13話「武勇伝」
終業後。
黒澤剛は、会社の裏通りを歩いていた。
今日は特に予定もない。
家へ帰る前に、どこかで軽く1杯飲みたい気分だった。
いつも利用している居酒屋へ向かおうとしたところで、小さな看板が目に入る。
〖Rose〗
黒地の看板に、控えめな文字が浮かんでいる。
派手さはないが、店内から漏れる暖色の明かりには、不思議と人を引き寄せるものがあった。
黒澤は店の前で足を止めた。
「……こんなところに店あったか?」
少し迷ってから、扉を開ける。
取りつけられたベルが、軽い音を鳴らした。
カウンターの奥では、黒いドレスを着た女性がグラスを拭いていた。
まとめた髪には金色が混じり、片方の耳では大きなリングピアスが揺れている。
美園は入ってきた黒澤へ目を向け、穏やかに微笑んだ。
『いらっしゃいませ』
「初めてなんだけど、いいか?」
『もちろん。好きなところへどうぞ』
黒澤はカウンターの中央へ腰を下ろした。
鞄を足元へ置き、ネクタイを少し緩める。
「ビールある?」
『瓶と生、どちらにします?』
「じゃあ瓶で」
美園は冷えたグラスとビールを出した。
黒澤は手酌で注ぎ、喉を鳴らして飲む。
「仕事のあとの1杯は、やっぱりこれだな」
『お疲れさまです』
「ああ。部下が増えると、こっちの仕事も増える一方でな」
黒澤はそう言いながら、名刺入れを取り出した。
「そうだ。俺、こういう者」
差し出された名刺を、美園が受け取る。
島川不動産株式会社。
営業部部長、黒澤剛。
会社名を見た瞬間、美園の眉がほんのわずかに動いた。
(樹里たちのところか)
もちろん、それを顔には出さない。
『営業部長さんなんですね』
「まあな。部長なんていっても、上と下に挟まれて大変だよ」
『責任のある立場ですからね』
「そうなんだ。若いやつは簡単に“部長お願いします”って持ってくるけど、その先で誰が頭を下げてると思ってるんだって話だよ」
愚痴のような言い方だった。
だが声には、それほど嫌そうな響きはない。
美園は黒澤の前へおしぼりを置いた。
『面倒を見るのがお嫌いには見えませんけど』
「嫌いじゃないよ。ただ、最近の若いやつは大人しいからな。俺が若い頃なんて、もっと無茶してたぞ」
美園の手が止まる。
何かが始まりそうな気配を察した。
『へえ。無茶を?』
「こう見えて俺も、昔は結構やった方でな」
黒澤はビールを注ぎ足しながら、得意げに笑う。
「高校のとき、夜の公園に集まって、仲間とずっと話してたことがあるんだよ」
『夜の公園で』
「ああ。先生に見つかって、補導されかけた」
『それは大変でしたね』
「だろう? 逃げてもよかったんだけど、仲間を置いていけなくてな。全員で説教されたよ」
美園は笑顔で頷いた。
(補導されたわけでもないんだ)
Rose girlsでは、誰かが警察に追われた場合の逃走経路まで決めていた。
誰が囮になり、誰が後輩を逃がすか。
樹里と陽菜は何も打ち合わせていなくても、同じ方向へ走った。
そんな過去と比べてはいけない。
美園は自分にそう言い聞かせた。
「ほかにもあるぞ。高校の夏休みに、髪を茶色に染めたことがあってな」
『思い切りましたね』
「始業式までに戻せって親に怒られたけど、3日くらい粘った」
『3日も』
「最後は父親に床屋へ連れていかれたよ」
黒澤は、懐かしそうに笑った。
美園も笑顔を返す。
接客に必要なのは、話の大きさではない。
客が気持ちよく話せるように、適切なところで頷くことだ。
それを美園は誰よりも理解している。
「大学のときには、講義を抜け出してゲームセンターへ行ったこともある」
『大胆ですね』
「友人に代返を頼んでな。結局ばれて、教授に呼び出された」
