9話「棘」
森下彩花の言葉には、棘がある。
だが最初から、それがはっきり見えていたわけではなかった。
「櫻井さん、この書類、もう1度確認した方がいいんじゃない? ここの数字、合ってないと思う」
差し出された指の先を追い、陽菜は作成した見積書を確認した。
計算式の参照先が、1行だけずれている。
完全に陽菜のミスだった。
『あ、本当だ。ありがとうございます。すぐ直します』
「うん。提出前でよかったね」
彩花はそう言って、にこりと笑った。
声も柔らかい。言っていることも正しい。
だから陽菜も、そのときは何も気にしなかった。
むしろ、間違いを見つけてもらったことに感謝していた。
ところが、それからだった。
「新人さんって大変だよね。私も昔はそうだったなあ」
「櫻井さん、入力速いね。でも速さより正確さの方が大事だからね」
「日高先輩、櫻井さんに仕事を振りすぎじゃないですか? 可愛がられすぎるのも考えものですよ」
どれも、それだけを切り取れば問題になるほどの言葉ではない。
彩花はいつも笑っていた。
周囲にも聞こえる明るい声で、冗談のように言う。
陽菜が笑って返せば、その場は何事もなく終わる。
ただ、言葉の先端にだけ、小さな棘があった。
刺さった瞬間には、痛いのかどうかも分からないほど細い棘。
けれど、抜かずに放っておけば、触れるたびに同じ場所が疼いた。
『あはは。気をつけまーす』
陽菜は笑って受け流した。
相手にするだけ無駄だと思っていた。
それに、今の自分はRose girlsの副総長ではない。
島川不動産営業部の新人、櫻井陽菜だ。
気に入らない相手を睨みつけることも、胸ぐらを掴むこともできない。
そんなことをすれば、樹里と交わした機密条約どころではなくなる。
(普通の会社員は、このくらいでキレねえ)
そう言い聞かせた。
(普通。普通……)
だが、我慢しようと意識するほど、彩花の声が耳に残るようになった。
数日後の午後。
陽菜は取引先へ提出する資料を揃えていた。
見積書。物件概要。周辺地図。
必要なものを順番に重ねていく途中で、さっきまで机に置いてあったはずの比較資料が見当たらないことに気づいた。
『あれ……?』
書類の束を持ち上げる。
ない。
引き出しを開け、共有トレーを確認する。
それでも見つからなかった。
提出まで時間がない。
『すみません、この辺に青い付箋がついた資料、ありませんでした?』
周囲に尋ねながら、陽菜は机の脇へ目を走らせた。
その声を聞きつけた彩花が、席から顔を上げる。
「また何かなくしたの?」
『いや、さっきまでここに——』
「ちゃんと管理しなきゃ駄目だよ、櫻井さん」
明るい声だった。
責めているようには聞こえない。
それでも、“また”という言葉が、陽菜の中に残った棘を深く押し込んだ。
陽菜の指が止まった。
表情から、笑みが消える。
息を吸ったまま、吐けなくなった。
椅子が、わずかに後ろへ動く。
その小さな音に、樹里が顔を上げた。
陽菜の手を見た。
書類を掴んでいるのではない。
紙の端が歪むほど、握り締めている。
樹里はその手を知っていた。
怒鳴る直前でもない。
殴りかかる直前でもない。
陽菜が、本当に怒ったときの手だった。
樹里は静かに席を立った。
『櫻井さん』
低く、短い呼びかけ。
陽菜の肩が、わずかに揺れた。
ゆっくりと顔を上げ、樹里を見る。
視線がぶつかる。
6年前なら、それだけで互いの意図が分かった。
今も、変わらなかった。
『……はい』
『少し、休憩にしましょう』
『でも、資料が』
『提出までには間に合います。今は休憩です』
周囲に不自然さを残さない、落ち着いた声だった。
命令ではない。
少なくとも、ほかの社員にはそう聞こえる。
陽菜は握っていた書類から指を離した。
紙の端に、指の形が残っていた。
『……分かりました』
樹里に続いて、陽菜は営業部を出た。
