17話「牙」
数日後の夜。
スナック〖Rose〗のカウンターに、見慣れない男が座っていた。
年齢は40代ほど。
仕事帰りらしく、濃紺のスーツを着ている。
入店したときは、ごく普通の客だった。
美園の言葉には愛想よく答え、静かに酒を飲んでいた。
しかし、グラスを重ねるにつれて、少しずつ声が大きくなっていく。
「ママ、もう1杯」
『すみません。少し飲みすぎですよ』
「まだ平気だって。俺、酒強いから」
美園は男の前に、水の入ったグラスを置いた。
『次はお水にしましょう。お酒はもう終わりです』
「何だよ。せっかく気分よく飲んでるのに」
『気分のいいうちに帰った方が、明日も楽ですよ』
美園は穏やかに笑っている。
声にも、苛立ちは出ていない。
だが、新しい酒を作るつもりがないことだけは明確だった。
カウンターの端には、樹里と陽菜が座っていた。
2人とも仕事を終えたあとで店へ立ち寄り、美園と話していたところだった。
男が来店してからは、会話の邪魔をしないよう静かに飲んでいる。
陽菜は何度か男の様子を見ていた。
声の大きさ。
美園へ向ける視線。
カウンターへ乗せた腕の動き。
どれも、少しずつ不快な方向へ変わっている。
『美園さん、あの人……』
陽菜が小声で話しかける。
美園は男から見えない位置で、軽く手を振った。
まだ大丈夫。
その合図だった。
樹里も何も言わない。
ただ、持っていたグラスをカウンターへ置いた。
いつでも立ち上がれるように、身体の向きをわずかに変える。
男は水のグラスを手に取らず、美園を見上げた。
「ママ、この店1人でやってんの?」
『はい』
「大変だろ。夜に女1人なんて、寂しいんじゃないの?」
『慣れていますから』
「強がらなくていいって」
男は笑いながら、カウンターへ身を乗り出した。
「彼氏とかいないの?」
『お客様には関係のないことですよ』
「いいじゃん、教えてくれても。俺が相手してやろうか?」
『結構です』
美園の返事は短かった。
男が、つまらなそうに口を尖らせる。
「客に冷たくない?」
『お酒を出すのが仕事ですから。それ以上は、商品に含まれていません』
「冗談だよ。真面目だな」
男は笑った。
自分だけが楽しんでいる笑いだった。
美園は時計へ視線を向ける。
『そろそろ閉店です。お会計をお願いします』
「まだいいだろ」
『今日はここまでです』
「俺しか客いないじゃん」
『だからといって、閉店時間は変わりません』
「そっちの2人はまだ飲んでるだろ」
男が、樹里と陽菜へ顎を向ける。
美園の目が、わずかに細くなる。
『あちらは、もう会計を済ませています』
実際には、まだだった。
だが樹里も陽菜も訂正しない。
美園が店を閉めようとしていることは分かっていた。
男は舌打ちをして、ようやく鞄へ手を伸ばした。
それで終わるかと思われた。
だが財布を出す代わりに、男は立ち上がった。
足元が、少しふらついている。
「ママさ」
『座ってください。危ないですよ』
「最後に、ちょっとくらいいいだろ」
男がカウンター越しに手を伸ばした。
美園が身を引くより早く、その手がドレスの胸元へ触れる。
次の瞬間。
美園は男の手首を掴んでいた。
関節の向きに沿って手を返し、男の腕をカウンターへ押さえつける。
派手な音はしなかった。
男が何をされたのか理解するより先に、身体だけが前へ崩れる。
「いっ……!」
樹里と陽菜が同時に立ち上がる。
けれど美園は、2人を見ないまま空いている手を上げた。
来るな。
短い合図だった。
2人は足を止める。
見物しているわけではない。
美園が自分で対処すると示したから、その意思を尊重した。
それでも樹里は男から目を離さず、陽菜はスマートフォンへ手を添えている。
美園の笑顔は消えていた。
『お客様』
低く、静かな声だった。
男が腕を引こうとする。
だが、美園の指は外れない。
「何するんだよ! 離せ!」
『今、私の身体へ触れましたね』
「ちょっと触っただけだろ!」
美園の目から、温度が消えた。
『“ちょっと”なら、許されると思っていますか』
「冗談だよ! そんな本気になるなって!」
『私は、笑っていません』
男の顔から、酔いに任せた勢いが少しずつ消えていく。
美園は、カウンターの上にある小さな防犯カメラを視線で示した。
『今の行為は、映像に残っています』
男がカメラを見る。
『このまま警察へ連絡することもできます』
「警察って、大げさだろ」
『私の身体へ勝手に触れたのは、あなたです。大げさかどうかを決めるのも、あなたではありません』
美園の声は、どこまでも落ち着いていた。
かつて先頭に立っていた頃も、彼女は怒鳴ることが少なかった。
声を荒らげる必要がなかった。
美園が本気で怒ったとき、その場にいた者は声ではなく目で理解した。
これ以上、踏み込んではならない。
その境界を越えれば、次はない。
