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90話「待っていた人」

病院を出ると、夜の空気が頬に冷たかった。


 中井は陽菜の歩幅に合わせ、ゆっくりと駐車場へ向かう。


 その少し後ろを、樹里と美園が歩いていた。


 誰も急かさない。


 陽菜が足を止めれば、全員が止まる。


 それが申し訳なくて、陽菜は何度か『大丈夫』と言いかけた。


 だが、その言葉を口にするたびに中井が眉を寄せるため、途中から黙ることにした。


 中井の車の前に着く。


 陽菜が助手席の扉へ手を伸ばすより早く、中井が開けた。


『ありがとうございます』


「どういたしまして」


『お姫様みたい』


「怪我人です」


『そこは否定しないでよ』


「早く乗ってください」


『中井くん、今日ちょっと冷たい』


「怒っているので」


『まだ怒ってるの?』


「まだというほど時間が経っていません」


 言いながらも、中井は陽菜が身体を曲げるとき、車の天井へ手を添えた。


 頭をぶつけないためだ。


 陽菜が座席へ腰を下ろす。


 シートベルトを取ろうとすると、脇腹に痛みが走った。


『痛っ』


「触らないでください」


 中井が身を屈め、陽菜の代わりにシートベルトを引く。


 胸元を横切らせ、金具を差し込む。


 近くにある中井の顔を、陽菜は黙って見つめた。


「苦しくないですか」


『うん』


「痛いところに当たっていませんか」


『大丈夫』


「本当ですか」


『本当』


 中井はベルトの位置を確かめてから身体を離した。


『こういうことされたら、惚れちゃうかも』


「もう付き合っています」


『そうだった』


「忘れないでください」


 中井が扉を閉めようとする。


 陽菜は咄嗟に手を伸ばし、その袖を摘んだ。


『中井くん』


「はい」


『迎えに来てくれて、ありがとう』


 中井は陽菜を見つめた。


「来ないという選択肢はありません」


『そっか』


「はい」


 今度こそ扉が閉まる。


 中井は車の反対側へ回る前に、樹里と美園へ頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


『陽菜をお願いね、中井くん』


「はい」


 美園の隣で、樹里が口を開く。


『明日の朝、私から黒澤部長へ連絡します。櫻井さんには休むよう伝えますので、会社のことは考えさせないでください』


「分かりました」


『何かあれば、時間は気にせず連絡してください』


「日高さんも、少し休んでください」


 樹里が僅かに目を見開く。


「日高さんも、ずっと張り詰めていたように見えるので」


『私は大丈夫です』


 助手席の窓が開いた。


『日高先輩、その言葉は禁止』


 陽菜が車内から樹里を見ていた。


『さっき、あたしに散々言ったじゃん』


『お前とは違う』


『何が違うの』


『怪我をしていない』


『心配した人は休まなくていいの?』


 樹里は答えに詰まった。


 隣で美園が小さく笑う。


『明日は私が見張っておくよ』


『見張る必要はない』


『何かあったら陽菜にLINEする』


『余計なことをするな』


『じゃあ、大人しく休んで』


 樹里が美園を睨む。


 しかし、いつもの鋭さはなかった。


『日高先輩』


 陽菜が再び呼ぶ。


『また明日ね』


 何気ない言葉だった。


 別れの挨拶としては、ごく普通のものだ。


 けれど樹里は、その言葉にすぐには返事をしなかった。


 四年前。


 明日も会えると思っていた二人の前から、自分は姿を消した。


 それ以来、樹里にとって別れは、どこか恐ろしいものになっていた。


『……ああ』


 樹里は陽菜を見る。


『また明日』


 陽菜が笑う。


『うん。また明日』


 窓が閉まる。


 車が駐車場を出ていくまで、樹里と美園はその場に立っていた。


          *


 車内には、低いエンジン音だけが流れていた。


 陽菜は助手席に座り、窓の外を眺めている。


 いつもなら、何かしら喋っている。


