89話「守られる側」
電話を切ったあと、陽菜の足から力が抜けた。
『陽菜』
美園が咄嗟に身体を支える。
『大丈夫。ちょっと、安心しただけ』
『そういうのを大丈夫とは言わないの』
陽菜は笑おうとした。
だが、切れた唇が痛んだのか、すぐに顔を歪める。
腫れた頬だけではない。
袖口から覗く手首には、押さえつけられた痕が残っている。服の下にも、打撲や擦り傷があるはずだった。
樹里は道路へ目を向け、通りかかったタクシーを止めた。
『病院へ行くぞ』
『そこまでしなくても――』
『行く』
『でも、もう遅いし』
『行く』
同じ言葉だった。
声を荒らげてはいない。
それでも、陽菜に反論を許す余地はなかった。
美園がタクシーの後部座席を開ける。
『乗って』
『美園さんまで来なくても平気だよ』
『早く乗って』
『……はい』
陽菜は大人しく車内へ身体を滑り込ませた。
続いて乗ろうとした美園を、樹里が呼び止める。
『美園』
『何?』
『私はバイクで追う。陽菜を頼む』
『分かった』
『何かあったら、すぐに電話して』
『総長』
美園は、まっすぐ樹里を見た。
『もう大丈夫。陽菜はここにいるよ』
樹里の唇が僅かに動く。
分かっている。
目の前にいる。
触れようと思えば、手が届く。
それでも、樹里の身体にはまだ、陽菜を失うかもしれなかった恐怖が残っていた。
『……分かってる』
美園はそれ以上、何も言わなかった。
タクシーへ乗り込み、陽菜の隣に座る。
扉が閉まる直前、陽菜が樹里を見た。
『総長』
『何だ』
『ちゃんと、ついてきてね』
樹里は一瞬だけ目を見開き、それから静かに答えた。
『ああ』
タクシーが走り出す。
樹里はそのテールランプが見えなくなる前に、CB1100へ跨った。
今度は、追いつくために走る。
置いていくためではなかった。
*
診察の結果、陽菜に骨折や内臓の損傷はなかった。
頬や脇腹、両腕に複数の打撲。
切れた唇と、擦り傷。
医師から数日は安静にするよう言われ、痛み止めと塗り薬を処方された。
診察室から出てきた陽菜は、美園の隣に座る樹里を見つけると、困ったように笑った。
『ほら。大したことなかった』
樹里は答えなかった。
陽菜の顔から足元までを確かめるように見る。
『医者は何と』
『数日安静にすれば大丈夫だって』
『明日の会社は休め』
『いや、それは――』
『休め』
『でも、顔以外は服で隠れるし』
『その顔で出社するつもり?』
美園が呆れたように言う。
『階段から落ちたって言えば――』
『階段に何発も殴られたの?』
『最近の階段は気性が荒くて』
『陽菜』
『冗談だって』
いつものように返しているつもりなのだろう。
だが、陽菜の声には力がなかった。
樹里は立ち上がる。
『黒澤部長には、私から連絡しておく』
『日高先輩まで休む必要はないよ』
『私は出社する』
『じゃあ、あたしも――』
『お前の仕事は休むことだ』
会社ではない。
ここには美園しかいない。
それでも樹里は、陽菜を総長として命令するのではなく、現在を生きる一人の人間として見ていた。
『今日は美園の家に泊まれ。今の状態で一人にはできない』
『中井くんのところに行く』
樹里と美園が、同時に陽菜を見る。
『待ってるって言ってくれたから』
陽菜はスマートフォンを胸元で握った。
『ちゃんと、自分で帰りたい』
『一人で行ける身体じゃないでしょ』
『迎えに来てもらう』
陽菜は、少しだけ俯いた。
『今度は、ちゃんと頼るから』
美園は陽菜の顔を見つめ、それから樹里へ目を向けた。
樹里はしばらく黙っていた。
『分かった』
短く答える。
『中井さんに迎えを頼め。ただし、一人で歩くな。ここまで来てもらえ』
『うん』
陽菜は中井へLINEを送った。
【診察終わった。骨は折れてなかったよ】
すぐに既読がつく。
【今どこですか】
病院の名前を送ると、間を置かずに返信が届いた。
【迎えに行きます】
【タクシーで行けるよ】
【迎えに行きます】
同じ言葉だった。
陽菜は画面を見つめたあと、小さく笑った。
『日高先輩と同じこと言ってる』
『何て?』
『迎えに来るって』
『なら、待ってろ』
『うん』
*
中井は、三十分も経たないうちに病院へ来た。
待合室へ駆け込んできた姿を見て、陽菜が椅子から立ち上がろうとする。
『中井くん』
「立たなくていいです」
中井は陽菜の前まで来ると、膝をついた。
腫れた頬。
切れた唇。
手首の痕。
一つずつ確認するたび、中井の表情が強張っていく。
「ほかに怪我は」
『打撲だけ。骨も大丈夫だった』
「頭は」
『異常なし』
