↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/329

87話「疾走」

CB1100のエンジン音が、夜の道路へ響く。


 樹里はRoseへ向かいながら、信号で停車したわずかな時間にスマートフォンを取り出した。


 中井とのLINEを開く。


【櫻井さんの居場所がわかりました】


【美園と一緒に迎えに行きます】


【必ず連れて戻ります】


 送信する。


 信号が変わる前に、既読がついた。


【陽菜さんは無事ですか?】


 樹里の指が止まる。


 生きている。


 だが、怪我をしている。


 捕らえられている。


 どこまで伝えるべきか迷った末、嘘をつかない範囲で返す。


【命に関わる状態ではありません】


【ただ、怪我はしているようです】


 すぐに返信が届く。


【俺も行きます】


 樹里は、短く息を吐いた。


【今は来ないでください】


【相手を刺激すれば、櫻井さんの立場が悪くなる可能性があります】


【お願いします】


 数秒、返事はなかった。


 中井が、画面の向こうでどれほど苦しんでいるのかは想像できる。


 何も知らされず、行くことも許されず、大切な人の帰りを待つ。


 自分が陽菜へさせてきたことと、同じだった。


【わかりました】


【でも、陽菜さんの声を聞くまでは眠れません】


【何時でもいいので、必ず連絡してください】


 樹里は画面を見つめた。


【約束します】


 信号が青へ変わる。


 樹里はスマートフォンをしまい、再び走り出した。


     ◇


 Roseの前に到着しても、樹里はエンジンを切らなかった。


 閉店の札が出された店内には、もう照明が残っていない。


 扉が開く。


 美園はエプロンも外していなかった。


 上からコートを羽織り、髪だけを簡単にまとめている。


 樹里は持ってきた予備のヘルメットを差し出した。


『乗って』


『わかってる』


 美園はヘルメットをかぶり、樹里の後ろへ跨った。


 足をステップへ置く。


 樹里の腰へ腕を回す。


 四年という時間が空いても、その動きに迷いはなかった。


 Rose girlsだった頃、何度も同じバイクへ乗った。


 傷ついた仲間のもとへ向かった夜。


 敵対チームから逃げる仲間を迎えに行った夜。


 何も起きていないのに、ただ走りたくて二人で街を抜けた夜。


 バイクも、服装も、走る理由も変わった。


 それでも、樹里の背中へ体を預ける感覚を、美園は覚えていた。


『場所は』


 エンジン音に負けないよう、美園が尋ねる。


『四年前と同じ』


『道は覚えてる?』


『忘れてない』


『そう』


 樹里は前を向いたまま、アクセルを開いた。


 CB1100が、夜の道へ滑り出す。


     ◇


 樹里の走り方には、迷いがなかった。


 制限を大きく越えるような速度は出さない。


 赤信号も無視しない。


 だが、車線の選び方も、曲がる道も、すべてが早い。


 今できる最短を、冷静に選んでいる。


 焦っているからこそ、事故は起こせない。


 ここで自分たちまで辿り着けなくなれば、陽菜を迎えに行く者がいなくなる。


 美園は、樹里の背中へ回した腕へ力を込めた。


 体温が伝わる。


 背筋はまっすぐ伸びている。


 呼吸も表面上は乱れていない。


 それでも、樹里の体がわずかに震えていることを、美園は感じていた。


 信号で止まる。


『総長』


『何』


『怖い?』


『……怖くない』


『嘘』


 樹里は答えなかった。


 信号が青へ変わり、再びバイクが走り出す。


 次の信号で停車したとき、美園がもう一度尋ねる。


『陽菜が怪我してるから、怒ってる?』


『怒ってる』


『約束を破ったから?』


『それもある』


『一人で行ったから?』


 樹里の手が、ハンドルを強く握る。


『……そう』


『自分を差し出しに行ったから?』


 樹里は答えなかった。


 それが答えだった。


『四年前の総長と同じことをしたね』


『私は、陽菜たちを守るために――』


『陽菜も同じつもりだよ』


『違う』


『何が違うの』


『私は総長だった』


『今は違う』


 樹里の呼吸が止まる。


 美園は続けた。


『今の総長は、陽菜の上に立って命令する人じゃない』


『……わかってる』


『家族でしょ』


 その一言が、樹里の胸へ刺さった。


『家族なら、一人で責任を取らせるな』


『取らせるつもりはない』


『総長自身にも』


 樹里は何も言わなかった。


『陽菜を連れて帰ったあと、自分だけ残るとか言わないでよ』


『言わない』


『本当に?』


『美園』


『何』


『私は、二人がいない場所には帰らない』


 美園の腕に、わずかに力が入る。


 極限の中で漏れた、樹里の本音だった。


 普段なら、決して口にしない。


 愛しているとも、失いたくないとも言えない樹里が、二人のいない場所を帰る場所とは呼べないと言った。


『なら、三人で帰るよ』


 美園が答える。


『絶対に』


『……うん』


 信号が青へ変わる。


 樹里は再びアクセルを開いた。


     ◇


 一方。


 組事務所の奥で、陽菜は拘束されたまま椅子へ座っていた。


 先ほどまで壁際にいた男たちは、別の部屋へ移っている。


 残っているのは組長、沙月、そして数人だけだった。


 陽菜は俯いたまま、何も言わない。


「日高は来る」


 組長が言った。


 陽菜の肩が、わずかに動く。


『……来なくていい』


「来るなと言える立場か」


『ここへ来たのは、あたしの判断です』


「だから何だ」


『総長には関係ない』


「四年前、お前がしたことも同じだったな」


 陽菜が顔を上げる。


