96話「聞かない人」
午後5時を過ぎた頃、樹里は今日最後の報告書を開いた。
陽菜の欠勤によって振り分けられた仕事は、凛、柚希、彩花が分担している。
それでも、最終的な確認は樹里が引き受けていた。
1つ目の数値を確認する。
添付資料と照らし合わせ、問題がないことを確かめる。
次の項目へ進もうとしたところで、机の横から手が伸びてきた。
報告書が、樹里の目の前から持ち上げられる。
『……神谷さん』
「こちらは私が確認します」
『結構です。私が引き受けたものです』
「黒澤部長から、日高さんを定時で帰すよう言われています」
『私には聞こえませんでした』
「日高さんが席へ戻ったあとに言われましたから」
『では、黒澤部長へお返しください』
「どうしてですか」
『私の仕事を勝手に他人へ渡さないでください』
神谷は報告書を持ったまま、樹里を見る。
「このままでは定時までに終わりません」
『終わらせます』
「あと25分です」
『十分です』
「この報告書のほかに、見積書が2件残っています」
『把握しています』
「メールの返信も3件あります」
『神谷さん』
「何でしょうか」
『どうして私の仕事の残量を、私より把握しているんですか』
神谷の口が閉じる。
『自分の仕事は終わったんですか』
「順調です」
『終わったかと聞きました』
「……まだです」
樹里が神谷の机を見る。
未処理の書類が数件、端へ揃えて置かれている。
パソコンの画面にも、作成途中の資料が開かれていた。
『それを返してください』
「ですが」
『私を帰すために神谷さんが残業したら、意味がありません』
「私の分は調整できます」
『私の分も調整できます』
「日高さんは、今日は休むべきです」
『神谷さんも働きすぎです』
「私は問題ありません」
『その言葉は信用しないことにしています』
神谷が僅かに目を見開く。
昨日から、樹里自身が何度も口にしてきた言葉だった。
大丈夫。
問題ない。
そう言えば、周囲を納得させられると思っていた。
しかし、陽菜にも、美園にも、黒澤にも止められた。
同じ言葉を神谷が口にすると、確かに何の根拠にもなっていない。
「日高さん」
『はい』
「私の心配をしてくださっているんですか」
『仕事の配分がおかしいと言っているだけです』
「そうですか」
『何ですか』
「いえ」
神谷の口元が、僅かに緩んだ。
『笑わないでください』
「笑っていません」
『笑っています』
「気のせいです」
神谷は報告書を樹里の机へ戻した。
「では、分担しませんか」
『分担?』
「この報告書を私が確認します。日高さんは見積書を1件と、メールの返信をお願いします」
『残りの見積書は』
「佐藤に回します」
少し離れた席にいた佐藤が顔を上げる。
「今、俺の名前が聞こえたんですけど」
「見積書の確認を1件頼む」
「俺も仕事残ってますよ」
「知ってる」
「知ってて増やすんですか」
「今日中ではない。明日の午前中で構わない」
「それなら大丈夫ですけど」
佐藤は樹里を見る。
「日高さん、何かあるんですか」
『少し予定があります』
「デートですか?」
樹里の手が止まる。
神谷も、持っていた報告書へ視線を落とした。
『違います』
「でも、神谷さんも帰るんですよね」
「佐藤」
「はい」
「余計なことを言う暇があるなら、今の仕事を終わらせろ」
「分かりましたよ」
佐藤は笑いを堪えながら、自分のパソコンへ向き直る。
樹里は見積書を開いた。
『神谷さん』
「はい」
『本当に、今日中に終わらせる必要はありませんからね』
「分かっています」
『私を帰したあと、残るつもりでは』
「ありません」
『本当ですか』
「今日は、日高さんと食事へ行く約束がありますから」
神谷は、佐藤にも聞こえる声で答えた。
再び佐藤の手が止まる。
だが、今度は振り返らなかった。
肩だけが小さく揺れている。
『……わざと言いましたか』
「何をですか」
『何でもありません』
樹里は見積書へ視線を戻した。
耳が僅かに赤くなっていることには、誰も触れなかった。
*
定時から5分後。
樹里と神谷は揃って会社を出た。
黒澤は時計を確認し、2人へ目を向ける。
「5分超過だな」
「申し訳ありません」
『申し訳ありません』
「明日から気をつけろ」
黒澤はそう言ったあと、神谷を見る。
「神谷」
「はい」
「自分の仕事まで他人に押しつけるなよ」
