94話「空席」
翌朝。
島川不動産営業部には、いつもより僅かに静かな時間が流れていた。
始業前。
社員たちはそれぞれの席でパソコンを立ち上げ、今日の予定を確認している。
電話はまだ少ない。
コピー機の作動音と、キーボードを叩く音だけが聞こえていた。
樹里は自分の席に座り、隣の机を見る。
陽菜の席には、誰もいない。
椅子は綺麗に収められ、机の上に置かれたペン立ても、昨日から動いていなかった。
普段なら、始業時刻ぎりぎりに陽菜が駆け込んでくる。
席へ鞄を置きながら樹里に挨拶し、パソコンの電源を入れる前に柚希へ話しかける。
凛に注意されれば笑ってごまかし、黒澤から声をかけられれば、何事もなかったような顔で背筋を伸ばす。
それがないだけで、営業部は驚くほど静かだった。
「日高」
声をかけられ、樹里が顔を上げる。
黒澤が自席からこちらを見ていた。
「少しいいか」
『はい』
樹里は立ち上がり、黒澤の席へ向かった。
「櫻井さんは、今日も休みでいいんだな」
『はい。本人から連絡はありましたが、まだ身体に痛みがあるそうです』
「医者には診せたのか」
『診察は受けています。骨折などはありません』
「そうか」
黒澤は短く息を吐く。
安心したようにも、まだ納得していないようにも見えた。
「私生活の揉め事に巻き込まれた、と昨日は聞いた」
『はい』
「警察は」
樹里の答えが、僅かに遅れる。
『今のところ、被害届を出す予定はありません』
「本人の意思か」
『そうです』
「日高さんの意思ではなく?」
樹里が黒澤を見る。
黒澤の声は普段と変わらない。
けれど、表情は真剣だった。
『櫻井さん本人の意思です』
「なら、今はそれでいい」
黒澤は書類へ目を落とす。
「詳しい事情まで話せとは言わない。俺が知りたいのは、会社の人間に今後も危険が及ぶ可能性があるかどうかだ」
『それはありません』
「断言できるのか」
『はい』
「相手と話はついている?」
『ついています』
黒澤が顔を上げる。
「日高さんがつけたのか」
樹里は答えなかった。
それだけで、十分な答えになっていた。
「昨日の朝、櫻井さんの欠勤を連絡してきたときから、おかしいと思っていた」
『申し訳ありません』
「謝ってほしいわけじゃない」
黒澤は椅子の背へ身体を預ける。
「ただし、会社の外で起きたことだからといって、一人で抱える必要はない」
『私一人ではありませんでした』
「そうか」
『中村さんと一緒でした』
「それなら、少しは安心だな」
黒澤は美園のことをよく知っているわけではない。
それでも以前に会った際の佇まいから、ただ樹里に守られるだけの人間ではないことは分かっていた。
「櫻井さんの仕事は、こっちで振り分ける。急ぎのものは早川さんと遠藤さんに確認してもらう」
『ありがとうございます』
「日高さん」
『はい』
「昨日も、ほとんど寝ていないだろ」
樹里の表情が僅かに固まる。
『問題ありません』
「その言葉を、櫻井さんにも言わせたのか」
『……言わせないようにしました』
「自分はいいのか」
昨日、陽菜と美園からも同じようなことを言われた。
樹里は答えに詰まる。
「今日は定時で帰れ」
『仕事が残っていれば――』
「残さないように働け」
『しかし』
「これは部長命令だ」
黒澤は樹里を見た。
「部下を心配するのも仕事のうちだ。だが、心配した人間が倒れたら仕事が増える」
『倒れません』
「神谷も、そう言うだろうな」
近くで書類を確認していた神谷の手が止まる。
「黒澤部長、どうしてそこで私を出すんですか」
「お前も抱え込む顔をしているからだ」
「私は適切に周囲へ相談しています」
「今はな」
「今後もです」
神谷はそう答えたが、黒澤は信用していないような目を向けた。
樹里は二人のやり取りを聞きながら、自分の席へ戻ろうとする。
「日高さん」
『はい』
「定時だぞ」
『……承知しました』