 道を歩く人を見て、勝手に職業を予想する。


 信号待ちで隣に止まった車の運転手を見て、どうでもいい話を始める。


 ラジオから流れる曲に、正確なのか分からない歌詞をつける。


 今夜は、何も言わなかった。


 中井も、無理に話しかけなかった。


 しばらく走ったところで、陽菜が小さく口を開く。


『ねえ、中井くん』


「はい」


『あたしの家じゃなくて、中井くんの家でいいの?』


「一人にできないので」


『あたしの家に泊まる選択肢もあったよ』


「着替えも何もありません」


『コンビニで買えばいいじゃん』


「陽菜さんは俺の部屋に来たくないんですか」


『行きたいよ』


 返事だけは早かった。


 中井が前を向いたまま、僅かに息を吐く。


『何、その反応』


「いえ」


『嬉しかった?』


「運転中です」


『聞いてるのはそこじゃないんだけど』


「今は静かにしていてください」


『照れてる』


「脇腹、痛くないんですか」


『痛い』


「なら大人しくしてください」


『はーい』


 返事をした直後、陽菜が小さく笑う。


 笑ったことで脇腹が痛み、すぐに顔を歪めた。


「何をしているんですか」


『だって、中井くんが面白いから』


「俺は何もしていません」


『怒ってるのに優しいの、面白い』


「怒っていたら乱暴にしていいわけではありません」


 何気なく返された言葉に、陽菜は黙った。


 中井は前を向いている。


 今夜、樹里に叩かれたことを知っているわけではない。


 それでも、その言葉は陽菜の胸に残った。


『……中井くんって、すごいね』


「何がですか」


『普通に正しいこと言う』


「普通だと思います」


『それがすごいんだよ』


 中井には意味が分からなかったのだろう。


 それ以上は聞かず、運転を続けた。


 陽菜は窓の外へ目を戻す。


 今夜、自分は何度も間違えた。


 過去を知り、頭に血が上がり、一人で事務所へ向かった。


 樹里のためだと思っていた。


 美園に迷惑をかけたくないと思っていた。


 中井を巻き込みたくないと思っていた。


 けれど結局、全員を傷つけた。


 自分が正しいと信じていたものは、ただの独り善がりだったのかもしれない。


『中井くん』


「はい」


『もう一個、謝っていい?』


「どうぞ」


『彼氏なのに、何も言わなくてごめん』


 中井はすぐには答えなかった。


 前を向いたまま、ハンドルを握っている。


『巻き込みたくなかったの』


「はい」


『あたしの昔のことで、中井くんが危ない目に遭うのが嫌だった』


「はい」


『だから、言わない方がいいと思った』


「それは、俺のためですか」


『そうだよ』


「俺が待っている間、どうなるかは考えましたか」


 陽菜は唇を閉じた。


『……考えてなかった』


「そうですよね」


『ごめん』


「謝ってほしいわけではありません」


『でも、怒ってるんでしょ』


「怒っています」


『じゃあ、どうしたら許してくれる?』


「許すかどうかの話ではないです」


 信号が赤に変わる。


 中井は車を止め、初めて陽菜へ顔を向けた。


「俺にも、選ばせてください」


『選ぶ?』


「危険だから来ないでほしい。何もできないから待っていてほしい。そう言われたら、俺は考えます」


 中井の目は真剣だった。


「でも、陽菜さんが一人で決めて、俺のためだと言って何も教えないのは違うと思います」


 陽菜は何も言えない。


「俺は頼りないかもしれません。喧嘩もできません。今日だって、日高さんたちのように陽菜さんを助けには行けなかった」


 中井の手が、ハンドルの上で強く握られる。


「それでも、心配することはできます」


 声が僅かに震えていた。


「待っていることもできます。帰ってきた陽菜さんの隣にいることもできます」


 青信号に変わる。


 後ろの車に急かされる前に、中井は前を向き、車を発進させた。


「俺から、それまで取らないでください」


 陽菜は中井の横顔を見つめた。


 この人は優しい。