「自分一人の判断で動いた。日高には関係ないと思っていた」


『……はい』


「結果はどうなった」


 答えられない。


 樹里が一人で責任を取った。


 チームを解散させ、消えた。


 そして今日も、同じことが繰り返されている。


「お前は、自分を差し出せば責任を取れると思っている」


『違う』


「日高も同じだった」


 陽菜の目が揺れる。


「守る側の人間は、自分が傷つけば終わると思い込む。だが、残された人間の傷は計算に入れない」


 その言葉は、樹里へ向けるはずだった陽菜の怒りと同じだった。


 勝手に一人で決める。


 守るためだと言って、自分だけを差し出す。


 残された側の思いを置き去りにする。


 今、自分もまったく同じことをしている。


『……あたしは、何をしてるんだろ』


 陽菜の口から、小さな声が漏れた。


 沙月は壁際に立ち、何も言わずに見ていた。


『沙月』


「何だ」


『これが、見たかったの?』


「何が」


『あたしが馬鹿なことをするところ』


「行くなとは言った」


『でも、あたしが来ると思ってた』


「可能性は高いと思っていた」


『だったら、止められたでしょ』


「私は、お前の保護者ではない」


『……最低』


「そうだな」


 沙月は、否定しなかった。


「だが、選んだのはお前だ」


『わかってる』


「日高樹里も、自分で選んでここへ来る」


 陽菜の拳が震える。


『来てほしくない』


「なぜ」


『どんな顔をすればいいかわからないから』


 怒られる。


 見放される。


 失望される。


 そのどれよりも怖いことがある。


 樹里が、自分の代わりにもう一度何かを差し出すこと。


『総長に、何もさせないで』


「それを決めるのは、日高だ」


『あたしを帰さなくていい。だから――』


「まだ言うか」


 組長の声が低くなる。


「お前は今も、自分を差し出そうとしている」


 陽菜は言葉を失った。


 何を言っても、同じ場所へ戻ってくる。


 自分さえ残れば。


 自分さえ傷つけば。


 樹里と美園は帰れる。


 その考えこそ、樹里が最も恐れているものだった。


「日高が来たら、お前は黙っていろ」


 組長が告げる。


「四年前の約束を交わしたのは、俺と日高だ」


 陽菜は俯いた。


 自分が始めたことなのに、また樹里が前へ立つ。


 それを止める言葉を、陽菜は持っていなかった。


     ◇


 川沿いの道へ入る。


 目的のビルの明かりが、遠くに見え始めた。


 樹里の背中が、さらに硬くなる。


『総長』


『聞こえてる』


『着いたら、最初は話をする』


『わかってる』


『陽菜を見ても、すぐに前へ出ない』


『それは無理かもしれない』


『無理でも、やるの』


『……うん』


『私が先に、陽菜の状態を見る』


『私も見る』


『総長は、組長から目を離さないで』


『美園』


『何』


『仕切らないで』


『総長が冷静じゃないからでしょ』


『冷静だよ』


『手、震えてる』


 樹里は言葉を止めた。


 美園には、すべて伝わっている。


 怒りも、恐怖も。


 今すぐ陽菜の姿を確認したいという衝動も。


『わかった』


 樹里は、ようやく答えた。


『陽菜の状態は、美園が確認して』


『うん』


『組長とは、私が話す』


『一人で責任を取るとは言わない』


『……努力する』


『そこは、言わないって約束して』


『言わない』


 美園は、樹里の背中へ額を軽く預けた。


『三人で帰る』


『わかってる』


『何度でも言うよ』


『うん』


 最後の角を曲がる。


 古いビルが、正面に現れた。


 樹里は速度を落とし、入口の前へCB1100を停めた。


 エンジンを切る。


 低い排気音が消え、夜の静けさが戻る。


 樹里はヘルメットを外した。


 美園も後ろから降りる。


 美園のエプロンが、コートの下からわずかに見えていた。


 四年前、特攻服を着て立っていた二人。


 今夜の二人は、会社帰りの服と、店のエプロン姿だった。


 それでも、ビルの入口を見据える目だけは、昔と変わらない。


 扉の前には、陽菜に倒された男たちとは別の者が立っていた。


「何の用だ」


 男が二人へ近づく。


 樹里は、相手を正面から見た。


『日高樹里です』


 男の動きが止まる。


『中にいる櫻井陽菜を、迎えに来ました』


「お前が、日高か」


『そうです』


「一人で来いと言われなかったか」


『言われていません』


「そっちの女は待たせろ」


 美園が樹里の横へ並ぶ。


『私は中村美園。陽菜の家族だよ』


「家族?」


『そう。だから、ここから先も一緒に行く』


「勝手なことを――」


 男が美園の前へ出ようとする。


 その瞬間、樹里の視線が変わった。


『触れないでください』


 大声ではない。


 脅しでもない。


 ただ、その一言で、男の足が止まった。


 樹里は怒鳴らない。


 拳を構えることもしない。


 それでも、そこから先へ出れば何が起きるのかを、相手へ想像させる。


 陽菜の狂気とは違う。


 美園の制圧とも違う。


 樹里は、立っているだけで相手から次の行動を奪う。


『私たちは、話をしに来ました』


 樹里が一歩進む。


『四年前と同じです』


 男たちは、互いの顔を見る。


 やがて、一人が奥へ連絡を入れた。


 短いやり取りのあと、道を空ける。


「……通れ」


 樹里は礼を言わなかった。


 美園と並び、ビルの中へ入る。


 陽菜を取り戻すために。


 四年前に引いた線を、今度こそ三人で終わらせるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。