動けないわけではない。


 それでも、陽菜が何も知らずに待たされることはない。


【ありがとう】


 送信すると、すぐに返ってきた。


【総長がありがとうって言った】


【取り消すぞ】


【スクショした】


【消せ】


【嫌】


 樹里は画面を閉じた。


 口元には、本人も気づかないほど僅かな笑みが浮かんでいた。


          *


 翌日。


 樹里と美園は、沙月と会った公園へ向かった。


 前回、樹里は一人でここへ来た。


 何かあれば自分だけで終わらせるつもりだった。


 今日は、美園が隣を歩いている。


『陽菜、何て言ってた?』


『自分も行くと』


『言うと思った』


『今回は任せるそうだ』


『ちゃんと話したんだね』


『必要なことだけだ』


『それでいいよ』


 二人が公園へ入る。


 沙月は前回と同じ場所に立っていた。


 樹里だけではなく、美園もいることに気づく。


「一人で来ると思ってた」


『私も、そう思ってたよ』


 美園が答える。


「日高が誰かを連れてくるとは思わなかった」


『私が頼んだ』


 樹里は沙月の前で立ち止まる。


『一人で話す必要はないと思った』


 沙月は僅かに目を細めた。


「変わったな」


『お前に言われることではない』


「そうだね」


 沙月は二人から少し離れたベンチへ目を向ける。


「座る?」


『必要ない』


「長い話にはしないつもり?」


『ああ』


 樹里は沙月から目を逸らさない。


『組長からは、何と言われた』


「二度と、あなたたちに関わるなと」


『なら、なぜ私に電話した』


「謝ろうと思った」


『謝れば済むと?』


「思ってない」


 沙月の答えは早かった。


「だから、出なくても仕方ないと思って一度だけかけた」


『私が会おうと言わなければ、どうするつもりだった』


「もう会わなかった」


『そうか』


 樹里は短く答える。


 沙月が美園を見る。


「櫻井陽菜は?」


『家で休んでる』


「怪我は」


『治るよ』


「そう」


『それで安心しないで』


 美園の声が低くなる。


『骨が折れていなかったからいい、命があったからいい、という話じゃない』


「分かってる」


『分かっていて、陽菜に話したんでしょ』


「そうだよ」


 沙月は否定しなかった。


「日高が、いつまで経っても話さないと思ったから」


『だから、お前が話したのか』


 樹里の目が冷たくなる。


「四年前のことを、櫻井陽菜は知るべきだった」


『それを決めるのは、お前ではない』


「日高でもない」


 空気が張り詰める。


 美園は二人の間へ入らず、黙って聞いていた。


「あなたは、真実を隠すことを守ることだと思ってた」


『ああ』


「このままなら、ずっと話さなかった」


『その可能性はある』


「なら、私は間違ってなかった」


『違う』


 樹里は即座に否定する。


『陽菜が真実を知るべきだったことと、お前があいつを焚きつけたことは別だ』


「私は、事実を話しただけ」


『組事務所の場所が変わっていないと分かる言い方をした』


 沙月の表情が僅かに動く。


『陽菜がどういう人間か知ったうえで、止めなかった』


「止めたよ」


『行くなと言えば止まると思ったのか』


「思ってない」


『なら、お前は陽菜が向かうと分かっていた』


 沙月は黙った。


『あいつが何をするかも、組がどう出るかも分かったうえで、行かせた』


「……そうだね」


『真実を話したかっただけなら、私か美園の前で話せた』


「あなたは止めた」


『それでも方法はあった』


「どんな?」


『考える時間は、お前に十分あったはずだ』


 樹里の声は荒くない。


 だが、沙月が逃げられる余地を一つずつ塞いでいく。


『お前は陽菜へ真実を伝えたかったんじゃない』


「じゃあ、何だと思う」


『試したかったんだ』


 沙月の目が僅かに揺れる。


『私が今も陽菜を守るのか。美園がどう動くのか。三人が四年前と変わったのか』


「……うん」


『そのために、陽菜を使った』


「そうだよ」


 沙月は認めた。


「私は見たかった」


『何を』


「あのときの日高の選択が、本当に二人を守ったのか」


『それを確かめて、どうするつもりだった』


「分からない」


 沙月は自嘲するように笑う。


「四年前、日高が一人で組事務所へ来たとき、理解できなかった」


 樹里は何も言わない。


「仲間のために総長を辞める。チームを捨てる。二人の前からも消える」


 沙月の視線が樹里へ向く。


「そこまでする価値が、あの二人にあるのかと思った」


 美園の目が鋭くなる。


「だから、今を見たかった。四年経っても、日高が同じものを選ぶのか」


『それで、どうだった』


「同じだった」


 沙月は答える。


「会社も、親も、命も関係ない。二人が自分の全てだと言った」


 樹里の表情が固まる。


 美園が隣で、僅かに顔を伏せた。


「四年前と何も変わってなかった」


『違う』


 美園が口を開く。


「何が?」


『樹里は一人じゃなかった』


 美園は、樹里の隣に立っている。


『四年前は、一人で決めて、一人で行って、一人で消えた』


「今回は?」


『私に一緒に来てほしいと言った』


 樹里が美園を見る。


『陽菜にも、終わったら話すと約束した』


「それだけ?」


『それだけのことが、四年前はできなかった』


 美園は沙月を見つめる。


『樹里は同じものを選んだんじゃない。私たちを選びながら、自分も帰る方を選んだ』


 樹里は何も言わなかった。


 自分では、そこまで変わったとは思っていない。


 今も最初に、自分を差し出そうとした。


