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14話「取引先」

島川不動産にとって、東都ハウジングは重要な取引先だった。


長く取引が続いており、扱う案件の数も多い。


相手から寄せられる要望へ迅速に対応することは、営業部にとって欠かせない仕事の1つだった。


その窓口を担当しているのが、岡田という男だった。


年齢は40歳手前。


営業成績は悪くない。


商品知識もあり、判断も早い。


仕事相手としてだけ見れば、決して能力の低い人間ではなかった。


ただし、相手によって態度を変える。


特に、年下の女性社員に対しては露骨だった。


「遠藤さん、これくらいは自分で判断できないと困るんだよね」


「早川さんは愛想がいいのは分かるけど、仕事は笑ってれば済むわけじゃないから」


「若い子はいいよね。多少のミスなら、可愛ければ周りが助けてくれるんだから」


言葉だけを切り取れば、指導や冗談だと言い逃れできる。


岡田自身も、問題のあることを言っているつもりはないらしい。


誰かが表情を曇らせれば、「そんなに真面目に受け取らなくても」と笑う。


反論すれば、「今の若い人は注意され慣れていない」と話をすり替える。


凛と柚希は、それぞれ違う方法で耐えていた。


凛は、指摘されるたびに自分の書類を見直した。


自分が間違えているのかもしれない。


知識が足りないから、こんな言い方をされるのかもしれない。


そう考え、必要以上に確認へ時間をかけるようになった。


柚希は笑って受け流した。


「すみませーん、気をつけます」


明るく答えれば、それ以上場の空気は悪くならない。


自分が少し我慢すれば、商談は滞りなく進む。


そう思っていた。


だが、笑顔を作る回数が増えるたびに、少しずつ心が疲れていった。


樹里も、岡田の態度には以前から気づいていた。


商談に同席したときは、必ず間へ入るようにしていた。


『今回の修正は、前回いただいた指示と内容が異なっています。遠藤さんが確認したのは、そのためです』


『早川さんの対応に問題があるのであれば、具体的にご指摘いただけますか』


樹里が穏やかに訂正すると、岡田は決まって笑った。


「いやいや、そんな大げさな話じゃないよ。ちょっとした冗談だから」


それで、その場は収まる。


だが次の商談では、また似たようなことが繰り返された。


岡田の発言には、明確な暴言と呼べるものが少ない。


1つずつなら、受け流せてしまう。


その小さな言葉が積み重なり、凛と柚希を消耗させていた。


黒澤も状況を把握していた。


「岡田さんとのやり取りは、全部記録に残してくれ」


ある朝、黒澤は樹里へそう指示した。


「いつ、誰に、何を言ったか。修正を求められたなら、最初の指示とどう変わったのかもだ」


『先方へ抗議しますか』


「材料が揃えばな」


黒澤は腕を組んだ。


普段のような軽い調子は消えている。


「感情だけで抗議しても、向こうは冗談だったと言って逃げる。下手をすれば、こっちの社員が神経質だという話にされる」


『はい』


「だが、取引先だからって、うちの人間に我慢させ続けるつもりもない」


黒澤は樹里をまっすぐに見た。


「何かあったら、すぐ俺に回せ。責任は俺が持つ」


『分かりました』


それから樹里は、岡田との打ち合わせ内容を細かく残すようになった。


指示された修正。


後日変更された条件。


凛や柚希へ向けられた言葉。


そのとき同席していた人間。


黒澤の言う“材料”は、少しずつ集まり始めていた。


その日の午後。


東都ハウジングとの定例打ち合わせには、樹里、凛、柚希の3人が出席した。


岡田は会議室へ入ってくるなり、凛の用意した資料を手に取った。


数ページを眺め、ある箇所で手を止める。


「遠藤さん、ここの条件、前と違わない?」


凛は自分の控えを確認した。


「前回、岡田さんからご指定いただいた内容へ変更しています」


「俺、こんなこと言った?」


「はい。前回の打ち合わせ記録にも残っています」


凛は該当する記録を開き、岡田の前へ差し出した。


岡田は目を通したが、すぐに資料を机へ戻した。


「でも、普通はこの条件なら、前のままにしておくよね。何でも言われた通りにやればいいってものじゃないよ」


凛の指が、膝の上で固く組まれる。


記録を残していても、次は判断力の問題にされる。


何を選んでも、間違いにされてしまう。


樹里が静かに口を開いた。


『前回、条件を変更する理由も確認しております。そのうえで、ご指示通り修正しています』


「日高さん、俺は遠藤さんに聞いてるんだけど」


『担当として、私から回答しています』


樹里は表情を変えなかった。


岡田は面白くなさそうに息を吐き、次のページへ進む。


