↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/329

88話「全て」

扉が開いた瞬間、部屋の空気が変わった。


 先に足を踏み入れたのは樹里だった。


 その後ろから、美園が続く。


 室内には、数人の男がいた。


 奥の革張りの椅子には組長が座り、その傍らには沙月が立っている。


 そして、部屋の中央。


 両腕を押さえられ、床に膝をつかされている陽菜がいた。


 頬は赤く腫れ、唇の端から血が滲んでいる。


 乱れた髪の隙間から覗く目だけが、まだ鋭く男たちを睨んでいた。


 樹里の足が止まる。


 ほんの一瞬だった。


 けれど美園には、その一瞬が見えた。


 樹里の顔から、すべての感情が消えた。


 怒りさえ、表には出ない。


 ただ、室内にいる人間を一人ずつ見渡す。


 陽菜を押さえている男。


 その隣に立つ男。


 沙月。


 最後に、奥に座る組長。


 誰が何をしたのか。


 どの距離なら届くのか。


 何人までなら、陽菜を巻き込まずに倒せるのか。


 樹里の目は、そんなことまで測っているように見えた。


 陽菜が顔を上げる。


 樹里と目が合った瞬間、瞳が揺れた。


『……総長』


 掠れた声だった。


 樹里は答えなかった。


 陽菜から目を逸らし、組長を見る。


 組長は椅子に深く腰掛けたまま、静かに口を開いた。


「日高樹里」


 低い声が、部屋に響く。


「お前が突きつけてきた約束を、破った落とし前は、どうつけるつもりだ」


 樹里は一歩、前へ出た。


『私が――』


 その腕を、美園が掴んだ。


 強くはない。


 けれど、振りほどくことを許さない手だった。


 樹里が美園を見る。


 美園は樹里ではなく、組長を見ていた。


『その前に、確認させてください』


 静かな声だった。


 怒鳴りもしない。


 睨みつけることもしない。


 それでも、部屋にいた男たちの視線が美園へ集まった。


『四年前の約束は、Rose girlsへ一切手を出さないこと。その代わりに、総長が姿を消し、チームを解散させることだった。そうですね』


「そうだ」


『その約束を破ったのは、陽菜一人です』


『美園さん……』


 陽菜が声を漏らす。


 美園は見なかった。


『今はもう、Rose girlsは存在しません。総長も副総長もいない。ここへ来たのは、一人の女です』


「なら、その一人の女に責任を取らせればいいと?」


『違います』


 美園は即座に答えた。


『陽菜だけを差し出すつもりはありません。樹里一人に背負わせるつもりもない。ただ、六年前の約束と、今日ここで起きたことを混同しないでほしいと言っています』


 組長の目が細くなる。


「随分と口が回るようになったな、中村」


『昔からです。話す必要がなかっただけで』


 美園は一歩も引かなかった。


 樹里が威圧で空気を止めるなら、美園は言葉で出口を塞いでいく。


 相手の主張を聞き、その中にある矛盾を拾い、一つずつ逃げ道を奪う。


 感情を見せないまま、この場の主導権を引き寄せようとしていた。


 組長は短く笑う。


「だが、そいつはうちへ乗り込んできた。何人も殴り倒している」


『それについては、陽菜に責任があります』


『私が取る』


 陽菜が顔を上げた。


『美園も総長も関係ない。ここへ来たのは私。殴ったのも私。だから、私に――』


『黙って』


 美園の声が、陽菜の言葉を切った。


 激しくはなかった。


 しかし、陽菜は続けられなかった。


『あんたは何のためにここへ来たの』


『それは……』


『総長が背負ったものを、自分に返してもらうためでしょ』


『そうだよ』


『それで今度は、あんたが全部背負うの?』


 陽菜の唇が閉じる。


『四年前の総長と、今のあんた。やっていることは同じじゃない』


『違う。あのときの原因は、私だから』


『だから自分が壊れればいいと思った?』


 美園が、ようやく陽菜を見た。


 その目には怒りがあった。


 同時に、それよりもずっと深い恐怖があった。


『それを見た私たちが、どうなるかは考えなかったの?』


 陽菜は答えられない。


 自分がここへ来た理由は、樹里を救うためだった。


 樹里から奪った六年間を返すためだった。


 だが、樹里がかつて選んだ方法と、何が違うのか。


 陽菜は、その問いから目を逸らすことができなかった。


「三人揃って、同じことをする」


 組長が呆れたように言った。


「一人が傷つけば、残りの二人が自分を差し出す。昔から何も変わっていない」


 樹里の眉が、僅かに動く。


『私たちの問題です』


「その問題を、うちへ持ち込んだのはそいつだ」


 組長は陽菜へ目を向けた。


「日高。四年前、お前は自分一人を差し出した。今度はどうする」


 樹里は黙っていた。


「会社を捨てるか。今の生活を捨てるか。それとも、また周りの人間から姿を消すか」


