11話「紹介」
遠藤凛のバイク選びは、あれからほとんど進んでいなかった。
休憩時間になると、スマートフォンで中古車情報を眺めている。
気になる車種を見つけては詳細を開き、しばらく考えたあと、また別の車種へ移る。
その繰り返しだった。
向かいの席から様子を見ていた柚希が、身を乗り出す。
「凛ちゃん、まだ決まらないの?」
「決まるどころか、見れば見るほど分からなくなってきました」
凛は眼鏡の位置を直しながら、小さく息を吐いた。
「値段だけじゃなくて、年式とか走行距離とか、燃費とか。車体の重さも気にした方がいいと書いてあって……」
「じゃあ、見た目で決めちゃえば?」
「命を預けるものを、見た目だけでは決められません」
「凛ちゃんらしいなあ」
柚希は笑いながら、凛のスマートフォンを覗き込んだ。
画面には、色も形も異なるバイクがいくつも並んでいる。
柚希には、どれも同じように見えた。
その会話を聞いていた陽菜が、椅子ごと2人の方へ身体を向ける。
『まだ迷ってるんですか?』
「はい。櫻井さんたちに教えてもらったことも調べたんですけど、知識が増えるほど選べなくなってしまって」
『ああ、それは分かります。最初は選択肢が多すぎるんですよね』
陽菜は頷き、それから樹里を見た。
樹里も視線だけを陽菜へ向ける。
わずかな間を置いて、陽菜が口を開いた。
『バイクに詳しい知り合いがいるんですけど、相談してみます?』
凛が顔を上げた。
「バイク屋さんの方ですか?」
『バイク屋ではないですけど、今はガソリンスタンドで働いてます。自分たちより、初心者向けの話は上手いと思いますよ』
『勝手に決めるな。まず本人に予定を聞け』
樹里が小声で釘を刺す。
陽菜はスマートフォンを取り出しながら笑った。
『聞いてみるだけだよ。日高先輩も来ますよね?』
『なぜ私まで』
『紹介した人だけ放り込んで帰れないでしょ』
『お前が最後までいればいいだろ』
『私1人だと余計なこと言うかもしれないじゃん』
陽菜が意味ありげに笑う。
樹里はしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
『……分かりました。私も行きます』
「私も行っていい?」
突然、柚希が手を挙げた。
樹里と陽菜が、揃って柚希を見る。
「凛ちゃん、知らない人と1人で会うのは緊張するでしょ。それに私も、バイクのこと少しくらい知っておきたいし」
「柚希は今まで、まったく興味がなかったでしょう」
「凛ちゃんが何を買うのかには興味あるよ」
凛は疑わしそうな目を向けたが、柚希は気にせず笑っている。
『人数が増えても大丈夫か、聞いてみますね』
陽菜が連絡を送る。
返事は、驚くほど早かった。
『今日なら、仕事が終わってから大丈夫だって』
「今日ですか?」
『こういうのは勢いも大事ですから』
『買うときは勢いで決めるなよ』
樹里がすかさず付け加える。
凛は不安そうに樹里と陽菜を見比べた。
その横で、柚希だけが楽しそうに笑っていた。
その日の夕方。
5人が待ち合わせたのは、会社から少し離れた場所にある喫茶店だった。
樹里たちが先に席へ着いてから、数分後。
入口の扉が開き、ガソリンスタンドの制服を着た女性が入ってきた。
短く切った茶色の髪。
化粧も装飾品も控えめで、立ち方のどこかに少年のような雰囲気がある。
店内を見回した彼女は、奥の席にいる樹里たちを見つけた。
その瞬間、背筋が伸びた。
表情に、はっきりと緊張が浮かぶ。
東雲零は、早足でテーブルへ近づいた。
「お疲れさまっす。総——」
樹里と陽菜の目が、同時に細くなった。
零の言葉が止まる。
喉の奥で、声が小さく詰まった。
樹里は何も言わない。
陽菜も笑顔のまま、零を見ている。
だが、2人の視線はまったく同じことを告げていた。
余計なことは、何も言うな。
零の額に、薄く汗が浮かんだ。
「……日高さん、櫻井さん。お疲れさまっす」
『お疲れさまです、東雲さん』
樹里は、わざと名字で呼んだ。
「はい。東雲っす」
零も必死に合わせる。
『紹介しますね。こちら、バイクに詳しい東雲零さんです』
