↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/51

12話「相談」

神谷悠真が日高樹里にだけ妙に丁寧なことに、営業部の何人かは気づき始めていた。


「滝本さん、先ほど頼まれていた資料です」


「ああ、サンキュー。そこ置いといて」


神谷は滝本の机へ資料を置き、そのまま自分の席へ戻ろうとした。


その途中で、別の書類を持って樹里の席へ立ち寄る。


「日高先輩、こちらの確認をお願いします。変更した箇所には付箋を貼ってあります」


『ありがとうございます。確認しておきますね』


神谷は書類を両手で差し出した。


樹里が受け取るまで手を離さず、机の上へ乱雑に置くこともしない。


「急ぎではありませんので、日高先輩の手が空いたときで大丈夫です」


『分かりました』


樹里が微笑む。


その途端、神谷の背筋がわずかに伸びた。


「よろしくお願いします」


もう1度頭を下げてから、神谷は自分の席へ戻っていった。


その一連の様子を、柚希がじっと見ていた。


柚希の視線が、神谷から樹里へ移る。


さらに、樹里から陽菜へ移った。


陽菜も気づいていたらしい。


柚希と目が合うと、わずかに眉を上げた。


休憩時間。


柚希は陽菜の席へ近づき、周囲へ聞こえないように身を屈めた。


「ねえねえ、櫻井さん」


『何ですか?』


「神谷くんってさ、日高先輩のこと好きなんじゃない?」


陽菜の目が、分かりやすく輝いた。


『え、そうなの?』


「やっぱり櫻井さんもそう思う?」


『いや、全然気づいてなかったです。でも、言われてみれば……』


2人の視線が、同時に神谷へ向かう。


神谷は自分の席で、パソコンの画面を見ながら仕事をしている。


その横顔は真剣で、こちらの会話に気づいている様子はない。


柚希が声をさらに小さくした。


「ほかの人に書類を渡すときは普通なのに、日高先輩のときだけ両手なんだよ」


『本当だ。声もちょっと違うかも』


「でしょ?」


『柚希ちゃん、よく見てますね』


「こういうのは何となく分かるの」


『さすが』


「噂好きって意味じゃないよね?」


『もちろん』


陽菜は笑顔で答えた。


その顔を見た柚希は、納得していないようだった。


『本人に聞いてみます?』


「え、神谷くんに?」


『日高先輩に』


「聞けるの?」


『任せてください』


陽菜は立ち上がり、コーヒーを飲んでいる樹里の隣へ移動した。


柚希も当然のようについていく。


樹里は近づいてくる2人を見ると、嫌な予感を覚えたのか、わずかに眉を寄せた。


『何ですか』


「日高先輩、ちょっと聞いてもいいですか?」


『内容によります』


「神谷くんのこと、どう思ってます?」


樹里の手が止まった。


持っていたカップを、静かに机へ置く。


『後輩だと思っています』


「それだけですか?」


『それ以外に何があるんですか』


柚希が陽菜へ目配せする。


今度は陽菜が尋ねた。


『神谷さんって、日高先輩にだけちょっと丁寧じゃないですか?』


『神谷さんは誰に対しても丁寧ですよ』


「いや、違うんですよ。日高先輩のときだけ、丁寧さの種類が違うっていうか」


『意味が分かりません』


『書類を渡すときも両手だし、声もちょっと改まってるじゃないですか』


『たまたまでしょう』


「日高先輩、本当に気づいてないんですか?」


『何にですか』


柚希が口を開きかける。


