16話「余波」
東都ハウジングとの打ち合わせを終え、会社へ戻った陽菜は、すぐに議事録の作成へ取りかかった。
通常の商談内容。
条件変更の確認。
今後の連絡方法。
そして、岡田との間で合意した事項。
感情を挟まず、会議室で交わされた言葉を可能な限り正確に記載する。
岡田が机を叩いたことも、“新人の分際で”と口にしたことも、そのまま残した。
書き終えた議事録を、まず樹里へ送る。
数分後、樹里が陽菜の席へやってきた。
『確認しました』
『早いね』
『お前が変なことを書いてないか、最初に見た』
『信用ないなあ』
『以前のお前なら、“机を叩いて威嚇してきた”の次に、“やるなら表へ出ろと言ってやった”と書きかねない』
『今は書かないでしょ』
『言わなくなったとは断言しないんだな』
『言ってないんだからいいじゃん』
樹里は小さく息を吐いた。
手には、印刷した議事録がある。
数か所に印がつけられていた。
『事実関係に問題はありません。ただ、ここは“合意した”ではなく、“岡田様より了承を得た”に変えろ』
『何が違うの?』
『誰が、何を了承したのかを明確にするためだ。あと、ここの主語が抜けてる』
『本当だ』
『修正したら、もう1度私に回せ。そのあと黒澤さんへ提出する』
『はい』
陽菜は素直に頷き、修正へ取りかかった。
数年前なら、誰かを守るために必要だったのは腕力だった。
今は、主語の抜けた文章を直すことも戦いの続きになる。
そう考えると、少しだけおかしかった。
修正された議事録を確認した黒澤は、しばらく黙って内容を読んでいた。
最後まで目を通すと、陽菜と樹里を自分の席の前へ呼ぶ。
「よし。これで送れ」
『はい』
「先方へ送るときは、俺も共有に入れてくれ。返答がなければ、俺から確認する」
黒澤は議事録を机へ置いた。
「櫻井さん」
『はい』
「よく冷静に進めたな」
陽菜は少し驚いた。
黒澤から褒められると思っていなかった。
『ありがとうございます』
「ただし、机を叩かれた時点で危険を感じたなら、商談を中止していい。取引を続けることより、自分の安全を優先しろ」
『分かりました』
「日高さんもだ。部下に最後までやらせることと、無理をさせることは違うからな」
『はい』
「俺からは以上だ」
黒澤はそこで話を終えると、自分の仕事へ戻った。
陽菜と樹里は、並んで席へ戻る。
途中、陽菜が樹里へ小声で話しかけた。
『部長、怒らなかったね』
『怒られるようなことをした自覚があるのか』
『ない』
『ないなら言うな』
議事録は、その日のうちに岡田へ送られた。
翌日の午前中。
岡田から、内容に相違はないという返信が届いた。
文章は短かった。
だが、そこには陽菜が確認した事項について、今後対応するという言葉も添えられていた。
黒澤は返信を確認すると、陽菜の方へ顔を向けた。
「これで記録は残った。次に同じことがあれば、遠慮なく俺に報告しろ」
『はい』
「日高さんも、担当者だけで抱えるなよ」
『分かりました』
形式上は、それで話が終わった。
けれど、陽菜が本当に知りたいのは、岡田の返信ではなかった。
次に凛と柚希が岡田と顔を合わせたとき、どうなるのか。
それだけだった。
数日後。
東都ハウジングとの打ち合わせの日がやってきた。
今回は凛と柚希も参加する。
陽菜と樹里も同行した。
出発前、凛は何度も資料を確認していた。
柚希は普段通りに話しているが、いつもより少しだけ声が高い。
2人とも、緊張を隠そうとしている。
陽菜はあえて、大丈夫だとは言わなかった。
何が起こるか分からない状況で、無責任な言葉をかけたくなかった。
代わりに、凛の持っている資料を確認する。
『記録も修正履歴も揃ってます。大丈夫です』
「はい」
『柚希ちゃんも、無理に笑わなくていいですからね』
柚希が目を瞬かせた。
「そんなに顔へ出てる?」
『少しだけ』
「陽菜ちゃん、こういうときだけ妙に鋭いよね」
『こういうとき以外も鋭いですよ』
「自分で言うんだ」
柚希の表情が、少しだけ自然に緩んだ。