陽菜が凛たちへ手を向ける。
『こっちが遠藤凛さん。バイクを買おうか迷ってて。隣が早川柚希さんです』
「遠藤です。今日は急にお願いしてしまって、すみません」
「早川柚希です。よろしくね、零ちゃん」
「れ、零ちゃん?」
初対面から名前で呼ばれ、零が目を瞬かせる。
「東雲さんの方がよかった?」
「いや、別に。好きな方でいいっすけど」
「じゃあ、零ちゃんで」
柚希はあっさりと決めた。
零は少し戸惑いながら、空いている席へ座る。
樹里と陽菜の前では身体が硬くなっていたが、凛がスマートフォンを差し出すと、その表情が変わった。
画面に表示された車種を確認し、零は凛へ尋ねる。
「通勤で使うんすよね。片道、どのくらいです?」
「約8キロです」
「道は混みます?」
「朝はかなり。大きな通りを使うので、車も多いです」
「置く場所は? 家と会社、両方に駐輪場あります?」
「会社にはあります。自宅はマンションの駐輪場ですけど、サイズの規定までは確認していません」
「そこ、先に確認した方がいいっすね。買ったあとに置けないのが1番困るんで」
零の口調から、先ほどまでの緊張が消えていく。
凛も真剣な表情でメモを取り始めた。
「免許は何を持ってます?」
「普通自動車免許だけです」
「それなら、今の免許で乗れるのは基本的に原付ですね。125ccを考えるなら、小型二輪の免許が必要っす。スクーターでいいならAT限定もありますけど、あとで乗りたい車種が増えそうなら、最初から限定なしを取る手もあります」
「免許から考えないといけないんですね……」
「そうっすね。でも、いきなり車種を決めなくてもいいと思いますよ。先に店で何台か跨がらせてもらうといいっす。足つきとか、起こしたときの重さって、数字だけじゃ分からないんで」
「見るだけでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫っすよ。むしろ、ちゃんと見た方がいいです。売るのを急かしてくる店なら、その場で決めない方がいいっす」
凛は大きく頷き、メモへ書き加える。
柚希は隣で話を聞いていた。
バイクそのものには、まだそれほど興味を持てない。
それでも、零の話し方には耳を傾けていた。
最初は不愛想で、少し近寄りがたい人かと思った。
ところが凛が質問すると、零は必ず手を止め、相手が理解するまで丁寧に答える。
難しい言葉を使ったあとは、すぐに分かりやすい言葉へ置き換える。
見た目よりも、ずっと親切な人らしい。
「中古車って、走行距離が少ない方がいいんですよね?」
凛の質問に、零は少し考えてから答えた。
「少ない方が安心とは限らないっす。年式のわりに全然走ってないと、長く放置されてた可能性もありますから。距離だけじゃなくて、整備記録とか、タイヤやチェーンの状態とか、エンジンをかけたときの音も見た方がいいです」
「音で分かるんですか?」
「変な音がしてないかくらいなら。でも、最初は分からなくて普通っすよ」
「じゃあ零ちゃん、一緒に見に行ってあげたら?」
柚希が明るく言った。
零と凛が、同時に柚希を見る。
「え?」
「だって、零ちゃんがいたら安心じゃない? 凛ちゃんだけじゃ分からないことも見てもらえるし」
「そこまでお願いするのは申し訳ないです」
凛が慌てて首を横に振る。
零も困ったように頬を掻いた。
「自分でよければ、別にいいっすけど」
「本当ですか?」
「仕事の休みが合えば。買わせるためじゃなくて、見るだけでもいいなら」
凛の表情が、少し明るくなる。
「ありがとうございます。すごく心強いです」
「じゃあ、私も行くね」
柚希が当然のように加わった。
「柚希はバイクを買わないでしょう」
「凛ちゃんの付き添いだよ」
「今も十分、付き添ってもらっています」
「人数が多い方が楽しいじゃん」
「遊びに行くわけではありません」
凛が呆れたように言う。
零は2人のやり取りを見て、小さく笑った。
その笑顔に気づき、柚希が零の顔を覗き込む。
「零ちゃん、今笑った?」
「笑ってないっす」
「笑ったよね?」
「気のせいっす」