打ち合わせの中盤。


柚希が次回の予定を確認すると、岡田は壁に掛かったカレンダーへ目を向けた。


「来週なら、いつでもいいよ。早川さんの都合に合わせる」


「では、火曜日の午後はいかがでしょうか」


「いいよ。早川さんみたいな子に頼まれたら、断れないからね」


柚希は、反射的に笑いかけた。


いつものように、軽く受け流そうとした。


けれど、うまく口角が上がらなかった。


岡田は気づかず、さらに続ける。


「その笑顔があれば、営業でもやっていけるんじゃない? 細かい仕事は苦手そうだけど、人当たりだけはいいから」


「……ありがとうございます」


柚希はそれだけを答えた。


何に対する感謝なのか、自分でも分からない。


樹里が手元のペンを置いた。


『岡田さん』


「何?」


『次回の日程は、火曜日の午後で承ります』


樹里の声は丁寧だった。


しかし、それ以上の話を続けさせない硬さがあった。


『本日の確認事項は以上です。追加のご要望がありましたら、私宛てにメールでお願いいたします』


「まだ時間あるけど」


『必要な確認は完了しておりますので』


樹里は資料を閉じた。


岡田は何か言いたそうにしていたが、結局、椅子の背へ身体を預けた。


「まあ、そっちがいいなら」


『ありがとうございます』


商談は予定より少し早く終わった。


会社へ戻る道中、凛はほとんど口を開かなかった。


自分の手帳を何度も見直している。


柚希は普段通りに振る舞おうとしていた。


だが、いつものような軽い話題が出てこない。


営業部へ戻ると、陽菜がすぐに3人の異変へ気づいた。


『お疲れさまです』


凛と柚希が、それぞれ小さく返事をする。


樹里は陽菜を見たあと、手にしていたファイルへ視線を落とした。


陽菜は何も聞かず、まず凛へ温かい飲み物を渡した。


続いて、柚希の机へ小さな菓子を置く。


『ちょっと休みません?』


「でも、まだ資料の整理が」


凛が言う。


『それ、私も手伝います。5分だけ休みましょう』


陽菜は明るく言った。


凛と柚希は顔を見合わせ、それから頷いた。


3人は人のいない休憩スペースへ移動した。


陽菜は向かいに座り、すぐには何も尋ねなかった。


凛がカップへ口をつける。


柚希は、渡された菓子の袋を指で弄っている。


しばらくして、陽菜が静かに口を開いた。


『岡田さんに、何か言われました?』


凛の肩が、わずかに動いた。


「私の判断が悪かったんです」


『何があったんですか』


「前回、岡田さんに言われた通りに条件を変更しました。でも今回は、自分で判断できないのかと言われて」


『記録は残ってたんですよね?』


「はい。でも、言われた通りにするだけでは駄目だと」


凛は視線を落とした。


「私がもっと仕事を理解していれば、正しい判断ができたのかもしれません」


『それは違います』


陽菜は、はっきりと言った。


凛が顔を上げる。


『指示を変えるなら、変える側が理由を説明するべきです。後から違うことを言って、凛ちゃんの判断力のせいにするのはおかしいですよ』


「でも——」


『凛ちゃんは記録を残して、確認もしたんですよね』


「はい」


『なら、やるべきことはやってます』


凛は何も答えなかった。


けれど、固く組んでいた指から、少しだけ力が抜けた。


陽菜は、今度は柚希を見る。


『柚希ちゃんは?』


「私は別に。いつものことだから」


『いつものことだから、何ともないんですか?』


柚希は笑おうとした。


だが、途中で諦めた。


「笑ってれば済むと思ってたんだよね」


陽菜は黙って聞いている。


「可愛いとか、愛想だけとか言われても、適当に笑ってれば商談は終わるし。言い返して空気を悪くする方が面倒だと思ってた」


柚希は手元の菓子へ視線を落とした。


「でも最近、岡田さんと会う前から、ちゃんと笑えるか考えるようになってて」


その声から、普段の明るさが消えていた。


「笑うのって、こんなに疲れるものだったっけ」


陽菜の胸の奥で、熱いものが広がった。


凛は、自分の能力を疑わされている。


柚希は、自分の笑顔を仕事の道具のように扱われている。


2人とも、岡田の言葉を受け流すために、自分自身を少しずつ削っていた。


昔の陽菜なら、すぐに立ち上がっていた。


相手の会社へ乗り込み、二度と同じ口を利けないようにしていた。


けれど、今は違う。


陽菜は拳を握らなかった。


怒りをそのまま相手へぶつける前に、目の前の2人へ尋ねる。


『次の打ち合わせ、私が行ってもいいですか』


凛が目を瞬かせる。


「櫻井さんが?」


『はい』


「でも、櫻井さんはまだ入社したばかりです」


『だから、岡田さんから見れば、言いやすい相手だと思います』


