↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/123

16話「余波」

東都ハウジングとの打ち合わせを終え、会社へ戻った陽菜は、すぐに議事録の作成へ取りかかった。


通常の商談内容。


条件変更の確認。


今後の連絡方法。


そして、岡田との間で合意した事項。


感情を挟まず、会議室で交わされた言葉を可能な限り正確に記載する。


岡田が机を叩いたことも、“新人の分際で”と口にしたことも、そのまま残した。


書き終えた議事録を、まず樹里へ送る。


数分後、樹里が陽菜の席へやってきた。


『確認しました』


『早いね』


『お前が変なことを書いてないか、最初に見た』


『信用ないなあ』


『以前のお前なら、“机を叩いて威嚇してきた”の次に、“やるなら表へ出ろと言ってやった”と書きかねない』


『今は書かないでしょ』


『言わなくなったとは断言しないんだな』


『言ってないんだからいいじゃん』


樹里は小さく息を吐いた。


手には、印刷した議事録がある。


数か所に印がつけられていた。


『事実関係に問題はありません。ただ、ここは“合意した”ではなく、“岡田様より了承を得た”に変えろ』


『何が違うの?』


『誰が、何を了承したのかを明確にするためだ。あと、ここの主語が抜けてる』


『本当だ』


『修正したら、もう1度私に回せ。そのあと黒澤さんへ提出する』


『はい』


陽菜は素直に頷き、修正へ取りかかった。


数年前なら、誰かを守るために必要だったのは腕力だった。


今は、主語の抜けた文章を直すことも戦いの続きになる。


そう考えると、少しだけおかしかった。


修正された議事録を確認した黒澤は、しばらく黙って内容を読んでいた。


最後まで目を通すと、陽菜と樹里を自分の席の前へ呼ぶ。


「よし。これで送れ」


『はい』


「先方へ送るときは、俺も共有に入れてくれ。返答がなければ、俺から確認する」


黒澤は議事録を机へ置いた。


「櫻井さん」


『はい』


「よく冷静に進めたな」


陽菜は少し驚いた。


黒澤から褒められると思っていなかった。


『ありがとうございます』


「ただし、机を叩かれた時点で危険を感じたなら、商談を中止していい。取引を続けることより、自分の安全を優先しろ」


『分かりました』


「日高さんもだ。部下に最後までやらせることと、無理をさせることは違うからな」


『はい』


「俺からは以上だ」


黒澤はそこで話を終えると、自分の仕事へ戻った。


陽菜と樹里は、並んで席へ戻る。


途中、陽菜が樹里へ小声で話しかけた。


『部長、怒らなかったね』


『怒られるようなことをした自覚があるのか』


『ない』


『ないなら言うな』


議事録は、その日のうちに岡田へ送られた。


翌日の午前中。


岡田から、内容に相違はないという返信が届いた。


文章は短かった。


だが、そこには陽菜が確認した事項について、今後対応するという言葉も添えられていた。


黒澤は返信を確認すると、陽菜の方へ顔を向けた。


「これで記録は残った。次に同じことがあれば、遠慮なく俺に報告しろ」


『はい』


「日高さんも、担当者だけで抱えるなよ」


『分かりました』


形式上は、それで話が終わった。


けれど、陽菜が本当に知りたいのは、岡田の返信ではなかった。


次に凛と柚希が岡田と顔を合わせたとき、どうなるのか。


それだけだった。


数日後。


東都ハウジングとの打ち合わせの日がやってきた。


今回は凛と柚希も参加する。


陽菜と樹里も同行した。


出発前、凛は何度も資料を確認していた。


柚希は普段通りに話しているが、いつもより少しだけ声が高い。


2人とも、緊張を隠そうとしている。


陽菜はあえて、大丈夫だとは言わなかった。


何が起こるか分からない状況で、無責任な言葉をかけたくなかった。


代わりに、凛の持っている資料を確認する。


『記録も修正履歴も揃ってます。大丈夫です』


「はい」


『柚希ちゃんも、無理に笑わなくていいですからね』


柚希が目を瞬かせた。


「そんなに顔へ出てる?」


『少しだけ』


「陽菜ちゃん、こういうときだけ妙に鋭いよね」


『こういうとき以外も鋭いですよ』


