93話「帰る約束」
「陽菜さんは、あの場所で死んでもいいと思っていましたか」
中井の問いに、陽菜はすぐに答えられなかった。
繋いだ手から、中井の震えが伝わってくる。
嘘をつかないと約束した。
それでも、正直に答えれば中井を傷つける。
そのことが分かっていた。
『……少しだけ、思ってた』
中井の顔が歪む。
「どうしてですか」
『総長が失ったものを、返したかったから』
「陽菜さんが死ねば、返せると思ったんですか」
『分からない』
「分からない?」
『あのときは、そこまで考えてなかった』
陽菜は視線を落とす。
『あたしのせいで、総長は四年間も消えてた。美園さんも、ずっと待ってた。それを聞いたら、頭の中が真っ白になった』
「はい」
『あたしが原因なら、あたしが責任を取れば、全部元に戻せるような気がした』
「戻らないと分かっていたのに?」
『分かってたよ』
「だったら、どうして」
『分かってても、何かしたかったの』
陽菜の声が大きくなる。
『総長があたしのために人生を捨てたって聞いて、そのまま何もしないなんてできなかった』
「何もしないことと、一人で死にに行くことの間には、もっとたくさん選択肢があります」
『あのときは見えなかったの!』
陽菜が叫んだ。
脇腹に痛みが走り、身体を丸める。
「陽菜さん」
『大丈夫』
「その言葉はやめてください」
『……痛い』
陽菜は、言い直した。
『脇腹が痛い』
中井は繋いでいない方の手を伸ばしかける。
しかし、どこへ触れればいいのか分からず、途中で止めた。
「横になりますか」
『まだいい』
「無理はしないでください」
『うん』
息を整え、身体を起こす。
中井は何も急かさない。
陽菜が話せるようになるまで待っていた。
『死にたかったわけじゃない』
陽菜が、小さく続ける。
「でも、死んでもいいと思った」
『うん』
「僕には、違いが分かりません」
『あたしにも、うまく説明できない』
陽菜は自分の胸元へ手を置く。
『生きたくないわけじゃなかった。中井くんと、もっと一緒にいたかった。総長や美園さんとも、ずっと一緒にいたかった』
「なら――」
『でも、そのときのあたしの中では、自分の命が一番下だった』
中井の口が閉じる。
『総長の四年間。美園さんの四年間。傷つけた人。守れなかった仲間。全部並べたら、あたしだけがどうなってもいいように思えた』
「よくありません」
『今は分かってる』
「本当に分かっていますか」
『分かってるよ』
「昨日も同じことを言えましたか」
陽菜は答えられなかった。
中井の言葉は厳しい。
だが、陽菜を責めて気持ちよくなろうとしているのではない。
聞きたくない答えからも、逃げようとしていなかった。
「陽菜さんにとって、自分の命が一番下でも」
中井の目から、また涙が落ちる。
「僕にとっては違います」
陽菜の指が動く。
「僕は、陽菜さんに生きていてほしい」
『うん』
「怪我もしてほしくない」
『うん』
「どこかへ行くなら、帰ってきてほしい」
『うん』
「それを、陽菜さんの中の順番だけで決めないでください」
『……うん』
「日高さんや中村さんを守りたい気持ちは、分かります」
中井は涙を拭わなかった。
「でも、二人を守るためなら陽菜さんが死んでもいいなんて、俺は認められません」
『総長も、同じことを考えたんだと思う』
「日高さんにも認めません」
『言える? 日高先輩に』
「言いました」
『そうだった』
陽菜の口元が僅かに緩む。
『あんなに日高先輩へ怒る中井くん、初めて見た』
「怖かったです」
『怖かったんだ』
「今も怖いです」
『でも、言ってくれた』
「腹が立ったので」
『どっち?』
「両方です」
中井は繋いだ手へ視線を落とす。
「自分を大切にしない人が、人を守れると思わないでください」
『それは、ちょっと綺麗すぎる』
陽菜が静かに言った。
中井が顔を上げる。
『自分を捨てないと、守れないときもあるよ』
「それでも駄目です」
『もし中井くんが誰かに襲われてたら、あたしは飛び込む』
「来ないでください」
『無理』
「警察を呼んでください」
『呼びながら行く』
