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91話「話したい」

目を覚ましたとき、陽菜の右手は中井の手の中にあった。


 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


 陽菜はすぐには身体を起こさなかった。


 昨夜、中井のベッドへ並んで横になった。


 怪我に触れないよう、二人の間には僅かな距離があった。


 それでも中井は、陽菜が眠るまで手を握っていた。


 そして今も、離していない。


 中井は陽菜へ身体を向けたまま、静かに眠っている。


 その眉間には、薄く皺が寄っていた。


 眠っていても、気を張っているような顔だった。


 陽菜は繋がれた手へ目を落とす。


 中井の指は、陽菜の手を強く握り締めているわけではない。


 逃がさないためではなく、ここにいると伝えるための手だった。


 陽菜は昨夜、何度か目を覚ました。


 身体の向きを変えようとして、脇腹の痛みで目が覚めたとき。


 夢の中で男たちに押さえつけられ、息を呑んだとき。


 そのたびに中井は目を覚ました。


「大丈夫ですか」


 そう尋ね、陽菜が『大丈夫』と答えるまで手を握っていた。


 それ以上は聞かなかった。


 四年前のことも。


 組事務所で何があったのかも。


 樹里を『総長』と呼んだ理由も。


 何も分からないまま、それでも隣にいた。


『……ごめんね』


 陽菜が小さく呟く。


「何がですか」


『起きてたの?』


「今、起きました」


 中井が目を開ける。


 陽菜の顔を見たあと、すぐに繋いだ手へ視線を落とした。


「痛くないですか」


『手?』


「身体です」


『少し痛い』


「薬、飲めそうですか」


『何か食べてからの方がいいって言われた』


「朝ご飯を作ります」


 中井が手を離し、身体を起こす。


 陽菜は空になった手を見つめたあと、慌ててその服を摘んだ。


「どうしました」


『もうちょっと』


「何がですか」


『手』


 中井は陽菜を見つめる。


『もう少しだけ握ってて』


「……はい」


 再び、中井の手が重なる。


 陽菜は安心したように目を閉じた。


「怖いですか」


 陽菜の瞼が動く。


『ちょっとだけ』


「昨日のことを思い出しますか」


『うん』


「俺がここにいます」


『うん』


「日高さんも、中村さんもいます」


『うん』


「一人ではありません」


 陽菜は目を開けた。


『中井くん』


「はい」


『どうして、何も聞かないの』


 中井は少し考えてから答える。


「陽菜さんが話すと言ったからです」


『いつ話すか、分からないよ』


「待ってほしいとも言われました」


『ずっと待たせるかもしれない』


「それでも、今ここで無理に聞くことはできません」


『聞きたいとは思ってる?』


「思っています」


 迷いのない返事だった。


「何があったのか知りたいです。どうして陽菜さんが一人で行ったのかも、日高さんを総長と呼んだ理由も」


 陽菜の指先が僅かに動く。


「中村さんも、その呼び方を知っていました。三人の間に、俺が知らない何かがあることくらいは分かります」


『……怖くない?』


「何がですか」


『あたしの昔を知るの』


 中井は、すぐには答えなかった。


「正直に言ってもいいですか」


『うん』


「怖いです」


 陽菜の表情が固まる。


「昨日のようなことが、また起きるかもしれない。陽菜さんが俺の知らない場所へ行ってしまうかもしれない。それが怖いです」


『そっか』


「でも、知らないままでいる方が怖いです」


 中井は、陽菜の手を握り直す。


「話せるようになったら、話してください」


『聞いたあと、後悔するかもしれないよ』


「それは、聞いてから俺が決めます」


『また選ばせろって?』


「はい」


 昨日と同じ答えだった。


「知らない方が幸せだと、陽菜さんが俺の代わりに決めないでください」


 陽菜は中井を見つめた。


 逃げられないと思った。


 組事務所で男たちに囲まれたときとは違う。


 中井は陽菜を追い詰めているのではない。


 陽菜が作った壁の前で、扉が開くのを待っている。


 その壁を壊そうとはしない。


 けれど、諦めて帰ろうともしない。


『分かった』


 陽菜が小さく頷く。


『二人に、話してみる』


「日高さんと中村さんですか」


『うん。あたし一人の話じゃないから』


「分かりました」


『今日でもいい?』


 中井の表情が僅かに動く。


「無理をしていませんか」


『してない』


「昨日の今日ですよ」


『だから、今日がいいの』