 美園に止められなければ、同じことをしていたかもしれない。


 それでも、美園は隣にいた。


 陽菜も待っていた。


 そして樹里は、二人のいる場所へ帰った。


「私がしたことにも、意味はあった?」


 沙月が尋ねる。


『あった』


 樹里は答えた。


 美園が僅かに驚く。


『陽菜は真実を知った。私は、自分が四年前に二人へ何をしたのか知った』


「なら――」


『だが、それはお前の方法を認める理由にはならない』


 沙月の言葉を遮る。


『結果的に私たちが話せたからといって、陽菜を危険へ向かわせたことは消えない』


「うん」


『私は、お前を許さない』


 樹里は、はっきりと告げた。


『陽菜を利用したことも、あいつの命を試す材料にしたことも』


「分かってる」


『だが、復讐もしない』


 沙月が顔を上げる。


『お前を殴っても、陽菜の傷は消えない』


「日高なら、殴ると思ってた」


『私も、以前ならそうしたかもしれない』


「今はしない?」


『しない』


「変わったね」


『だから、お前に言われることではない』


 樹里は一歩、沙月へ近づく。


『これで終わりだ』


「うん」


『二度と、陽菜、美園、昔の仲間へ近づくな』


「分かった」


『私にもだ』


「……分かった」


 沙月は樹里を見る。


「最後に、一つだけ聞いていい?」


『内容による』


「四年前の選択を、後悔してる?」


 樹里はすぐに答えなかった。


 以前なら、後悔していないと言った。


 陽菜と美園を守れたのだから、それでいい。


 自分が何を失ったかなど関係ない。


 迷わず、そう答えたはずだった。


『後悔している』


 樹里は言った。


 沙月の目が僅かに見開かれる。


『二人を守ろうとしたことではない』


 言葉を続ける。


『何も話さず、一人で決めたことを後悔している』


「そう」


『私が消えれば、二人が無事に生きられると思った』


 樹里は美園を見る。


『生きていることと、無事でいることは違った』


 美園の目に涙が浮かぶ。


『私は、それが分かっていなかった』


「今は?」


『今は、少しだけ分かる』


 樹里は沙月へ視線を戻す。


『だから、もう同じことはしない』


「できるといいね」


『する』


 静かな声だった。


 願いではない。


 美園と陽菜へ誓った約束を、もう一度自分へ言い聞かせる声だった。


 沙月は小さく息を吐く。


「謝っても、受け取らないよね」


『受け取るかどうかは、聞いてから決める』


「……ごめんなさい」


 沙月は頭を下げた。


「櫻井陽菜を利用した。危険な場所へ向かうと分かっていて、止めなかった」


 樹里は黙って聞く。


「中村美園にも、あなたにも、また同じ恐怖を味わわせた」


 長い沈黙が落ちる。


『聞いた』


 樹里はそれだけを返した。


「許してはくれない?」


『許さない』


「分かった」


 沙月は顔を上げる。


 その表情に、安堵はなかった。


 謝罪したことで、責任から逃れられたわけではない。


 樹里は謝罪を聞いた。


 だが、沙月が求める結末までは与えなかった。


 それでよかった。


「もう、会うことはないと思う」


『ああ』


「さよなら、日高」


『さよなら、沙月』


 沙月が美園を見る。


「中村美園」


『何?』


「あなたにも、悪かったと思ってる」


『私はまだ、何も返さない』


「うん」


『いつか許せるかもしれない。ずっと許せないかもしれない』


「それでいい」


『でも、陽菜に直接謝ろうとはしないで』


「分かってる」


『今は、沙月の顔を見せること自体が傷になるから』


 沙月は小さく頷いた。


「じゃあ」


 踵を返す。


 今度は誰も呼び止めなかった。


 沙月の背中が遠ざかり、公園の出口の向こうへ消える。


 美園が大きく息を吐いた。


『終わったね』


『ああ』


『本当に?』


『何がだ』


『追いかけたりしない?』


『しない』


『一人で何か調べたりも?』


『しない』


『組事務所へ確認に行ったり』


『しない』


『本当に?』


『何度言わせる』


『総長は信用がないから』


 樹里が美園を睨む。


 美園は小さく笑った。


『陽菜に連絡しよう』


『ああ』


 樹里は三人のLINEグループを開く。


【終わった】


 すぐに既読がついた。


【怪我してない?】


【していない】


【美園さんも?】


【私も大丈夫】


【何を話したの?】


【帰ったら話す】


 陽菜から、少し間を置いて返信が届く。


【分かった。待ってる】


 樹里はその言葉を見つめる。


 四年前、自分は二人を待たせた。


 帰るという約束さえ与えずに。


 今日は違う。


 待っていると言われた。


 そして自分は、その場所へ帰ることができる。


【今から帰る】


 樹里が送る。


 美園が隣から画面を覗く。


『どこに?』


『Roseだろ』


『陽菜の家じゃないの?』


『身体の状態を確認する』


『心配だから会いたいって言えばいいのに』


『確認するだけだ』


『はいはい』


『何だ、その返事は』


『何でもないよ、総長』


 二人は並んで歩き出す。


 後ろを振り返ることはなかった。


 過去をなかったことにはできない。


 許せないものを、無理に許す必要もない。


 それでも、自分たちがどこへ帰るのかは選べる。


 樹里と美園は、陽菜の待つ場所へ向かった。


 今度は、待たせたままにしないために。

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