87話「疾走」
CB1100のエンジン音が、夜の道路へ響く。
樹里はRoseへ向かいながら、信号で停車したわずかな時間にスマートフォンを取り出した。
中井とのLINEを開く。
【櫻井さんの居場所がわかりました】
【美園と一緒に迎えに行きます】
【必ず連れて戻ります】
送信する。
信号が変わる前に、既読がついた。
【陽菜さんは無事ですか?】
樹里の指が止まる。
生きている。
だが、怪我をしている。
捕らえられている。
どこまで伝えるべきか迷った末、嘘をつかない範囲で返す。
【命に関わる状態ではありません】
【ただ、怪我はしているようです】
すぐに返信が届く。
【俺も行きます】
樹里は、短く息を吐いた。
【今は来ないでください】
【相手を刺激すれば、櫻井さんの立場が悪くなる可能性があります】
【お願いします】
数秒、返事はなかった。
中井が、画面の向こうでどれほど苦しんでいるのかは想像できる。
何も知らされず、行くことも許されず、大切な人の帰りを待つ。
自分が陽菜へさせてきたことと、同じだった。
【わかりました】
【でも、陽菜さんの声を聞くまでは眠れません】
【何時でもいいので、必ず連絡してください】
樹里は画面を見つめた。
【約束します】
信号が青へ変わる。
樹里はスマートフォンをしまい、再び走り出した。
◇
Roseの前に到着しても、樹里はエンジンを切らなかった。
閉店の札が出された店内には、もう照明が残っていない。
扉が開く。
美園はエプロンも外していなかった。
上からコートを羽織り、髪だけを簡単にまとめている。
樹里は持ってきた予備のヘルメットを差し出した。
『乗って』
『わかってる』
美園はヘルメットをかぶり、樹里の後ろへ跨った。
足をステップへ置く。
樹里の腰へ腕を回す。
四年という時間が空いても、その動きに迷いはなかった。
Rose girlsだった頃、何度も同じバイクへ乗った。
傷ついた仲間のもとへ向かった夜。
敵対チームから逃げる仲間を迎えに行った夜。
何も起きていないのに、ただ走りたくて二人で街を抜けた夜。
バイクも、服装も、走る理由も変わった。
それでも、樹里の背中へ体を預ける感覚を、美園は覚えていた。
『場所は』
エンジン音に負けないよう、美園が尋ねる。
『四年前と同じ』
『道は覚えてる?』
『忘れてない』
『そう』
樹里は前を向いたまま、アクセルを開いた。
CB1100が、夜の道へ滑り出す。
◇
樹里の走り方には、迷いがなかった。
制限を大きく越えるような速度は出さない。
赤信号も無視しない。
だが、車線の選び方も、曲がる道も、すべてが早い。
今できる最短を、冷静に選んでいる。
焦っているからこそ、事故は起こせない。
ここで自分たちまで辿り着けなくなれば、陽菜を迎えに行く者がいなくなる。
美園は、樹里の背中へ回した腕へ力を込めた。
体温が伝わる。
背筋はまっすぐ伸びている。
呼吸も表面上は乱れていない。
それでも、樹里の体がわずかに震えていることを、美園は感じていた。
信号で止まる。
『総長』
『何』
『怖い?』
『……怖くない』
『嘘』
樹里は答えなかった。
信号が青へ変わり、再びバイクが走り出す。
次の信号で停車したとき、美園がもう一度尋ねる。
『陽菜が怪我してるから、怒ってる?』
『怒ってる』
『約束を破ったから?』
『それもある』
『一人で行ったから?』
樹里の手が、ハンドルを強く握る。
『……そう』
『自分を差し出しに行ったから?』
樹里は答えなかった。
それが答えだった。
『四年前の総長と同じことをしたね』
『私は、陽菜たちを守るために――』
『陽菜も同じつもりだよ』
『違う』
『何が違うの』
『私は総長だった』
『今は違う』
樹里の呼吸が止まる。
美園は続けた。
『今の総長は、陽菜の上に立って命令する人じゃない』
『……わかってる』
『家族でしょ』
その一言が、樹里の胸へ刺さった。
『家族なら、一人で責任を取らせるな』
『取らせるつもりはない』
『総長自身にも』
樹里は何も言わなかった。
『陽菜を連れて帰ったあと、自分だけ残るとか言わないでよ』
『言わない』
『本当に?』
『美園』
『何』
『私は、二人がいない場所には帰らない』
美園の腕に、わずかに力が入る。
極限の中で漏れた、樹里の本音だった。
普段なら、決して口にしない。
愛しているとも、失いたくないとも言えない樹里が、二人のいない場所を帰る場所とは呼べないと言った。
『なら、三人で帰るよ』
美園が答える。
『絶対に』
『……うん』
信号が青へ変わる。
樹里は再びアクセルを開いた。
◇
一方。
組事務所の奥で、陽菜は拘束されたまま椅子へ座っていた。
先ほどまで壁際にいた男たちは、別の部屋へ移っている。
残っているのは組長、沙月、そして数人だけだった。
陽菜は俯いたまま、何も言わない。
「日高は来る」
組長が言った。
陽菜の肩が、わずかに動く。
『……来なくていい』
「来るなと言える立場か」
『ここへ来たのは、あたしの判断です』
「だから何だ」
『総長には関係ない』
「四年前、お前がしたことも同じだったな」
陽菜が顔を上げる。