しかし、陽菜がその腕を軽く引いた。


『柚希ちゃん。本人がいないところで決めつけるのは、よくないですよ』


「櫻井さんが聞き始めたんじゃん」


『私は確認しただけです』


「同じでしょ」


『全然違います』


陽菜はそう言いながらも、楽しそうに笑っていた。


樹里は小さく息を吐き、カップを持ち直す。


『神谷さんは真面目な後輩です。それ以上でも、それ以下でもありません』


「もし神谷くんに告白されたら?」


『されません』


「もしもの話です」


『意味のない仮定には答えません』


樹里は会話を打ち切るように席を立った。


カップを持って給湯室へ向かう。


その背中を見送りながら、柚希が陽菜へ囁いた。


「逃げたね」


『逃げましたね』


「やっぱり何かあるのかな」


『総……日高先輩は、恋愛そのものがよく分かってないんだと思います』


「え、意外。モテそうなのに」


『モテるのと、本人が分かってるかは別ですから』


陽菜は、閉じた給湯室の扉へ目を向けた。


(あの人、自分へ向けられる好意には鈍いんだよな)


昔からそうだった。


人の怒りや怯えには誰よりも早く気づく。


誰かが助けを求めていれば、言葉にされる前に手を伸ばす。


けれど、自分が好かれていることだけは、驚くほど気づかない。


あるいは、気づかないふりをしてきたのかもしれない。


陽菜にも、その違いまでは分からなかった。


その日の終業後。


神谷は会社を出てから、すぐには駅へ向かわなかった。


会社の裏通りへ入り、小さな看板の前で足を止める。


〖Rose〗


初めてこの店へ入ったのは、偶然だった。


仕事で失敗し、まっすぐ家へ帰る気になれなかった夜。


酒を飲みたいわけでもなかったが、静かに座っていられる場所を探していた。


それ以来、考えを整理したいときには、自然とここへ足が向くようになっていた。


神谷が扉を開ける。


カウンターの奥では、黒いドレスを着た女性がグラスを拭いていた。


美園は神谷の顔を見ると、穏やかに笑った。


『いらっしゃい。今日は随分と難しい顔してるね』


「そんなに顔へ出ていますか?」


『うん。店へ入ってきたときから、何か相談したそうな顔』


神谷は気まずそうに視線を逸らした。


「……今日は水でお願いします」


『はいはい』


スナックへ来て水しか頼まない客にも、美園は嫌な顔をしない。


氷を入れたグラスへ水を注ぎ、神谷の前へ置いた。


『それで?』


「何がですか?」


『悩みごと。話したくないなら、聞かないけど』


神谷はグラスへ手を伸ばした。


氷が小さな音を立てる。


すぐには話し始めなかった。


美園も急かさず、別のグラスを磨きながら待っている。


やがて神谷は、覚悟を決めたように顔を上げた。


「……好きな人がいるんです」


美園の手は止まらなかった。


『そう』


「驚かないんですね」


『それだけ深刻な顔で来たんだから、仕事か恋愛だと思ってた』


「仕事のことでもあるんです」


『同じ会社の人?』


「はい」


神谷はグラスへ視線を落とした。


「仕事ができて、冷静で、誰に対しても丁寧で。自分が忙しくても、困っている人を放っておけない人です」


美園は黙って聞いている。


「何でもできるように見えるのに、たまに、すごく無理をしているように見えるときがあって」


グラスを拭く美園の手が、ほんのわずかに緩んだ。


誰の話をしているのか、もう分かっていた。


(……樹里だな)


