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8話「レントゲン」

部署対抗ボウリング大会から数日後。


 営業部に、健康診断の日程表が回ってきた。


「今年から、検査項目が少し増えたみたいですよ」


 最初に用紙を受け取った柚希が、記載された内容を読み上げる。


「身長、体重、視力、聴力、血圧、採血……あ、胸部レントゲンもある」


「会社の健康診断なら普通ではないでしょうか」


 凛は自分の予定を確認しながら、淡々と答えた。


「そうだけど、レントゲンって着替えるの面倒なんだよね」


 柚希が次の席へ用紙を渡す。


 やがて、回覧は樹里のもとへ届いた。


 樹里は普段どおりの落ち着いた表情で、検査項目へ目を通していく。


 しかし、胸部レントゲンに関する注意書きを読んだ瞬間、その手が止まった。


 ――撮影時には、上半身の衣類を脱いでいただきます。


 文字を追っていた目が、もう一度同じ文章へ戻る。


 読み間違いではない。


 樹里は表情を変えないまま、隣にいる陽菜へ用紙を渡した。


『櫻井さん』


『はい』


『確認してください』


『何を?』


『胸部レントゲンの注意事項です』


 陽菜は不思議そうな顔で用紙を受け取り、該当する部分へ目を向けた。


 そして、固まった。


『……上半身の衣類を脱ぐ?』


 声が出たのは、数秒後だった。


 陽菜は慌てて自分の口を押さえ、周囲を確認する。


 幸い、他の社員は健康診断の日程や仕事の予定を話しており、2人の異変には気づいていない。


 陽菜はもう一度、注意書きを読む。


 何度見ても、書かれている内容は変わらない。


 顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。


 樹里が低い声で呟く。


『……終わった』


 2人は顔を見合わせた。


 服の下には、会社の誰にも見せられないものが残っている。


 Rose girlsとして走っていた頃、背中へ入れた大きなタトゥー。


 特攻服へ縫いつけていたものと同じ、赤と黒の薔薇をモチーフにしたものだ。


 特攻服は脱げる。


 髪型も化粧も変えられる。


 言葉遣いを整え、過去を知らない人間の前で別人を演じることもできた。


 だが、皮膚へ刻んだ薔薇だけは消えていない。


 樹里は制服の背中を意識する。


 今まで隠せていた。


 着替えのある行事を避け、社員旅行にもまだ参加していない。普段の制服から見えることもない。


 それが、健康診断という思いがけないところから暴かれようとしていた。


 陽菜が机の下で、用紙を持つ手に力を込める。


(どうしよう。絶対、見られる)


 タトゥーがあるだけなら、過去の趣味で押し通せるかもしれない。


 しかし、樹里と陽菜の背中には、同じ由来を持つ薔薇がある。


 同じ会社、同じ部署。


 互いを知らないふりをしている2人が、背中に似た意匠を刻んでいる。


 偶然で片づけるには、あまりにも不自然だった。


 陽菜は小声で樹里へ話しかける。


『どうする?』


『ここでは話すな』


『でも——』


『昼休みだ。それまで黙っていろ』


 樹里は回覧へ確認済みの印をつけると、何事もなかったように次の席へ渡した。


 陽菜もパソコンへ向き直る。


 だが、仕事の内容はまるで頭に入ってこなかった。


 画面へ数字を入力しながら、背中を見られた時の言い訳ばかりを考えてしまう。


(若い頃の勢いで入れました、で通る?)


(総長と似てるのは、たまたま同じ店で……いや、何で同じ店を知ってるのってなる)


(そもそも総長、タトゥー入れてるような人に全然見えないし)


 隣を見る。


 樹里はいつもと変わらない姿勢で、書類の確認を続けている。


 表情も崩れていない。


 しかし、普段よりページをめくる回数が明らかに少ない。


 同じ箇所を何度も見ている。


(総長も全然集中できてない)