「気分は悪くないですか」
『平気だよ』
中井は答えなかった。
陽菜の「平気」を、今は信用できないのだろう。
触れようと伸ばした手を、途中で止める。
どこなら痛くないのか分からない。
結局、その手は陽菜の指先へそっと触れた。
「……よかった」
消え入りそうな声だった。
陽菜が、中井の手を握る。
『心配かけて、ごめんね』
「はい」
普段の中井なら、先に「気にしないでください」と言ったかもしれない。
しかし、今夜は違った。
「心配しました」
『うん』
「電話に出ないし、どこにいるかも分からなかった」
『うん』
「何が起きているのかも、誰も教えてくれなかった」
陽菜の指に、僅かに力が入る。
中井は樹里と美園を責めなかった。
二人が陽菜を助けに行ったことも、自分を巻き込まなかったことにも、理由があるのだと分かっている。
それでも、何も知らずに待つしかなかった時間が消えるわけではない。
「俺にできることがないなら、そう言ってください」
中井は陽菜から目を逸らさなかった。
「でも、何も言わずにいなくならないでください」
『……ごめん』
「陽菜さんが一人で行かなきゃいけないことだったんですか」
『そう思ってた』
「今も、そう思っていますか」
陽菜は答えられなかった。
樹里が消えた原因を知り、自分が責任を取らなければならないと思った。
誰にも頼らず、誰にも告げず、自分一人で。
その結果、中井を置き去りにした。
四年前、樹里が自分たちへしたことと同じように。
『……思ってない』
陽菜は小さく首を振った。
『間違ってた』
「何があったか、聞いてもいいですか」
陽菜の視線が揺れる。
Rose girlsのこと。
樹里が総長だったこと。
自分が副総長だったこと。
組織との約束。
中井は、まだ何も知らない。
『今は、全部は話せない』
中井の目に、痛みが走った。
陽菜は逃げずに続ける。
『中井くんを信用してないからじゃないよ』
「……はい」
『あたしだけの過去じゃないから。勝手に話せない人のこともある』
陽菜は樹里と美園を見た。
『ちゃんと二人と話して、話せるようになったら、あたしから話す』
「待っていてもいいんですか」
『うん』
陽菜は中井の手を握り直した。
『待っててほしい』
中井は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
樹里が二人へ歩み寄る。
『中井さん』
「はい」
『櫻井さんをお願いします』
「分かりました」
『今夜は一人にしないでください。痛みが強くなったり、気分が悪くなったりした場合は、すぐに病院へ』
「はい」
中井は立ち上がり、樹里へ頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
『私は……』
樹里の言葉が止まる。
助けた。
確かに陽菜を連れ戻した。
だが、もっと早く過去を伝えていれば、陽菜は一人で向かわなかったかもしれない。
沙月と会ったあと、待たせずにすべてを話していれば。
『私にも責任があります』
『総長のせいじゃない』
陽菜が、思わず口を挟む。
中井が、陽菜を見る。
陽菜の呼吸が止まった。
『……その』
美園が静かに続ける。
『昔、私たちが一緒にいた頃の呼び方だよ』
「そうなんですね」
中井はそれ以上、尋ねなかった。
陽菜は胸の奥で息を吐く。
咄嗟に口をついて出た。
まだ、過去と現在を完全に切り分けられていない。
樹里は中井へ向き直る。
『私が伝えるべきことを伝えず、櫻井さんを追い詰めました。申し訳ありません』
「日高さん」
『はい』
「陽菜さんを連れて帰ってきてくれたことに、俺は感謝しています」
中井は樹里をまっすぐ見る。
「ただ、次に何か起きたときは、俺にも教えてください」
『事情によっては――』
「行くなと言われたら、行きません」
中井の声は震えていた。
何もできなかった自分への悔しさを、必死に抑えている。
「邪魔になるなら待ちます。待つことしかできないなら、それでもいいです」
一度、言葉を切る。
「でも、陽菜さんが生きているのかも分からないまま待つのは、もう嫌です」
樹里は中井を見つめた。
陽菜を守る力があるかどうかではない。
中井は、自分も陽菜の人生に関わる人間なのだと伝えていた。
『……分かりました』
樹里は頭を下げる。
『約束します』
「ありがとうございます」
中井は、ようやく陽菜へ向き直った。
「帰れますか」
『歩けるよ』
「肩、貸します」
『そこまでしなくても――』
「貸します」