 時間を置けば、また怖くなる。


 どう説明すればいいのか考えているうちに、言えない理由ばかりを集めてしまう。


 中井を守るため。


 樹里と美園の過去を守るため。


 もう終わったことだから。


 知らなくても困らないから。


 そうやって言い訳を重ね、自分から話す機会を失う。


『待たせたくない』


「俺は待てます」


『うん。でも、あたしが話したい』


 陽菜は中井の目を見る。


『中井くんに知ってほしい』


 中井は一度、息を止めた。


 それから、ゆっくり頷く。


「分かりました」


『ただ、聞いてから嫌いになっても、あたしは別れないけどね』


「話が違います」


『だって、好きだもん』


「陽菜さん」


『嫌われても、そこからもう一回惚れさせる』


「勝手に決めないでください」


『あたしと別れるかどうかを中井くんに選ばせるとは言ってないよ』


「言っていることが無茶苦茶です」


 中井は呆れた顔をしている。


 けれど、ほんの少しだけ緊張が解けていた。


『とりあえず、ご飯作って』


「話を逸らしましたね」


『お腹空いた』


「何が食べられそうですか」


『中井くんが作ったもの』


「それでは分かりません」


『愛情たっぷりのやつ』


「お粥にします」


『愛情が地味』


「怪我人向けです」


『卵入れて』


「分かりました」


『ネギも』


「あります」


『あと梅干し』


「それもあります」


『中井くんの家、何でもあるね』


「普通です」


『あたしもある?』


「何がですか」


『この家に』


 中井は陽菜を見た。


 陽菜は冗談めかして笑っている。


 だが、繋いだ手には僅かに力が入っていた。


「います」


 中井は答える。


「今、ここにいます」


『そっか』


「これからも来たいなら、来てください」


『うん』


「ただし、連絡はしてください」


『はーい』


「急に来て、勝手に寝ているのはやめてください」


『まだやってないじゃん』


「今後やりそうなので言っています」


『合鍵くれたら、やるかも』


「渡しません」


『じゃあ、作る』


「どうやってですか」


 陽菜が笑う。


 その笑顔を見届けてから、中井はベッドを出た。


          *


 中井が朝食を作っている間に、陽菜は美園へLINEを送った。


【起きてる?】


 すぐに返信が届く。


【起きてるよ。身体は?】


【痛い。でも生きてる】


【知ってる】


【日高先輩は?】


【Roseのソファで寝てる】


 陽菜の指が止まる。


【帰らなかったの?】


【帰すつもりだったけど、寝た】


【写真撮って】


【起きたら殺されるから嫌】


【美園さんなら勝てるでしょ】


【そういう問題じゃない】


 普段と変わらないやり取りに、陽菜の口から少しだけ力が抜ける。


 続けて、文字を打つ。


【相談したいことがある】


 今度は、返信まで僅かに間があった。


【中井くんのこと?】


【うん】


【電話できる?】


【できる】


 すぐに、美園から着信が入る。


『もしもし』


『身体、大丈夫?』


『薬飲めば平気だと思う』


『無理に会社へ行こうとしてないよね』


『日高先輩に先手を打たれた』


『よかった』


『よくない。あたしの有給が』


『有給はそういうときに使うもの』


 美園の声を聞くと、胸の奥が温かくなる。


 昨夜、何度も呼んだ声。


 事務所で樹里と一緒に陽菜を迎えに来てくれた人。


『美園さん』


『うん』


『中井くんに、話したい』


 電話の向こうが静かになる。


『どこまで?』


『全部』


『全部って』


『Rose girlsのこと。総長のこと。あたしが副総長だったこと。四年前のことも』


『……そっか』


『駄目かな』


『どうして私に聞くの?』


『あたしだけの過去じゃないから』


 陽菜はベッドの上で、膝を抱えようとする。


 脇腹が痛み、途中で諦めた。


『あたしが話したら、総長と美園さんの過去まで知られる』


『私は構わないよ』


『本当に?』


『中井くんに知られて困ることはない』


『でも、総長は……』


『うん。総長とは話した方がいい』


『怒るかな』


『怒ると思う』


『やっぱり』


『でも、それで終わりにはならないよ』


 美園の声は穏やかだった。


『今の総長なら、最後まで話を聞く』


『昔なら?』


『話を聞く前に駄目って言う』


『だよね』


『そのあと、私たちに隠れて一人で全部片づける』


『うん』


『面倒な人だったね』


『今も面倒だよ』


 陽菜が小さく笑う。


 痛みで顔を歪めながらも、その声には少しだけ明るさが戻っていた。


