86話「乗込」
陽菜が辿り着いたのは、繁華街から外れた古いビルだった。
四年前と同じ場所。
表札はない。
何の会社が入っているのかも、外からはわからない。
窓の大半には明かりがなく、正面入口の奥だけが薄く照らされている。
陽菜は、道の向かい側で足を止めた。
(まだ、戻れる)
今なら、樹里へLINEを送れる。
沙月から聞いたことをすべて話し、一緒に考えてほしいと言える。
美園へ助けを求めることもできる。
中井へ位置情報を送れば、すぐに迎えに来るだろう。
それでも陽菜は、鞄からスマートフォンを取り出さなかった。
四年前。
自分が仲間を守ろうとして、相手を必要以上に傷つけた。
その責任を、樹里が一人で引き受けた。
チームを解散させ、自分たちの前から消えた。
樹里が置いてきた六年を、何も知らなかった自分がそのまま受け取っていいとは思えなかった。
(総長が背負ったものを、あたしに戻してもらう)
話をするだけ。
謝罪し、条件を改めてもらう。
自分のしたことは、自分で責任を取る。
そう考えていた。
それが樹里と同じ自己犠牲であることには、まだ気づいていなかった。
陽菜は道路を渡った。
◇
入口を抜けると、すぐに二人の男が立ちはだかった。
「何だ、お前」
『責任者の方に会わせてください』
「アポは?」
『ありません』
「帰れ」
『話があります』
「こっちにはない」
男の一人が、追い払うように手を振る。
陽菜は動かなかった。
『四年前の、Rose girlsの件です』
二人の表情が変わる。
「Rose girls?」
『元副総長の櫻井陽菜です』
片方の男が、陽菜を上から下まで見る。
「お前が?」
『はい』
「何しに来た」
『当時の条件について、組長と話をするためです』
「今さら何の話だ」
『日高樹里が引き受けた責任を、あたしに戻してほしい』
男たちは顔を見合わせた。
次の瞬間、片方が声を上げて笑う。
「責任を戻す? 何だ、それ」
『笑い話ではありません』
「四年前に終わった話だろ」
『あたしにとっては、今日始まった話です』
「知るかよ」
男が陽菜へ近づく。
「とにかく帰れ。女が一人で来るところじゃない」
『話が終わるまでは帰りません』
「終わってるって言ってるだろ」
男の手が、陽菜の肩へ伸びた。
陽菜はその手首をつかむ。
力は込めない。
ただ、自分へ触れさせなかった。
『触らないでください』
「離せ」
『中へ取り次いでくれたら離します』
「調子に乗るなよ」
もう一人の男が、陽菜の腕をつかもうとする。
陽菜は最初の男の手首を離し、一歩後ろへ下がった。
『あたしは、喧嘩をしに来たわけではありません』
「だったら大人しく帰れ」
『組長に会わせてください』
「しつこいな」
男が舌打ちする。
「四年前、日高とかいう女が一人で来て、話はついてるんだろ」
陽菜の目が変わる。
『その名前を、軽く呼ばないで』
「何だよ。お前らの総長様か?」
『……そうです』
「自分から頭下げに来た女だろ。部下が馬鹿やった尻拭いに」
陽菜の拳が、わずかに震えた。
樹里がここで何を言われたのか。
どんな目で見られたのか。
一人で、何を耐えたのか。
想像するだけで、頭の中が熱くなる。
『もう一度言います』
陽菜の声から、感情が消えた。
『組長へ取り次いでください』
「断る」
『そうですか』
「わかったなら――」
男が、陽菜の腕を強くつかんだ。
その瞬間。
陽菜はつかまれた腕を内側へ回し、男の重心を崩した。
足を払い、床へ倒す。
背中が床へ当たる鈍い音が響いた。
「てめえ!」
もう一人が拳を振るう。
陽菜は上体をずらして避け、懐へ入った。
腹部へ短く拳を打ち込む。
男が前へ折れたところへ、肩を押し当てて壁へ叩きつける。
入口の奥から、数人の男が姿を現した。
「何の騒ぎだ!」
『あたしは、話をしに来ただけです』
陽菜は倒れた男たちの前に立っている。
呼吸は乱れていない。
『組長に会わせてください』
「話しに来た女が、何で二人も倒してるんだよ」
『先に触られたからです』
「ふざけるな!」
新たに現れた男が、陽菜へ向かってくる。
陽菜は、ため息をついた。
『一人ずつ来るなら、何人増えても同じですよ』
その顔には、笑みに近いものが浮かんでいた。
楽しいからではない。
怒りと痛みを押し込めすぎて、感情の置き場所を失っている。