『今日はみんな同じことしか言わないじゃん』
「誰のせいですか」
中井が少しだけ眉を寄せる。
陽菜は目を丸くしたあと、微かに笑った。
『中井くん、怒ってる?』
「怒っています」
『やっぱり』
「今までで一番怒っています」
『そっか』
そう答えた陽菜は、不思議なくらい安心した顔をしていた。
嫌われることより、心配されることの方が怖かった。
誰かの負担になることが怖かった。
だから、何も言わずに一人で行った。
けれど中井は、心配させなかったことではなく、心配する権利すら与えられなかったことに怒っている。
陽菜は中井の肩を借り、ゆっくり立ち上がった。
『痛っ……』
「やっぱり無理しないでください」
『今のは足じゃなくて脇腹』
「なおさら駄目です」
『分かったって』
中井は陽菜の歩幅に合わせ、ゆっくり歩き出す。
出口の前で、陽菜が足を止めた。
樹里を振り返る。
『日高先輩』
『何だ』
『少しだけ、二人で話してもいい?』
中井は陽菜の身体を支えたまま、樹里を見る。
美園が中井へ声をかけた。
『中井くん、先に外で待ってくれる? 私も一緒に行くから』
「分かりました」
中井は陽菜を椅子へ座らせる。
「外にいます。終わったら連絡してください」
『うん』
中井と美園が病院の外へ出る。
待合室には、樹里と陽菜だけが残った。
樹里は立ったままだった。
陽菜の隣へ座ろうとはしない。
『総長』
『……さっきのことか』
陽菜が何かを言う前に、樹里が口を開いた。
『叩いて悪かった』
『あれは、あたしが――』
『お前が何をしたかとは関係ない』
樹里は、はっきりと言った。
『私が怖くなって、お前にぶつけた。悪いのは私だ』
陽菜は黙った。
『怒っていい』
『怒ってない』
『それでも、謝らせてくれ』
樹里が頭を下げる。
『本当に、悪かった』
陽菜は膝の上で指を組んだ。
打たれた頬は痛い。
樹里が間違えたことも分かっている。
だから、なかったことにしてはいけない。
『もう、叩かないで』
『ああ』
『何かしたら、ちゃんと言葉で怒って』
『……努力する』
『そこは約束してよ』
『約束する』
陽菜の口元が、僅かに緩む。
『じゃあ、許す』
『簡単に許すな』
『面倒臭いなあ』
『私が言えることではないが、もう少し怒っていい』
『怒ってるよ』
陽菜は顔を上げた。
『なんで四年前、何も言わずに消えたの』
樹里の顔が強張る。
『なんで、あたしと美園さんを置いていったの』
『それは――』
『守るためだったなんて、もう言わないで』
陽菜の目に涙が浮かぶ。
『あたし、今日やっと分かった』
自分が事務所へ向かったと知ったとき、樹里が何を感じたのか。
何も言わずに姿を消した陽菜を、どんな思いで捜したのか。
『置いていかれた方は、守られたなんて思えない』
樹里は何も答えられなかった。
『今日のあたしと、四年前の総長は同じだった』
『……ああ』
『だから、あたしも謝る』
陽菜が、震える息を吐く。
『ごめんなさい。置いていって』
樹里の目から、また涙が落ちた。
陽菜は手を伸ばす。
樹里の震える手を取り、自分の両手で包んだ。
『あたし、守られるの苦手』
『知ってる』
『誰かが傷つくくらいなら、自分がって思っちゃう』
『私も同じだ』
『知ってる』
二人は、涙を浮かべたまま僅かに笑った。
『でも、それじゃ駄目なんだね』
『ああ』
『守られる側も、逃げちゃ駄目なんだ』
何もせず、誰かに任せることではない。
自分を大切に思う人の恐怖や痛みから、目を逸らさないこと。
信じて、頼って、帰ること。
守られる側にも、果たすべき責任がある。
『次は、ちゃんと話す』
陽菜が言った。
『一人で決める前に、総長と美園さんに話す。中井くんにも、話せることは話す』
『私も話す』
『本当に?』
『全部は、すぐに言えないかもしれない』
『うん』
『それでも、黙って消えることはしない』
陽菜は樹里の手を握ったまま、頷いた。
『約束ね』
『約束する』
病院の外では、美園と中井が待っている。
これから説明しなければならないことも、謝らなければならないことも残っている。
過去は戻らない。
四年前の別れも、今夜負った傷も、なかったことにはできない。
それでも二人は今、同じ場所にいる。
逃げずに言葉を交わしている。
陽菜は樹里の手を引き、立ち上がった。
『帰ろう、総長』
樹里は陽菜の身体を支える。
『ああ』
二人で出口へ向かう。
自動ドアの向こうには、美園と中井がいた。
待ってくれている人たちのもとへ、自分の足で帰っていく。
それが今夜、陽菜にできる最初のことだった。