『中井くん、待つって言ってくれた』


『うん』


『でも、あたしが話したいの』


『なら、そう言えばいい』


『怖いけどね』


『嫌われるのが?』


 陽菜はすぐに答えられなかった。


『……うん』


『中井くんが、陽菜を嫌いになると思う?』


『思わない』


『じゃあ、何が怖いの』


『知られたあとの目が、今までと変わること』


 陽菜は天井を見る。


『優しい人だから、嫌いになっても優しくしそうじゃん』


『そこまで信用してるのか、してないのか分からないね』


『あたしも分からない』


『なら、本人に確かめるしかないよ』


『うん』


『総長を起こすね』


『優しく起こしてあげて』


『努力する』


『揺すったら殴られるかもよ』


『昨日泣き疲れてるから、今日は弱いと思う』


『それ、本人に言ったら怒るよ』


『言わないで』


 電話が切れる。


 陽菜はスマートフォンを胸元に置いた。


 キッチンから、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。


 中井がいる。


 朝食を作ってくれている。


 それだけで、昨日までとは部屋の見え方が違った。


          *


 Roseのソファでは、樹里が腕を組んだまま眠っていた。


 上着だけは脱いでいるが、会社へ行くときの服のままだ。


 美園はカウンターから出ると、その前に立った。


『総長』


 反応はない。


『総長、起きて』


 樹里の眉が僅かに動く。


『会社に遅れるよ』


 樹里が目を開けた。


 素早く身体を起こし、店内を見渡す。


『……何時だ』


『まだ早い』


『今、遅れると言っただろ』


『起きないから』


 樹里は美園を睨んだ。


 眠気が残っているのか、その目にも普段ほどの力はない。


『陽菜から連絡があった』


 その一言で、樹里の顔つきが変わる。


『身体に何かあったのか』


『違う。痛みはあるけど、起きて話せてる』


『そうか』


 樹里の肩から、僅かに力が抜ける。


『話したいことがあるって』


『私に?』


『中井くんに』


 樹里が黙る。


『昨日のことを話すのか』


『昨日だけじゃない』


 美園は樹里の前に立ったまま答える。


『Rose girlsのことも、四年前のことも、全部』


『駄目だ』


 返事は早かった。


『やっぱり、そう言うと思った』


『中井さんを信用していないわけではない』


『じゃあ、どうして?』


『知らなくていいことだ』


『それを決めるのは誰?』


『美園』


『総長は昨日、一人で決めるなって陽菜に言ったよね』


『これは別の話だ』


『何が違うの』


 樹里は答えない。


 美園は樹里の正面へしゃがみ、その顔を見上げた。


『中井くんは、もう巻き込まれてる』


『だからこそ、これ以上は――』


『陽菜が連絡もせずにいなくなって、怪我をして帰ってきた。その間、何も分からないまま待たされた』


『……ああ』


『それなのに、まだ何も教えないの?』


『過去を知れば、危険に近づく』


『知らないから、危険を避けられないこともある』


 樹里の眉が寄る。


『中井さんには、普通に生きてもらえばいい』


『陽菜と付き合うなら、陽菜の過去も人生の一部だよ』


『過去と今は違う』


『総長は本当にそう思ってる?』


 樹里が美園を見る。


『過去を切り離せるなら、どうして昨日、あそこまで怖がったの』


 樹里は目を逸らした。


『陽菜が話したいと言ってる』


『……あいつだけの話ではない』


『だから、総長に聞いたんだよ』


『私の許可が必要なのか』


『許可じゃない』


 美園は静かに首を振る。


『一緒に話してほしいの』


『私が?』


『陽菜一人に、全部言わせるつもり?』


 樹里の表情が固まる。


『陽菜は、自分が悪かったところばかり話すよ。総長が何をしたかは話しても、どうしてそうしたかまでは分からない』


『言う必要はない』


『あるよ』


『ない』


『中井くんは、陽菜の恋人だから』


『だから何だ』


『これから陽菜がまた一人で背負おうとしたとき、止められる人を増やしたい』


 樹里の目が、美園へ戻る。


『私と総長だけじゃ、止めきれなかった』


 否定できない事実だった。


 陽菜は二人を守るため、一人で事務所へ向かった。


 樹里もまた、二人を守るために姿を消した。


 美園一人では、どちらも止められなかった。


『中井くんなら止められる、とは限らない』


『うん。でも、陽菜には帰る場所が増えた』


 美園は立ち上がる。


『その場所に、暗闇を残したままにしたくない』


 樹里は俯いた。


 長い沈黙が落ちる。