東都ハウジングの会議室へ入ると、岡田はすでに席へ着いていた。
以前のように椅子へ深くもたれず、資料を整えている。
陽菜たちを見ると、立ち上がった。
「本日はよろしくお願いします」
声の調子は、これまでと明らかに違った。
必要以上にへりくだっているわけではない。
ただ、最初から仕事相手へ向けるべき態度だった。
『こちらこそ、よろしくお願いいたします』
陽菜が答える。
凛と柚希も頭を下げ、席へ着こうとした。
その前に、岡田が口を開く。
「遠藤さん、早川さん」
2人の動きが止まる。
岡田は、少し言いづらそうに視線を落とした。
「今まで、仕事と関係のない言い方をしてしまったことがありました」
凛は黙って岡田を見ている。
柚希の顔からも、笑みが消えていた。
岡田は続けた。
「冗談のつもりだったとはいえ、配慮が足りませんでした。申し訳ありません」
深くはない。
長くもない。
それでも、言い訳だけで終わらず、岡田は頭を下げた。
凛が戸惑いながら答える。
「……今後、業務上の指示を明確にしていただければ、それで大丈夫です」
岡田が顔を上げた。
「分かりました」
柚希も岡田を見る。
以前なら、ここで笑って「気にしてません」と答えていただろう。
だが、今日は違った。
「私も、仕事で直すべきところがあれば、きちんと言ってください」
「はい」
「でも、笑顔とか見た目は、仕事の評価に入れないでほしいです」
柚希の声は、少し震えていた。
それでも、最後まで自分の言葉で伝えた。
岡田はわずかに目を伏せ、それから頷く。
「分かりました。今後、気をつけます」
陽菜は何も言わなかった。
凛と柚希が自分たちで答える時間を、黙って待っていた。
商談が始まる。
凛が資料の変更点を説明した。
岡田は途中で遮らず、最後まで聞く。
疑問があれば、どの箇所について確認したいのかを具体的に尋ねた。
凛も記録を示しながら、落ち着いて答える。
「この条件については、前回のご指示を反映しています。今回変更される場合は、理由と適用時期をご確認いただけますか」
「分かりました。今回は変更なしでお願いします」
「承知しました」
柚希が次回の日程を確認する。
岡田は余計な言葉を加えず、業務上の都合だけを答えた。
「来週の火曜日なら、午後から空いています」
「では、14時からでお願いいたします」
「お願いします」
打ち合わせは、それだけで進んだ。
皮肉もない。
容姿への言及もない。
後から条件を変え、担当者の判断へ責任を押しつけることもない。
本来なら、最初からこうあるべきだった。
それでも凛と柚希にとっては、大きな違いだった。
会議室を出たあと。
エレベーターを待ちながら、凛が胸元へ資料を抱いた。
「……今日は、ちゃんと仕事の話ができました」
その声には、安堵が混じっていた。
柚希も頷く。
「私、変に笑わなくて済んだ」
陽菜は2人を見る。
『よかったです』
「陽菜ちゃんが何か言ってくれたんだよね?」
柚希が尋ねる。
『話し合いをしただけですよ』
「絶対それだけじゃないでしょ」
『本当に、それだけです』
凛が陽菜へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
『私だけがやったことじゃないですよ』
陽菜はすぐに答えた。
『凛ちゃんが指示を記録してたから、何が変わったのか説明できたんです。柚希ちゃんも、自分がどう感じてたか話してくれたから、問題にできました』
「でも、私たちだけだったら、言えませんでした」
『最初は、それでいいんじゃないですか』
凛が顔を上げる。
『今度また何かあったら、1人で我慢しないでください。私でも、日高先輩でも、部長でもいいから』
陽菜は明るく笑った。
『味方がいるって分かってれば、言えることも増えるでしょ』
エレベーターの扉が開く。
4人は並んで乗り込んだ。
営業部へ戻ると、柚希が自分の席へ着くより先に、滝本が近づいてきた。
「今日、東都ハウジングだったんですよね。どうでした?」
