19話「相談」
夜。
スナック〖Rose〗のカウンターに、3人分のグラスが並んでいた。
店の入口には、すでに営業終了の札が掛けられている。
樹里は高村から預かった記録の写しを、カウンターの上へ置いた。
陽菜と美園は、向かい側に並べられた資料へ目を通している。
息子が被害を訴えた日。
物を隠された日。
学校へ行けなくなった朝。
高村が担任へ相談した日時。
そのたびに返された、証拠がない、もう少し様子を見たいという回答。
美園は煙草を指に挟んでいたが、火はつけていなかった。
陽菜の手は、資料の上で止まっている。
話を聞き終えたあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは、陽菜だった。
『……放っておけないね』
『ああ』
樹里が短く答える。
陽菜は、もう1度資料へ目を落とした。
『物を隠す。無視する。聞こえるように悪口を言う。証拠が残りにくいことばかり選んでる』
『偶然だったと言い逃れできるようにしてるんだろうね』
美園が静かに言った。
『誰か1人がやったと分からないように、何人かで役割を分けてる可能性もある』
『最低』
陽菜の声が低くなる。
『自分たちは遊びのつもりで、相手が学校へ行けなくなっても知らないふりするんでしょ』
『陽菜』
樹里が名前を呼ぶ。
『何もしてないじゃん』
『その顔をやめろ』
『どんな顔?』
『今から相手を捜しに行きそうな顔だ』
陽菜は不満そうに口を閉じた。
美園が資料を置く。
『息子さんは、何て言ってるの?』
『学校との面談には同意した』
樹里は、高村と話した内容を2人へ伝える。
帰宅した高村は、その日の夜に息子と話した。
無理に登校させるつもりはないこと。
本人の許可なく、クラス全体へ事情を公表しないこと。
加害生徒と直接会わせる場合は、必ず事前に本人の意思を確認すること。
その3点を約束したうえで、改めて希望を聞いた。
『息子さんは、いじめをやめさせたい。でも、自分が訴えたと知られるのが怖いと言ってる』
『当然だよ』
陽菜がすぐに答える。
『学校が中途半端に注意したら、見えないところで余計にやられるかもしれないもん』
『本人も、それを恐れてる』
美園は煙草を灰皿の縁で転がした。
『学校へ行きたい気持ちはあるの?』
『ある。ただ、今の教室には入れないそうだ』
『なら、まずは学校へ戻すことじゃないね』
美園が言う。
陽菜が顔を上げる。
『戻すことじゃない?』
『安心できる場所を作ることが先。教室へ戻すのは、そのあとでしょ』
樹里も頷いた。
『私もそう考えてる』
『じゃあ、学校には何を求めるの?』
陽菜の問いに、樹里は資料の最後へ挟んでいた紙を取り出した。
そこには、学校へ確認する項目が整理されている。
『まず、本人が安心して登校できる方法を用意してもらう。別室での登校、保健室や相談室の利用、登下校の時間をずらすことも含めてだ』
美園が紙へ目を通す。
『次に、学校側の調査ね』
『ああ。担任だけに任せない。管理職、学年主任、必要ならスクールカウンセラーにも共有してもらう』
『加害生徒を呼び出して、白状させる?』
陽菜が尋ねる。
『それは学校が判断することだ』
『でも、否定されたら終わりじゃない?』
『否定したから調査終了では困る。関係する生徒から個別に話を聞き、教室や共有スペースで何が起きていたかを確認してもらう』
樹里は資料を指で押さえた。
『高村さんの息子と、疑われている生徒を、いきなり同じ部屋へ入れることも認めない』
『目の前で謝らせれば解決、みたいにされるのを防ぐため?』
『それもある』
美園が静かに続けた。
『人数が多い方と同じ部屋に入れられたら、怖くて何も言えなくなる。あとで仕返しされるかもしれないと思えば、なかったことにしてくれと言うかもしれない』
陽菜は腕を組んだ。
『でも、その子たちは自分たちだけで話を合わせるよ』
『だから、別々に話を聞かせる』
樹里が答える。
『誰が、いつ、どこにいたのか。何を見たのか。全員へ同じ質問をすれば、話の違いは出る』
『総長、岡田さんの件から完全に記録魔になったね』
『元からだ』
『昔はこんなに細かくなかったじゃん』
『昔と一緒にするな』
『でも、理屈は分かった』
陽菜は資料へ視線を戻した。
『証拠がないなら、証拠がないまま終わらせるんじゃなくて、調べさせるんだね』
『そういうことだ』
美園が煙草を灰皿へ置いた。
結局、最後まで火はつけなかった。
『それで、私たちにこの話をした理由は?』
樹里は2人を見る。
『高村さんと息子さんからは、信頼できる人間へ相談内容を共有する許可をもらってる』
『私たちのことも話したの?』
『昔のことは話してねえ』
『当たり前でしょ』