『総長』


『……何だ』


『陽菜の過去を、陽菜が誰に話すかまで決めないで』


 樹里の手が、膝の上で握られる。


『中井さんが、離れるかもしれない』


『怖い?』


『私は、事実を言っている』


『陽菜が傷つくのが怖いんでしょ』


 樹里は答えなかった。


『私も怖いよ。でも、隠し続けたら、昨日の約束が嘘になる』


『約束?』


『一人で決めない。黙って消えない』


 樹里が目を閉じる。


 守るために隠す。


 傷つけないために遠ざける。


 四年前の自分が選んだものだった。


 その結果、陽菜と美園が何を失ったのか、昨夜ようやく知った。


『……分かった』


 樹里が目を開ける。


『話していい』


『総長』


『違うな』


 樹里は、自分の言葉を訂正する。


『私が許可することじゃない』


 美園の表情が僅かに和らぐ。


『中井さんに話すかどうかは、陽菜が決めればいい』


『うん』


『ただし、私も同席する』


『そのつもり』


『美園もだ』


『もちろん』


『中井さんへ説明するのは、陽菜に任せる』


『途中で言えなくなったら?』


『待つ』


 樹里は答えた。


『それでも無理なら、私たちが補う』


『分かった』


『今日の夜でいいのか』


『陽菜は今日がいいって』


『身体は』


『動けるみたい。でも、ここまで来させるのは無理だね』


『私たちが行こう』


『中井くんの家に?』


『ああ』


 樹里は立ち上がる。


『話すなら、陽菜が安心できる場所がいい』


『総長』


『何だ』


『変わったね』


『うるさい』


 美園が笑う。


 樹里は上着を手に取った。


『黒澤部長へ連絡する』


『自分も休む?』


『出社する』


『陽菜に言うよ』


『仕事に支障はない』


『寝不足でしょ』


『問題ない』


『その目で言われても説得力ないよ』


『放っておけ』


 美園はスマートフォンを操作し、陽菜へLINEを送った。


【総長に話したよ】


 すぐに既読がつく。


【怒った?】


【最初だけ】


【やっぱり怒ったんじゃん】


【でも、話していいって】


 そこで、美園は一度文字を消した。


 樹里が訂正した言葉を、そのまま陽菜へ伝える。


【正確には、話すかどうかは陽菜が決めることだって】


 少し間が空く。


【総長がそう言ったの?】


【言ったよ】


【本当に?】


【目の前で聞いた】


【偽物じゃない?】


【たぶん本物】


 続けて、陽菜から届く。


【今夜、中井くんに話す】


【私たちも行くよ】


【ありがとう】


 陽菜はLINEの画面を閉じた。


 キッチンでは、中井が出来上がったお粥を器へ移している。


 その背中を見ながら、陽菜は息を吸った。


 怖い。


 知られたくない。


 それでも知ってほしい。


 矛盾する感情が、胸の中でぶつかり合っている。


『中井くん』


「できました。今、持っていきます」


『その前に』


 中井が振り返る。


 陽菜はスマートフォンを握ったまま、その目を見る。


『今日の夜、時間もらっていい?』


「はい」


『日高先輩と美園さんも来る』


 中井の表情が強張る。


『昨日のことと、あたしたちの昔のことを話したい』


「……分かりました」


『たぶん、驚くと思う』


「はい」


『怒るかもしれない』


「聞く前からは、分かりません」


『嫌いになるかも』


「それも、聞いてから俺が決めます」


『そっか』


「はい」


 中井はお粥の器を持ち、陽菜の前へ置いた。


「今は食べてください」


『話を聞くの、怖くない?』


「怖いです」


 中井は陽菜の向かいへ座る。


「でも、逃げません」


 陽菜は目を伏せた。


 湯気の向こうで、視界が滲む。


『ありがとう』


「まだ聞いていません」


『それでも』


 陽菜はスプーンを手に取る。


 これまで何度も、過去を知られないように笑ってきた。


 相手のことをからかい、恥ずかしい言葉を平気で口にし、踏み込まれそうになると話を逸らした。


 笑わせることは得意だった。


 笑ってごまかすことも。


 けれど今夜は、笑わずに話さなければならない。


 愛されるために隠すのではなく。


 愛しているから、明かす。


 その選択が正しいのか、陽菜にはまだ分からない。


 ただ一つ、決めていることがあった。


 中井が怒っても。


 受け止めきれずに言葉を失っても。


 綺麗な答えをくれなくても。


 陽菜は、目を逸らさない。


 今度は自分から、中井を自分の人生へ迎え入れる。

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