「行かないでください」
『目の前で中井くんが傷つけられてるのに、見てろって言うの?』
「陽菜さんが代わりに傷つけば、俺が喜ぶと思いますか」
『思わない』
「なら――」
『それでも行く』
陽菜は譲らなかった。
『それがあたしだから』
中井の眉が寄る。
『あたし、自分だけ安全なところにいるなんてできない』
「それで昨日のことを正当化するんですか」
『しない』
陽菜は首を振った。
『昨日は間違えた。一人で決めて、一人で行った。何も考えずに、自分を差し出そうとした』
「はい」
『でも、もう二度と危ないことをしないとは約束できない』
「陽菜さん」
『できない約束はしたくない』
陽菜は中井の目を見た。
『大切な人が危ないときに、あたしは動く。それをやめたら、あたしじゃなくなる』
中井は何かを言おうとして、やめた。
陽菜の無鉄砲さを肯定することはできない。
けれど、そのすべてを否定すれば、陽菜が仲間を守ってきた生き方まで否定することになる。
「では、何なら約束できますか」
中井が尋ねた。
陽菜は少し考える。
『一人では行かない』
「本当ですか」
『うん』
『総長や美園さんに話す。中井くんにも、話せることは話す』
「話せないことがあったら?」
『話せない理由を言う』
「黙っていなくならない?」
『いなくならない』
「連絡を切らない?」
『切らない』
「帰ってきますか」
陽菜の目が揺れる。
『帰ってくる』
「どんなことがあっても?」
『それは言い切れない』
中井の顔が強張る。
『事故だってあるし、本当に何が起きるかは分からないじゃん』
「そういうことを聞いているんじゃありません」
『分かってる』
陽菜は中井の手を両手で包む。
『帰るつもりで行く』
中井を見つめる。
『自分を置いていかない。絶対に戻るつもりで動く』
「……はい」
『だから、待ってて』
「待つだけですか」
『一緒に来られるなら来て』
中井が僅かに目を見開く。
『危なくて来てほしくないときは、ちゃんと説明する。それで中井くんに決めてもらう』
「止めるかもしれません」
『そのときは話し合う』
「聞かないかもしれません」
『押さえつけてでも聞かせる』
「怪我人が何を言っているんですか」
『治ったら強いよ、あたし』
「知りません」
『昨日、何人も倒した』
「自慢しないでください」
『はい』
陽菜は素直に返事をした。
中井が大きく息を吐く。
怒りが消えたわけではない。
陽菜の考えに納得したわけでもない。
今後、同じようなことが起きたとき、本当に約束を守れるのかも分からない。
それでも、二人はようやく同じ約束を見つけた。
危険から一生逃げ続ける約束ではない。
自分を捨てないこと。
一人で決めないこと。
帰る場所を忘れないこと。
「僕からも、約束していいですか」
『何?』
「陽菜さんが話したことを、勝手にほかの人へ言いません」
『うん』
「全部理解したふりもしません」
『うん』
「納得できないことは、これからも言います」
『お手柔らかに』
「それは内容によります」
『厳しいなあ』
「ただ」
中井が言葉を切る。
「怖くなっても、逃げません」
陽菜は中井を見る。
「すぐに答えが出なくても、陽菜さんを一人にして答えを探しません」
『……うん』
「今日みたいに、同じ場所で話します」
『うん』
「だから陽菜さんも、僕を置いていかないでください」
陽菜の目から涙が落ちる。
『うん』
「約束できますか」
『約束する』
中井は、ようやく陽菜の手を強く握った。
陽菜も握り返す。
しばらく、どちらも話さなかった。
綺麗に解決したわけではない。
陽菜の過去は消えない。
中井の混乱も、今夜だけでは消えない。
それでも、二人の間を隔てていたものは、少しだけ形を変えた。
見えない壁ではなくなった。
二人で向き合うことのできる問題になった。
『中井くん』
「はい」
『抱き締めてほしい』
中井の身体が僅かに固まる。
『嫌?』
「嫌ではありません」
『じゃあ、お願い』
「怪我に触れそうで怖いです」
『ゆっくりなら平気』
「痛かったら、すぐに言ってください」
『言う』