 何をしても受け入れてくれる。


 どれだけ勝手に振る舞っても、笑って許してくれる。


 どこかで、そう思っていたのかもしれない。


 けれど中井は、ただ陽菜に従うだけの男ではなかった。


 傷つけば、傷ついたと言う。


 嫌なことは、嫌だと言う。


 それでも、離れずにいてくれる。


『分かった』


 陽菜は、ゆっくり頷いた。


『次から、ちゃんと選ばせる』


「次があっては困ります」


『じゃあ、何かあったとき』


「それも、ない方がいいです」


『意外と細かいね』


「大事なところです」


『分かった。もし何か起きたら、ちゃんと話す』


「はい」


『勝手に中井くんのためって決めない』


「お願いします」


『それでも来てほしくないときは、来ないでって言う』


「理由は聞きます」


『言える範囲で話す』


「分かりました」


 陽菜は座席へ身体を預ける。


『中井くん』


「はい」


『面倒臭くない?』


「何がですか」


『あたし』


 中井は、ほとんど間を置かなかった。


「面倒です」


『即答した』


「ものすごく面倒です」


『そこまで言う?』


「言います」


『じゃあ、別れたくなった?』


「それとこれとは別です」


『別なんだ』


「面倒だから嫌いになるなら、最初から好きになっていません」


 陽菜は目を見開いた。


 言った本人は、前だけを見ている。


 その耳が、少しだけ赤くなっていた。


『中井くん』


「何ですか」


『今の、もう一回言って』


「嫌です」


『なんで』


「言いません」


『録音しておけばよかった』


「やめてください」


 陽菜は笑った。


 今度は脇腹へ響かないよう、小さく。


 それでも頬の傷が痛み、目に涙が滲む。


 痛みのせいなのか、ほかの理由なのか、自分でも分からなかった。


          *


 中井の部屋に着くと、陽菜はソファへ座らされた。


 中井はクローゼットから大きめのTシャツとスウェットパンツを取り出し、陽菜へ差し出す。


「俺のもので申し訳ないですが」


『中井くんの服、着ていいの?』


「その服のまま寝るよりはいいと思います」


『彼シャツだ』


「下もあります」


『分かってないなあ。彼氏の大きいシャツを借りて、下は穿かないのが彼シャツなんだよ』


「穿いてください」


『即答』


「今日は絶対に穿いてください」


『今日は?』


「そういう意味ではありません」


『じゃあ、いつかはいいんだ』


「着替えられますか」


 中井が話を打ち切る。


 陽菜は笑いながら服を受け取った。


 いつもなら、もう少しからかう。


『一人で脱げなかったら、脱がせてくれる?』くらいは平気で言う。


 だが、シャツのボタンへ指をかけたところで、腕に痛みが走った。


『……中井くん』


「はい」


『ごめん。ちょっと、手伝ってほしい』


 冗談ではない声だった。


 中井はすぐに陽菜の前へ戻る。


「どこまでできますか」


『ボタンは外せる。でも、腕を抜くのが痛いかも』


「分かりました」


 中井は陽菜の前へ膝をついた。


 一つずつ、シャツのボタンを外していく。


 指先が胸元へ近づいても、余計なところは見ない。


 呼吸さえ慎重にしているようだった。


『中井くん』


「はい」


『緊張してる?』


「しています」


『あたしの身体、見たことあるじゃん』


「今は状況が違います」


『そう?』


「傷を見ています」


 シャツの下から、脇腹の痣が露わになる。


 青紫に変わり始めた痕を見て、中井の手が止まった。


「……痛かったですよね」


『そのときは、あんまり分からなかった』


「どうしてですか」


『興奮してたから』


「怖くなかったんですか」


『怖かったよ』


 陽菜は素直に答えた。


『でも、止まったら負けるって思ってた』


 何に負けるのか。


 男たちにか。


 過去にか。


 それとも、樹里を失った四年間にか。


 今の陽菜にも分からない。


 中井は何も言わず、ゆっくり陽菜の腕から袖を抜いた。