樹里が離れる。
神谷はその背中を見送り、黒澤へ小声で尋ねた。
「櫻井さんに、何かあったんですか」
「私生活で揉め事に巻き込まれたそうだ。今日も休みだ」
「怪我は?」
「骨折はない。詳しいことは聞くな」
「分かりました」
「日高さんにもだ」
「分かっています」
そう答えながら、神谷は自分の席へ戻る樹里を見た。
いつもと同じ背筋。
いつもと同じ表情。
けれど、その足取りに僅かな重さがあることを、神谷は見逃さなかった。
*
「陽菜さん、大丈夫なのかな」
休憩時間になると、柚希が陽菜の空席を見ながら呟いた。
「昨日から休みですよね」
凛も心配そうに机を見る。
「風邪ではないと聞きましたけど」
「中井くん、何か知ってる?」
柚希に尋ねられ、中井は持っていたカップを置いた。
「私生活で、少し揉め事に巻き込まれたそうです」
「揉め事?」
「怪我はしていますが、骨折などはありません。今は休んでいます」
「怪我したの?」
柚希の声が大きくなる。
周囲の視線が集まり、中井が慌てて声を落とすよう促した。
「すみません。詳しいことは、俺からは話せません」
「会ったの?」
「はい」
「本当に大丈夫?」
柚希の問いに、中井は僅かに迷う。
大丈夫だと簡単に答えない。
陽菜と交わした約束を、自分も守ろうとしていた。
「命に関わるような怪我ではありません」
「そう……」
「でも、元気とは言えないので、少し休むと思います」
凛が中井を見る。
「中井さんも、あまり眠れていないんじゃないですか」
「俺は大丈夫です」
「その言葉、今は信用しない方がよさそうですね」
中井が言葉に詰まる。
凛は眼鏡の位置を直し、陽菜の机の上にある書類へ目を向けた。
「櫻井さんが担当していた分は、私たちで確認します」
「俺も手伝います」
「中井さんは自分の仕事を優先してください。終わったら、陽菜さんのところへ行くんでしょう?」
「はい」
「なら、残業しないで帰れるようにしてください」
「でも」
「ここは私たちで大丈夫です」
「そうそう」
柚希も頷く。
「中井くん、仕事終わったら陽菜さんのところに行ってあげて」
「ありがとうございます」
「あと、私たちが心配してたって伝えて」
「分かりました」
「写真も欲しい」
「それは本人に聞いてください」
「元気そうな顔だけでも見たいじゃん」
「顔に怪我があるので、今は嫌がると思います」
柚希の表情が曇る。
「そんなに?」
「治る怪我です」
「誰かに殴られたの?」
中井は答えなかった。
その沈黙を見て、柚希もそれ以上は聞けなくなる。
彩花は少し離れた席で、三人の会話を聞いていた。
手元の書類へ目を落としているが、ページは先ほどから一度も進んでいない。
「櫻井の担当、どれ」
突然、彩花が口を開いた。
凛が振り返る。
「こちらと、こっちです」
「一つ寄越して」
「森下さんも案件を抱えていますよね」
「この程度なら増えても変わらない」
「でも」
「櫻井が戻ってきたとき、机の上を仕事だらけにしておくつもり?」
凛は彩花を見る。
相変わらず、言い方は素直ではない。
「ありがとうございます」
「櫻井のためじゃない。戻ってきた途端に騒がれたら、こっちが迷惑だから」
「そういうことにしておきます」
「遠藤さん」
「何ですか」
「余計な解釈をしないで」
「していません」
凛は真顔で答える。
柚希が隣で笑いを堪えていた。
「早川さんも、何がおかしいの」
「何でもないです」
「絶対笑ってるでしょ」
「森下さん、優しいなと思って」
「一つ減らす?」
「ごめんなさい」
いつものような会話が始まる。
中井はその様子を見ながら、陽菜の席へ目を向けた。
本人がいなくても、陽菜を中心に人が動いている。
あの席へ戻ってくることを、皆が当然のように待っていた。
*
昼休み。
柚希は迷った末、陽菜へLINEを送った。
【陽菜さん、大丈夫?】
