↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/162

17話「牙」

数日後の夜。


スナック〖Rose〗のカウンターに、見慣れない男が座っていた。


年齢は40代ほど。


仕事帰りらしく、濃紺のスーツを着ている。


入店したときは、ごく普通の客だった。


美園の言葉には愛想よく答え、静かに酒を飲んでいた。


しかし、グラスを重ねるにつれて、少しずつ声が大きくなっていく。


「ママ、もう1杯」


『すみません。少し飲みすぎですよ』


「まだ平気だって。俺、酒強いから」


美園は男の前に、水の入ったグラスを置いた。


『次はお水にしましょう。お酒はもう終わりです』


「何だよ。せっかく気分よく飲んでるのに」


『気分のいいうちに帰った方が、明日も楽ですよ』


美園は穏やかに笑っている。


声にも、苛立ちは出ていない。


だが、新しい酒を作るつもりがないことだけは明確だった。


カウンターの端には、樹里と陽菜が座っていた。


2人とも仕事を終えたあとで店へ立ち寄り、美園と話していたところだった。


男が来店してからは、会話の邪魔をしないよう静かに飲んでいる。


陽菜は何度か男の様子を見ていた。


声の大きさ。


美園へ向ける視線。


カウンターへ乗せた腕の動き。


どれも、少しずつ不快な方向へ変わっている。


『美園さん、あの人……』


陽菜が小声で話しかける。


美園は男から見えない位置で、軽く手を振った。


まだ大丈夫。


その合図だった。


樹里も何も言わない。


ただ、持っていたグラスをカウンターへ置いた。


いつでも立ち上がれるように、身体の向きをわずかに変える。


男は水のグラスを手に取らず、美園を見上げた。


「ママ、この店1人でやってんの?」


『はい』


「大変だろ。夜に女1人なんて、寂しいんじゃないの?」


『慣れていますから』


「強がらなくていいって」


男は笑いながら、カウンターへ身を乗り出した。


「彼氏とかいないの?」


『お客様には関係のないことですよ』


「いいじゃん、教えてくれても。俺が相手してやろうか?」


『結構です』


美園の返事は短かった。


男が、つまらなそうに口を尖らせる。


「客に冷たくない?」


『お酒を出すのが仕事ですから。それ以上は、商品に含まれていません』


「冗談だよ。真面目だな」


男は笑った。


自分だけが楽しんでいる笑いだった。


美園は時計へ視線を向ける。


『そろそろ閉店です。お会計をお願いします』


「まだいいだろ」


『今日はここまでです』


「俺しか客いないじゃん」


『だからといって、閉店時間は変わりません』


「そっちの2人はまだ飲んでるだろ」


男が、樹里と陽菜へ顎を向ける。


美園の目が、わずかに細くなる。


『あちらは、もう会計を済ませています』


実際には、まだだった。


だが樹里も陽菜も訂正しない。


美園が店を閉めようとしていることは分かっていた。


男は舌打ちをして、ようやく鞄へ手を伸ばした。


それで終わるかと思われた。


だが財布を出す代わりに、男は立ち上がった。


足元が、少しふらついている。


「ママさ」


『座ってください。危ないですよ』


「最後に、ちょっとくらいいいだろ」


男がカウンター越しに手を伸ばした。


美園が身を引くより早く、その手がドレスの胸元へ触れる。


次の瞬間。


美園は男の手首を掴んでいた。


関節の向きに沿って手を返し、男の腕をカウンターへ押さえつける。


派手な音はしなかった。


男が何をされたのか理解するより先に、身体だけが前へ崩れる。


「いっ……!」


樹里と陽菜が同時に立ち上がる。


けれど美園は、2人を見ないまま空いている手を上げた。


来るな。


短い合図だった。


2人は足を止める。


見物しているわけではない。


美園が自分で対処すると示したから、その意思を尊重した。


それでも樹里は男から目を離さず、陽菜はスマートフォンへ手を添えている。


美園の笑顔は消えていた。


『お客様』


低く、静かな声だった。


男が腕を引こうとする。


だが、美園の指は外れない。


「何するんだよ! 離せ!」


『今、私の身体へ触れましたね』


「ちょっと触っただけだろ!」


美園の目から、温度が消えた。


『“ちょっと”なら、許されると思っていますか』


「冗談だよ! そんな本気になるなって!」


『私は、笑っていません』


男の顔から、酔いに任せた勢いが少しずつ消えていく。


美園は、カウンターの上にある小さな防犯カメラを視線で示した。


『今の行為は、映像に残っています』


男がカメラを見る。


『このまま警察へ連絡することもできます』


「警察って、大げさだろ」


『私の身体へ勝手に触れたのは、あなたです。大げさかどうかを決めるのも、あなたではありません』


美園の声は、どこまでも落ち着いていた。


かつて先頭に立っていた頃も、彼女は怒鳴ることが少なかった。


声を荒らげる必要がなかった。


美園が本気で怒ったとき、その場にいた者は声ではなく目で理解した。


これ以上、踏み込んではならない。


その境界を越えれば、次はない。


男も、ようやくそれを理解したらしい。