「自分一人の判断で動いた。日高には関係ないと思っていた」
『……はい』
「結果はどうなった」
答えられない。
樹里が一人で責任を取った。
チームを解散させ、消えた。
そして今日も、同じことが繰り返されている。
「お前は、自分を差し出せば責任を取れると思っている」
『違う』
「日高も同じだった」
陽菜の目が揺れる。
「守る側の人間は、自分が傷つけば終わると思い込む。だが、残された人間の傷は計算に入れない」
その言葉は、樹里へ向けるはずだった陽菜の怒りと同じだった。
勝手に一人で決める。
守るためだと言って、自分だけを差し出す。
残された側の思いを置き去りにする。
今、自分もまったく同じことをしている。
『……あたしは、何をしてるんだろ』
陽菜の口から、小さな声が漏れた。
沙月は壁際に立ち、何も言わずに見ていた。
『沙月』
「何だ」
『これが、見たかったの?』
「何が」
『あたしが馬鹿なことをするところ』
「行くなとは言った」
『でも、あたしが来ると思ってた』
「可能性は高いと思っていた」
『だったら、止められたでしょ』
「私は、お前の保護者ではない」
『……最低』
「そうだな」
沙月は、否定しなかった。
「だが、選んだのはお前だ」
『わかってる』
「日高樹里も、自分で選んでここへ来る」
陽菜の拳が震える。
『来てほしくない』
「なぜ」
『どんな顔をすればいいかわからないから』
怒られる。
見放される。
失望される。
そのどれよりも怖いことがある。
樹里が、自分の代わりにもう一度何かを差し出すこと。
『総長に、何もさせないで』
「それを決めるのは、日高だ」
『あたしを帰さなくていい。だから――』
「まだ言うか」
組長の声が低くなる。
「お前は今も、自分を差し出そうとしている」
陽菜は言葉を失った。
何を言っても、同じ場所へ戻ってくる。
自分さえ残れば。
自分さえ傷つけば。
樹里と美園は帰れる。
その考えこそ、樹里が最も恐れているものだった。
「日高が来たら、お前は黙っていろ」
組長が告げる。
「四年前の約束を交わしたのは、俺と日高だ」
陽菜は俯いた。
自分が始めたことなのに、また樹里が前へ立つ。
それを止める言葉を、陽菜は持っていなかった。
◇
川沿いの道へ入る。
目的のビルの明かりが、遠くに見え始めた。
樹里の背中が、さらに硬くなる。
『総長』
『聞こえてる』
『着いたら、最初は話をする』
『わかってる』
『陽菜を見ても、すぐに前へ出ない』
『それは無理かもしれない』
『無理でも、やるの』
『……うん』
『私が先に、陽菜の状態を見る』
『私も見る』
『総長は、組長から目を離さないで』
『美園』
『何』
『仕切らないで』
『総長が冷静じゃないからでしょ』
『冷静だよ』
『手、震えてる』
樹里は言葉を止めた。
美園には、すべて伝わっている。
怒りも、恐怖も。
今すぐ陽菜の姿を確認したいという衝動も。
『わかった』
樹里は、ようやく答えた。
『陽菜の状態は、美園が確認して』
『うん』
『組長とは、私が話す』
『一人で責任を取るとは言わない』
『……努力する』
『そこは、言わないって約束して』
『言わない』
美園は、樹里の背中へ額を軽く預けた。
『三人で帰る』
『わかってる』
『何度でも言うよ』
『うん』
最後の角を曲がる。
古いビルが、正面に現れた。
樹里は速度を落とし、入口の前へCB1100を停めた。
エンジンを切る。
低い排気音が消え、夜の静けさが戻る。
樹里はヘルメットを外した。
美園も後ろから降りる。
美園のエプロンが、コートの下からわずかに見えていた。
四年前、特攻服を着て立っていた二人。
今夜の二人は、会社帰りの服と、店のエプロン姿だった。
それでも、ビルの入口を見据える目だけは、昔と変わらない。
扉の前には、陽菜に倒された男たちとは別の者が立っていた。
「何の用だ」
男が二人へ近づく。
樹里は、相手を正面から見た。
『日高樹里です』
男の動きが止まる。
『中にいる櫻井陽菜を、迎えに来ました』
「お前が、日高か」
『そうです』
「一人で来いと言われなかったか」
『言われていません』
「そっちの女は待たせろ」
美園が樹里の横へ並ぶ。
『私は中村美園。陽菜の家族だよ』
「家族?」
『そう。だから、ここから先も一緒に行く』
「勝手なことを――」
男が美園の前へ出ようとする。
その瞬間、樹里の視線が変わった。
『触れないでください』
大声ではない。
脅しでもない。
ただ、その一言で、男の足が止まった。
樹里は怒鳴らない。
拳を構えることもしない。
それでも、そこから先へ出れば何が起きるのかを、相手へ想像させる。
陽菜の狂気とは違う。
美園の制圧とも違う。
樹里は、立っているだけで相手から次の行動を奪う。
『私たちは、話をしに来ました』
樹里が一歩進む。
『四年前と同じです』
男たちは、互いの顔を見る。
やがて、一人が奥へ連絡を入れた。
短いやり取りのあと、道を空ける。
「……通れ」
樹里は礼を言わなかった。
美園と並び、ビルの中へ入る。
陽菜を取り戻すために。
四年前に引いた線を、今度こそ三人で終わらせるために。