中井は陽菜の隣へ座る。
傷の少ない側から腕を回し、慎重に身体を引き寄せた。
陽菜は中井の胸元へ頬を預ける。
『痛くない?』
「それは僕の台詞です」
『中井くんの胸、あたしの顔が当たってるけど』
「痛くありません」
『あたしも平気』
中井の腕が、僅かに強くなる。
『中井くん』
「はい」
『嫌いになった?』
中井は、すぐには答えなかった。
陽菜も答えを急かさない。
「腹は立っています」
『うん』
「理解できないこともあります」
『うん』
「怖いとも思っています」
『うん』
「でも、嫌いにはなっていません」
陽菜が中井の服を掴む。
「好きだから、こんなに腹が立つんだと思います」
『そっか』
「はい」
『あたしも好き』
陽菜は目を閉じる。
『前より、もっと好きになった』
「どうしてですか」
『ちゃんと怒ってくれたから』
「普通は、怒られたら嫌になるものでは」
『中井くん、あたしに嫌われたくなくて、何でも我慢しそうだったから』
「そんなことはありません」
『してたよ』
「していません」
『今までの中井くんなら、あたしが何を言っても、はいって言ってた』
「陽菜さんが無茶を言うからです」
『それを断るようになった』
「成長しました」
『自分で言うんだ』
陽菜が笑う。
笑ったことで脇腹が痛み、身体が僅かに震えた。
中井がすぐに腕を緩める。
「痛みましたか」
『ちょっと』
「やはり離れます」
『嫌』
「でも」
『このままがいい』
「痛いのに?」
『痛くても、今は離れたくない』
「そういう我慢をしない約束をしたばかりでしょう」
『じゃあ、もっと優しくして』
「どうすればいいですか」
『そこから一緒に考えて』
中井は困ったように息を吐く。
それでも腕を離さず、陽菜が楽に寄りかかれる位置を探した。
陽菜も自分の身体を少し動かす。
『そこ』
「痛くないですか」
『うん』
「苦しくない?」
『大丈夫』
中井の眉が動く。
『本当に大丈夫。これは禁止しないで』
「本当なら、構いません」
『中井くん』
「はい」
『ここに帰ってきてよかった』
中井の腕に力が入る。
陽菜も、目を閉じたまま中井へ身体を預けた。
誰かに守られることは、弱くなることではない。
誰かへ帰ることも、自分を捨てることではない。
自分の痛みを伝え、相手の痛みを知り、それでも同じ場所に残る。
陽菜は、ようやく少しだけ分かり始めていた。
*
しばらくして、美園が置いていった紙袋の存在を思い出した。
『プリン』
「急ですね」
『ご褒美、まだ食べてない』
「何のご褒美ですか」
『ちゃんと話したご褒美』
「中村さんも同じことを言っていましたね」
『美園さんが決めたから』
「もう遅いですよ」
『プリンに門限はないよ』
「薬も飲まないといけないので、少しなら」
『やった』
中井が冷蔵庫からプリンを持ってくる。
蓋を開け、スプーンと一緒に陽菜へ渡した。
『食べさせて』
「腕は動きますよね」
『怪我人』
「先ほど、自分は強いと言っていました」
『今は弱い』
「都合がいいですね」
『中井くんの前では弱くてもいいかなって』
中井の手が止まる。
陽菜は冗談を言ったつもりだった。
だが、口にしたあとで、その言葉が自分の中に静かに落ちていく。
中井はスプーンを受け取り、プリンを一口分掬った。
「口を開けてください」
『いいの?』
「今回だけです」
『あーん』
「声は出さなくていいです」
陽菜がプリンを口に含む。
甘さが広がる。
『美味しい』
「よかったです」
『もう一口』
「自分で食べられますよね」
『中井くんの前では弱くていいんでしょ』
「僕は言っていません」
『でも食べさせてくれた』
「今回だけです」
『じゃあ、今回を長くしよう』
「どれくらいですか」
『一生』
「長すぎます」
中井は呆れながらも、もう一度プリンを掬った。
陽菜は口を開ける。
昨夜、自分の命を勘定から外した女が。
今は一口のプリンを食べるために、恋人の前で待っている。
それは誰にも気づかれないほど小さなことだった。
けれど陽菜にとっては、自分を生きる側へ戻すための、確かな一歩だった。