柚希が心配そうに陽菜を見る。


「陽菜ちゃん、喧嘩しない?」


『しませんよ』


陽菜は笑った。


『私、会社員なので』


説得力があるような、ないような返事だった。


柚希は少しだけ迷い、それから尋ねる。


「本当に大丈夫?」


『大丈夫です。ただ、2人が嫌なら行きません』


凛と柚希は、しばらく黙っていた。


先に答えたのは、凛だった。


「……お願いします」


柚希も小さく頷く。


「私からも、お願いしていい?」


陽菜は2人の顔を見て、静かに頷いた。


『任せてください』


その直後。


休憩スペースの入口から、樹里の声がした。


『櫻井さん』


陽菜が振り返る。


樹里は分厚いファイルを持って立っていた。


『少しいいですか』


『はい』


陽菜は凛と柚希へ笑いかけてから、樹里のあとを追った。


連れていかれたのは、小さな打ち合わせ室だった。


中には黒澤が待っている。


机の上には、東都ハウジングとの取引記録が並べられていた。


黒澤が椅子を示す。


「櫻井さん、次の打ち合わせに行きたいそうだな」


陽菜は樹里を見る。


『もう話したの?』


『必要な報告だ』


陽菜は椅子へ座り、黒澤へ向き直った。


『はい。私に行かせてください』


「理由は?」


『遠藤さんと早川さんが、傷ついてるからです』


「それだけか?」


黒澤の声は厳しかった。


陽菜はすぐに答えられなかった。


黒澤が続ける。


「腹が立ったから、取引先に文句を言いに行く。それなら認められない」


『……はい』


「君がやるのは喧嘩じゃない。商談だ」


陽菜は机の上の資料へ目を向けた。


岡田の発言。


指示の変更。


その日付と同席者。


樹里が残してきた記録が、すべて整理されている。


陽菜は顔を上げた。


『岡田さんを言い負かしに行くつもりはありません』


「なら、何をしに行く?」


『仕事の話だけをする相手に、戻ってもらいます』


黒澤の目が、わずかに細くなった。


『遠藤さんの判断を、後から気分で否定させない。早川さんの容姿や笑顔を、仕事の評価に混ぜさせない』


陽菜は言葉を続けた。


『私たちと東都ハウジングが、これからも仕事を続けるために必要な線を引き直します』


部屋の中に、短い沈黙が落ちた。


黒澤は腕を組み、陽菜を見つめている。


やがて樹里へ尋ねた。


「日高さん。任せられると思うか?」


樹里は陽菜を見る。


かつての副総長は、怒りを隠していない。


それでも、その怒りに任せて動こうとはしていなかった。


『私も同行します』


「それは答えになってないぞ」


『私が同行すれば、任せられます』


黒澤はしばらく考え、それから頷いた。


「分かった。次回は櫻井さんが主担当。日高さんが同行しろ」


『はい』


『ありがとうございます』


「ただし、こちらから取引を壊すようなことはするな。岡田さんが声を荒らげても、同じ土俵には乗るな」


黒澤は机の上の記録を指で叩いた。


「感情じゃなく、事実で話せ」


『分かりました』


「それでも向こうが態度を改めないなら、俺に回せ」


黒澤の声に迷いはなかった。


「その先は、部長の仕事だ」


陽菜は深く頷いた。


打ち合わせ室を出たあと、樹里は手にしていたファイルを陽菜へ渡した。


『次までに、全部読め』


陽菜はその重さを両手で受け取る。


『これ、総長がまとめたの?』


『会社では日高だ』


『今、誰もいないじゃん』


『そういう油断が一番危ねえんだよ』


陽菜はファイルを開いた。


岡田の発言だけではない。


その前後に交わされた会話や、業務上の指示まで記録されている。


『すごいね。全部残してたんだ』


『黒澤さんの指示だ』


『部長、ちゃんと考えてたんだね』


『当たり前だろ。お前は黒澤さんを何だと思ってる』


『武勇伝を話したがる人』


『それは否定しない』


陽菜は小さく笑った。


その笑みを見て、樹里が声を低くする。


『言っておくが、これは武器じゃないぞ』


『分かってるよ』


『本当に分かってるのか』


『事実を確認するための資料でしょ』


陽菜はファイルを閉じた。


『殴るより、こっちの方が効く相手もいる。それくらい、今は分かってるよ』


樹里は陽菜の横顔を見つめた。


かつての陽菜が手にしていたものは、バールや鉄パイプだった。


敵を見つければ、誰よりも早く前へ出た。


今、その両手にあるのは、日付と発言と修正履歴が記されたファイルだった。


特攻服は、もう着ていない。


それでも、大切な仲間を傷つけられたとき、陽菜が前へ出ることだけは変わらなかった。


違うのは、戦い方だった。

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