92話「関係ないことにしないで」
夜になり、樹里と美園が中井の部屋を訪れた。
陽菜は朝から何度も時計を見ていた。
話すと決めた。
中井にも、そう伝えた。
それでも、時間が近づくほど胸の奥が重くなっていった。
何から話せばいいのか。
どこまで話せばいいのか。
何を知れば、中井は自分を見る目を変えるのか。
考えているうちに、いつものような軽口さえ出なくなっていた。
インターホンが鳴る。
立ち上がろうとした陽菜を、中井が制した。
「俺が出ます」
『歩けるよ』
「歩けることと、安静にしなくていいことは別です」
『はーい』
返事はしたが、声に力がない。
中井は何も言わず、玄関へ向かった。
扉が開く。
「こんばんは」
『遅い時間に申し訳ありません』
「いえ。入ってください」
樹里と美園が部屋へ入ってくる。
樹里は中井へ小さく頭を下げ、美園は持っていた紙袋を掲げた。
『差し入れ。陽菜が食べられそうなものを持ってきたよ』
「ありがとうございます」
『美園さん、何持ってきたの?』
『果物とプリン』
『プリン』
陽菜の目に僅かに光が戻る。
『今食べる?』
『話が終わってから』
『逃げたね』
『逃げてない。ご褒美に取っておくの』
『何のご褒美だ』
樹里が口を挟む。
『陽菜がちゃんと話せたご褒美』
『子供じゃないんだから』
『プリンに年齢制限ないじゃん』
『そういう話ではない』
二人のやり取りを聞き、陽菜が小さく笑う。
緊張を和らげるために、美園がわざと普段通りに振る舞っている。
樹里も分かっているのだろう。
厳しい言葉とは裏腹に、声は穏やかだった。
中井が三人分の飲み物を用意する。
陽菜と中井が並んでソファに座り、その向かいへ樹里と美園が腰を下ろした。
テーブルの上に四つのグラスが並ぶ。
誰も手を伸ばさなかった。
静かな部屋で、時計の秒針だけが聞こえる。
陽菜は膝の上で両手を組んでいた。
何度か口を開きかける。
しかし、声が出ない。
中井は催促しなかった。
樹里も、美園も待っていた。
『……六年前』
ようやく、陽菜が話し始める。
『あたしたちは、Rose girlsっていうチームを作った』
中井の目が、美園へ向く。
「Rose……」
『私の店の名前も、そこから取ったの』
美園が答える。
『バイクが好きな女の子ばかりで作ったチーム』
陽菜は続ける。
『でも、みんなで楽しく走るだけのチームじゃなかった』
自分の言葉で説明することが、思っていたよりも難しい。
過去を隠すために、何度も言葉を選んできた。
だが、明かすための言葉は用意していなかった。
『喧嘩もした。敵対するチームもいた。特攻服を着て、夜の街を走ってた』
中井は何も言わない。
陽菜は横顔を見られなかった。
『日高先輩が、Rose girlsの総長だった』
中井の視線が、樹里へ向く。
昨夜、陽菜が口にした呼び方。
昔の呼び方だと美園は説明した。
その意味が、ようやく繋がった。
「日高さんが……」
『はい』
樹里は、中井の視線を正面から受け止めた。
『私は、そのチームの総長でした』
『あたしが副総長』
陽菜の声が震える。
『美園さんも、ずっと一緒にいた』
『うん』
美園が静かに頷いた。
『総長が一番強くて、怖くて、何でも一人で決めた』
『余計な説明を入れるな』
『でも本当じゃん』
『今は真面目に話せ』
『真面目だよ』
いつもの調子で返したつもりだった。
だが、陽菜の笑顔はすぐに消えた。
『四年前、事件があった』
中井の表情が変わる。
陽菜は自分の手を見つめた。
『仲間の一人が、男に酷い目に遭わされそうになった』
当時の光景が、記憶の底から浮かぶ。
泣いていた仲間。
腕を掴んでいた男。
助けを求める声。
頭の中が真っ白になった。
気づいたときには、もう止まれなかった。
『あたしは、その男を殴った』
中井の指が僅かに動く。
『一度や二度じゃない。止められても、やめなかった』
陽菜は唇を噛む。
傷口に触れ、痛みが走る。
『大怪我をさせた』
「その男が、昨日の人たちと関係していたんですか」
『うん』