「……悪かった」


『聞こえません』


「悪かったって言ってるだろ」


『謝る相手へ向ける態度ではありませんね』


男の額に、汗が浮かんでいる。


酔いだけが理由ではなかった。


「……すみませんでした」


美園はすぐには手を離さなかった。


男の表情を見たあと、ゆっくりと指を解く。


男は解放された腕を押さえ、後ろへ下がった。


美園は伝票をカウンターへ置く。


『お会計をお願いします』


男は何も言わず、財布を取り出した。


震える指で紙幣を置く。


美園は金額を確認し、釣り銭を返した。


『今後、この店への入店はお断りします』


「……分かったよ」


『店の前で待つ、連絡先を調べるなどの行為があった場合も、警察へ相談します』


「しねえよ」


『そうしてください』


美園は入口を示した。


『お帰りください』


男は樹里と陽菜の方を見た。


2人とも何も言わない。


ただ、その視線を受けた男は、すぐに顔を逸らした。


逃げるように店を出ていく。


扉が閉まった。


ベルの音が、静かな店内へ虚しく響く。


樹里はすぐに入口へ向かい、鍵をかけた。


陽菜は外の様子を確認してから、美園のそばへ戻る。


『美園さん、大丈夫?』


美園は、男に触れられた胸元を手で払った。


『大丈夫じゃない。気持ち悪い』


陽菜の顔から、完全に笑みが消える。


『追いかけようか』


『やめて』


『でも——』


『陽菜』


美園が名前を呼ぶ。


『もう終わった。戻ってきて何かしたら、そのときは警察へ連絡する』


『……分かった』


陽菜は納得していない顔をしていた。


それでも、美園の決めたことに従った。


樹里が防犯カメラの機器を確認する。


『映像は保存しておけ』


『うん』


『警察へ行くなら、ついていく』


『ありがとう。でも、今日はいい』


美園は自分の腕を見た。


男の手首を押さえた感触が、まだ指に残っているようだった。


『今すぐ事情を話す気力がない』


『分かった』


樹里は、それ以上勧めなかった。


通報するかどうかを決めるのは、美園だ。


強い人間だからといって、傷つかないわけではない。


自分で相手を追い出せたからといって、何も感じていないわけでもない。


陽菜がカウンターの内側へ回る。


『何か手伝うよ』


『じゃあ、グラスを片づけて』


『うん』


樹里も上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。


『私は床を見る』


『総長まで手伝うの?』


『もう閉店だろ』


『ありがとう』


3人は、黙って店を片づけ始めた。


男が使ったグラスを、美園はほかのものと分けた。


少し迷ったあと、ゴミ箱へ捨てる。


割れる音が店内へ響いた。


陽菜は何も言わなかった。


樹里も見ないふりをした。


片づけが終わる頃には、美園の表情も少しだけ戻っていた。


カウンターへ座った2人の前に、水を置く。


自分の分も用意し、ゆっくりと口をつけた。


陽菜が美園の顔を覗き込む。


『本当に、もう大丈夫?』


『まだ気持ち悪いけど、大丈夫』


『相変わらず強いね、美園さん』


『強いんじゃないよ』


美園はグラスを置いた。


『ここは私の店だから、私が線を引いただけ』


樹里が静かに口を開く。


『牙は衰えてなかったな』


『褒めてる?』


『事実を言っただけだ』


『総長なりに心配してるんだよ』


陽菜が横から言う。


『分かりにくいけど』


『余計なこと言うな』


美園は、ようやく小さく笑った。


『牙なんて、使わないで済むなら、その方がいいんだけどね』


『でも、なくす必要はないだろ』


樹里が答える。


『噛みつかなくても、見せれば止まる相手はいる』


『今日の陽菜みたいなこと言うね』


『一緒にするな』


『何でだよ』


陽菜が不満そうに言い、樹里が眉を寄せる。


いつもの空気が、少しずつ戻ってくる。


陽菜は水を飲みながら、美園を見た。


『ねえ、美園さん』


『何?』


『私が美園さんの胸を触ったら、やっぱり殺される?』


樹里が深いため息をついた。


美園は笑顔のまま、陽菜を見る。


『聞いてからでも殺すよ♡』


『聞いても駄目なんだ』


『当たり前でしょ』


『私は?』


樹里が何気なく尋ねる。


美園と陽菜が、同時に樹里を見た。


『総長、触りたいの?』


『違う。今のは例として聞いただけだ』


『何の例?』


『うるせえ』


美園が声を上げて笑った。


その笑いにつられ、陽菜も笑う。


樹里だけが不機嫌そうにグラスを持ち上げた。


笑いは、起きたことを軽くするためのものではなかった。


境界を踏み越えられた不快さも、恐怖も、なかったことにはならない。


それでも、自分の店を取り戻した美園が、自分の意思で笑った。


だから2人も、ようやく笑えた。


美園の牙は、誰かを傷つけるために残っているのではない。


ここから先へ入るなと、自分の境界を示すためにある。


その夜、牙は誰にも噛みつかなかった。


それでも、守るべきものは確かに守られていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。