18話「欠勤」
高村は、ほとんど仕事を休まない人だった。
営業部へ配属されてから、急な欠勤をしたことはない。
有給休暇も必要最低限しか使わず、体調が多少悪くても、周囲に悟られないよう仕事をこなしていた。
真面目で、仕事が丁寧。
誰に対しても穏やかで、自分の感情を表へ出すことも少ない。
樹里も、高村の仕事ぶりを信頼していた。
その高村が、3日続けて会社を休んだ。
黒澤からは、家庭の事情だとだけ伝えられていた。
個人的なことへ無理に踏み込むつもりはない。
樹里は、そう思っていた。
しかし、4日目。
出勤してきた高村の顔を見た瞬間、その考えが変わった。
目の下には薄い影がある。
髪も、普段ほど整っていない。
同僚から体調を尋ねられると、「もう大丈夫です」と笑って答える。
けれど、その笑顔には力がなかった。
午前中だけで、高村は何度も同じ書類を見直していた。
電話が鳴るたびに、わずかに肩を揺らす。
昼休みになっても席を立たず、スマートフォンの画面を確認している。
誰かからの連絡を待っているようにも、来ることを恐れているようにも見えた。
樹里は自分の席から、その様子を見ていた。
(大丈夫な顔じゃないな)
大丈夫だと言う人間が、本当に大丈夫とは限らない。
むしろ、何度も口にする人間ほど、限界に近いことがある。
それを樹里は知っていた。
昼休みが終わる少し前。
樹里は高村の席へ近づいた。
『高村さん』
高村が顔を上げる。
「日高さん。どうしました?」
『少し、お時間よろしいですか』
「仕事のことですか?」
『いいえ』
高村の表情が、わずかに硬くなる。
樹里は周囲へ聞こえない声で続けた。
『人のいないところで、お話しできますか』
「……はい」
2人は、空いている小さな打ち合わせ室へ移動した。
樹里は扉を閉めたが、高村の向かいには座らなかった。
追及されているように感じさせないため、斜めの位置に椅子を置く。
『体調は大丈夫ですか』
「はい。ご心配をおかけして、すみません」
『謝らなくていいです』
樹里は静かに答えた。
『ただ、顔色がよくありません。今日は早退した方がいいのではないですか』
「大丈夫です。休んだ分の仕事もありますから」
『休んだ分は、ほかの人間で対応できています』
「でも——」
『高村さんが倒れたら、もっと長く休むことになります』
高村は黙った。
樹里はすぐに事情を尋ねなかった。
話したくないことを、無理に話させるつもりはない。
『家庭の事情だと伺っています。詳しいことを話す必要はありません』
「……はい」
『ただ、今後もお休みや勤務時間の調整が必要なら、黒澤さんへ相談できます。私から伝えることも可能です』
「そこまでしていただかなくても」
『必要かどうかを確認しているだけです』
高村は膝の上で両手を組んだ。
視線が、指先へ落ちる。
樹里は言葉を続けず、待った。
打ち合わせ室の外から、誰かの足音が聞こえる。
やがて遠ざかり、また静かになった。
「……息子のことなんです」
高村が、小さく口を開いた。
樹里は何も挟まず、次の言葉を待つ。
「高校で、いじめられているみたいで」
その声が、わずかに震えていた。
「最初は、軽いからかいだと思っていました。本人も、大丈夫だと言っていたので」
『はい』
「でも、だんだん学校へ行く時間が遅くなって。朝になると、腹が痛い、頭が痛いと言うようになりました」
高村は組んだ指へ力を込める。
「病院にも連れていきました。でも、身体には大きな異常がなくて」
樹里の表情が、静かに変わる。
「3日前、制服に着替えたあと、玄関から動けなくなりました」
高村はそこで言葉を切った。
息を整える。
「学校へ行きたくないって、泣いたんです」
樹里は膝の上に置いていた手を、ゆっくりと握った。
『それで、お休みを』
「はい。1人にしておけなくて」
『今、息子さんはどこにいますか』
「今日は、家族が一緒にいます」
『身体に怪我はありませんか。直接、危険なことをされた形跡は』
「目立つ怪我はありません」
高村は首を横に振った。
「だから、学校も動いてくれないんです」
『学校には、すでに相談しているんですね』