「自分で言うんだ」


柚希の表情が、少しだけ自然に緩んだ。


東都ハウジングの会議室へ入ると、岡田はすでに席へ着いていた。


以前のように椅子へ深くもたれず、資料を整えている。


陽菜たちを見ると、立ち上がった。


「本日はよろしくお願いします」


声の調子は、これまでと明らかに違った。


必要以上にへりくだっているわけではない。


ただ、最初から仕事相手へ向けるべき態度だった。


『こちらこそ、よろしくお願いいたします』


陽菜が答える。


凛と柚希も頭を下げ、席へ着こうとした。


その前に、岡田が口を開く。


「遠藤さん、早川さん」


2人の動きが止まる。


岡田は、少し言いづらそうに視線を落とした。


「今まで、仕事と関係のない言い方をしてしまったことがありました」


凛は黙って岡田を見ている。


柚希の顔からも、笑みが消えていた。


岡田は続けた。


「冗談のつもりだったとはいえ、配慮が足りませんでした。申し訳ありません」


深くはない。


長くもない。


それでも、言い訳だけで終わらず、岡田は頭を下げた。


凛が戸惑いながら答える。


「……今後、業務上の指示を明確にしていただければ、それで大丈夫です」


岡田が顔を上げた。


「分かりました」


柚希も岡田を見る。


以前なら、ここで笑って「気にしてません」と答えていただろう。


だが、今日は違った。


「私も、仕事で直すべきところがあれば、きちんと言ってください」


「はい」


「でも、笑顔とか見た目は、仕事の評価に入れないでほしいです」


柚希の声は、少し震えていた。


それでも、最後まで自分の言葉で伝えた。


岡田はわずかに目を伏せ、それから頷く。


「分かりました。今後、気をつけます」


陽菜は何も言わなかった。


凛と柚希が自分たちで答える時間を、黙って待っていた。


商談が始まる。


凛が資料の変更点を説明した。


岡田は途中で遮らず、最後まで聞く。


疑問があれば、どの箇所について確認したいのかを具体的に尋ねた。


凛も記録を示しながら、落ち着いて答える。


「この条件については、前回のご指示を反映しています。今回変更される場合は、理由と適用時期をご確認いただけますか」


「分かりました。今回は変更なしでお願いします」


「承知しました」


柚希が次回の日程を確認する。


岡田は余計な言葉を加えず、業務上の都合だけを答えた。


「来週の火曜日なら、午後から空いています」


「では、14時からでお願いいたします」


「お願いします」


打ち合わせは、それだけで進んだ。


皮肉もない。


容姿への言及もない。


後から条件を変え、担当者の判断へ責任を押しつけることもない。


本来なら、最初からこうあるべきだった。


それでも凛と柚希にとっては、大きな違いだった。


会議室を出たあと。


エレベーターを待ちながら、凛が胸元へ資料を抱いた。


「……今日は、ちゃんと仕事の話ができました」


その声には、安堵が混じっていた。


柚希も頷く。


「私、変に笑わなくて済んだ」


陽菜は2人を見る。


『よかったです』


「陽菜ちゃんが何か言ってくれたんだよね?」


柚希が尋ねる。


『話し合いをしただけですよ』


「絶対それだけじゃないでしょ」


『本当に、それだけです』


凛が陽菜へ頭を下げた。


「ありがとうございました」


『私だけがやったことじゃないですよ』


陽菜はすぐに答えた。


『凛ちゃんが指示を記録してたから、何が変わったのか説明できたんです。柚希ちゃんも、自分がどう感じてたか話してくれたから、問題にできました』


「でも、私たちだけだったら、言えませんでした」


『最初は、それでいいんじゃないですか』


凛が顔を上げる。


『今度また何かあったら、1人で我慢しないでください。私でも、日高先輩でも、部長でもいいから』


陽菜は明るく笑った。


『味方がいるって分かってれば、言えることも増えるでしょ』


エレベーターの扉が開く。


4人は並んで乗り込んだ。


営業部へ戻ると、柚希が自分の席へ着くより先に、滝本が近づいてきた。


「今日、東都ハウジングだったんですよね。どうでした?」


「普通だったよ」


柚希が答える。


「普通?」