昔、敵対チームの者たちが最も恐れた陽菜の顔だった。
自分が殴られていることにも気づかないように前へ出る。
相手が倒れるまで、痛みも恐怖も後回しにする。
樹里の威圧とは違う。
美園の制圧とも違う。
陽菜の強さは、自分自身まで壊すことをためらわない危うさの中にあった。
◇
一人目の拳を避ける。
腕をつかみ、その勢いのまま床へ投げる。
二人目の蹴りを脇腹に受けながら、相手の軸足を払う。
痛みはあった。
それでも陽菜は止まらない。
背後から肩をつかまれ、肘を後ろへ打ち込む。
手が緩んだところで振り返り、顎へ掌底を入れる。
一人。
また一人。
前へ出た男が、その場へ沈んでいく。
「こいつ、本当に女かよ……」
『女ですよ』
陽菜は口元の血を、手の甲で拭った。
『それが何か?』
倒れた男の一人が、陽菜の足をつかむ。
体勢を崩したところへ、別の男の拳が頬へ当たった。
視界が揺れる。
それでも陽菜は膝をつかなかった。
『……まだです』
「何なんだ、こいつ」
『組長に会うまで帰らないって、最初から言っています』
陽菜が再び前へ出る。
男たちの方が、一瞬だけ下がった。
だが、人数が違う。
ここは相手の場所だった。
奥から、さらに人が出てくる。
陽菜は囲まれた。
前から来た男の腕をかわした直後、背後から両腕を押さえられる。
振りほどこうとしたところへ、脇腹を蹴られた。
息が詰まる。
足元が揺らぎ、片膝が床へ落ちた。
それでも立とうとする。
別の男が肩を押さえ、腕を後ろへ回す。
『離して』
「いい加減にしろ!」
陽菜は頭を振り、拘束する男の顔へ後頭部を当てた。
男が怯む。
もう一度立ち上がりかけたところへ、数人が同時に押さえ込んだ。
両腕。
肩。
足。
完全に動きを止められる。
『……まだ、話は終わってない』
「こっちは、お前と話すことなんかない」
『だったら、組長を呼んで』
「この状況で、まだ言うのか」
『そのために来たから』
陽菜は顔を上げた。
頬は腫れ、口元には血が滲んでいる。
呼吸も乱れていた。
それでも、その目だけは折れていなかった。
奥から出てきた年長の男が、倒れている者たちと陽菜を見た。
「名前は」
『櫻井陽菜』
「所属は」
『元Rose girls副総長』
男の表情が変わる。
「……奥へ連れていけ」
陽菜は拘束されたまま、立たされた。
ようやく、目的の場所へ通される。
それが自分の力で辿り着いた結果ではなく、侵入者として捕らえられただけだということを、陽菜は理解していなかった。
◇
奥の部屋へ連れていかれ、陽菜は椅子へ座らされた。
両腕は後ろで拘束されている。
数人の男が、部屋の壁際に立つ。
しばらくして扉が開いた。
年齢を重ねた男が入ってくる。
その男が姿を見せた瞬間、部屋の空気が変わった。
後ろには沙月がいる。
男は椅子へ深く座り、陽菜を上から下まで見た。
「こいつか」
「はい」
沙月が答える。
「四年前のRose girls。副総長だった櫻井陽菜です」
組長の目が、わずかに細くなる。
「ほう。お前が、あのときの副総長か」
陽菜は、真っすぐに顔を上げた。
『あたしのことを知ってるんですね』
「日高が、何度も名前を出したからな」
胸が、強く痛む。
『総長は、ここで何をしたんですか』
「お前は、それを聞くために、この人数を倒したのか」
『話を聞いてもらえなかったからです』
「だから暴れた?」
『先に手を出された』
「それで、やり返したと」
『はい』
組長が低く笑う。
「四年前と何も変わっていないな」
陽菜の表情が止まる。
「目の前の相手が何者かも考えず、仲間へ触れたというだけで潰した」
『……あのときは』
「そして今度は、自分の責任を取り戻すと言って、また一人で乗り込んできた」
組長は沙月を見る。
「お前が話したのか」
「骨子だけは」
「余計なことをしたな」
「申し訳ありません」
沙月は頭を下げたが、その声に動揺はなかった。
組長は再び陽菜を見る。
「それで、何を望む」
『四年前の条件を、取り消してください』
「何?」
『Rose girlsを解散させること。総長があたしたちの前から消えること。全部、あたしのしたことの責任だったんですよね』
「そう聞いたのか」
『発端は、あたしだった』
「それで?」
『総長へ負わせた責任を、あたしへ戻してください』
