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10話「アプローチ」

滝本英司のアプローチは、分かりやすかった。


「櫻井さん、今度ランチ行きません? 駅前に新しい店できたんですよ」


陽菜が営業部へ配属されてから、まだそれほど日は経っていない。


滝本とは席も近く、仕事を教えてもらうこともある。


気さくで話しやすく、面倒見も悪くない。


少し軽いところはあるが、陽菜も最初から嫌っていたわけではなかった。


『いいですね。今度、みんなで行きましょうよ』


だから、その誘いにも明るく答えた。


陽菜としては、部署の仲間と食事へ行く程度の意味だった。


しかし、滝本が期待したのは別の答えだったらしい。


「いや、みんなでじゃなくて。俺と2人でどうかなって」


『ああ……2人でですか』


「嫌です?」


『嫌っていうか、まだ入ったばかりだし、みんなのことも知りたいんで。行くなら大勢の方が楽しいかなって』


陽菜は笑顔を崩さずに答えた。


断ったつもりだった。


少なくとも陽菜の中では、それで話は終わっていた。


「そっか。じゃあ、もう少し慣れてからですね」


だが滝本は、断られたとは受け取らなかった。


今はまだ早い。


そう解釈しただけだった。


それから、滝本は何かにつけて陽菜へ声をかけるようになった。


「櫻井さん、その入力、俺がやりましょうか?」


『大丈夫ですよ。もう終わるんで』


「残業になりそうなら手伝いますよ」


『ありがとうございます。でも、自分の仕事なんで平気です』


「今日、駅まで一緒に帰りません?」


『帰りに寄るところがあるんですよ』


「じゃあ、途中まででも」


『方向、逆じゃないですか?』


断るたびに、滝本は笑って引き下がる。


露骨に機嫌を悪くすることもなければ、強引に約束を取りつけようとするわけでもない。


だからこそ、陽菜も強く言いづらかった。


悪い人ではない。


少し距離感が近いだけ。


そう思おうとしていた。


「櫻井さんって、やっぱり可愛いっすよね」


『ありがとうございまーす』


陽菜は、いつもの調子で笑って返す。


その返事を聞いた滝本も笑った。


少し離れた席で、樹里が書類から目を上げる。


陽菜の笑顔は自然だった。


声にも、苛立ちは混じっていない。


けれど樹里には分かっていた。


あれは、陽菜が興味のない相手を穏便にあしらうときの笑い方だ。


6年前にも、同じような顔を何度も見てきた。


当時の陽菜に声をかける男は、今よりずっと少なかった。


可愛らしい顔に惹かれて近づいても、その背後に並ぶ特攻服の女たちを見れば、大抵は何も言わずに立ち去った。


それでも勇気を出して声をかけてくる者には、陽菜も最初は笑顔で対応した。


相手が調子に乗ると、その笑顔が少しずつ冷えていく。


最後には、樹里か美園が止めることになった。


(昔よりは、随分と丸くなったな)


今の陽菜は、嫌そうな顔を見せない。


会社の空気を壊さないように、相手を傷つけないように、言葉を選んでいる。


それ自体は成長なのだろう。


ただ、陽菜の遠回しな断り方が滝本に伝わっていないことも、樹里には見えていた。


昼休み。


陽菜が給湯室でコーヒーを淹れていると、樹里が入ってきた。


ほかに人はいない。


樹里は給湯室の外を確認してから、小声で言った。


『お前、あいつの誘いを断ってるつもりか』


陽菜は振り返った。


『断ってるでしょ』


『伝わってないぞ』


『そんなわけないじゃん。毎回ちゃんと理由つけて断ってるし』


『その理由がなくなれば行ける、と受け取られてる』


『ええ……』


陽菜は紙コップを持ったまま、眉を寄せた。


『だって、はっきり嫌って言ったら傷つくでしょ。仕事で毎日顔を合わせるのに、空気悪くなるじゃん』


『だからって、曖昧にし続けても同じだ』


『分かってるけどさ』


『お前の笑い方も悪い』


『笑顔でいろって言ったの、総長でしょ』


『限度がある』


『普通の会社員、難しすぎない?』


『私に聞くな』


『総長だって普通の会社員じゃん』


『私はお前ほど愛想を振りまいてない』


『それは愛想がないだけでしょ』


樹里の目が細くなる。


陽菜は紙コップへ口をつけ、その視線から逃げた。


『……次は、もう少し分かりやすく断るよ』


『そうしろ』


『でも、総長は何もしないでね』


『何もしてないだろ』


『顔に出てるんだよ。滝本さんを見るとき、ちょっと怖いもん』


『出してねえ』


『出てるって』


『気のせいだ』


樹里はそう言い残し、給湯室を出ていった。


陽菜はその背中を見送り、小さく笑う。


(自覚ないんだ)