「日高先輩にちょっと似てる」
樹里が顔を上げる。
零の身体が、また固まった。
「ぜ、全然似てないっす」
『似てません』
樹里も即座に否定した。
あまりに反応が揃っていたため、柚希が吹き出す。
「そこは似てるかも」
零は助けを求めるように陽菜を見た。
しかし、陽菜は口元を押さえ、笑いを堪えている。
『諦めた方がいいよ。柚希ちゃん、こういうとき引かないから』
「櫻井さんまで……」
『東雲さん』
樹里が静かに名前を呼んだ。
零は即座に姿勢を正す。
「はい」
『今日はありがとうございました。遠藤さんも安心したと思います』
「いや、自分は別に。知ってることを話しただけなんで」
『それでもです』
樹里が穏やかに言う。
零は驚いたように目を見開き、それから少しだけ俯いた。
「……役に立てたなら、よかったっす」
相談が終わり、店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
零はこれからガソリンスタンドへ戻り、着替えて帰るらしい。
「駐輪場のサイズが分かったら、連絡ください」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
凛が頭を下げる。
その横で、柚希がスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、凛ちゃんと零ちゃんと私で、連絡できるようにしようよ」
「柚希も入るんですか?」
「付き添うって言ったでしょ。お店へ見に行く日も決めやすいし」
「早川さんも来るんすか?」
「駄目?」
「いや、駄目じゃないっすけど」
零は、柚希の遠慮のなさに調子を狂わされたような顔をしている。
凛が小さく息を吐いた。
「すみません。柚希はこういう人なので」
「凛ちゃん、それどういう意味?」
「言葉の通りです」
結局、3人はその場で連絡用のグループを作った。
柚希が真っ先に、よろしくと書かれたスタンプを送る。
続いて凛が、丁寧に頭を下げる絵柄を送った。
零は画面をしばらく見つめたあと、何を返せばいいのか分からない様子で、短く「了解っす」とだけ打ち込んだ。
「零ちゃん、真面目すぎない?」
「スタンプとか、あんまり使わないんで」
「じゃあ今度、使いやすいの教えてあげる」
「別にいいっす」
「遠慮しなくていいって」
「遠慮じゃないっす」
柚希は楽しそうに笑い、零は困ったようにスマートフォンをポケットへしまった。
やがて零は全員へ頭を下げ、ガソリンスタンドの方角へ歩いていった。
柚希が、その背中へ大きく手を振る。
「零ちゃん、またね!」
零は振り返らず、片手だけを上げた。
帰り道。
凛と柚希が少し前を歩き、樹里と陽菜がその後ろに続く。
陽菜は、前を歩く柚希を見ながら、樹里へ小声で話しかけた。
『柚希ちゃん、零のこと気に入ったみたいだね』
『誰とでも距離を縮めるのが早いだけだろ』
『でも、零も最後は笑ってたよ』
『あいつは昔から、押しに弱い』
陽菜が樹里の顔を見る。
『へえ。総長、よく知ってるね』
『余計なところに食いつくな』
『だって、昔からって言ったじゃん』
『聞かなかったことにしろ』
『無理でしょ』
樹里が無言で陽菜を睨む。
陽菜は楽しそうに笑いながら、前へ向き直った。
『でも、安心した』
『何がだ』
『零、ちゃんと普通に話せてたから』
樹里は少し前を歩く凛と柚希へ目を向けた。
2人は、さっそく作った連絡グループについて話している。
凛が日程の調整だけに使うよう注意し、柚希はスタンプくらいいいじゃないかと反論していた。
『私たちが相手じゃなければ、あいつも普通だ』
『私たちの前だと、まだ緊張するのかな』
『お前が昔、散々脅したからだろ』
『総長ほどじゃないでしょ』
『私のせいにするな』
2人は互いに譲らないまま、並んで歩いた。
その日の柚希にとって、零は少し無愛想で、思っていたより話しやすい新しい知り合いだった。
零にとっての柚希も、遠慮なく距離を詰めてくる、少し調子の狂う相手。
今は、それだけで十分だった。




