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15話「交渉」

東都ハウジングの会議室。


陽菜は、持参した資料をテーブルの上へ並べた。


前回までの打ち合わせ記録。


修正前と修正後の資料。


岡田から送られてきたメール。


そのすべてに、前日のうちに目を通している。


正面の席に陽菜。


その隣に樹里。


向かい側には岡田が座っていた。


凛と柚希は、今日は同行していない。


陽菜が望んだことだった。


2人を守りたいからではない。


今の2人が岡田の前に座れば、また何か言われるのではないかと身構えてしまう。


その状態で、対等な商談はできないと考えたからだ。


『本日はお時間をいただき、ありがとうございます。島川不動産の櫻井です』


陽菜は名刺を差し出し、明るく微笑んだ。


岡田は名刺を受け取ると、そこに書かれた名前を確認する。


「ああ。新人の子か」


『はい。今後の打ち合わせへ参加させていただくことになりました。よろしくお願いいたします』


「今日は日高さんじゃなくて、君が担当するの?」


『本日の進行は、私が務めます。日高は確認のために同席しております』


岡田は陽菜から樹里へ視線を移した。


樹里は静かに頭を下げる。


『よろしくお願いいたします』


「まあ、話が分かるなら誰でもいいけど」


岡田は椅子の背へ身体を預けた。


陽菜は笑顔を崩さず、資料を開く。


『では、前回から変更となった条件について、確認させていただきます』


打ち合わせは、予定通りに始まった。


陽菜は、いきなり岡田の発言を問題にしなかった。


まずは通常の商談を進める。


変更された条件を1つずつ読み上げ、認識に違いがないか確認する。


岡田が曖昧な答えを返せば、具体的な数字や期限へ置き換えて聞き直した。


「そこは、状況を見ながらでいいよ」


『承知しました。判断の基準となる条件を決めておきたいのですが、成約率と申込件数のどちらを優先しますか』


「それくらい、そっちで判断してくれない?」


『弊社で判断できる範囲は対応いたします。ただし、御社の販売方針に関わる部分ですので、事前に基準を共有していただければ、確認にかかる時間を減らせます』


「……じゃあ、申込件数で」


『ありがとうございます。議事録には、申込件数を基準とすると記載します』


陽菜は、岡田の回答をその場で記録した。


岡田が何気なく口にした言葉も、曖昧なままにしない。


決めるべきことは、その場で決める。


決められないものは、誰がいつまでに回答するかを確認する。


樹里は隣で、ほとんど口を挟まなかった。


陽菜の進行に不足がないかを見ながら、必要な箇所だけ手元の資料へ印をつけている。


商談は、想像していた以上に順調に進んだ。


岡田も最初こそ面倒そうな態度を見せていたが、陽菜の質問には答えざるを得なかった。


やがて、予定していた議題がすべて終わる。


岡田が腕時計へ目を向けた。


「思ったより早く終わったな」


『ご協力いただき、ありがとうございます』


「新人にしては、ちゃんと準備してきたんだね」


『ありがとうございます』


陽菜は、その言葉にも笑顔で答えた。


褒め言葉の形をしている。


だが、“新人にしては”という前置きが必要なのかどうか。


今は、そこへ反応するつもりはなかった。


陽菜は最後に残していたファイルを開く。


『本日の議題は以上です。ただ、今後のお取引について、もう1点確認させていただきたいことがあります』


岡田が眉を寄せた。


「何?」


『今後のご連絡と、打ち合わせの進め方についてです』


陽菜は、記録を岡田の前へ置いた。


感情を訴えるための紙ではない。


いつ、何を指示され、後日どのように変更されたか。


その際、担当者へどのような言葉が向けられたか。


事実だけが並べられている。


『これまで、御社からいただいた指示が、後の打ち合わせで変更となることが繰り返されています』


「仕事をしていれば、状況が変わることくらいあるだろ」


『はい。変更されること自体に問題はありません』


陽菜はすぐに認めた。


『ただ、変更前の指示に従って作成した資料について、弊社担当者の判断力や能力に問題があるようなご指摘をいただくことがありました』


「誰がそんなこと言った?」


陽菜は記録へ視線を落とした。


『前回の打ち合わせでは、遠藤に対して“何でも言われた通りにやればいいものではない”と仰っています』


「それは指導だよ」