 美園が、樹里の腕を掴む指に力を込める。


 樹里はそれを振りほどかなかった。


「お前が守りたいものは、昔より増えたはずだ。会社も、仕事も、今の仲間もいる」


 組長の視線が、陽菜へ移る。


「それらを失ってでも、こいつを守るか」


 樹里は床に膝をつく陽菜を見た。


 赤く腫れた頬。


 切れた唇。


 拘束された腕。


 それでも、自分を守ろうとしている目。


 四年前と同じだった。


 何も言わず、何も頼らず、一人で終わらせようとする目だった。


 胸の奥に押し込めていたものが、音を立てて崩れた。


『関係ない』


 樹里の声が、低く響く。


 美園が横顔を見る。


『会社よりも、親よりも、命よりも、美園と陽菜は大事なものだ』


 一度、言葉が止まった。


 樹里自身が、口にした言葉に傷ついたような顔をした。


 それでも、もう戻せなかった。


『私の全てだ』


 室内が静まり返った。


 陽菜の目から、涙が落ちた。


 それは痛みのせいではなかった。


 樹里が、自分たちをどう思っているのか。


 ずっと知っていた。


 言葉にされなくても、分かっていたつもりだった。


 けれど、本当は聞きたかった。


 聞ける日など来ないと思っていた。


 美園も俯いた。


 樹里の腕を掴んだまま、唇を強く結んでいる。


「それで、また全部捨てるのか」


 組長が尋ねる。


 樹里の口が開く。


 その言葉が出るより早く、美園が前へ出た。


『捨てさせません』


「お前に止められるのか」


『止めます』


 迷いのない声だった。


『樹里が自分を差し出すなら、私が引き戻します。陽菜が一人で責任を取ろうとするなら、私が止めます』


『美園……』


『私も同じことをしようとしたら、この二人が止める』


 美園は樹里と陽菜を交互に見る。


『もう、一人だけを置いていくことはしません』


 組長は何も言わなかった。


 しばらく三人を眺め、それから沙月へ視線を向ける。


「桐生」


「はい」


「お前は、何をした」


 沙月は僅かに目を伏せた。


「中村美園に接触し、日高樹里の反応を見ました。その後、櫻井陽菜に六年前のことを話しました」


「うちの許可は」


「取っていません」


 陽菜が沙月を見る。


 沙月はその視線を受け止めた。


「私が櫻井陽菜を焚きつけました。ここへ来る可能性があると知りながら、事務所の場所も否定しなかった」


「どうしてだ」


「四年前の決着が、本当に三人を守ったのか確かめたかったからです」


 樹里の目が冷たくなる。


『そのために、陽菜を使ったのか』


「そうです」


 沙月は言い訳をしなかった。


「私の行動が、今日の原因の一つです」


『一つじゃない』


 樹里の声が沈む。


『お前が陽菜をここへ向かわせた』


「はい」


『二度と、私たちに近づくな』


「分かりました」


 沙月は、静かに頭を下げた。


 組長が深い息を吐く。


「四年前、うちが受け入れた条件は、Rose girlsを消すためのものだった」


 誰も口を挟まなかった。


「チームは解散した。四年間、再結成もしていない。日高も約束を守った」


 組長は、陽菜を押さえている男へ顎を向ける。


「離せ」


「しかし――」


「聞こえなかったか」


 男たちの手が、陽菜から離れる。


 力を失った身体が傾いた。


 樹里が動くより先に、美園が駆け寄り、陽菜を抱き止めた。


『陽菜』


『……ごめん』


『今は喋らなくていい』


 美園は陽菜の身体を支えたまま、腫れた頬と腕の状態を確かめる。


 組長は樹里へ目を向けた。


「今日の件は、こちらにも落ち度がある。桐生が勝手に過去を掘り返し、お前たちを試した」


 沙月は黙っている。


「だが、そいつがうちへ乗り込み、何人も殴った事実は消えない」


『分かっています』


「治療費はこちらで持つ。そいつが壊した物も請求しない」


 陽菜が顔を上げる。


 組長は、冷えた目で陽菜を見た。


「ただし、二度と来るな。過去を返してもらおうなどと思うな」


『……でも』


「日高が捨てた四年間は戻らない。お前がここで同じだけ傷ついても、戻らないものは戻らない」


 陽菜は歯を食いしばった。


「お前にできるのは、日高が守った先で生きることだけだ」


 その言葉は、陽菜にとって殴られるよりも重かった。


「三人とも連れて帰れ。これで終わりだ」


 樹里は組長を見つめた。


『一つだけ、確認させてください』


「何だ」


『今後、陽菜、美園、昔の仲間たちへ接触しない。それで間違いありませんか』


「こちらから手を出すことはない」


『桐生沙月も含めてです』


 沙月が僅かに目を伏せる。


「含めてだ」


『分かりました』


 樹里は深く頭を下げた。


 屈服ではない。


 必要な約束を取りつけた者の礼だった。