廊下を歩き、誰もいない休憩スペースへ入る。
扉が閉まった途端、陽菜は大きく息を吐いた。
『あっぶねえ……』
樹里は自動販売機に硬貨を入れ、冷たいお茶を2本買った。
そのうちの1本を陽菜へ差し出す。
『あと少し遅かったら、何を言うつもりだった』
『何も言わないよ』
『嘘つけ』
『……何も、してないでしょ』
『ああ。してない』
陽菜はペットボトルを受け取った。
冷えた表面を、両手で包む。
『ちゃんと我慢した』
その言い方が、少しだけ子供のように聞こえた。
樹里はすぐには答えなかった。
陽菜が我慢したことは分かっている。
昔の陽菜なら、棘を向けられた瞬間に噛み砕いていた。
それを今は、何日も笑って受け流している。
だが、我慢し続けることだけが正しいとも思わなかった。
『最初に指摘された書類のミスは、お前のミスだ』
『……分かってるよ』
『そこは直せ。言い訳もするな』
『してないじゃん』
『でも、必要のない言葉まで受け取るな』
陽菜が顔を上げた。
『必要のない言葉?』
『仕事の指摘と、ただの嫌味は別だ。全部まともに食らうから、限界になる』
『じゃあ、言い返していいの?』
『そうは言ってない』
『難しすぎるでしょ』
『知ってる』
樹里は自分のペットボトルを開けた。
『間違いは直す。嫌味は受け取らない。腹が立っても、相手の土俵には乗らない』
『総長はできんの?』
『できる』
樹里は即答した。
陽菜が疑うような目を向ける。
『この前、ボウリング場で益川さんのこと睨んでたじゃん』
『睨んでない』
『睨んでた』
『今それは関係ないだろ』
『自分だってできてないじゃん』
わずかに、陽菜の口元が緩んだ。
それを見て、樹里も小さく息を吐く。
どうやら、もう大丈夫そうだった。
『これは総長命令?』
『違う』
『じゃあ何』
『先輩からの助言だ』
陽菜はペットボトルを頬に当てた。
冷たさに目を細めながら、小さく笑う。
『そっちの方が、逆らいづらいな』
『なら、素直に聞け』
『はいはい』
『返事は1回』
『はーい』
営業部へ戻ると、佐々木凛が陽菜の席の前で待っていた。
手には、青い付箋のついた資料がある。
「櫻井さん、ごめんなさい。これ、確認したくて借りてたんです。声をかけたつもりだったんですけど、聞こえてなかったみたいで……」
陽菜は資料を受け取った。
なくしたわけではなかった。
だが、陽菜は彩花を見なかった。
『大丈夫。見つかってよかった。ありがとう』
「本当にごめんなさい」
『謝らなくていいって。まだ間に合うから』
陽菜は自分の席へ戻り、何事もなかったように資料を揃え始めた。
その横顔に、先ほどまでの怒りはない。
彩花は、そんな陽菜を黙って見ていた。
樹里に何を言われたのか。
なぜ、あれほど張り詰めていた陽菜が、短い休憩だけで平静を取り戻したのか。
彩花には分からない。
ただ、日高樹里が陽菜の異変に気づいた瞬間だけは、はっきりと見ていた。
声を荒らげたわけでもない。
陽菜が助けを求めたわけでもない。
それなのに樹里は、誰よりも早く気づいた。
まるで、陽菜が限界を迎える寸前の顔を、ずっと前から知っていたかのように。
夕方。
柚希が、彩花の席へ椅子を寄せた。
「ねえ。さっきの日高先輩と櫻井さん、なんか怖くなかった?」
彩花はパソコンの画面を見たまま答えた。
「何が?」
「日高先輩が櫻井さんを呼んだとき。声は普通だったけど……なんていうか、空気が変わったっていうか」
「考えすぎじゃない?」
「そうかなあ」
「ただの先輩と後輩でしょ」
彩花は、いつものように笑った。
柚希も、納得したような、していないような顔で自分の席へ戻っていく。
真相には、たどり着かなかった。
けれど彩花は、画面へ視線を戻したあとも、しばらくキーボードに触れなかった。
ただの先輩と後輩。
自分で口にしたその言葉が、なぜか胸の中に引っかかっていた。