『その前の打ち合わせでは、岡田さんから条件変更のご指示をいただいています。遠藤はその内容を記録し、ご指示通りに修正しました』


「だから、状況に合わせて判断しろって言ったんだ」


『どの状況が変わったのか、ご説明はありませんでした』


岡田の表情が険しくなる。


陽菜は声を荒らげない。


相手を責める口調にもならない。


ただ、記録された事実だけを確認していく。


『今後、条件を変更される場合は、変更点と理由をメール、もしくは双方で確認した議事録に残したいと考えております』


「そこまでしないと仕事ができないの?」


『認識の違いを防ぎ、修正にかかる時間を減らすためです』


「信用されてないみたいで、気分が悪いな」


『岡田さんを疑っているのではありません。弊社側も、言った、言わないという問題を起こさないためです』


陽菜は1度、言葉を切った。


ここまでは、業務上の指示に関する話だった。


次に話すのは、凛と柚希へ向けられた言葉について。


陽菜は、膝の上で拳を作りそうになる自分の手を開いた。


怒るために来たのではない。


線を引き直すために来た。


『もう1つ、お願いがあります』


「まだあるのか」


『弊社社員へのご指摘は、業務内容に限っていただけますか』


岡田の目が細くなる。


「どういう意味?」


『容姿、年齢、性別を含む表現は、業務上の評価と分けていただきたいという意味です』


「は?」


岡田は鼻で笑った。


「何の話をしてるんだよ」


『早川に対して、“可愛ければ周りが助けてくれる”、“笑顔があれば営業でもやっていける”と仰っています』


「あれは褒めただけだろ」


『早川の担当業務に、容姿は関係ありません』


「本人も笑ってたじゃないか」


陽菜の目から、わずかに温度が消えた。


『笑っていれば、何を言っても構わないということですか』


「そんな大げさな話じゃない。ちょっとした冗談だよ」


『冗談かどうかを決めるのは、言った側だけではないと思います』


「今の若い子は、本当に面倒だな」


岡田は大きく息を吐いた。


「注意すれば傷ついた。褒めれば不快だ。そこまで気を遣わないと話もできないのか?」


『業務上の問題をご指摘いただくことは、拒んでいません』


陽菜は岡田の目をまっすぐに見た。


『修正すべき点があるなら、具体的に仰ってください。弊社も責任を持って対応します』


「なら、何が問題なんだよ」


『業務と関係のない言葉で、担当者個人の価値を下げる必要はありません』


会議室の空気が変わった。


陽菜の声は、最初から変わっていない。


丁寧で、落ち着いている。


それでも、言葉の奥にあるものを、岡田も感じ取っていた。


「俺が、あの2人の価値を下げたって言いたいのか?」


『その意図があったかどうかを、争うつもりはありません』


「じゃあ何なんだ」


『今後、同じことを繰り返さないと確認したいだけです』


陽菜は、用意していた確認事項を岡田の前へ差し出した。


『業務上の指示は、可能な限り記録に残すこと。弊社社員へのご指摘は、業務内容について具体的に行うこと。年齢、性別、容姿に関する評価を含めないこと』


「……これに同意しろって?」


『今後も円滑にお取引を続けるために必要だと考えております』


岡田の顔が、徐々に赤くなっていく。


「新人の分際で、随分と偉そうだな」


その言葉が落ちた瞬間。


陽菜の表情から、笑みが消えた。


眉を吊り上げたわけではない。


睨みつけたわけでもない。


ただ、岡田を見た。


かつて、何十人もの女たちを背負っていた副総長の目で。


岡田の口が止まる。


陽菜は、ゆっくりとペンを持ち直した。


『今の発言も、本日の議事録に残します』


「……脅してるのか?」


『確認です』


陽菜は静かに答えた。


『私が新人であることと、本日お話ししている内容に、どのような関係がありますか』


「それは……」


『経験が足りない点をご指摘いただくのであれば、内容を具体的にお願いします』


岡田は答えなかった。


『私の進行に問題がありましたか』


「そういう話じゃない」


『では、“新人の分際で”という言葉は、業務上どのような意味でしょうか』


「いちいち言葉尻を取るなよ!」


岡田が声を荒らげ、机へ手をついた。


乾いた音が、会議室に響く。


それでも陽菜は、椅子から動かなかった。


心臓は速く打っている。


怖いからではない。


立ち上がり、机ごと相手を押し返したくなる衝動を抑えているからだ。


(仕事の話だけをする相手に戻す)