「担任には何度も」
高村は鞄から手帳を取り出した。
開かれたページには、日付と短い文章が並んでいる。
息子から聞いたこと。
学校へ連絡した日。
担任から返された言葉。
高村自身が、忘れないように書き留めてきたものだった。
「物を隠される。話しかけても無視される。クラスのグループから外される。通りすがりに、聞こえるように悪口を言われる」
『……はい』
「教科書がなくなったこともあります。でも、次の日には別の場所から見つかる。誰がやったかは、誰も見ていない」
高村の指が、手帳の端を強く掴む。
「担任は、“証拠がない”、“もう少し様子を見ましょう”と言うだけで」
『学年主任や、管理職とは話しましたか』
「担任から報告すると言われました。でも、その後も何も変わりませんでした」
『学校とのやり取りは、電話ですか』
「ほとんど電話です」
『メールや文書は残っていますか』
「最初に相談したときのメールだけなら」
樹里は頷いた。
先日の岡田との件が、頭をよぎる。
言った、言わない。
証拠がない。
大した意味ではなかった。
問題から逃げる人間は、曖昧さの中へ隠れようとする。
だが、これは会社同士の取引ではない。
傷ついているのは、まだ高校生の子供だ。
だからこそ、怒りだけで動くわけにはいかなかった。
『息子さんは、学校へ相談することを知っていますか』
「はい。ただ……」
高村は目を伏せた。
「大ごとにしないでほしいと言っています。余計にひどくなるからって」
『そうですか』
樹里はすぐに「大丈夫だ」とは言わなかった。
実際、学校が対応を誤れば、状況が悪化することもある。
息子の不安を無視して、大人だけで話を進めるべきではない。
『息子さんが怖がっていることも含めて、学校へ伝える必要があります』
「でも、何を言っても証拠がないと」
『証拠が揃うまで、何もしなくていいという話ではありません』
樹里の声が、少しだけ低くなる。
『学校には、生徒が安心して学べる状態を作る責任があります。事実の確認と、息子さんの安全を守ることは、同時に進められるはずです』
高村は顔を上げた。
「日高さん、こういうことに詳しいんですか?」
『専門家ではありません』
樹里は、はっきりと答えた。
『私だけで解決できるとも思っていません』
高村の表情に、わずかな落胆が浮かぶ。
樹里は続けた。
『ただ、状況を整理する手伝いはできます』
「整理、ですか」
『いつ、何が起きたか。息子さんが誰に何を話したか。学校へいつ相談し、どのような回答があったか』
樹里は高村の手帳を見る。
『すでに、かなり記録されています。これを時系列にまとめて、次は電話ではなく文書で面談を申し入れた方がいいと思います』
「文書で……」
『担任だけではなく、学年主任や管理職にも同席してもらう。その場で、学校が何を確認し、息子さんの安全のために何をするのか、回答を求めます』
「そこまでしたら、息子が学校にいづらくなりませんか」
『その可能性が絶対にないとは言えません』
樹里は、ごまかさなかった。
『だから、息子さんの希望も聞きながら進める必要があります。今すぐ登校させることが最優先でもありません』
高村が目を見開く。
『休むことは、逃げることではありません。安心できない場所から距離を取るのは、自分を守るために必要なことです』
「でも、休みが増えたら、勉強も遅れますし」
『遅れは、あとから取り戻せます』
樹里は高村をまっすぐに見た。
『壊れてからでは、取り戻すのにもっと時間がかかります』
高村の唇が、小さく震えた。
これまで、何度も自分へ言い聞かせてきたのだろう。
学校へ行かせなければならない。
休ませたら、そのまま行けなくなるかもしれない。
親として正しいことをしなければならない。
その重さを、1人で抱えてきた。
「私が、もっと早く気づいていれば」
高村の声がかすれる。
「最初に大丈夫と言われたとき、信じてしまったんです。もっとちゃんと聞いていれば、こんなことには」
『高村さん』
樹里が、静かに名前を呼ぶ。
『息子さんは、最後にはあなたへ話したんですよね』