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
『必要なら、あたしが責任を取ります』
「どうやって」
『何でもします』
「その言葉の意味が、わかっているのか」
『わかっています』
「わかっていない」
組長の声は低かったが、怒鳴ってはいなかった。
「日高樹里が六年前に最も嫌った答えを、今のお前が口にしている」
『どういう意味ですか』
「自分一人を差し出し、仲間を守る」
陽菜の言葉が止まる。
「お前は、日高がしたことを取り消したいと言いながら、同じことをしに来た」
『違う』
「何が違う」
『総長は、あたしの責任を――』
「引き受けたのは、あの女の選択だ」
『でも』
「そして今、お前がここへ来たのも、お前の選択だ」
組長は机の上へ指を置いた。
「だが、選択した人間は、その結果まで引き受けなければならない」
『結果?』
「日高樹里は、うちへ二度と関わらないことを条件にした」
陽菜の顔から血の気が引く。
「お前たちにも、一切手を出すなと約束させた」
『……はい』
「それなのに、手を出してきたのは、どちらだ」
陽菜は何も言えなくなった。
「元副総長が一人で乗り込み、うちの人間を何人も倒した」
『それは、話を聞いてもらえなかったから』
「理由は関係ない」
組長の言葉が、陽菜を切る。
「お前は、日高が命懸けで作った線を、自分の手で越えた」
陽菜の呼吸が止まる。
樹里の置いてきたものを、取り戻すつもりだった。
自分の責任を、自分へ戻すつもりだった。
だが実際にしたことは、樹里が守り続けた四年の約束を破る行為だった。
『……あたしは』
「日高は、お前がこうなるとわかっていたから、話さなかったんだろう」
陽菜は俯いた。
樹里の恐れが、正しかった。
自分を責め、誰にも相談せず、危険な場所へ来た。
樹里が一番恐れていたことを、そのまま現実にしている。
「日高を呼べ」
組長が沙月へ告げた。
陽菜が顔を上げる。
『待って。総長は関係ない』
「関係ない?」
『ここへ来たのは、あたしが勝手にしたことです』
「お前は、日高が交わした約束の内側にいる」
『でも』
「責任を戻してほしいと言ったな」
『……はい』
「なら、責任者を呼ぶ」
『やめて』
「四年前と同じだ」
組長の目が、陽菜を見据える。
「お前が動き、日高樹里が呼ばれる」
陽菜は、初めて完全に言葉を失った。
◇
同じ頃。
中井は自宅で、何度もスマートフォンを確認していた。
陽菜から最後に届いたLINE。
【心配かけてごめん】
【でも、今日は一人で考えたい】
【帰ったら必ずLINEする】
それから、一時間以上が経っている。
電話をかけた。
呼び出し音は鳴る。
だが、陽菜は出ない。
もう一度かける。
結果は同じだった。
(何かあった)
昼休みから、陽菜の様子は明らかにおかしかった。
一人で危険なことをしないでほしいと伝えた。
陽菜は、その言葉にも答えていない。
中井は迷った末、樹里へ電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、樹里が出る。
『はい。日高です』
「夜分にすみません。中井です」
『どうしましたか』
「陽菜さんと、連絡が取れません」
電話の向こうで、樹里の息が止まった。
『最後に連絡があったのは、いつですか』
「一時間ほど前です。一人で考えたい、帰ったら必ずLINEすると」
『Roseへ行くとは言っていましたか』
「最初は、そう言っていました。でも途中で、今日は行かないと」
『場所は』
「聞きましたが、教えてくれませんでした」
樹里は何も言わない。
「日高先輩。何か知っているんですか?」
『……確認します』
「俺も探します」
『中井さん』
樹里の声が、低くなる。
『今は、自宅で待っていてください』
「待てません」
『お気持ちはわかります』
「わかるなら、場所を教えてください」
『まだ、居場所はわかりません』
「では、一緒に探します」
『中井さんが知らない事情が関係している可能性があります』
「だから、教えてください」
中井の声が、わずかに震える。
「俺は陽菜さんの彼氏です。何も知らないから待っていろと言われても、無理です」
樹里は言葉を失った。
陽菜が、自分へ向けたものと同じ痛みだった。
何も知らされないまま、大切な人が危険な場所へいるかもしれない。
それでも、ただ待つことを求められる。