「押しつけていません」
「ならいい」
神谷の机に残された書類を見たうえでの言葉だった。
「佐藤も、嫌なら断れ」
「嫌ではないです。でも神谷さん、こういうの多いんですよ」
「佐藤」
「本当じゃないですか」
「何の話だ」
黒澤が尋ねる。
「誰かが忙しいと、気づかないうちに自分の仕事と交換してるんです」
「交換した覚えはない」
「それが問題なんですよ」
神谷は眉を寄せる。
黒澤は何か言おうとしたが、今は追及しなかった。
「今日は帰れ。話は明日だ」
「はい。お先に失礼します」
『お先に失礼します』
2人が営業部を出る。
エレベーターへ向かう途中、樹里が神谷を見る。
『佐藤さんの言っていたこと、本当ですか』
「大袈裟です」
『否定はしないんですね』
「仕事が偏っているときに調整しているだけです」
『それを神谷さん1人でしているのでは』
「必要なら、そうすることもあります」
『先ほど私に言ったことと矛盾しています』
「日高さんは、少し事情が違います」
『どう違うんですか』
「今日は、私が休ませたいと思いました」
樹里が神谷へ顔を向ける。
神谷は前を向いたまま、エレベーターのボタンを押す。
『どうしてですか』
「疲れているように見えたからです」
『それだけで?』
「それでは足りませんか」
扉が開く。
2人で乗り込み、神谷が1階のボタンを押した。
「それに、今日の食事を延期されたくありませんでした」
『私は延期するとは言っていません』
「日高さんなら、仕事が残っていればそう言うと思いました」
『……そうかもしれません』
「ですから、残さないようにしました」
『神谷さんの仕事を増やしてまで行く食事なら、私は楽しめません』
「増えていません」
『先ほど、まだ残っていると言いました』
「あれは明日でも間に合います」
『本当に?』
「はい」
樹里は神谷の横顔を見る。
嘘をついているようには見えない。
しかし、自分自身へ言い聞かせることに慣れている顔には見えた。
『無理はしないでください』
神谷が樹里へ顔を向ける。
『神谷さんが体調を崩したら、困ります』
「会社が、ですか」
『私がです』
エレベーターが1階へ到着する。
扉が開いても、神谷はすぐに動かなかった。
『降りませんか』
「……はい」
2人でエレベーターを降りる。
神谷は樹里より半歩後ろを歩きながら、僅かに表情を緩めていた。
*
神谷が選んだのは、駅から少し離れた場所にある小さな和食店だった。
派手な店ではない。
木製の引き戸を開けると、落ち着いた照明に照らされたカウンターと、いくつかの半個室が見える。
通されたのは、奥の2人席だった。
『予約していたんですか』
「はい」
『いつから』
「日高さんに約束していただいた日に」
『まだ日程も決まっていなかったのに?』
「予約日の変更はできますから」
『断られるとは思わなかったんですか』
「思っていました」
神谷が当然のように答える。
『それでも予約したんですか』
「予約しないまま誘って、受けていただいたあとに店を探す方が困ると思ったので」
『用意がいいんですね』
「仕事柄です」
神谷はそう答えたが、仕事だけでは説明できないことを、樹里も分かっていた。
2人は料理を注文する。
飲み物を尋ねられ、神谷はビールを頼んだ。
樹里はメニューを見たあと、ウーロン茶を選ぶ。
「飲まないんですか」
『今日はバイクなので』
「そうでしたね」
『神谷さんは飲んでください』
「では、お言葉に甘えます」
飲み物が運ばれる。
神谷がグラスを持つ。
「何に乾杯しましょうか」
『考えていなかったんですか』
「普段は仕事の成功に乾杯することが多いので」
『今日は、仕事のための食事ではないんですよね』
「はい。個人的に、日高さんをお誘いしました」
『では、仕事の話はしない方がいいですか』
「禁止するつもりはありません。ですが、今日は仕事以外の日高さんも知りたいと思っています」
『私を?』
「はい」
『なぜですか』
「知りたいからです」
『答えになっていません』
「それ以上に適切な言葉が、今は見つかりません」
神谷は冗談を言っている顔ではなかった。
樹里の手が、グラスの前で止まる。
「ご迷惑でしたか」
『……いいえ』
「よかったです」
『ただ、面白い話はできません』
「面白さを求めているわけではありません」