「上げます」


『うん』


「痛かったら、すぐに言ってください」


『うん』


 両腕を通し、中井のTシャツを着る。


 陽菜には少し大きく、裾は太腿のあたりまで届いた。


『どう?』


「似合っています」


『本当に?』


「はい」


『写真撮る?』


「撮りません」


『中井くんの服を着た彼女だよ』


「怪我をしている彼女の写真は撮りません」


『治ったら撮る?』


「そのとき考えます」


『絶対撮る気じゃん』


 中井は答えず、陽菜の前へ薬を置いた。


「塗ります」


『お願いします』


 脇腹。


 腕。


 背中。


 目に見える痣へ、薬を薄く塗っていく。


 陽菜は痛みを我慢しなかった。


 痛ければ『痛い』と言う。


 中井はそのたびに手を止め、触れ方を変えた。


 任せるというのは、黙って耐えることではない。


 どこが痛いのかを伝えること。


 怖いときに、怖いと言うこと。


 できないことを、できないと言うこと。


 陽菜は、今になってそれを覚え始めていた。


 薬を塗り終えると、中井は立ち上がった。


「今日はベッドを使ってください。俺はソファで寝ます」


『一緒に寝ないの?』


「寝ません」


『あたし、怪我人だよ』


「だからです」


『夜中に苦しくなったらどうするの』


「隣の部屋にいます」


『気づかなかったら?』


「扉を開けておきます」


『呼ぶ声が小さかったら?』


「スマートフォンへ電話してください」


『充電が切れたら?』


「充電してください」


『冷たい』


「では、どうしてほしいんですか」


 陽菜はソファから中井を見上げる。


『隣にいてほしい』


 からかう響きはなかった。


 中井の表情が変わる。


『今日、一人で寝るのは嫌』


「……分かりました」


 中井は少し迷ったあと、頷いた。


「隣で寝ます。ただし、何もしません」


『あたしも今日はできないよ』


「そういう話ではありません」


『でも、くっつくくらいはいい?』


「痛くないなら」


『手、握ってくれる?』


「はい」


 陽菜は安心したように笑った。


          *


 陽菜と中井を見送ったあと、樹里と美園はRoseへ戻った。


 閉店後の店内は暗い。


 美園が最低限の照明だけをつける。


 カウンターの内側へ入り、病院へ向かう途中で脱いだエプロンを拾い上げた。


『これ着たまま、事務所まで行ったんだな』


『そんなこと考える余裕なかったから』


『そりゃそうか』


 樹里はカウンター席へ座る。


 美園は二人分の水を用意し、一つを樹里の前へ置いた。


『飲んで』


『ありがとう』


 樹里はグラスを手に取ったが、口をつけなかった。


 視線を水面へ落としている。


『陽菜、中井くんのところへ帰れてよかったね』


『ああ』


『あの人、怒ることもできるんだ』


『陽菜に必要な人なのかもしれない』


『そうだね』


 短い会話が途切れる。


 店内には、冷蔵庫の低い作動音だけが響いている。


 樹里はグラスを置いた。


『美園』


『何?』


『今日、私が言ったことは――』


『なかったことにはしないよ』


 美園が先に言った。


 樹里の口が閉じる。


『まだ何も言ってない』


『どうせ、あの場を切り抜けるために言っただけだとか、忘れろとか言うつもりでしょ』


『……違う』


『じゃあ何?』


 樹里は答えない。


 美園はカウンターの向こうから、樹里を見つめた。


『私と陽菜は、会社よりも、親よりも、命よりも大事』


『……ああ』


『総長の全て』


『聞こえていたなら、繰り返すな』


『聞こえてたよ』


 美園の目が赤くなる。


『ずっと、聞きたかったから』


 樹里が顔を上げる。


『聞かなくても分かってるつもりだった。総長が何をしてくれたのかも、私たちをどう思ってるのかも』


 美園は、そこで一度言葉を止めた。


『でも、分かってるのと、言ってもらえるのは違う』


 樹里は視線を逸らした。


『あれは……陽菜を見たら、勝手に出た』


