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95話「残された側」

昼を少し過ぎた頃、陽菜の部屋のインターホンが鳴った。


 ソファに座っていた陽菜は、テーブルへ手をつき、ゆっくり立ち上がる。


 今朝よりは動ける。


 そう思って一歩踏み出した途端、脇腹に鈍い痛みが走った。


『いった……』


 壁へ手をつき、痛みが引くのを待つ。


 もう一度インターホンが鳴った。


『今行くー』


 声を張ると、今度は頬が痛む。


 陽菜は顔を歪めながら玄関へ向かった。


 扉を開ける。


 美園が、大きな買い物袋を両手に持って立っていた。


『遅い』


『怪我人なんだから待ってよ』


『だから合鍵を渡してって言ったでしょ』


『いつ言ったの』


『今』


『それは言ったことにならないじゃん』


 美園は陽菜の顔と身体を確かめるように見る。


『痛みは?』


『ある』


『薬は飲んだ?』


『まだ』


『どうして』


『お昼食べてから飲もうと思って』


『もう昼過ぎだけど』


『今から食べるところだった』


 美園が陽菜の肩越しに部屋の中を見る。


 テーブルの上には、中井が用意した昼食が置かれたままになっていた。


『本当は?』


『中井くんが帰ってくるまで待とうかなって』


『あと何時間あると思ってるの』


『だって、一人で食べてもつまらないし』


『私が来るって言ったでしょ』


『来る時間までは聞いてなかった』


『LINEした』


『見てない』


『見なさいよ』


『はい』


 美園は呆れたように息を吐き、部屋へ入った。


『とりあえず座って』


『大丈夫だよ』


『昨日、何を学んだの』


『痛いときは痛いって言う』


『ほかには?』


『自分で決めない』


『じゃあ聞くけど、今は座った方がいい?』


『……座った方がいい』


『よろしい』


 陽菜は美園に背中を支えられ、ソファへ戻る。


 美園は買ってきたものをキッチンへ運んだ。


 袋の中から、飲み物、果物、食べやすそうな惣菜を取り出していく。


『買いすぎじゃない?』


『2、3日は買い物へ行かなくていいように』


『中井くんも色々置いていったよ』


『中井くんが来られない時間もあるでしょ』


『美園さん、あたしを甘やかす気だ』


『怪我が治るまでだけね』


『治ったって言わないようにしよう』


『病院に確認するよ』


『厳しい』


 美園は昼食を温め、陽菜の前へ運んだ。


 中井が作った野菜の煮物と、小さなおにぎり。


 容器の蓋には、付箋が貼られている。


【食べられる分だけでいいです。食後に薬を飲んでください】


 美園が付箋を読む。


『中井くんらしいね』


『朝からずっとこんな感じ』


『嫌?』


『まさか』


 陽菜は嬉しそうに付箋を剥がし、スマートフォンのケースへ挟んだ。


『取っておくの?』


『初めて中井くんが作ってくれたお弁当のメッセージだから』


『容器じゃなくて?』


『容器は邪魔じゃん』


『そこは現実的なんだ』


 美園が向かいへ座る。


『食べて』


『美園さんは?』


『私も買ってきた』


『じゃあ一緒に食べよう』


『そのつもり』


 二人で遅い昼食を始める。


 陽菜は箸を動かしながら、ときどき顔を歪めた。


 口を大きく開くと、切れた唇が痛む。


『食べさせようか?』


『自分で食べられる』


『中井くんには食べさせてもらったのに?』


 陽菜の箸が止まる。


『どうして知ってるの』


『当たった』


『怖い』


『本当に食べさせてもらったんだ』


『プリンだけ』


『随分、楽しそうだね』


『楽しかったよ』


 陽菜は照れもせずに答えた。


『中井くん、あーんしてくれた』


『よかったね』


『美園さんもしてほしい? 佐藤くんに』


『何の話?』


『今度頼んでみたら?』


『自分の心配をして』


『美園さんの恋愛も心配してる』


『必要ない』


『またまた』


 美園は煮物を口へ運びながら、陽菜を見た。