陽菜は頷いた。
『ただの喧嘩じゃ済まなかった。その人の後ろに、あの組がいた』
「報復されることになった」
中井の声が低くなる。
『そう』
「それで、日高さんが交渉したんですか」
陽菜が顔を上げる。
「昨日、そういう話が出ていました」
『……うん』
「どんな交渉をしたんですか」
陽菜の口が閉じる。
ここから先を、中井に話すのが怖かった。
自分のせいで、樹里が何を失ったのか。
それを知られたとき、中井がどんな目で自分を見るのか。
『櫻井さん』
樹里が呼ぶ。
陽菜は樹里を見た。
『無理なら、私が話す』
『駄目』
陽菜は首を振った。
『あたしが話す』
樹里はそれ以上、口を挟まなかった。
陽菜は深く息を吸う。
『日高先輩は、一人で組事務所へ行った』
中井の眉が寄る。
『Rose girlsの全員に手を出さないこと。あたしと美園さんにも、二度と近づかないこと。それを約束させた』
「代わりに、何を差し出したんですか」
中井は、すぐに核心へ触れた。
無条件で相手が受け入れるはずがないと分かっている。
陽菜は声を絞り出す。
『チームを解散させること』
樹里は動かない。
『総長を辞めること』
美園が俯く。
『あたしたちの前から、消えること』
中井の呼吸が止まる。
『日高先輩は、それを受け入れた』
陽菜の目から涙が落ちた。
『何も言わないで、いなくなった』
室内が静まり返る。
「四年間」
中井が呟く。
「日高さんが姿を消していたのは、そのためですか」
『はい』
樹里が答えた。
「会社からも?」
『退職まではしていません。ただ、櫻井さんや美園との関係を完全に断ちました』
「どうして、二人に言わなかったんですか」
声はまだ静かだった。
けれど、その奥に抑えられた感情があった。
『知れば、二人が止めると思ったからです』
「止めますよ」
『だからです』
「それで何も言わずに消えたんですか」
『はい』
「二人がどう思うかは、考えなかったんですか」
樹里の表情が僅かに強張る。
美園が中井を見る。
陽菜も驚いたように顔を上げた。
中井が樹里へ、ここまで踏み込んだ言葉を向けたことはなかった。
『考えていました』
「だったら――」
『それでも、そうするしかないと思っていました』
樹里は逃げずに答える。
『私が二人の前から消えれば、全員を守れる。ほかの方法はないと思っていました』
「日高さん一人が、そう決めたんですか」
『はい』
「それを守ったとは言わないでしょう」
中井の声が大きくなった。
樹里は何も言い返さない。
「何も知らないまま置いていかれて、守られたと思えるわけがない」
『中井くん』
陽菜が、思わず名前を呼ぶ。
「昨日、俺が何も知らずに待っていたのは数時間です」
中井の手が震えていた。
「それでも、怖くて仕方がなかった」
視線が、美園へ向く。
「中村さんと陽菜さんは、それを四年間ですか」
『そうだよ』
美園は静かに答える。
中井が立ち上がった。
急な動きに、陽菜の肩が僅かに跳ねる。
中井はそれに気づいた。
何かを言おうとしたが、言葉にならない。
拳を握り、樹里へ背を向ける。
「すみません」
呼吸を整えようとしている。
「今、冷静に話せません」
『構いません』
樹里の声は穏やかだった。
『怒って当然です』
「日高さんに怒る資格が、僕にあるのかも分かりません」
『あります』
樹里ははっきりと言った。
『今の櫻井さんを大切に思っているなら、怒ってください』
「なら、言います」
中井が振り返る。
「どうして、今も同じことをするんですか」
樹里の目が揺れる。
「昨日も、自分一人を差し出そうとしたんですよね」
『……はい』
「四年前に二人を置いていったのに、また同じことをしようとしたんですか」
『中井くん、もう――』
『陽菜』
美園が止める。
『中井くんに話してもらおう』
中井は樹里を見ていた。
「また陽菜さんの前からいなくなるつもりだったんですか」
『そうなる可能性も考えていました』
「陽菜さんがどうなるか分かっているのに?」
『それでも、生きていてくれるなら』