「……はい」
『助けを求める相手として、あなたを選んだということです』
高村が顔を上げる。
『気づくのが遅かったのではありません。息子さんが話せるまで、そばにいたんです』
「日高さん……」
『今からできることを考えましょう』
高村は目元を押さえた。
泣くことを堪えるように、深く息を吸う。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……お願いします」
『私も、できる範囲でお手伝いします』
「でも、日高さんにそこまでしてもらう理由が」
『同じ部署の人が困っています。それでは理由になりませんか』
樹里にとっては、それで十分だった。
高村はしばらく何も言えず、やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
『まず、黒澤さんへ勤務の調整を相談しましょう』
「息子のことも話すんですか?」
『必要以上には伝えません。家庭の事情で、しばらく勤務の調整が必要だということだけです』
樹里は言葉を区切る。
『詳しい事情を伝えるかどうかは、高村さんが決めてください』
「……はい」
『それから、学校へ提出するための記録をまとめます。息子さんの名前や個人情報がありますので、原本は高村さんが管理してください』
「分かりました」
『もし高村さんが望むなら、学校との面談に同行することも考えます。ただ、私が勝手に前へ出ることはしません』
「同行してもらえるんですか?」
『学校側の許可と、息子さんの了承が得られれば』
樹里は迷いなく答えた。
『ただし、話をする中心は高村さんです。私は、必要なときに支える立場です』
高村は、自分の手帳へ視線を落とした。
先ほどまで強く握り締めていた指が、少しずつ緩んでいく。
「息子とも、もう1度話してみます」
『はい』
「学校へ行くかどうかではなく、これからどうしたいかを」
『それがいいと思います』
高村は手帳を閉じた。
打ち合わせ室を出る前に、樹里が声をかける。
『高村さん』
「はい」
『今日は、早退してください』
「でも、仕事が」
『黒澤さんには私からも話します。残っている分は、こちらで振り分けます』
「皆さんに迷惑をかけてしまいます」
『困ったときに仕事を分けるのは、迷惑とは言いません』
樹里は扉へ手をかけた。
『今は、息子さんのそばにいてあげてください』
高村はしばらく黙ったあと、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
高村が早退してから、樹里は黒澤へ勤務調整の相談をした。
事情の詳細には触れない。
家庭の問題で、しばらく急な休みや早退が必要になる可能性がある。
それだけを伝えた。
黒澤は理由を問い詰めなかった。
「分かった。高村さんの仕事は、しばらく全員で分けよう」
『ありがとうございます』
「日高さんも抱え込むなよ。振り分けは俺がやる」
『はい』
自分で言ったばかりのことを、黒澤から返される。
樹里は少しだけ言葉に詰まり、それから頷いた。
席へ戻る途中。
陽菜が、樹里の顔を見て立ち上がった。
『日高先輩』
会社の中だから、呼び方は正しい。
だが、その目は日高先輩ではなく、かつての総長を見ていた。
『何かあったんですか』
『今は仕事に戻れ』
『でも——』
『あとで話す』
樹里は短く答えた。
陽菜は樹里の表情を見つめ、それ以上は聞かなかった。
『分かりました』
素直に席へ戻る。
樹里は自分のデスクへ着き、高村から共有された記録の写しを開いた。
物を隠された日。
学校へ行けなくなった朝。
担任へ相談した日時。
“証拠がない”。
“様子を見ましょう”。
同じ言葉が、何度も並んでいる。
樹里は怒りのまま立ち上がらなかった。
まず事実を整理し、息子の意思を確かめ、保護者と学校を正式な話し合いの場へ着かせる。
それが、今の自分にできることだった。
けれど、その目の奥には、静かな怒りが灯っていた。
傷ついて助けを求めた子供へ、大人が“様子を見ろ”と言い続ける。
樹里には、それを放っておくことができなかった。