昨日、自分で口にした言葉を思い出す。


今までの陽菜なら、岡田が机へ手をついた時点で終わっていた。


だが今日は、手を出さない。


声も荒らげない。


陽菜はペン先を、岡田へ向けるのではなく、議事録の上へ置いた。


『今の発言と行動についても、記載します』


「だから、それが脅しだって言ってるんだ!」


『事実を記録しているだけです』


岡田が何かを言い返そうとしたとき、樹里が初めて口を開いた。


『本日のご提案は、弊社営業部長の承認を得ています』


岡田が樹里を見る。


『櫻井個人の判断ではありません』


「黒澤部長が?」


『はい』


樹里の声も、陽菜と同じように落ち着いていた。


『弊社としては、今後も東都ハウジング様とのお取引を大切にしたいと考えております。そのために、双方が業務へ集中できる環境を整えたいという提案です』


「これを断ったら、どうするつもりだ」


『その場合は、岡田さんと弊社担当者間での解決が難しいと判断します』


樹里は資料を閉じた。


『弊社の黒澤から、岡田さんの上長へご相談させていただきます』


岡田の勢いが止まった。


陽菜1人の抗議ではない。


新人社員が感情的になっているのでもない。


営業部長まで把握している、会社としての申し入れだった。


ここで拒めば、これまでの発言を含め、上司へ正式に報告される。


岡田は机についていた手を離し、ゆっくりと椅子へ座り直した。


会議室に、重い沈黙が流れる。


陽菜は急かさなかった。


謝罪を迫ることもしない。


ここで頭を下げさせても、凛と柚希に向けられる態度が変わらなければ意味がない。


必要なのは、次の商談から何を変えるかだった。


やがて岡田が、低い声で言った。


「……分かったよ」


陽菜は表情を変えない。


『何について、ご理解いただけましたか』


岡田が顔を上げる。


「そこまで言わせるのか?」


『認識を揃えるためです』


しばらく睨み合うような時間が続いた。


先に視線を逸らしたのは、岡田だった。


「今後、指示の変更は記録に残す」


『はい』


「仕事と関係のないことは言わない。これでいいんだろ」


『ありがとうございます』


陽菜は、そこで初めてわずかに表情を緩めた。


『本日の内容を議事録にまとめ、後ほどメールでお送りします。認識に違いがなければ、ご返信をお願いいたします』


「……分かった」


『今後とも、よろしくお願いいたします』


陽菜は立ち上がり、深く頭を下げた。


樹里も続く。


岡田は座ったまま、気まずそうに2人を見ていた。


会議室を出る直前。


岡田が陽菜を呼び止めた。


「櫻井さん」


陽菜が振り返る。


岡田は何かを言おうとしていた。


謝罪の言葉かもしれない。


それとも、また別の言い訳かもしれない。


だが、結局どちらも口には出さなかった。


「……議事録、送ってくれ」


『承知しました』


陽菜はそれだけを答え、会議室を出た。


東都ハウジングの建物を出たところで、陽菜は大きく息を吐いた。


握っていたファイルを、胸元へ抱える。


『……疲れた』


『だろうな』


樹里は前を向いたまま歩いている。


陽菜はその隣へ並んだ。


『やりすぎたかな』


『問題ない』


『でも、最後は結構怒らせたよ』


『怒ったのは向こうだ。お前じゃない』


『私もちょっと危なかったけどね』


『知ってる』


陽菜が樹里を見る。


『分かってたの?』


『机を叩かれたとき、お前の右手が動いてた』


陽菜は自分の右手へ視線を落とす。


無意識だった。


『……止めようと思った?』


『必要ならな』


『必要なかった?』


『ああ』


樹里の返事は短かった。


そこに迷いはない。


陽菜は、少しだけ安心したように息を吐く。


『あの人に謝らせた方がよかったのかな』


『無理に言わせた謝罪に、何の意味がある』


『だよね』


陽菜は空を見上げた。


『次に凛ちゃんと柚希ちゃんが来たとき、余計なことを言われなければ、それでいい』


『そのための交渉だ』


『私、ちゃんと会社員っぽかった?』


『最後まではな』


『じゃあ、褒めてるじゃん』


『褒めてねえ』


『褒めたでしょ』


『褒めてねえって言ってんだ』


樹里は歩く速度を少し上げた。


陽菜も笑いながら、そのあとを追う。


『でもさ、総長』


『会社の近くで呼ぶな』


『今、誰もいないじゃん』


『油断するなと言っただろ』


陽菜は返事をせず、胸に抱えたファイルへ目を落とした。


以前なら、仲間を傷つけた相手には、同じ痛みを返せばいいと思っていた。


怖がらせれば、二度と手を出さなくなる。


自分が嫌われても、仲間さえ守れればそれでよかった。


今日、陽菜は岡田を殴らなかった。


怒鳴りつけることもしなかった。


逃げ道を塞いだのは、拳ではない。


積み重ねた記録と、言葉だった。


『……こっちの方が、難しいね』


陽菜が呟く。


樹里は横目で陽菜を見る。


『だから、覚えろ』


『うん』


陽菜は素直に頷いた。


特攻服を脱いだあとにも、守りたいものは増えていく。


そのたびに、戦い方も覚えていかなければならない。


陽菜はファイルを抱え直し、樹里の隣を歩いた。

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