『かなり危ない橋を渡っていたんですね』
「あの頃は怖いもの知らずだったんだよ」
美園はグラスを拭きながら、何とか表情を保った。
話を聞けば聞くほど、黒澤の武勇伝は小さくなっていく。
本人は楽しそうなので、水を差すつもりはない。
ただ、美園の知っている“無茶”とは、随分と尺度が違っていた。
瓶の中身が半分ほど減った頃、黒澤の話は学生時代から仕事へ移った。
「営業に入ったばかりの頃は、上司も厳しくてな。書類を投げ返されるなんて、しょっちゅうだった」
『今では考えにくいですね』
「今やったら問題になるな。でも、あの頃はそれが普通だった」
黒澤は空になりかけたグラスを見つめた。
「だからって、同じことを下のやつにやる気はないけどな」
美園は何も言わず、続きを待った。
「失敗したら、何が悪かったか教えればいい。人前で怒鳴っても、萎縮して次の失敗を隠すだけだ」
先ほどまで武勇伝を語っていたときとは、少しだけ声が違っていた。
酒で気分がよくなっているのは変わらない。
それでも、その言葉には部長として積み重ねてきた時間が表れていた。
「前に、入ったばかりの若いやつが、大きな発注ミスをしたことがあってな」
『はい』
「取引先は、その子を連れてこいって怒ってた。でも、入社したばかりの人間を矢面に立たせても仕方ないだろ」
『黒澤さんが行ったんですか』
「俺の部下だからな。俺が頭を下げたよ」
黒澤は当然のように答えた。
「もちろん、帰ってから本人には原因と対策を考えさせた。庇うことと、甘やかすことは違うからな」
『なるほど』
「上司の仕事は、部下の失敗をなくすことじゃない。失敗しても、取り返せるところで止めることだ」
美園は、磨いていたグラスを静かに置いた。
黒澤を見る目が、ほんの少し変わる。
学生時代の武勇伝は、どれもしょぼい。
けれど、この男が営業部長を任されている理由は、何となく分かった。
「今の部署にも、目をかけてる若いやつが何人かいる」
『優秀なんですか?』
「まだまだだよ。失敗もするし、視野も狭い。だが、失敗したあとに何をするかで人間は分かる」
黒澤は指を折るようにして、部下たちのことを語り始めた。
「神谷は地味だけど、周りをよく見てる。自信がつけば伸びるタイプだ」
美園は、前日に相談へ来た青年の顔を思い出した。
「遠藤は真面目すぎるところがあるが、数字には強い。早川は軽く見えるけど、場の空気を読んで人を動かせる」
美園は黙って耳を傾ける。
「新しく入った櫻井は、まだ分からん。愛想はいいが、妙に肝が据わってる。新人らしくないんだよな」
危うく、美園の口元が緩みそうになる。
『そうなんですか』
「ああ。何か隠してるような気もするんだが……まあ、悪いものじゃないだろ」
美園は内心で感心した。
黒澤は、何も知らない。
陽菜の過去も、樹里との関係も知らない。
それでも、陽菜がただの明るい新人ではないことを、わずかな期間で感じ取っている。
「それから、日高だな」
美園の指が、グラスの縁で止まった。
「日高は優秀だ。任せた仕事は必ず終わらせる。周囲も見えてるし、誰かが失敗したときのフォローも早い」
『随分と信頼してるんですね』
「そりゃそうだ。あいつがいなかったら、営業部は今よりずっと回ってない」
黒澤は笑いながら続けた。
「ただ、何でも自分で抱え込むところがある。あれはよくない。できるやつほど、限界を見せないからな」
美園は、黒澤の顔をまっすぐに見た。
樹里の外側だけではなく、その危うさまで見えている。
ただ武勇伝を聞かせたがるだけの男ではないらしい。
『部下のこと、ちゃんと見てるんですね』
「部長だからな」
黒澤は胸を張った。
「俺は昔から、人を見る目には自信があるんだ」