男も、ようやくそれを理解したらしい。
「……悪かった」
『聞こえません』
「悪かったって言ってるだろ」
『謝る相手へ向ける態度ではありませんね』
男の額に、汗が浮かんでいる。
酔いだけが理由ではなかった。
「……すみませんでした」
美園はすぐには手を離さなかった。
男の表情を見たあと、ゆっくりと指を解く。
男は解放された腕を押さえ、後ろへ下がった。
美園は伝票をカウンターへ置く。
『お会計をお願いします』
男は何も言わず、財布を取り出した。
震える指で紙幣を置く。
美園は金額を確認し、釣り銭を返した。
『今後、この店への入店はお断りします』
「……分かったよ」
『店の前で待つ、連絡先を調べるなどの行為があった場合も、警察へ相談します』
「しねえよ」
『そうしてください』
美園は入口を示した。
『お帰りください』
男は樹里と陽菜の方を見た。
2人とも何も言わない。
ただ、その視線を受けた男は、すぐに顔を逸らした。
逃げるように店を出ていく。
扉が閉まった。
ベルの音が、静かな店内へ虚しく響く。
樹里はすぐに入口へ向かい、鍵をかけた。
陽菜は外の様子を確認してから、美園のそばへ戻る。
『美園さん、大丈夫?』
美園は、男に触れられた胸元を手で払った。
『大丈夫じゃない。気持ち悪い』
陽菜の顔から、完全に笑みが消える。
『追いかけようか』
『やめて』
『でも——』
『陽菜』
美園が名前を呼ぶ。
『もう終わった。戻ってきて何かしたら、そのときは警察へ連絡する』
『……分かった』
陽菜は納得していない顔をしていた。
それでも、美園の決めたことに従った。
樹里が防犯カメラの機器を確認する。
『映像は保存しておけ』
『うん』
『警察へ行くなら、ついていく』
『ありがとう。でも、今日はいい』
美園は自分の腕を見た。
男の手首を押さえた感触が、まだ指に残っているようだった。
『今すぐ事情を話す気力がない』
『分かった』
樹里は、それ以上勧めなかった。
通報するかどうかを決めるのは、美園だ。
強い人間だからといって、傷つかないわけではない。
自分で相手を追い出せたからといって、何も感じていないわけでもない。
陽菜がカウンターの内側へ回る。
『何か手伝うよ』
『じゃあ、グラスを片づけて』
『うん』
樹里も上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
『私は床を見る』
『総長まで手伝うの?』
『もう閉店だろ』
『ありがとう』
3人は、黙って店を片づけ始めた。
男が使ったグラスを、美園はほかのものと分けた。
少し迷ったあと、ゴミ箱へ捨てる。
割れる音が店内へ響いた。
陽菜は何も言わなかった。
樹里も見ないふりをした。
片づけが終わる頃には、美園の表情も少しだけ戻っていた。
カウンターへ座った2人の前に、水を置く。
自分の分も用意し、ゆっくりと口をつけた。
陽菜が美園の顔を覗き込む。
『本当に、もう大丈夫?』
『まだ気持ち悪いけど、大丈夫』
『相変わらず強いね、美園さん』
『強いんじゃないよ』
美園はグラスを置いた。
『ここは私の店だから、私が線を引いただけ』
樹里が静かに口を開く。
『牙は衰えてなかったな』
『褒めてる?』
『事実を言っただけだ』
『総長なりに心配してるんだよ』
陽菜が横から言う。
『分かりにくいけど』
『余計なこと言うな』
美園は、ようやく小さく笑った。
『牙なんて、使わないで済むなら、その方がいいんだけどね』
『でも、なくす必要はないだろ』
樹里が答える。
『噛みつかなくても、見せれば止まる相手はいる』
『今日の陽菜みたいなこと言うね』
『一緒にするな』
『何でだよ』
陽菜が不満そうに言い、樹里が眉を寄せる。
いつもの空気が、少しずつ戻ってくる。
陽菜は水を飲みながら、美園を見た。
『ねえ、美園さん』
『何?』
『私が美園さんの胸を触ったら、やっぱり殺される?』
樹里が深いため息をついた。
美園は笑顔のまま、陽菜を見る。
『聞いてからでも殺すよ♡』
『聞いても駄目なんだ』
『当たり前でしょ』
『私は?』
樹里が何気なく尋ねる。
美園と陽菜が、同時に樹里を見た。
『総長、触りたいの?』
『違う。今のは例として聞いただけだ』
『何の例?』
『うるせえ』
美園が声を上げて笑った。
その笑いにつられ、陽菜も笑う。
樹里だけが不機嫌そうにグラスを持ち上げた。
笑いは、起きたことを軽くするためのものではなかった。
境界を踏み越えられた不快さも、恐怖も、なかったことにはならない。
それでも、自分の店を取り戻した美園が、自分の意思で笑った。
だから2人も、ようやく笑えた。
美園の牙は、誰かを傷つけるために残っているのではない。
ここから先へ入るなと、自分の境界を示すためにある。
その夜、牙は誰にも噛みつかなかった。
それでも、守るべきものは確かに守られていた。