「普通だったよ」
柚希が答える。
「普通?」
「うん。普通に仕事の話をして、普通に終わった」
「それが1番じゃないですか」
滝本は何気なく言った。
「本当にね」
柚希は、自然に笑った。
誰かの機嫌を取るためでもない。
不快な言葉を受け流すためでもない。
いつもの柚希の笑顔だった。
少し離れた席から、その様子を見ていた陽菜が小さく息を吐く。
樹里は隣で書類を整理している。
『総長』
『会社で呼ぶな』
『小声じゃん』
『駄目なものは駄目だ』
『柚希ちゃん、普通に笑ってたね』
樹里の手が、わずかに止まる。
柚希の方を見ないまま答えた。
『そうだな』
『凛ちゃんも、自分から確認できてた』
『見てた』
陽菜は満足そうに自分の席へ戻った。
その日の帰り道。
陽菜は樹里の隣を歩きながら、何度も前日のことを振り返っていた。
『ねえ、総長』
『だから、その呼び方をするな』
『もう会社から離れてるからいいでしょ』
『で、何だ』
『本当に、やりすぎてなかったかな』
樹里が横目で陽菜を見る。
『まだ気にしてたのか』
『だって、岡田さん、最初はすごく怒ってたじゃん』
『怒らせないことが目的じゃねえだろ』
『そうだけど』
『お前は、必要なことを言った。記録も残した。向こうも了承した。それで終わりだ』
陽菜は少し黙った。
『総長にそう言われると、落ち着く』
『最初から言ってる』
『何回でも言ってほしいときもあるんだよ』
樹里は返事をしなかった。
だが、否定もしなかった。
20時を過ぎた頃。
2人はスナック〖Rose〗のカウンターに並んでいた。
美園が陽菜の前へグラスを置く。
『それで、取引先の件はどうなったの?』
『今日、凛ちゃんたちにも謝ってたよ』
『へえ。ちゃんと謝れる人だったんだ』
『まだ反省してるかどうかまでは分からないけどね。でも、今日は仕事の話だけで終わった』
『それなら、まずは十分じゃない?』
美園は煙草へ火をつけた。
『陽菜は何を言ったの』
『普通に話しただけだよ』
『この子も同じこと言ってる』
美園が樹里を見る。
『本当に普通だったの?』
『途中まではな』
『途中まで?』
陽菜が不満そうに樹里を見る。
『最後まで普通だったでしょ』
『机を叩かれたとき、殴る構えに入りかけてた』
『入ってないじゃん。右手がちょっと動いただけだよ』
『それを構えに入ったと言うんだ』
美園が楽しそうに笑う。
『昔なら、どうしてた?』
陽菜は少し考えた。
『机を蹴ってたかも』
『相手じゃなくて?』
『最初は机』
『最初は、ね』
『でも今回は何もしなかったでしょ』
陽菜はグラスを両手で包んだ。
『ちゃんと話した。記録を見せて、仕事に関係ないことは言わないでって』
美園は煙を細く吐きながら、陽菜を見る。
『成長したね』
『そうなのかな』
『そうだよ』
『でも、怒った理由は昔と変わってないよ。仲間が嫌な目に遭ってたから』
樹里がグラスを置いた。
『変える必要はねえだろ』
陽菜が樹里を見る。
『守りたいと思うことまで、変える必要はない』
樹里は前を向いたまま続けた。
『やり方が増えただけだ』
陽菜は、しばらく何も言わなかった。
美園が静かに笑う。
『それを成長したって言うんじゃない?』
『……そっか』
陽菜はグラスへ視線を落とした。
その口元に、小さな笑みが浮かぶ。
『じゃあ、私もちょっとは普通の会社員になれたのかな』
『まだ遠い』
樹里が即答する。
『そこは少しくらい認めてよ』
『会社で総長と呼ばなくなったら考える』
『それとこれとは別じゃん』
『別じゃねえ』
『別だよ』
美園は言い合う2人を眺めながら、灰皿へ煙草を置いた。
特攻服を脱いだからといって、過去が消えるわけではない。
怒りも、牙も、守りたいという衝動も、身体の奥には残っている。
けれど、それを誰かを傷つけるためではなく、誰かが安心して立つために使えるのなら。
それはもう、昔と同じ牙ではなかった。
カウンターには、3人の笑い声が静かに重なっていた。




