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7話「本番」

部署対抗ボウリング大会の当日。


 会場となった駅前のボウリング場は、社内の親睦行事とは思えない緊張感に包まれていた。


 正確には、営業部の2人が放っている異様な気迫に、周囲が巻き込まれていた。


 樹里はレーンの前で腕を組み、対戦相手の投球練習を無言で観察している。


 その隣では、陽菜がスコア表示用のモニターを睨んでいた。


 まだ大会は始まっていない。


 それにもかかわらず、2人の表情はすでに決勝戦を迎えた選手のようだった。


「ねえ、今日の日高先輩と櫻井さん、ちょっと怖くない?」


 柚希が凛へ耳打ちする。


 凛は眼鏡の位置を直しながら、小さくうなずいた。


「昨日からずっと、参加者の投球順を確認しています」


「何で?」


「わかりません」


 少し離れたところでは、滝本英司が貸し出されたボールを片手で持ち上げていた。


「まあ、安心してくださいよ。こういうの、俺けっこう得意なんで」


 誰に求められたわけでもないのに、頼もしそうな笑顔を見せる。


 森下彩花が冷めた目を向けた。


「始まる前から言う人って、大体失敗するのよね」


「いやいや、森下さん。俺は本番に強い男なんで」


「はいはい」


 営業部の面々が普段どおりの会話を交わす中、黒澤部長だけは上機嫌だった。


「みんな、今日は部署の垣根を越えて親睦を深める日だからな。勝ち負けだけにこだわらず、楽しんでいこう!」


『勝ち負けだけにこだわらず……』


 陽菜が信じられないものを見るように黒澤へ顔を向けた。


『では、何のために点数を競うんですか』


「いや、そこは大会を盛り上げるためというか……」


『競う以上、勝つことに意味があります』


 樹里が淡々と言い切る。


「日高さんまで……」


 黒澤が困惑しても、2人の意思は揺らがない。


 陽菜は製造部のレーンへ視線を戻した。


『来たよ』


『ああ』


 製造部の益川慎太郎が、専用のバッグを手に現れた。


 昨日と同じマイボールに、専用のシューズ。会場へ入ってからの動きにも迷いがない。


 益川は営業部のレーンへ視線を向けた。


 一瞬だけ陽菜と目が合う。


 その表情に、わずかな疑念が浮かんだ。


 昨日、ボウリング場で何度も集中を乱してきた女と似ている。


 しかも、自分が使おうとしたボールの位置が変わるたび、近くにいた女とも似ている。


 だが、まさか同じ会社の社員が、大会前日に自分を尾行して妨害していたとは思わない。


 そう信じたい気持ちが、益川の中にはあった。


 樹里が陽菜へ声を落とす。


『目を合わせるな。気づかれる』


『もう合っちゃった』


『自然にしろ』


『自然にって、どうやるの?』


『普通に笑え』


 陽菜は益川に向かって笑顔を作った。


 口元は完璧だった。


 しかし、目には昨日の妨害が成功した時と同じ、楽しげな光が浮かんでいる。


 益川はすぐに視線を逸らした。


『逸らしたよ』


『だから、やりすぎるなと言ったんだ』


『笑えって言ったのは総長じゃん』


『声を抑えろ』


 大会の開始時刻となり、各部署の代表者が指定されたレーンへ集まった。


 簡単な説明の後、投球順が発表される。


 営業部は、滝本、彩花、柚希、凛、陽菜、樹里の順だった。


 黒澤は代表者として応援に回る。


「みんな、気楽にいけ! 俺も若い頃はボウリングで相当鳴らしたもんだ!」


「部長は投げないんですか?」


 柚希が尋ねる。


「今日は若い人に譲ろうと思ってな」


 彩花が小声で呟いた。


「多分、下手なのよ」


「森下さん、聞こえてるぞ」


 営業部の1投目は滝本だった。


 滝本はボールを構えると、周囲を見回して軽く手を上げる。


「じゃあ、営業部の勢いを見せますか」


 軽快な助走から放たれたボールが、レーンの中央を走る。


 次の瞬間、10本のピンが一気に弾けた。


 ストライク。


「ほらね!」


 滝本は得意げに振り返った。


 柚希が素直に拍手し、凛も感心したようにうなずく。


 彩花は悔しそうに眉を寄せた。


「本当に上手いのが腹立つわね」


「褒めてます?」


「褒めてない」


 続く彩花も、安定したフォームで高い点を取った。


 柚希はボールを投げた直後、転びそうになりながらもピンへ視線を向ける。


「お願い、当たって!」


 ボールはゆっくりと進み、端に並んだピンを巻き込むように倒した。


「当たった! 私、ちゃんと当てた!」


 倒した本数に関係なく、本人は満足そうだった。


 凛は派手さこそないが、余計な力の入っていない投球を続ける。


 1投目で残したピンを、2投目で確実に倒す。


 崩れない。


 陽菜は腕を組み、真剣な表情で凛の投球を見ていた。


『凛ちゃん、上手いね』


 凛は戻ってきながら答える。


「学生の頃、家族で何度か来たことがありますので」


『経験者だったんだ』


「最初にお伝えしたと思います」


『そうだっけ?』


「参加者を調べる前に、同じ部署の人間を確認するべきだったのではないでしょうか」


『……ごもっともです』


 凛の正論に、陽菜は何も言い返せなかった。