『では、何を話せばいいんですか』
「それを今から考えます」
『決めていなかったんですね』
「店の予約で力を使い切りました」
樹里が僅かに目を細める。
『神谷さんでも、そういうことがあるんですね』
「私を何だと思っているんですか」
『何でも事前に決めている人だと思っています』
「日高さんの前では、予定どおりに進まないことが多いです」
『私のせいですか』
「いえ」
神谷はグラスを持ち直す。
「悪い意味ではありません」
樹里もウーロン茶のグラスを持った。
『では、今日食事へ来られたことに』
「乾杯ですか」
『はい』
「ありがとうございます」
2人のグラスが、静かに触れた。
それから神谷はビールを一口飲み、樹里もウーロン茶へ口をつけた。
*
料理が運ばれてからしばらくは、仕事に関係のない、ごく普通の話が続いた。
休日に何をしているのか。
よく行く店はあるのか。
何を食べるのが好きなのか。
神谷は、樹里が休日にも早い時間に目を覚ますことを知った。
樹里は、神谷が意外にも甘いものを好むことを知った。
『甘いものがお好きなんですね』
「はい。特にあんこが好きです」
樹里が僅かに目を見開く。
『私もです』
「知っています」
『……知っていたんですか』
「以前、日高さんに好きな食べ物を尋ねたとき、あんこと答えていましたから」
『覚えていたんですね』
「はい」
『では、この店を選んだのも』
「最後に最中が出ます」
神谷が白状するように答えた。
『私があんこを好きだと言ったからですか』
「それも理由の1つです」
『自分が食べたかったからでは』
「それもあります」
『どちらが先ですか』
「答える必要がありますか」
『ありませんが、気になります』
「日高さんにも喜んでいただけると思ったからです」
樹里は神谷を見る。
自分が何気なく答えた好物を、神谷は覚えていた。
さらに、それを店選びの理由にまでしている。
『随分前に聞かれた気がします』
「私も、覚えているとは思いませんでした」
『無意識だったんですか』
「店を探しているときに思い出しました」
『そうですか』
「嫌でしたか」
『いいえ』
樹里は目を伏せる。
『嬉しいです』
神谷の表情が僅かに和らいだ。
「よかったです」
会社では、神谷は部下の進捗を確認し、取引先との調整を行い、必要な指示を出す。
私生活の話をする姿を、樹里はほとんど見たことがなかった。
お互いに、会社とは少し違う顔で向かい合っている。
会話が途切れたときも、居心地の悪さはなかった。
樹里のスマートフォンが震える。
画面には、3人のLINEグループが表示されていた。
美園から届いた、空になった昼食の容器。
【陽菜、昼食完食。薬も飲んだ】
樹里はすぐに返事を打つ。
【分かった】
送ったあと、少し考える。
【身体は】
神谷は何も尋ねなかった。
樹里がLINEを終えるまで、料理へ箸を伸ばしている。
何度か短いやり取りをし、最後に樹里は送った。
【また明日】
陽菜から返事が届く。
【また明日】
続いて美園。
【3人でね】
樹里は画面を見つめた。
返信はしなかった。
それでも、スマートフォンを伏せたあと、その表情から僅かに力が抜けていた。
「大切な連絡ですか」
神谷が初めて尋ねる。
『はい』
「安心できる内容だったようですね」
『分かりますか』
「先ほどまでと、少し顔が違います」
樹里は頬へ触れる。
『そんなに出ていますか』
「よく見ていれば」
『神谷さんは、人を見すぎです』
「仕事ですから」
『今は仕事ではないんですよね』
「癖になっています」
神谷は、それ以上尋ねなかった。
誰からのLINEなのか。
陽菜の怪我と関係があるのか。
昨日、何があったのか。
知りたいはずだった。
それでも、樹里が話すまで待っている。
『神谷さん』
「はい」
『聞かないんですね』
「何をですか」
『櫻井さんのことです』
神谷は箸を置いた。
「聞いてもいいんですか」
『……全部は話せません』
「では、話せることだけで構いません」
樹里は伏せたスマートフォンへ目を落とす。
『大切な人が、怪我をしました』
「櫻井さんですね」
『はい』
『本人が、1人で解決しようとして危険な場所へ行きました』
「日高さんは、助けに行った」
『美園と一緒に』
「無事に連れて帰れたんですね」
『はい』
「それなら、よかったです」
神谷の言葉は、それだけだった。
