12話「相談」
神谷悠真が日高樹里にだけ妙に丁寧なことに、営業部の何人かは気づき始めていた。
「滝本さん、先ほど頼まれていた資料です」
「ああ、サンキュー。そこ置いといて」
神谷は滝本の机へ資料を置き、そのまま自分の席へ戻ろうとした。
その途中で、別の書類を持って樹里の席へ立ち寄る。
「日高先輩、こちらの確認をお願いします。変更した箇所には付箋を貼ってあります」
『ありがとうございます。確認しておきますね』
神谷は書類を両手で差し出した。
樹里が受け取るまで手を離さず、机の上へ乱雑に置くこともしない。
「急ぎではありませんので、日高先輩の手が空いたときで大丈夫です」
『分かりました』
樹里が微笑む。
その途端、神谷の背筋がわずかに伸びた。
「よろしくお願いします」
もう1度頭を下げてから、神谷は自分の席へ戻っていった。
その一連の様子を、柚希がじっと見ていた。
柚希の視線が、神谷から樹里へ移る。
さらに、樹里から陽菜へ移った。
陽菜も気づいていたらしい。
柚希と目が合うと、わずかに眉を上げた。
休憩時間。
柚希は陽菜の席へ近づき、周囲へ聞こえないように身を屈めた。
「ねえねえ、櫻井さん」
『何ですか?』
「神谷くんってさ、日高先輩のこと好きなんじゃない?」
陽菜の目が、分かりやすく輝いた。
『え、そうなの?』
「やっぱり櫻井さんもそう思う?」
『いや、全然気づいてなかったです。でも、言われてみれば……』
2人の視線が、同時に神谷へ向かう。
神谷は自分の席で、パソコンの画面を見ながら仕事をしている。
その横顔は真剣で、こちらの会話に気づいている様子はない。
柚希が声をさらに小さくした。
「ほかの人に書類を渡すときは普通なのに、日高先輩のときだけ両手なんだよ」
『本当だ。声もちょっと違うかも』
「でしょ?」
『柚希ちゃん、よく見てますね』
「こういうのは何となく分かるの」
『さすが』
「噂好きって意味じゃないよね?」
『もちろん』
陽菜は笑顔で答えた。
その顔を見た柚希は、納得していないようだった。
『本人に聞いてみます?』
「え、神谷くんに?」
『日高先輩に』
「聞けるの?」
『任せてください』
陽菜は立ち上がり、コーヒーを飲んでいる樹里の隣へ移動した。
柚希も当然のようについていく。
樹里は近づいてくる2人を見ると、嫌な予感を覚えたのか、わずかに眉を寄せた。
『何ですか』
「日高先輩、ちょっと聞いてもいいですか?」
『内容によります』
「神谷くんのこと、どう思ってます?」
樹里の手が止まった。
持っていたカップを、静かに机へ置く。
『後輩だと思っています』
「それだけですか?」
『それ以外に何があるんですか』
柚希が陽菜へ目配せする。
今度は陽菜が尋ねた。
『神谷さんって、日高先輩にだけちょっと丁寧じゃないですか?』
『神谷さんは誰に対しても丁寧ですよ』
「いや、違うんですよ。日高先輩のときだけ、丁寧さの種類が違うっていうか」
『意味が分かりません』
『書類を渡すときも両手だし、声もちょっと改まってるじゃないですか』
『たまたまでしょう』
「日高先輩、本当に気づいてないんですか?」
『何にですか』
柚希が口を開きかける。
しかし、陽菜がその腕を軽く引いた。
『柚希ちゃん。本人がいないところで決めつけるのは、よくないですよ』
「櫻井さんが聞き始めたんじゃん」
『私は確認しただけです』
「同じでしょ」
『全然違います』
陽菜はそう言いながらも、楽しそうに笑っていた。
樹里は小さく息を吐き、カップを持ち直す。
『神谷さんは真面目な後輩です。それ以上でも、それ以下でもありません』
「もし神谷くんに告白されたら?」
『されません』
「もしもの話です」