その日の夕方。


営業部では、何人かの社員が帰り支度を始めていた。


陽菜も翌日の予定を確認し、デスクの上を片づけていた。


そこへ滝本がやってくる。


「櫻井さん、今日こそ飯行きません?」


『今日ですか?』


「前に言ってた駅前の店。明日は外回りないし、多少遅くなっても平気でしょ?」


『すみません。今日は行きません』


「予定あるんですか?」


『予定はないですけど、行かないです』


以前とは違う答えだった。


理由をつけず、陽菜ははっきりと断った。


それでも滝本は、まだ意味を掴めていないようだった。


「予定ないならいいじゃないですか。俺、別に変なことするつもりもないし」


『そういうことじゃなくて』


「じゃあ、何か食べたいものあります? 櫻井さんに合わせますよ」


滝本は陽菜のデスクに片手をついた。


威圧する意図はないのだろう。


だが、座っている陽菜から見れば、進路を塞がれたような格好になる。


陽菜の笑顔が消えた。


『滝本さん』


その声に、先ほどまでの親しげな調子はなかった。


滝本の顔から、わずかに笑みが薄れる。


『私、何回か断ってますよね』


「いや、でもそれは、都合が悪かっただけかと思って」


『伝え方が曖昧だったなら、すみません』


陽菜は滝本の目をまっすぐに見た。


過去を知らない者には、ただ真剣な顔に見えるだろう。


だが樹里は、その瞳の奥にかつての副総長を見ていた。


『個人的に、2人で食事へ行くつもりはありません』


「……あ」


『仕事で助けてもらってることには感謝してます。でも、これ以上誘われるのは困ります』


滝本は、ようやく陽菜の言葉を理解した。


断られていた。


最初からずっと。


自分がそれを、都合よく受け取っていただけだった。


「……そっか」


陽菜から離れようとした滝本の視線が、不意に止まった。


樹里が席を立っていた。


何かを言うわけではない。


こちらへ歩いてくるわけでもない。


ただ、静かに滝本を見ていた。


ほんの数秒、目が合う。


滝本の背筋が伸びた。


「あ……日高先輩」


樹里は何も答えず、短く頷いた。


その目は、普段と変わらないように見える。


少なくとも樹里本人は、そのつもりだった。


だが滝本は、陽菜のデスクから手を離した。


「ごめん、櫻井さん。俺、しつこかったよな」


『……分かってもらえたなら、大丈夫です』


「もう誘わないから。ほんと、ごめん」


滝本は気まずそうに頭を下げ、自分の席へ戻っていった。


陽菜は、その背中が席へ着くまで見届ける。


それから樹里へ視線を向けた。


樹里はすでに、自分の仕事へ戻っている。


何もなかったような顔で、書類に目を通していた。


退勤後。


会社を出て少し歩いたところで、陽菜が樹里の横に並んだ。


周囲に同僚がいないことを確かめ、声を落とす。


『総長』


『その呼び方はやめろ』


『今、誰もいないじゃん』


『どこで聞かれるか分からねえだろ』


『それより、さっきの目』


『何だ』


『怖すぎ』


『普通に見ただけだ』


『あれが普通なわけないでしょ。滝本さん、固まってたじゃん』


『私のせいじゃねえ』


『してたよ。完全に、うちの陽菜に何してんだって顔してた』


樹里が足を止めた。


『誰が、うちの陽菜だ』


『総長』


『言ってねえ』


『顔が言ってたよ』


『お前の妄想だ』


樹里は再び歩き始める。


陽菜も笑いながら、その隣へ追いついた。


『私だけでも、ちゃんと断れたでしょ』


『ああ』


返事は、すぐに返ってきた。


『分かってたの?』


『最初から、お前が助けを求めてないことくらい分かってる』


『じゃあ、なんで立ったの』


『コピーを取りに行こうとしただけだ』


『コピー機、反対側じゃん』


樹里が黙った。


陽菜はその横顔を覗き込む。


『過保護』


『うるせえ』


『心配性』


『黙れ』


『総長、昔から変わらないね』


その言葉に、樹里は答えなかった。


けれど、歩く速さがほんの少しだけ緩くなった。


陽菜はそれ以上からかわず、樹里の隣を歩いた。


しばらくして、前を向いたまま小さく呟く。


『……でも、ありがと』


樹里は何も言わない。


ただ陽菜を車道から遠ざけるように、自分が外側へ移った。


その行動に気づいた陽菜も、今度は何も言わなかった。


特攻服を脱いで、呼び方も、立場も変わった。


それでも樹里は、陽菜が自分で立てることを知りながら、そのすぐそばにいた。

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