 いつもの調子が戻っている。


 それでも、頬の腫れと唇の傷は、昨日の出来事が現実だったことを示していた。


『中井くんとは、話せた?』


 陽菜の箸が止まる。


『うん』


『怒ってたね』


『聞こえてた?』


『少しだけ』


 正確には、部屋を出る前から十分に伝わっていた。


 中井は樹里にも、陽菜にも怒っていた。


 あれほど感情を露わにする姿を、美園も初めて見た。


『二人になってからも怒られた』


『何て?』


『死んでもいいと思ってたのかって』


『陽菜は何て答えたの』


『少しだけ、思ってたって』


 美園の箸が静かに置かれる。


『そう』


『怒らないの?』


『怒ってるよ』


『見えない』


『今さら怒鳴っても、昨日に戻れるわけじゃないから』


 美園は陽菜から目を逸らさない。


『それに、私が怒る前に中井くんが怒ってくれたんでしょ』


『うん』


『何て言われた?』


『あたしにとって自分の命が一番下でも、中井くんにとっては違うって』


 美園の表情が僅かに動く。


『いいこと言うね』


『うん』


『陽菜は、それを聞いてどう思ったの』


『嬉しかった』


 陽菜は素直に答えた。


『でも、怖くもなった』


『どうして?』


『そんなに大事にされる資格が、あたしにあるのかなって』


 美園の目が細くなる。


『また、そういうことを言う』


『だって』


『資格なんて誰が決めるの』


『分からないけど』


『総長?』


『違う』


『私?』


『違う』


『中井くん?』


『中井くんは、あるって言うと思う』


『なら、何が問題なの』


 陽菜は答えられなかった。


 美園は、陽菜の考えを急いで否定しなかった。


 自分の箸を取り、もう一口食べる。


『総長が言ったこと、覚えてる?』


『何?』


『会社よりも、親よりも、命よりも、私と陽菜が大事だって』


 陽菜の手が止まる。


『私の全てだって』


『……うん』


『どう思った?』


 陽菜は目を伏せる。


『嬉しかった』


『それだけ?』


『苦しかった』


 美園は黙って待った。


『あたしのせいで、総長が全部捨てたんだって思った』


『やっぱり』


『やっぱりって何』


『陽菜なら、そう受け取ると思った』


『間違ってる?』


『間違ってる』


 美園は、はっきりと言った。


『総長が私たちを全てだと言ったことと、陽菜が総長の人生に責任を負うことは別』


『でも、あたしがいなかったら――』


『4年前の事件は起きなかった?』


『うん』


『本当に?』


 陽菜が顔を上げる。


『陽菜がいなくても、Rose girlsは走ってた。総長は総長だった。いつか別の問題が起きていたかもしれない』


『でも、あの事件を起こしたのはあたし』


『それは否定しない』


 美園は陽菜を慰めるために、過去を美しく塗り替えなかった。


『陽菜は止まれなくなって、人を大怪我させた。間違えたよ』


『うん』


『総長も、一人で全部を決めて消えた。間違えた』


『うん』


『私も二人を止められなかった。何も知らないまま、待つことしかできなかった』


 美園の声が僅かに揺れる。


『私も、間違えた』


『美園さんは悪くない』


『そうやって一人だけ悪者を決めようとしないで』


 陽菜が口を閉じる。


『誰か一人が全部悪いなんてことにしたら、今度はその一人が自分を差し出そうとする』


 昨日まで、三人が繰り返してきたことだった。


 樹里は陽菜と美園を守るため、自分を差し出した。


 陽菜は樹里の4年間を返すため、自分を差し出した。


 そして美園も、二人を守るためなら自分が間へ入ろうとした。


『総長の言った“全て”は、借金じゃない』


『借金?』


『陽菜は、返さなきゃいけないものみたいに考えてるでしょ』


 陽菜は否定できなかった。


『返さなくていいの』


 美園の声が、柔らかくなる。


『私たちは、総長にとって大事。それだけ』


『でも、命よりって』


『あの人は極端だから』