「うん。普通に仕事の話をして、普通に終わった」


「それが1番じゃないですか」


滝本は何気なく言った。


「本当にね」


柚希は、自然に笑った。


誰かの機嫌を取るためでもない。


不快な言葉を受け流すためでもない。


いつもの柚希の笑顔だった。


少し離れた席から、その様子を見ていた陽菜が小さく息を吐く。


樹里は隣で書類を整理している。


『総長』


『会社で呼ぶな』


『小声じゃん』


『駄目なものは駄目だ』


『柚希ちゃん、普通に笑ってたね』


樹里の手が、わずかに止まる。


柚希の方を見ないまま答えた。


『そうだな』


『凛ちゃんも、自分から確認できてた』


『見てた』


陽菜は満足そうに自分の席へ戻った。


その日の帰り道。


陽菜は樹里の隣を歩きながら、何度も前日のことを振り返っていた。


『ねえ、総長』


『だから、その呼び方をするな』


『もう会社から離れてるからいいでしょ』


『で、何だ』


『本当に、やりすぎてなかったかな』


樹里が横目で陽菜を見る。


『まだ気にしてたのか』


『だって、岡田さん、最初はすごく怒ってたじゃん』


『怒らせないことが目的じゃねえだろ』


『そうだけど』


『お前は、必要なことを言った。記録も残した。向こうも了承した。それで終わりだ』


陽菜は少し黙った。


『総長にそう言われると、落ち着く』


『最初から言ってる』


『何回でも言ってほしいときもあるんだよ』


樹里は返事をしなかった。


だが、否定もしなかった。


20時を過ぎた頃。


2人はスナック〖Rose〗のカウンターに並んでいた。


美園が陽菜の前へグラスを置く。


『それで、取引先の件はどうなったの?』


『今日、凛ちゃんたちにも謝ってたよ』


『へえ。ちゃんと謝れる人だったんだ』


『まだ反省してるかどうかまでは分からないけどね。でも、今日は仕事の話だけで終わった』


『それなら、まずは十分じゃない?』


美園は煙草へ火をつけた。


『陽菜は何を言ったの』


『普通に話しただけだよ』


『この子も同じこと言ってる』


美園が樹里を見る。


『本当に普通だったの?』


『途中まではな』


『途中まで?』


陽菜が不満そうに樹里を見る。


『最後まで普通だったでしょ』


『机を叩かれたとき、殴る構えに入りかけてた』


『入ってないじゃん。右手がちょっと動いただけだよ』


『それを構えに入ったと言うんだ』


美園が楽しそうに笑う。


『昔なら、どうしてた?』


陽菜は少し考えた。


『机を蹴ってたかも』


『相手じゃなくて?』


『最初は机』


『最初は、ね』


『でも今回は何もしなかったでしょ』


陽菜はグラスを両手で包んだ。


『ちゃんと話した。記録を見せて、仕事に関係ないことは言わないでって』


美園は煙を細く吐きながら、陽菜を見る。


『成長したね』


『そうなのかな』


『そうだよ』


『でも、怒った理由は昔と変わってないよ。仲間が嫌な目に遭ってたから』


樹里がグラスを置いた。


『変える必要はねえだろ』


陽菜が樹里を見る。


『守りたいと思うことまで、変える必要はない』


樹里は前を向いたまま続けた。


『やり方が増えただけだ』


陽菜は、しばらく何も言わなかった。


美園が静かに笑う。


『それを成長したって言うんじゃない?』


『……そっか』


陽菜はグラスへ視線を落とした。


その口元に、小さな笑みが浮かぶ。


『じゃあ、私もちょっとは普通の会社員になれたのかな』


『まだ遠い』


樹里が即答する。


『そこは少しくらい認めてよ』


『会社で総長と呼ばなくなったら考える』


『それとこれとは別じゃん』


『別じゃねえ』


『別だよ』


美園は言い合う2人を眺めながら、灰皿へ煙草を置いた。


特攻服を脱いだからといって、過去が消えるわけではない。


怒りも、牙も、守りたいという衝動も、身体の奥には残っている。


けれど、それを誰かを傷つけるためではなく、誰かが安心して立つために使えるのなら。


それはもう、昔と同じ牙ではなかった。


カウンターには、3人の笑い声が静かに重なっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。