『意味のない仮定には答えません』
樹里は会話を打ち切るように席を立った。
カップを持って給湯室へ向かう。
その背中を見送りながら、柚希が陽菜へ囁いた。
「逃げたね」
『逃げましたね』
「やっぱり何かあるのかな」
『総……日高先輩は、恋愛そのものがよく分かってないんだと思います』
「え、意外。モテそうなのに」
『モテるのと、本人が分かってるかは別ですから』
陽菜は、閉じた給湯室の扉へ目を向けた。
(あの人、自分へ向けられる好意には鈍いんだよな)
昔からそうだった。
人の怒りや怯えには誰よりも早く気づく。
誰かが助けを求めていれば、言葉にされる前に手を伸ばす。
けれど、自分が好かれていることだけは、驚くほど気づかない。
あるいは、気づかないふりをしてきたのかもしれない。
陽菜にも、その違いまでは分からなかった。
その日の終業後。
神谷は会社を出てから、すぐには駅へ向かわなかった。
会社の裏通りへ入り、小さな看板の前で足を止める。
〖Rose〗
初めてこの店へ入ったのは、偶然だった。
仕事で失敗し、まっすぐ家へ帰る気になれなかった夜。
酒を飲みたいわけでもなかったが、静かに座っていられる場所を探していた。
それ以来、考えを整理したいときには、自然とここへ足が向くようになっていた。
神谷が扉を開ける。
カウンターの奥では、黒いドレスを着た女性がグラスを拭いていた。
美園は神谷の顔を見ると、穏やかに笑った。
『いらっしゃい。今日は随分と難しい顔してるね』
「そんなに顔へ出ていますか?」
『うん。店へ入ってきたときから、何か相談したそうな顔』
神谷は気まずそうに視線を逸らした。
「……今日は水でお願いします」
『はいはい』
スナックへ来て水しか頼まない客にも、美園は嫌な顔をしない。
氷を入れたグラスへ水を注ぎ、神谷の前へ置いた。
『それで?』
「何がですか?」
『悩みごと。話したくないなら、聞かないけど』
神谷はグラスへ手を伸ばした。
氷が小さな音を立てる。
すぐには話し始めなかった。
美園も急かさず、別のグラスを磨きながら待っている。
やがて神谷は、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……好きな人がいるんです」
美園の手は止まらなかった。
『そう』
「驚かないんですね」
『それだけ深刻な顔で来たんだから、仕事か恋愛だと思ってた』
「仕事のことでもあるんです」
『同じ会社の人?』
「はい」
神谷はグラスへ視線を落とした。
「仕事ができて、冷静で、誰に対しても丁寧で。自分が忙しくても、困っている人を放っておけない人です」
美園は黙って聞いている。
「何でもできるように見えるのに、たまに、すごく無理をしているように見えるときがあって」
グラスを拭く美園の手が、ほんのわずかに緩んだ。
誰の話をしているのか、もう分かっていた。
(……樹里だな)
冷静で、仕事ができる。
困っている人間を放っておけず、自分のことは後回しにする。
そこまで条件が揃えば、ほかの誰かとは考えにくい。
ただ、美園は何も言わなかった。
神谷が話している相手の名前も尋ねない。
「僕なんかが近づいたら、迷惑なんじゃないかと思うんです」
『どうして?』
「僕はまだ失敗も多いですし、助けてもらってばかりで。その人と比べると、何もできないので」
『それで、どうしたいの?』
「え?」
『諦めたいのか、振り向いてほしいのか。ただ話を聞いてほしいのか』
神谷は答えに詰まった。
美園は磨き終えたグラスを棚へ戻す。
『そこが分からないまま何かしても、相手を困らせるだけだよ』
「……振り向いてほしいです」
しばらくして、神谷は答えた。