「それが駄目なんです」
中井の声が震える。
「生きてさえいれば、何をしてもいいわけじゃないでしょう」
樹里は唇を結ぶ。
「置いていかれた人が、そのあとどうやって生きるのかまで考えてください」
『……はい』
「簡単に返事をしないでください」
初めてだった。
中井が樹里に、声を荒らげた。
樹里は怒らなかった。
目を逸らさず、その言葉を受け止めている。
「僕は、昨日だけで耐えられなかったんです」
中井の目が赤くなる。
「四年間なんて、想像もできない」
美園が俯く。
陽菜の目から、次々と涙が零れた。
「なのに、陽菜さんまで同じことをした」
中井の視線が陽菜へ移る。
その目にあるのは、同情ではなかった。
怒りだった。
悲しみだった。
理解できないという、ありのままの混乱だった。
「日高さんが自分の代わりに四年間を差し出したと知って、どうして同じ方法を選んだんですか」
『あたしが、返さなきゃって思ったから』
「何をですか」
『総長の人生を』
「返せると思ったんですか」
陽菜は答えられない。
「陽菜さんが同じだけ傷つけば、日高さんの四年間が戻るんですか」
『戻らない』
「分かっていたんですか」
『あのときは……そこまで考えられなかった』
「それで、また一人で行ったんですか」
『ごめん』
「謝罪が聞きたいわけじゃありません」
中井の声が、さらに大きくなる。
「どうして俺に言ってくれなかったんですか」
『中井くんを巻き込みたくなかった』
「俺のためだと言わないでください」
陽菜の肩が震える。
「自分一人で決めたことを、俺のためにしないでください」
『……うん』
「もし昨日、日高さんたちが間に合わなかったら、どうなっていたんですか」
答えは誰にも言えなかった。
「俺は何も知らないまま、陽菜さんが帰ってくるのを待ち続けたんですか」
『ごめんなさい』
「だから、謝ってほしいんじゃない!」
中井の声が、部屋に響いた。
陽菜の身体が強張る。
中井自身も、声を荒らげたことに驚いていた。
唇を噛み、顔を逸らす。
「……すみません」
今度は、誰もすぐには答えなかった。
中井は両手で顔を覆った。
「何て言えばいいのか、分かりません」
掠れた声だった。
「喧嘩をしていたことも、人に大怪我をさせたことも、正直、簡単には受け止められません」
陽菜の顔から血の気が引く。
恐れていた言葉だった。
「日高さんが四年間も姿を消したことも、それを誰にも話さなかったことも、理解できません」
樹里は黙っている。
「中村さんが、その間ずっと一人で二人を待っていたことも……僕には想像することしかできない」
美園の指が膝の上で組まれる。
「今、全部聞いたからといって、分かったとは言えません」
中井が顔から手を離す。
目には涙が溜まっていた。
「大丈夫だとも言えません」
陽菜は俯いた。
分かっていたはずだった。
中井へ話せば、こうなる可能性もある。
それでも胸の奥では、優しい中井なら受け入れてくれると期待していた。
その期待が崩れていく。
『……そっか』
声が震えた。
『ごめんね。急にこんな話をして』
「違います」
『今日は二人に帰ってもらうね』
「どうしてですか」
『中井くんも、一人で考えたいでしょ』
「どうして、また勝手に決めるんですか」
陽菜が顔を上げる。
「ここは俺の部屋です」
『うん』
「どうして陽菜さんが、俺を一人にするかどうかまで決めるんですか」
『だって……』
「俺は、出ていくなんて言っていません」
『でも、大丈夫じゃないって』
「大丈夫ではありません」
中井は陽菜の前へ歩み寄る。
「だから、ここから話すんでしょう」
『中井くん』
「分からないから聞きます。納得できないから怒ります。怖いから、怖いと言います」
中井は陽菜の前に膝をついた。
昨夜、病院でそうしたときと同じように。
ただし今は、触れなかった。
「それを全部飛ばして、昔のことなんて関係ないとは言えません」
陽菜の目から涙が落ちる。
「関係あります」
中井の声は、まだ震えていた。
「好きだから、関係あります」
陽菜の唇が震える。