『それも武勇伝ですか?』
「いや、これは現在進行形の事実だ」
美園は堪えきれず、小さく笑った。
黒澤は褒められたと思ったのか、満足そうにビールを飲み干した。
「美園さん、分かってくれるよな。最近は、こういう話を最後まで聞いてくれる人が少なくて」
『皆さん、お忙しいんじゃないですか』
「そうなんだよ。日高なんか、俺が話し始めると仕事へ戻ろうとするからな」
『仕事中なら、戻らせてあげてください』
「それもそうだな」
黒澤は声を上げて笑った。
会計を済ませ、鞄を持って立ち上がる。
「いい店だな、ここ。また来るよ」
『ありがとうございます』
「今度は、今日話せなかった武勇伝も聞かせてやる」
まだあるのか。
美園はそう思ったが、笑顔を崩さなかった。
『楽しみにしています』
「じゃあな。ごちそうさま」
『お気をつけて』
黒澤が店を出る。
扉が閉まったあと、美園はしばらく無言で立っていた。
やがてカウンターへ両手をつき、大きく息を吐く。
『……武勇伝は、本当にしょぼかったな』
夜の公園。
3日だけの茶髪。
講義を抜け出してゲームセンター。
どれも可愛らしいものだった。
『でも、部長としては悪くないか』
黒澤が語った部下たちの顔を、美園はほとんど知っている。
表面的な印象だけで決めつけず、それぞれの長所と危うさを見ていた。
少なくとも、肩書だけで部長になった男ではない。
翌日の夜。
樹里が〖Rose〗へ顔を出すと、美園はカウンターの下から名刺を取り出した。
『これ、あんたの会社の人でしょ』
樹里は名刺を受け取った。
名前を確認した途端、眉間にしわが寄る。
『……黒澤さんが来たのか』
『昨日ね。名刺を置いていった』
『何か失礼なことをしなかったか』
『心配する方向が逆じゃない? 普通は客の方を心配するでしょ』
『美園が相手なら、黒澤さんが何か言われてないか心配した方が早い』
『私は何も言ってないよ。ちゃんと最後まで聞いてあげた』
樹里は怪しむように美園を見る。
『何を』
『武勇伝』
樹里の動きが止まった。
美園が楽しそうに続ける。
『夜の公園で補導されかけた話と、髪を茶色に染めて3日で戻された話。それから——』
『もういい』
樹里は片手で額を押さえた。
『会社でも、たまに始まるんだ』
『そうなんだ』
『捕まってもいないのに、なぜあれほど誇らしげに話せるのか分からん』
『本人にとっては大冒険だったんでしょ』
美園は笑いながら、樹里の前へグラスを置いた。
『でも、部下のことはよく見てるね』
樹里が顔を上げる。
『何か言ってたのか』
『相談ごとは聞いてない。あの人が勝手に自慢してただけ』
『なら、相当喋ったんだな』
『あんたが優秀だって。自分で何でも抱え込むのが悪い癖だとも言ってた』
樹里は黙った。
『当たってるじゃない』
『余計なお世話だ』
『そういうところも含めて、見抜かれてるんでしょ』
樹里は反論せず、グラスを手に取った。
黒澤は話が長い。
自分の経験を語り始めると、なかなか止まらない。
それでも、部下が失敗したときは必ず前へ出る。
責任を押しつけることもしない。
営業部の誰かが理不尽な扱いを受ければ、普段の軽さが消え、相手が誰であろうと頭を下げさせる。
『……悪い人じゃねえよ』
樹里が小さく呟いた。
『知ってる。話を聞けば分かる』
『ただ、武勇伝はしょぼい』
『それも知ってる』
2人の視線が重なる。
美園が先に吹き出し、樹里も呆れたように息を吐いた。
黒澤剛の武勇伝は、どれも大したものではなかった。
けれど、部下の前に立ち、失敗の責任を引き受けてきたことだけは、本当だった。
美園にとっては、それがこの夜に聞いた中で、唯一まともな武勇伝だった。