陽菜が呆れたように言う。
樹里は美園へ視線を向けた。
『学校との面談には、高村さんも出席する。ただ、高村さんは自分だけでは、学校に押し切られるかもしれないと不安に感じてる』
『それで、付き添い?』
『ああ』
樹里は短く頷いた。
『学校側にも、保護者の支援者が同席することは伝えてある』
『何人まで?』
『3人とも同席して構わないと回答が来た』
陽菜の目が、わずかに輝く。
樹里はそれを見逃さなかった。
『楽しそうな顔をするな』
『してないよ』
『してる』
『だって、久しぶりに——』
陽菜は途中で言葉を止めた。
資料に書かれた被害の記録を見る。
浮かびかけた笑みが消えた。
『……違う。子供が傷ついてることを、楽しんでるわけじゃないよ』
『分かってる』
樹里が答える。
陽菜は少し驚いたように顔を上げた。
『ただ、総長と美園さんと、また同じ方向を向いて動けるのが……ちょっと嬉しいだけ』
美園が、ほんの少し笑った。
『分かるよ』
『美園まで、浮かれるな』
『浮かれてないって』
『今、絶対に同意しただろ』
『陽菜の気持ちが分かると言っただけ』
美園はカウンターへ頬杖をつく。
『久しぶりに、3人で大暴れしますかあ』
陽菜の顔が、再び明るくなった。
『やる?』
『やらない』
『どっちなの』
『言ってみたかっただけ』
『期待させないでよ』
樹里が深いため息をつく。
『最初に言っておく』
2人が樹里を見る。
『今回は、子供相手だ。昔のやり方は絶対に使わない』
『分かってるよ』
陽菜が答える。
『手は出さない。怒鳴らない。勝手に生徒へ近づかない』
『目でも脅すな』
『目は仕方なくない?』
『仕方なくねえ』
『じゃあ、目を閉じて話せっていうの?』
『普通の目をしろ』
『普通の目って何』
美園が小さく笑った。
『陽菜には、ちょっと難しい注文かもね』
『美園さんまで』
樹里は美園を見る。
『お前もだ』
『私は何もしないよ』
『店で客の腕を押さえつけたばかりだろ』
『あれは正当防衛』
『今回は、誰も触るな』
『分かってる』
美園は笑みを消し、改めて資料へ目を落とした。
『でも、学校側が本気で話を聞くつもりがないなら、黙って帰るつもりもないよ』
『それは私も同じだ』
樹里が答える。
陽菜が2人を見る。
『私は何をすればいい?』
『まず、黙って聞け』
『私だけ扱い雑じゃない?』
『お前が1番先に動くからだ』
『もう昔と違うよ』
『岡田さんに机を叩かれたとき、右手が動いてた』
『またその話?』
『動いたのか』
美園が陽菜を見る。
『ちょっとだけだよ』
『ちょっとでも動いたんじゃない』
『でも殴ってないでしょ』
『当たり前だ』
樹里は資料を3つに分けた。
被害の経緯。
学校とのやり取り。
面談で確認する項目。
『当日は、私が学校側へ質問する』
樹里は確認項目を自分の前へ置いた。
『高村さんが話しづらくなったときだけ、私が補足する。話の中心は、あくまで保護者だ』
次に、美園を見る。
『美園は、話が感情的になったときに止めてくれ』
『つまり、場をまとめればいいのね』
『頼む』
『分かった』
最後に、陽菜を見る。
『お前は、相手の反応を見ろ』
『反応?』
『教師が誰の発言を遮るか。何を聞かれたときに答えを濁すか。資料を見ずに否定するか』
樹里は陽菜の目をまっすぐに見た。
『お前は、嘘をつく人間の顔を見るのが得意だろ』
陽菜の表情が変わった。
先ほどまでの不満が消える。
『……任せて』
短い返事だった。
そこには、副総長だった頃と同じ確かな響きがあった。
美園が樹里へ尋ねる。
『面談はいつ?』
『明後日の放課後だ』
『仕事は?』
『私と陽菜は午後から有給を取る。黒澤さんには、私用とだけ伝えてある』
『私も店を開ける時間を遅らせるよ』
『悪いな』
『今さらでしょ』
3人は、再び資料へ目を向けた。
高村の息子を、無理に教室へ戻すためではない。
傷つけた生徒を、恐怖で支配するためでもない。
学校へ責任を果たさせ、本人が安心して次の選択をできる状態を作るために動く。
かつて3人で何かを決めるとき、目の前に広げていたのは道路地図だった。
誰が先頭を走るか。
どの道を通るか。
何かあったとき、誰が後ろを守るか。
今、カウンターに広げられているのは、学校とのやり取りと、被害を受けた日付の記録だった。
着ているものも、手にするものも違う。
それでも、3人が同じ方向を向いたときの空気だけは、6年前と変わらなかった。
陽菜が静かに資料を閉じる。
『今度は、ちゃんと守ろう』
美園が頷く。
『うん』
樹里は2人の顔を見たあと、短く答えた。
『ああ』
3人の間に、静かな緊張が落ちる。
高揚ではない。
怒りだけでもない。
守るべきものを間違えないための、覚悟だった。