 そして顔を上げると、美園に支えられている陽菜へ歩み寄った。


『立てるか』


『……うん』


 陽菜が美園の肩を借りて立ち上がる。


 樹里は手を差し出そうとした。


 しかし、その手を途中で止めた。


 拳を握り、背を向ける。


『帰るぞ』


 それだけを言って、樹里は扉へ向かった。


 三人が建物を出るまで、誰も追ってはこなかった。


 冷たい夜風が、熱を持った陽菜の頬を撫でる。


 外へ出たことで緊張が切れたのか、陽菜の足がふらついた。


 美園が支える。


『陽菜、大丈夫?』


『大丈夫』


『大丈夫なわけないでしょ』


『でも、歩けるから』


 数歩先を歩いていた樹里が止まった。


 ゆっくりと振り返る。


 陽菜は樹里の顔を見られなかった。


『総長……ごめん』


 樹里が戻ってくる。


 陽菜の前に立つ。


『私、総長が消えた理由を聞いて……何かしないとって思って……』


 乾いた音が響いた。


 樹里の平手が、陽菜の頬を打っていた。


 すでに腫れている方とは逆の頬だった。


 陽菜の顔が横を向く。


 美園は止めなかった。


 ただ、樹里を見ていた。


 陽菜を打った手が震えている。


 樹里は、泣いていた。


 声もなく、次々と涙を零していた。


 怒りで打ったのではない。


 陽菜を失うかもしれないという恐怖を、ほかの形にできなかった。


 それでも、打っていい理由にはならない。


 樹里自身が、誰よりも分かっていた。


『……悪い』


 掠れた声だった。


 陽菜が、ゆっくり樹里を見る。


『叩くつもりじゃ……なかった』


『ううん』


『違う』


 樹里は首を振った。


『今のは、私が悪い』


 震える手を、強く握り締める。


『でも……』


 それ以上が、なかなか出てこない。


『二度と……』


 樹里の声が途切れる。


『二度と、自分を……』


 最後まで言えなかった。


 陽菜は樹里の泣き顔を見つめた。


 六年前、自分たちの前から消えた人。


 痛みも恐怖も何も見せず、一人で背負い切ったと思っていた人。


 けれど、本当は違った。


 平気だったわけではない。


 怖くなかったわけでもない。


 自分たちを捨てたのではない。


 自分たち以外のすべてを捨てたのだ。


『ごめんなさい』


 陽菜の目からも、涙が溢れた。


『総長、ごめんなさい』


『……謝るな』


『でも、私……』


『今は、謝るな』


 樹里の声は弱かった。


『生きていてくれ。それだけでいい』


 陽菜の顔が歪む。


 次の瞬間、陽菜は樹里へ抱きついていた。


 負傷した身体に力は入らない。


 それでも、離れまいとするように、樹里の服を強く掴んだ。


 樹里は一瞬、腕の置き場を失う。


 やがて、壊れ物へ触れるように陽菜の背中へ手を回した。


『総長……』


『うん』


『私、帰ってきてほしかった』


『うん』


『ずっと、帰ってきてほしかった』


『……うん』


 樹里には、それしか言えなかった。


 美園が二人へ近づく。


 そして、陽菜の背中と樹里の肩へ、それぞれ片手を置いた。


『帰ろう』


 美園の目にも涙が浮かんでいた。


『三人で』


 樹里が顔を上げる。


 陽菜も、涙に濡れた目で美園を見る。


『うん』


 陽菜が頷いた。


『三人で帰ろう』


 樹里は声にできなかった。


 ただ、二人を見て、僅かに頷いた。


 三人が歩き出してすぐ、樹里はスマートフォンを取り出した。


 中井とのLINEを開く。


【櫻井さんを連れて出ました。怪我はありますが、無事です】


 送信した直後、既読がついた。


【ありがとうございます】


 続けて、もう一通届く。


【陽菜さんの声を聞くことはできますか】


 樹里は画面を陽菜へ見せた。


 陽菜の顔が、また歪む。


『中井くん……』


『待ってるよ』


 美園が言った。


『あんたが帰ってくるのを、ずっと』


 陽菜は震える指で、自分のスマートフォンを取り出した。


 中井の名前を押す。


 呼び出し音は、一度鳴り終わる前に途切れた。


「陽菜さん?」


 聞こえてきた声に、陽菜は泣いた。


『……中井くん』


「はい」


『ごめんね』


 僅かな沈黙のあと、中井が息を吐く音がした。


「無事なら、それでいいです」


『今から帰る』


「はい。待っています」


『ちゃんと帰るから』


「はい」


 陽菜は電話を切らなかった。


 中井も切ろうとはしなかった。


 美園に支えられながら歩く陽菜の隣を、樹里が進む。


 今度は、誰も先に行かなかった。


 一人が前を歩き、残った二人がその背中を追うのではない。


 三人が、同じ速さで歩いていた。


 六年前、帰ることのできなかった三人が。


 今度こそ、三人で帰るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。