『美園さんも嬉しかったんでしょ』


『嬉しかったよ』


 美園は微笑む。


『ずっと聞きたかったから』


『あたしも』


『うん』


『総長、そんなこと絶対に言わないと思ってた』


『私も思ってた』


『もう一回言ってくれないかな』


『一生言わないと思う』


『録音しておけばよかった』


『そんな余裕なかったでしょ』


『もったいないことした』


 二人は小さく笑った。


 その笑いが落ち着くと、陽菜は再び俯いた。


『美園さん』


『何?』


『4年間、どうしてたの』


 美園の表情から笑みが消える。


 これまで、陽菜は詳しく聞いたことがなかった。


 樹里が消えたあと。


 自分も混乱し、怒り、樹里を捜すことだけで精一杯だった。


 美園がその間に何を思い、どう生きていたのか。


 そばにいたからこそ、聞けなかった。


『普通に生きてたよ』


『嘘』


『店を開く準備をして、働いて、眠って、また起きた』


『総長を捜した?』


『捜した』


『どれくらい?』


『分からない』


 美園は窓の外へ目を向ける。


『見かけたって話があれば行った。似たバイクを見たって聞けば探した。昔の知り合いにも、何度も連絡した』


『あたしに言わなかったじゃん』


『陽菜も同じことをしてたから』


『一緒に捜せばよかった』


『二人で捜したら、止まれなくなると思った』


『……うん』


『どちらか一人は、帰る場所にいないといけないと思った』


 美園にとって、それがRoseだった。


 樹里がいつか帰ってきたとき。


 陽菜が疲れて戻ってきたとき。


 辿り着く場所が消えないように、美園は店を守った。


『待ってた?』


『待ってたよ』


『総長が戻るって、思ってた?』


『最初はね』


『途中からは?』


『戻らないかもしれないと思った』


 美園は淡々と答えた。


 その声が穏やかだからこそ、陽菜の胸に深く刺さる。


『一番怖かったのは、総長がいないことに慣れることだった』


『慣れる?』


『最初は毎日考えるの。今どこにいるんだろう。ちゃんと食べてるかな。怪我してないかなって』


 美園は自分の手を見る。


『でも、1年、2年って経つうちに、考えない日が出てくる』


『……うん』


『1日考えなかったことに気づいて、自分が嫌になる』


 陽菜の目から涙が落ちる。


『忘れたわけじゃないのに。生きていれば、総長がいない毎日にも慣れていく』


 美園は目を伏せた。


『それが怖かった』


『ごめん』


『どうして陽菜が謝るの』


『あたしが原因だったから』


『また、それ?』


『でも』


『私が陽菜に腹を立ててるのは、4年前の事件じゃない』


 美園は陽菜を見る。


『昨日、何も言わずにいなくなったこと』


『……うん』


『総長と同じように、私を置いていったこと』


『ごめんなさい』


『本当に怖かった』


 美園の目に涙が浮かぶ。


『組長から電話が来て、元副総長が乗り込んできたって聞いて』


 陽菜の唇が震える。


『また一人、いなくなると思った』


『美園さん』


『総長を迎えに来るのを、4年間待った』


 美園の涙が頬を伝う。


『次は陽菜まで待たなきゃいけないのかと思った』


『ごめん』


『だから、もう置いていかないで』


『うん』


『私を、待つだけの人にしないで』


 陽菜は立ち上がろうとした。


 脇腹に痛みが走る。


 それでも、美園の隣へ移ろうとする。


『動かないで』


『嫌』


『陽菜』


『今は動く』


 テーブルへ手をつき、ゆっくりと美園の隣へ座る。


 その肩へ、頭を預けた。


『ごめんね、美園さん』


『うん』


『あたし、美園さんなら分かってくれると思ってた』


『何を?』


『総長のためなら仕方ないって』


『分かるよ』


 美園は涙を拭う。


『分かるから、余計に腹が立つの』


『そっか』


『私も、同じことをするかもしれないから』


 陽菜は美園の手を握る。


『じゃあ、止める』


『うん』


『美園さんが一人で行こうとしたら、あたしと総長で止める』