「陽菜さんが誰かを傷つけたことも、四年間苦しんだことも、昨日一人で行ったことも、全部、関係あります」
『……うん』
「関係ないことにしないでください」
『うん』
「俺にとっても、もう関係のあることです」
中井の目から、堪えていた涙が落ちた。
「今すぐ全部受け止めろと言われても、無理です」
『うん』
「でも、陽菜さんを嫌いになったとも、別れたいとも言っていません」
『……うん』
「勝手に終わらせないでください」
『うん』
「何回言わせるんですか」
『ごめん』
「謝らないでください」
『じゃあ、何て言えばいいの』
中井も答えられなかった。
怒っている。
悲しい。
怖い。
それでも離れたくない。
相反する感情が、中井の中でも整理できていない。
「分かりません」
中井は正直に答えた。
「今は、分かりません」
陽菜は泣きながら、ほんの僅かに笑った。
『そっか』
「はい」
『分からないって言ってくれて、ありがとう』
「感謝されることではありません」
『それでも』
陽菜は膝の上に置いていた手を、ゆっくりと差し出す。
中井はその手を見た。
すぐには握らなかった。
陽菜も催促しない。
差し出したまま待っていた。
やがて中井の手が重なる。
強くはない。
昨日までのような、迷いのない手でもない。
それでも、離れなかった。
『日高先輩』
陽菜が樹里を見る。
『美園さん』
『うん』
『もう少し、中井くんと二人で話してもいい?』
樹里は立ち上がる。
『もちろんです』
美園も紙袋をテーブルへ置いた。
『プリン、冷蔵庫に入れておくね』
『ありがとう』
中井が二人を見る。
「日高さん」
『はい』
「さっきは、失礼なことを言いました」
『いいえ』
樹里は首を振る。
『中井さんの言う通りです』
「僕はまだ、日高さんがしたことを理解できません」
『理解しなくていいと思います』
「それでも、聞きたいことがあります」
『いつでも答えます』
「逃げませんか」
樹里の表情が僅かに動く。
「聞かれたくないから、また二人の前からいなくなったりしませんか」
『しません』
「本当ですか」
『約束します』
中井はしばらく樹里を見つめたあと、頭を下げた。
「分かりました」
美園が樹里の隣へ立つ。
『私が見張っておくよ』
『余計なことを言うな』
『日高さん一人だと信用がないから』
『美園』
『怒らないで。事実でしょ』
そのやり取りに、陽菜が涙を拭いながら笑う。
中井は笑わなかった。
まだ、笑えるほど気持ちを整理できていない。
それでよかった。
樹里と美園が玄関へ向かう。
扉が閉まる直前、美園が振り返った。
陽菜と中井は、手を繋いだまま向かい合っている。
どちらも泣いている。
綺麗な告白ではなかった。
すべてを知った中井が、陽菜を優しく抱き締めて終わることもなかった。
それでも、二人は同じ場所に残っている。
分からないものを、分からないまま捨てないために。
扉が静かに閉まる。
部屋に残された陽菜は、中井の手を見つめた。
『聞いてくれて、ありがとう』
「まだ終わっていません」
『うん』
「聞きたいことが、たくさんあります」
『何でも聞いて』
「答えたくないことは、答えなくてもいいです」
『でも、嘘はつかない』
「はい」
『中井くんも、思ったことを言って』
「陽菜さんが傷つくことでもですか」
『言って』
「分かりました」
中井は一度、息を整える。
「まず、昨日のことです」
『うん』
「陽菜さんは、あの場所で死んでもいいと思っていましたか」
陽菜は、すぐに答えられなかった。
ここからが、本当の告白だった。
過去の出来事を並べるのではない。
そのとき何を思い、どうして自分を捨てようとしたのか。
一番知られたくなかったところへ、中井は踏み込もうとしている。
陽菜は逃げなかった。
繋いだ手に力を込め、中井の目を見る。
『……少しだけ、思ってた』
中井の顔が歪んだ。
陽菜は、その痛みから目を逸らさない。
話は、まだ終わっていなかった。
ここから二人は、初めて本当の意味で互いの人生に触れていく。