『……すみません』
樹里は、静かに答えた。
『今、すべてを説明することはできません』
「日高先輩」
『ですが、必ず櫻井さんを連れて戻ります』
「居場所に、心当たりがあるんですか?」
『あります』
「俺も行きます」
『中井さんが行けば、櫻井さんの立場を悪くする可能性があります』
「どういう意味ですか」
『相手を刺激したくありません』
「危険な相手なんですか?」
樹里は答えられなかった。
そのとき、樹里のスマートフォンに別の着信が入った。
画面には、美園の名前が表示されている。
『中井さん。美園から電話が入っています』
「中村さんから?」
『一度、切ります。必ず連絡します』
「日高先輩」
『お願いします。今は、私を信じてください』
中井は、すぐには返事をしなかった。
やがて、苦しそうに答える。
「……必ず、陽菜さんを連れて帰ってください」
『はい』
「何かわかったら、すぐにLINEしてください」
『約束します』
通話を切る。
樹里は、すぐに美園からの着信へ応じた。
◇
Roseの閉店前。
美園のスマートフォンに、知らない番号から電話がかかってきた。
普段なら出ないこともある。
だが、その夜はなぜか、無視できなかった。
『はい。中村です』
「中村美園か」
低い男の声。
名乗られていない。
それでも、美園の背筋が強張った。
『……誰』
「四年前、日高樹里と話をした者だ」
美園の手が止まる。
『組長』
「覚えているか」
『直接、話したことはない』
「だろうな」
電話の向こうで、男たちの気配がする。
美園はカウンターへ手をついた。
『何の用』
「そっちの元総長は、自分が消える代わりに、Rose girlsへ一切手を出すなと交渉してきた」
美園の喉が鳴る。
「こちらは四年間、その約束を守った」
『……はい』
「なのに、手を出してきたのは、お前たちの方だ」
血の気が引く。
『誰が』
「元副総長が、うちへ乗り込んできた」
『陽菜……』
「入口の人間を何人も倒したあと、今はこっちで預かっている」
『陽菜は無事なの』
「生きている」
『怪我は』
「自分で作った怪我なら、いくつかある」
美園の指が、強くカウンターへ食い込む。
『陽菜に代わって』
「それはできない」
『声だけでも聞かせて』
「今から日高樹里を連れてこい」
『陽菜に何かしたら――』
「先に何かしたのは、お前たちだ」
美園は言葉を失う。
「破った約束の落とし前を、どうつけるつもりか。日高に聞く」
『場所は、四年前と同じ?』
「ああ」
『すぐ行く』
「遅れるな」
電話は一方的に切れた。
美園は数秒間、その場から動けなかった。
次の瞬間、樹里へ電話をかける。
一度目は通話中だった。
切れるのを待たず、もう一度かける。
今度はつながった。
『美園』
『陽菜が組へ行った』
樹里の呼吸が止まる。
『捕まってる。生きてるけど、怪我もしてる』
電話の向こうから、何も聞こえない。
その沈黙が、樹里の怒りよりも恐ろしかった。
『総長』
『場所は』
『四年前と同じ。今すぐ来いって』
『わかった』
『私は店を閉める。迎えに来て』
『すぐ行く』
『総長』
『何』
『一人で先に行くな』
樹里は、すぐには答えなかった。
『聞いてる?』
『聞いてる』
『私を置いていったら、絶対に許さない』
『……わかった』
通話が切れる。
美園は入口の札を閉店へ変え、店内の照明を落とした。
エプロンを外す時間さえ惜しい。
コートをつかみ、外へ出る。
◇
樹里は、電話を切るとすぐに動いた。
上着を羽織り、バイクのキーを握る。
手が震えていた。
怒りではない。
恐怖だった。
陽菜が組へ行った。
怪我をして、捕まっている。
四年前、自分が最も避けたかったことが起きている。
――話せば、陽菜は動く。
だから、隠した。
それでも陽菜は動いた。
何も話さなかったからではない。
話し始めたのに、最も大切なところで止めたからだ。
樹里はヘルメットをかぶる。
CB1100のエンジンをかけた。
低い排気音が、夜の駐車場に響く。
中井への約束を思い出す。
必ず、陽菜を連れて戻る。
美園との約束もある。
一人で先に行かない。
樹里はアクセルを開いた。
まず、美園を迎えに行く。
陽菜を取り戻すために。
そして、四年前に自分が引いた線を、もう一度終わらせるために。
夜が、一気に張り詰めた。