正しかったのか。
なぜ警察へ行かないのか。
相手は誰なのか。
樹里が何をしたのか。
何も尋ねない。
『それだけですか』
「もっと聞いてほしいですか」
『いいえ』
「では、聞きません」
『普通は気になると思います』
「気になります」
神谷は正直に答えた。
「ですが、私が知りたいことと、日高さんが話したくないことなら、後者を優先します」
『どうしてですか』
「日高さんが、今ここにいてくださるからです」
樹里は神谷を見る。
「昨日何があったとしても、櫻井さんは無事に戻り、日高さんも今日会社へ来た」
『はい』
「そして、約束を断らず、ここへ来てくださった」
神谷は穏やかに笑う。
「今は、それで十分です」
樹里の胸の奥に、静かな温かさが広がる。
詳しい事情を聞かれないことに、安堵しているだけではない。
神谷は無関心なのではなかった。
知りたいと思ったうえで、樹里が自分から開くまで待っている。
『1つだけ、訂正してもいいですか』
「何でしょうか」
『私は、大丈夫ではありません』
神谷の表情が変わる。
『櫻井さんを失うかもしれないと思って、怖かったです』
言葉にすると、また胸が痛んだ。
それでも、樹里は目を逸らさなかった。
『今も、完全に安心できたわけではありません』
「はい」
『ですが、2人がそばにいます』
「中村さんと、櫻井さんが?」
『はい』
樹里は小さく息を吐く。
『だから、私は1人ではありません』
神谷はすぐに何かを返そうとはしなかった。
樹里が差し出した言葉を、急いで慰めの言葉で包まない。
「話してくださって、ありがとうございます」
それだけを言った。
『……はい』
「今日、ここへ来るのもつらかったですか」
『少し迷いました』
「そうだったんですね」
『でも、来たかったです』
神谷の手が止まる。
『神谷さんと食事をする約束を、なくしたくありませんでした』
「日高さん」
『何でしょうか』
「今日は、私が想像していたよりも嬉しい日になりました」
『大袈裟では』
「日高さんには、そう見えるかもしれません」
樹里は目を伏せ、ウーロン茶を一口飲んだ。
照れを隠すような仕草だった。
神谷は追い打ちをかけなかった。
料理を1つ、樹里の近くへ寄せる。
「こちらも食べてみませんか」
『神谷さんが頼んだものでは』
「分けて食べた方が、色々試せます」
『では、私のものもどうぞ』
「ありがとうございます」
2人は料理を分け合う。
恋人ではない。
告白も、約束もない。
それでも、会社の同僚という言葉だけでは表せない時間が、2人の間に流れ始めていた。
*
食事の最後に、神谷が楽しみにしていた最中が運ばれてきた。
皿には2つ載っている。
神谷は1つを樹里の前へ置いた。
『私の分もあったんですね』
「はい。2人分のコースですから」
『神谷さんが2つ食べたかったのかと思いました』
「日高さんが食べないのであれば、いただきます」
『渡しません』
樹里は最中を手に取る。
1口食べると、甘さ控えめのあんこが口の中に広がった。
「どうですか」
『美味しいです』
「よかったです」
『神谷さん』
「はい」
『この店にした本当の理由は、これですね』
「料理も美味しかったでしょう」
『否定はしないんですね』
「嘘はつけません」
神谷も最中を食べる。
普段より僅かに柔らかな表情をしていた。
樹里は、その顔を見ていた。
「どうしましたか」
『いいえ』
「何かついていますか」
『そうではありません』
「では?」
『神谷さんも、仕事をしていないときは違う顔をするんですね』
「どんな顔ですか」
『楽しそうな顔です』
神谷が目を見開く。
樹里はもう1口、最中を食べた。
『また来てもいいかもしれません』
「この店にですか」
『はい』
「……私と?」
樹里は神谷を見る。
『1人で来る理由はありませんから』
神谷は、しばらく何も答えなかった。
樹里が不思議そうに眉を寄せる。
『嫌ですか』
「いいえ」
神谷は首を振る。
「ぜひ、また一緒に来てください」
『分かりました』
次の予定は決めなかった。
いつ来るかも約束しない。
それでも2人の間には、今日だけでは終わらない言葉が残った。
また明日。
また今度。
未来を口にすることが苦手だった樹里が、少しずつ次の時間を約束し始めている。
それは本人さえまだ気づいていない、静かな変化だった。