声は小さい。
それでも、ごまかしのない言葉だった。
「でも、今の自分では駄目だと思います」
『何が駄目なの?』
「釣り合わないからです」
『釣り合う、釣り合わないを決めるのは、あなただけじゃないでしょ』
神谷が顔を上げる。
美園は煙草へ火をつけた。
細い煙を吐き、少し考えてから続ける。
『それに、好きな人へ近づくために、急に格好いい男になろうとしなくていいと思うよ』
「でも、何か変わらないと」
『変わるのは悪くない。ただ、好かれるためだけに無理して作った自分は、長く続かない』
神谷は黙って美園の言葉を聞いている。
『特別なことをしようとする前に、仕事をちゃんとやればいいんじゃない?』
「仕事を?」
『失敗したら認める。分からなければ聞く。任されたことから逃げない。助けてもらったら、次は自分が誰かを助ける』
美園は灰皿へ灰を落とした。
『できる人の隣に立ちたいなら、その人に守ってもらうことばかり考えちゃ駄目。その人が安心して背中を預けられる人にならないと』
神谷の表情が変わった。
美園の言葉を、胸の中で何度も繰り返しているようだった。
「背中を預けられる人……」
『まあ、まずは仕事で信頼されることだね。好意を押しつけるより、そっちの方がずっと近道だと思うよ』
「……すごく、的確ですね」
『そう?』
「僕が何を悩んでいるのか、自分より分かっているみたいです」
『いろんな人を見てきただけ』
美園は小さく笑った。
神谷はグラスの水を飲み、深く息を吐く。
店へ入ってきたときより、少しだけ表情が軽くなっていた。
「ありがとうございます」
『何か解決した?』
「まだ何も。でも、何をすればいいのかは分かった気がします」
『なら、よかった』
神谷は代金を支払い、席を立った。
扉の前で、美園へ頭を下げる。
「今日話したことは、その……」
『店で聞いた話を、外でする趣味はないよ』
美園は穏やかに答えた。
神谷は安心したように笑う。
「また来ます」
『水以外も頼んでくれると嬉しいな』
「今度は何か飲みます」
『期待しないで待ってる』
神谷が店を出る。
扉が閉まり、店内に静けさが戻った。
美園は灰皿へ煙草を置き、小さく息を吐いた。
『……よりによって、樹里か』
誰もいない店で、思わず呟く。
『見る目があるのか、ないのか分からないな』
口ではそう言いながら、美園の表情には優しい笑みが浮かんでいた。
翌日の夜。
樹里が〖Rose〗の扉を開けた。
『美園、いるか』
『見れば分かるでしょ』
『客はいないのか』
『今帰ったところ』
樹里はいつもの席へ座った。
美園は何も聞かず、樹里の前へグラスを置く。
しばらく仕事の話をしてから、美園が何気ない調子で尋ねた。
『樹里』
『何だ』
『あんた、会社で誰かに好かれてない?』
樹里の手が止まった。
『……急に何だ』
『何となく』
『いない』
『即答だね』
『いるわけねえだろ』
『そう思ってるのは、あんただけかもよ』
樹里が眉を寄せる。
『何か知ってるのか』
美園はカウンターへ頬杖をつき、笑った。
『何も』
『じゃあ、何で聞いた』
『長年の勘』
『くだらねえ』
樹里はグラスを持ち上げた。
だが、飲む直前で動きが止まる。
頭に浮かんだのは、昼間の柚希と陽菜の言葉だった。
——神谷くんってさ、日高先輩のこと好きなんじゃない?
樹里は、その考えを振り払うようにグラスへ口をつけた。
『本当に、くだらねえ』
先ほどより少しだけ強い声だった。
美園はそれ以上何も言わない。
客の相談を漏らすことも、答えを教えることもしなかった。
ただ、樹里が自分へ向けられた好意の存在に、ようやくほんの少しだけ目を向けたことを、美園は黙って見守っていた。