返信は、すぐには来なかった。
五分ほど経ってから、スマートフォンが震える。
【生きてるよー】
いつもの陽菜らしい文面だった。
【中井くんに怪我したって聞いた】
【密告された】
【みんな心配してる】
【中井くんは?】
【仕事してる】
【ちゃんとできてる?】
柚希は顔を上げ、中井を見る。
パソコンへ向かい、真剣な顔で入力している。
【してるよ】
【上の空じゃない?】
【ちょっとだけ】
【帰ってきたら叱っとく】
【陽菜さんが言える立場?】
【何で?】
【無茶したんでしょ】
少し間が空く。
【怒られた】
【誰に?】
【全員】
【私も怒りたい】
【予約制になっております】
【じゃあ予約する】
【3か月待ちです】
【長い】
【人気だから】
柚希は、ようやく少し笑った。
【戻ってきたら直接怒る】
【優しくしてね】
【怪我治ってからにする】
【怖い】
【待ってるから】
送信してから、柚希の指が止まる。
少し恥ずかしくなり、取り消そうか迷った。
その前に既読がつく。
【うん】
続けて、もう一通届く。
【帰るから待ってて】
柚希は画面を見つめた。
ただの欠勤。
数日すれば戻ってくる。
そう分かっているのに、その言葉が不思議なくらい胸に残った。
【待ってる】
柚希はもう一度送った。
*
その頃、陽菜は自宅のソファに座っていた。
中井は出社し、今夜また来ると言っていた。
一人にすることを最後まで心配していたが、美園が昼過ぎに様子を見に来ると約束したことで、ようやく会社へ向かった。
陽菜の前には、薬と水。
テーブルの上には、今朝中井が作っていった昼食が置かれている。
スマートフォンには、柚希とのLINEが残っていた。
【待ってる】
短い言葉。
陽菜は画面を指で撫でる。
これまで、自分がいなくても誰かが困らないようにすることが、優しさだと思っていた。
仕事を引き継ぐ。
迷惑をかけない。
心配させない。
黙って片づけて、笑って帰る。
それができる自分でいたかった。
だが、空いた席を見てくれる人がいる。
仕事を代わってくれる人がいる。
帰りを待ってくれる人がいる。
その事実を拒まないことも、誰かを大切にすることなのかもしれない。
陽菜は営業部のグループLINEを開いた。
欠勤中に業務連絡以外を書き込むのは迷った。
だが、少し考えてから文字を打つ。
【ご心配をおかけしてすみません。数日お休みします。戻ったらまたよろしくお願いします】
送信する。
数秒もしないうちに、柚希から返信が来た。
【待ってます!】
続いて、凛。
【仕事は心配しないで、ゆっくり休んでください】
彩花からも届く。
【早く治しなさい。あなたの仕事まで押しつけられて迷惑】
陽菜は思わず笑った。
脇腹へ痛みが走る。
『痛い……』
それでも、笑みは消えなかった。
最後に、黒澤から返信が届く。
【休むことも仕事だ。出社の判断は医師と俺がする。勝手に来るな】
『黒澤部長まで』
陽菜は小さく呟く。
中井からも個別にLINEが届いた。
【昼食、食べられそうですか】
【今から食べる】
【薬も忘れないでください】
【中井くんがいないと寂しくて食べられない】
【では、中村さんが来るまで待ってください】
【そこは今すぐ帰るって言ってよ】
【仕事中です】
【冷たい】
【定時で帰ります】
陽菜の指が止まる。
【待ってる】
送信すると、すぐに返事が来た。
【はい。帰ります】
陽菜はスマートフォンを胸元へ抱く。
昨日まで、自分が帰ることばかりを考えていた。
今日は、誰かが帰ってくるのを待っている。
それは少しだけ落ち着かなくて。
思っていたよりも、ずっと嬉しかった。
島川不動産には、陽菜の空席がある。
その席を埋める者はいない。
仕事だけなら、誰かが代われる。
けれど、陽菜が戻る場所は、陽菜にしか埋められない。
そして今、その場所では多くの人が、彼女の帰りを待っていた。