『うん』


『普段なら言わない』


『知ってる』


『今後も言わない』


『それは困る』


 美園の返事が早く、樹里が僅かに眉を寄せた。


『何度も言えとは言わないよ。総長にそんなことを求めたら、死ぬほど嫌な顔をするだろうし』


『もうしてる』


『でも、言ったことを後悔しないで』


 美園がカウンターから出る。


 樹里の隣の椅子へ座った。


『私は嬉しかった』


 樹里の指先が、僅かに動く。


『陽菜も嬉しかったと思う』


『あいつを泣かせた』


『あれは嬉しくて泣いたの』


『お前も泣いていた』


『私も嬉しかったから』


 美園は涙を隠さなかった。


『私たちが総長の全てなら、総長も私たちの全てだよ』


 樹里は何も言えなかった。


『だから、勝手に自分を差し出さないで』


『……分かってる』


『今日も、最初に言おうとしたでしょ。私が責任を取るって』


『ほかに方法がなければ――』


『そこ』


 美園が樹里の言葉を止める。


『すぐに一人で答えを出そうとする』


『あの場で迷っていたら、陽菜が危なかった』


『だから私もいた』


 美園の声は静かだった。


『四年前とは違う。総長の隣には私がいた』


 樹里が美園を見る。


『陽菜もいた。捕まっていたけど、ちゃんとそこにいた』


『ああ』


『三人で考えればよかった』


『……ああ』


『最初から、それでよかったんだよ』


 樹里の目から、一粒だけ涙が落ちた。


 すぐに拭おうとした手を、美園が掴む。


『今日は隠さなくていい』


『十分泣いただろ』


『足りない』


『泣く量をお前が決めるな』


『じゃあ、総長が決めて』


『もう終わりだ』


『嘘』


 美園は掴んだ手を離さなかった。


『陽菜が生きていてよかった』


 その一言で、樹里の顔が崩れた。


 事務所で陽菜を見つけたとき。


 血の滲んだ唇を見たとき。


 押さえつけられている姿を見たとき。


 樹里は何も感じないふりをした。


 怒りも、恐怖も、すべて押し殺した。


 そうしなければ陽菜を連れて帰れないと思った。


 病院でも。


 中井の前でも。


 自分が崩れるわけにはいかなかった。


 だが今は、美園しかいない。


『……怖かった』


 樹里が、ようやく言った。


『あいつが、死ぬかと思った』


『うん』


『また、間に合わないかと……』


『間に合ったよ』


『私がもっと早く話していれば』


『それは、これから三人で話そう』


『私が叩いた』


『それも、ちゃんと謝ったんでしょ』


『謝れば消えることじゃない』


『消さなくていい』


 美園は樹里の手を握る。


『忘れないで、次はしない。それでいい』


『……ああ』


『陽菜も帰ってきた』


『ああ』


『総長も帰ってきた』


 美園は微笑む。


『三人で帰ってこられたよ』


 樹里は俯いた。


 美園の手を握り返す。


 四年前。


 守るために、二人の前から消えた。


 それが唯一の方法だと思っていた。


 今夜、陽菜も同じことをした。


 樹里はようやく、自分が二人へ何をしたのかを知った。


『美園』


『何?』


『……ありがとう』


 美園の目から、涙が落ちる。


『うん』


『一緒に来てくれて』


『うん』


『止めてくれて、ありがとう』


『どういたしまして』


 樹里は、それ以上の言葉を続けなかった。


 美園も求めなかった。


 繋いだ手だけは、どちらからも離さない。


 誰かを守ること。


 誰かに守られること。


 そのどちらにも、相手を信じる強さが必要だった。


 今夜の三人は、何度も間違えた。


 傷つけ、傷つき、泣いた。


 それでも最後には、同じ場所へ帰ってきた。


 閉店後のRoseに、二人分の水と、二人分の涙が残る。


 もう一人は、待っていた男の隣にいる。


 三人は今夜、別々の場所で眠る。


 それでも、誰一人として置いていかれてはいなかった。

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