 昼休みになると、2人は時間をずらして席を立った。


 向かったのは、人通りの少ない非常階段だった。


 先に来ていた樹里が、踊り場の壁へ背中を預けている。


 陽菜が扉を閉めるなり、声を潜めて切り出した。


『どうするの!?』


『声を抑えろ』


『上半身脱ぐって書いてあったよ! 絶対に見られるじゃん!』


『読んだから知っている』


『総長は落ち着いてるけど、何か方法あるの?』


『ない』


『ないの!?』


 陽菜の声が大きくなり、樹里が鋭く睨む。


『だから声を抑えろ』


『だって、バレたら終わりだよ。会社中に広まるよ』


『医療関係者が、検査で見たものを会社中へ言いふらすとは思えない』


『でも、着替えるところで誰かに見られるかもしれないじゃん。凛ちゃんとか柚希ちゃんと一緒だったら、どうすんの?』


 その可能性までは否定できなかった。


 樹里が眉間へ指を当てる。


『時間をずらすか』


『あたしたちだけ別の時間にしたら、それも不自然じゃない?』


『では、片方だけ別日にする』


『総長とあたしが同時に見られないように?』


『同じ意匠だと気づかれるのが最もまずい』


『でも、1人ずつでも見られたくないよ』


『わがままを言うな』


『総長だって嫌でしょ?』


 樹里は答えない。


 答えないことが、そのまま肯定だった。


 陽菜は階段の手すりに両手を置き、考え込む。


『大きい絆創膏で隠すとか』


『背中一面に怪我をしたと言うつもりか』


『肌色のテープ』


『余計に目立つ』


『化粧で消せないかな』


『服で隠れないものが、簡単に消えると思うか』


『じゃあ、インナーで誤魔化すしかないよ』


『注意事項には、上半身の衣類を脱ぐと書いてある』


『下着も?』


『知らん』


『検査着は?』


『知らん』


『何で何も知らないの!』


『私に健康診断の規則を決める権限があると思うか!』


 言い返した樹里の声も、普段より少し大きかった。


 非常階段へ短い沈黙が落ちる。


 2人とも、本気で焦っていた。


 喧嘩で数十人を相手にした時でさえ、ここまで追い詰められた顔はしなかったかもしれない。


 相手が人間なら、睨むことも、脅すことも、話をつけることもできる。


 だが、会社の健康診断を相手に、昔のやり方は何ひとつ通用しない。


 陽菜が小さく息を吐く。


『休む?』


『健康診断の日だけ、2人揃ってか』


『時間差で体調を崩す』


『後日、別の医療機関で受けろと言われるだけだ』


『じゃあ、レントゲンだけ拒否するとか』


『理由を聞かれる』


『持病があるって言う』


『嘘の持病を作るな。後で面倒になる』


『総長、全部駄目って言うじゃん』


『駄目な案しか出さないからだ』


『じゃあ総長が考えてよ』


 樹里はしばらく黙った。


 あらゆる方法を検討するように視線を落とし、やがて短く息を吐く。


『……担当者に確認する』


『タトゥーのことを言うの?』


『言うわけないだろ』


『じゃあ何て聞くの?』


『無地のインナーを着たまま受けられないか、普通に確認する。それで駄目なら、次を考える』


『怪しまれない?』


『規則を確認するだけだ。何もおかしくない』


 結局、それ以外に現実的な方法はなかった。


 午後。


 樹里は総務の健康診断担当者のもとを訪れた。


 表情は穏やかで、声も落ち着いている。


 非常階段で陽菜と言い合っていた人間と同じには見えない。


『すみません。健康診断について、少し確認してもよろしいでしょうか』


「はい。どうされました?」


『胸部レントゲンの注意事項に、上半身の衣類を脱ぐとありましたが、無地のインナーシャツも脱ぐ必要がありますか』


「ああ、その書き方だとわかりにくいですよね」


 担当者は、何でもないことのように答えた。


「金具や装飾のない無地のインナーでしたら、着用したままで大丈夫です。希望する方には検査着も用意されています」


 樹里は、一瞬だけ黙った。


『……脱がなくてよいのですか』


「はい。ブラジャーなどの金具や、厚いプリントが写り込むと困るので、そういうものは外していただきますけど。無地のシャツなら問題ありません」


『更衣室も、全員一緒ではないんですね』


「簡易の個室を用意します。去年、着替えにくいという意見がありましたので」


『そうですか』


「他にも何かありますか?」


『いいえ。ありがとうございました』


 樹里は丁寧に頭を下げ、総務を出た。


 廊下の角を曲がったところで、壁の陰から陽菜が飛び出してくる。


『どうだった?』


『なぜここにいる』


『気になって仕事できないから、待ってた』


『仕事に戻れ』


『いいから、どうだったの?』


 樹里は周囲を確認してから、声を落とした。


『無地のインナーなら、着たままでいいそうだ』


『……本当に?』


『ああ。着替えも個室だ』


 陽菜の膝から力が抜けた。


 その場へしゃがみ込みそうになり、慌てて壁へ手をつく。


『よかった……』


『大げさだ』


『総長だって安心したでしょ』


『別に』


『嘘。さっきより肩が下がってる』


『下がってない』


『顔も少し優しくなった』


『なってない。早く戻れ』


 樹里は先に歩き出した。


 陽菜は胸を撫で下ろし、その後を追う。


『でも、あの書き方はよくないよね。上半身の衣類を脱ぐって書かれたら、全部脱ぐと思うじゃん』


『そうだな』


『総長、注意してきた?』


『わかりにくいとは伝えた』


『さすが』


『お前が騒ぎすぎなんだ』


『総長だって最初に“終わった”って言ったじゃん』


『言ってない』


『言ったよ』


『聞き間違いだ』


『絶対に言った』


 2人は小声で言い合いながら営業部へ戻った。


 自席へ着く頃には、どちらも普段の顔に戻っている。


 誰も、健康診断の通知1枚で2人がここまで追い詰められていたとは思わない。


 数日後。


 健康診断は何事もなく終わった。


 樹里と陽菜は、金具も装飾もない黒いインナーを用意し、それを着たまま胸部レントゲンを受けた。


 背中を見られることもない。


 赤と黒の薔薇は、布の下へ隠されたままだった。


 会社からの帰り道。


 陽菜は夕暮れの空を見上げ、大きく息を吐く。


『……死ぬかと思った』


 隣を歩く樹里が低く返す。


『二度と、あんな書き方をさせるな』


『あたしに言われても。会社が書くんだよ』


『お前からも意見を出せ』


『総長がもう言ったんでしょ?』


『念を押せ』


『そんなに嫌だったんだ』


『違う』


『じゃあ、来年は気にしなくていいね』


 樹里の足が止まった。


 陽菜も数歩先で振り返る。


『……来年もあるのか』


『健康診断なんだから、毎年あるでしょ』


 樹里はしばらく黙っていた。


 やがて、心底嫌そうに息を吐き、再び歩き始める。


『面倒だな』


『その時は、最初から黒いインナー着ていけばいいよ』


『お前に言われなくてもそうする』


 陽菜は笑いながら樹里の隣へ並んだ。


 背中の薔薇は、今日も静かに隠れている。


 見せるつもりのない過去と一緒に、2人の服の下で咲き続けていた。

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