『うん』


『あたしが行こうとしたら、二人で止めて』


『もう止めた』


『もっと早く』


『連絡しなさいよ』


『はい』


『総長が行こうとしたら?』


『二人で殴る』


『陽菜はもう殴らないで』


『じゃあ、美園さんが殴って』


『私も殴らない』


『どうやって止めるの』


『二人で抱きつく』


『総長、嫌がりそう』


『離れるまで離さない』


『それいいね』


 二人は涙を浮かべたまま笑った。


『三人で帰ろうって、言ったでしょ』


 美園が言う。


『うん』


『帰るときだけじゃないよ』


『え?』


『行くときも三人』


 陽菜は美園を見る。


『一人で終わらせようとしない。何かあるなら、三人で考える』


『中井くんも入れていい?』


 美園は少し驚いたあと、微笑んだ。


『陽菜のことならね』


『うん』


『でも、私たち三人にしか分からないこともある』


『それは、中井くんにも言った』


『何て?』


『全部理解したふりはしないって』


『中井くんが?』


『うん』


『本当にいい男だね』


『でしょ』


 陽菜は少しだけ誇らしそうに笑う。


『あげないよ』


『いらない』


『佐藤くんがいるから?』


『その話は今しない』


『照れてる』


『薬、飲まなくていいの?』


『話を逸らした』


『早く食べて』


『はーい』


 陽菜は元の席へ戻ろうとする。


 美園が先に立ち、身体を支えた。


『ゆっくり』


『うん』


 座り直し、残っていた昼食を食べる。


 美園は向かいへ戻らず、陽菜の隣に座った。


 二人の肩が触れる。


 離れずにいる。


 それだけでよかった。


          *


 昼食を食べ終え、陽菜が薬を飲む。


 美園は空になった容器の写真を撮った。


『何してるの?』


『証拠』


『誰に送るの』


『中井くん』


『やめて。子供みたいじゃん』


『ちゃんと食べたことを知らせるだけ』


『自分で送る』


『もう送った』


『早い』


 美園が送った相手は、中井ではなかった。


 三人だけのLINEグループ。


【陽菜、昼食完食。薬も飲んだ】


 すぐに樹里から返信が届く。


【分かった】


 それだけだった。


 続けて、もう一通。


【身体は】


 陽菜が美園の手からスマートフォンを取り、文字を打つ。


【痛いけど平気】


 送信すると、樹里から返ってくる。


【平気という言葉は使うな】


『日高先輩、面倒臭い』


『心配なんだよ』


 陽菜は少し考え、打ち直す。


【痛い。でも薬を飲んだし、美園さんがいるから安心してる】


 今度は、少し間があった。


【そうか】


 また短い返事。


 その後に届いたのは、たった四文字だった。


【また明日】


 陽菜の目が熱くなる。


 美園も画面を見ていた。


『総長なりに頑張ってるね』


『うん』


 陽菜は返信する。


【また明日】


 美園が、その下へ続ける。


【三人でね】


 樹里から返事は来なかった。


 既読だけがつく。


『返事ない』


『照れてるんだよ』


『仕事中だからでしょ』


『そっちか』


 二人は笑った。


 返事がなくても、もう不安にはならない。


 明日になれば、また会える。


 会えないなら、会えないと伝える。


 どこかへ行くなら、行き先を話す。


 帰ってくると約束する。


 当たり前のようで、4年前の三人にはできなかったことだった。


 樹里の『私の全て』は、二人を縛る鎖ではない。


 返さなければならない借りでもない。


 離れてはいけないという命令でもない。


 失いたくないと、初めて声にした言葉だった。


 だから陽菜も、美園も。


 自分を差し出すのではなく、生きて帰る。


 大切だと言われた自分を、大切にするために。


 それが二人から樹里へ返せる、唯一の答えだった。

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