冷静で、仕事ができる。


困っている人間を放っておけず、自分のことは後回しにする。


そこまで条件が揃えば、ほかの誰かとは考えにくい。


ただ、美園は何も言わなかった。


神谷が話している相手の名前も尋ねない。


「僕なんかが近づいたら、迷惑なんじゃないかと思うんです」


『どうして?』


「僕はまだ失敗も多いですし、助けてもらってばかりで。その人と比べると、何もできないので」


『それで、どうしたいの?』


「え?」


『諦めたいのか、振り向いてほしいのか。ただ話を聞いてほしいのか』


神谷は答えに詰まった。


美園は磨き終えたグラスを棚へ戻す。


『そこが分からないまま何かしても、相手を困らせるだけだよ』


「……振り向いてほしいです」


しばらくして、神谷は答えた。


声は小さい。


それでも、ごまかしのない言葉だった。


「でも、今の自分では駄目だと思います」


『何が駄目なの?』


「釣り合わないからです」


『釣り合う、釣り合わないを決めるのは、あなただけじゃないでしょ』


神谷が顔を上げる。


美園は煙草へ火をつけた。


細い煙を吐き、少し考えてから続ける。


『それに、好きな人へ近づくために、急に格好いい男になろうとしなくていいと思うよ』


「でも、何か変わらないと」


『変わるのは悪くない。ただ、好かれるためだけに無理して作った自分は、長く続かない』


神谷は黙って美園の言葉を聞いている。


『特別なことをしようとする前に、仕事をちゃんとやればいいんじゃない?』


「仕事を?」


『失敗したら認める。分からなければ聞く。任されたことから逃げない。助けてもらったら、次は自分が誰かを助ける』


美園は灰皿へ灰を落とした。


『できる人の隣に立ちたいなら、その人に守ってもらうことばかり考えちゃ駄目。その人が安心して背中を預けられる人にならないと』


神谷の表情が変わった。


美園の言葉を、胸の中で何度も繰り返しているようだった。


「背中を預けられる人……」


『まあ、まずは仕事で信頼されることだね。好意を押しつけるより、そっちの方がずっと近道だと思うよ』


「……すごく、的確ですね」


『そう?』


「僕が何を悩んでいるのか、自分より分かっているみたいです」


『いろんな人を見てきただけ』


美園は小さく笑った。


神谷はグラスの水を飲み、深く息を吐く。


店へ入ってきたときより、少しだけ表情が軽くなっていた。


「ありがとうございます」


『何か解決した?』


「まだ何も。でも、何をすればいいのかは分かった気がします」


『なら、よかった』


神谷は代金を支払い、席を立った。


扉の前で、美園へ頭を下げる。


「今日話したことは、その……」


『店で聞いた話を、外でする趣味はないよ』


美園は穏やかに答えた。


神谷は安心したように笑う。


「また来ます」


『水以外も頼んでくれると嬉しいな』


「今度は何か飲みます」


『期待しないで待ってる』


神谷が店を出る。


扉が閉まり、店内に静けさが戻った。


美園は灰皿へ煙草を置き、小さく息を吐いた。


『……よりによって、樹里か』


誰もいない店で、思わず呟く。


『見る目があるのか、ないのか分からないな』


口ではそう言いながら、美園の表情には優しい笑みが浮かんでいた。


翌日の夜。


樹里が〖Rose〗の扉を開けた。


『美園、いるか』


『見れば分かるでしょ』


『客はいないのか』


『今帰ったところ』


樹里はいつもの席へ座った。


美園は何も聞かず、樹里の前へグラスを置く。


しばらく仕事の話をしてから、美園が何気ない調子で尋ねた。


『樹里』


『何だ』


『あんた、会社で誰かに好かれてない?』


樹里の手が止まった。


『……急に何だ』


『何となく』


『いない』


『即答だね』


『いるわけねえだろ』


『そう思ってるのは、あんただけかもよ』


樹里が眉を寄せる。


『何か知ってるのか』


美園はカウンターへ頬杖をつき、笑った。


『何も』


『じゃあ、何で聞いた』


『長年の勘』


『くだらねえ』


樹里はグラスを持ち上げた。


だが、飲む直前で動きが止まる。


頭に浮かんだのは、昼間の柚希と陽菜の言葉だった。


——神谷くんってさ、日高先輩のこと好きなんじゃない?


樹里は、その考えを振り払うようにグラスへ口をつけた。


『本当に、くだらねえ』


先ほどより少しだけ強い声だった。


美園はそれ以上何も言わない。


客の相談を漏らすことも、答えを教えることもしなかった。


ただ、樹里が自分へ向けられた好意の存在に、ようやくほんの少しだけ目を向けたことを、美園は黙って見守っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。