 一方、製造部は予想どおり益川を中心に点を伸ばしていた。


 昨日の練習では調子を崩していたものの、本番が始まれば安定している。


 投球のたびにストライクかスペアを取る。


 営業部が少し点差を縮めても、益川がすぐに引き離していく。


『やっぱり、強いね』


『わかっていたことだ』


『昨日、もっと徹底的にやった方がよかったかな』


『会社の行事だぞ。目的を忘れるな』


『総長にだけは言われたくない』


『何か言ったか』


『何も』


 そして、陽菜の投球順が回ってきた。


 陽菜は並べられたボールの中から、迷うことなく重いものを選んだ。


 凛が不安そうに見つめる。


「櫻井さん、もう少し軽い方がよいのでは?」


『大丈夫。重い方が、威力が出るから』


「ピンを壊す競技ではありません」


 陽菜は聞かなかった。


 ボールを胸の前で構え、低く腰を落とす。


 その姿勢には、何かを投げるというより、今から敵陣へ突っ込むような迫力があった。


 周囲の会話が、自然と止まる。


『行くよ』


 鋭く踏み込む。


 力任せに振り抜かれたボールが、凄まじい速度でレーンを走った。


「速っ!」


 柚希が声を上げる。


 だが、ボールは中央へ向かわない。


 勢いを保ったまま、レーンの左端へ吸い込まれた。


 大きな音を響かせて、ガターを走り抜けていく。


 ピンは1本も倒れなかった。


 陽菜は振り抜いた姿勢のまま固まっている。


 営業部の誰も、すぐには声をかけられなかった。


『……おかしいな』


 ようやく陽菜が呟く。


『威力は十分だった』


 樹里が真顔で分析する。


「方向が合っていませんでした」


 凛が冷静に指摘した。


『次は中央に投げる』


「最初からそうしてください」


 陽菜の2投目。


 今度は中央を意識しすぎたため、身体の動きが固くなった。


 ボールは1投目より遅い速度で進み、反対側のガターへ落ちた。


 再び0点。


 陽菜は戻ってくると、悔しそうに自分の手を見つめた。


『ボールが言うことを聞かない』


「ボールは悪くありません」


『あたし、投げるのは得意なはずなんだけどな』


 かつて何を投げていたのか。


 凛は聞かない方がいい気がして、口を閉じた。


 最後は樹里だった。


 陽菜よりは慎重に、ボールの重さを確認する。


 助走の歩数も、事前に見た動画を思い出しながら調整した。


『腕を真っ直ぐ振って、手首は固定……』


 小声で確認してから、レーンへ立つ。


 陽菜が後ろから声をかけた。


『日高先輩、頼んだよ』


『任せろ』


 その返事だけを聞けば、ストライク以外はあり得ないように思えた。


 樹里は腰を落とし、助走へ入る。


 だが、慎重になりすぎた。


 ボールを放すタイミングが遅れ、床へ叩きつけるような投球になる。


 鈍い音がボウリング場に響いた。


 跳ねたボールは勢いを失い、レーンの中央付近をゆっくりと進む。


 奇跡的にピンへ向かってはいる。


 全員が固唾を呑んで見守った。


 やがてボールは先頭のピンへ届き、弱々しく触れた。


 倒れたのは2本だけだった。


 陽菜が沈黙を破る。


『……当たったね』


『お前よりはな』


『あたしは速度なら勝ってた』


『速度を競う競技じゃねえ』


『2本で偉そうにしないでよ』


『0本を2回続けたやつに言われたくない』


「2人とも、次がありますから」


 凛が間に入らなければ、レーンの前で言い争いが始まるところだった。


 その後も、樹里と陽菜の成績は振るわなかった。


 陽菜は力を抑えると極端に弱くなり、力を入れるとガターへ落とす。


 樹里は頭で考えすぎるあまり、投げるたびにフォームが変わる。


 前日に研究した知識が、かえって2人を混乱させていた。


『次はスペアを取れ』


『わかってる』


『右に残ってる。少し左から投げろ』


『それでさっきガターだったじゃん』


『今度は手首の角度を変えろ』


『投げたことないくせに、よくそんなに指示できるね』


『黙って投げろ』


 言い争いながらも、2人の表情は真剣だった。


 それを見ている営業部の面々も、次第に緊張より笑いを堪える方が大変になっていた。


 中盤。


 陽菜が次のボールを選んでいると、製造部の益川が近くを通りかかった。


 益川は陽菜の横顔を見て、足を止める。


「あれ? あなた、昨日……」


 陽菜が顔を上げた。


 笑ってはいない。


 怒っているわけでもない。


 ただ、昨日の件をこれ以上口にするなと告げる目で、益川を真っ直ぐに見た。


 益川の言葉が喉の奥で止まる。


「……いえ。何でもないです」


 小さく咳払いをして、そのまま製造部のレーンへ戻っていった。


 樹里が陽菜の横へ来る。


『何か言われたか』


『言わせなかった』


『でかした』


 その会話を聞いていた凛が、ゆっくりと2人を見る。


「昨日、益川さんと何かあったんですか?」


『何もないよ』


『人違いでしょう』


 2人はほぼ同時に答えた。


 凛は明らかに疑っていたが、大会中に追及することはしなかった。


 試合は終盤までもつれた。


 製造部は益川が高得点を重ねている。


 対する営業部は、滝本と彩花が点を稼ぎ、柚希も少しずつ調子を上げていた。


 樹里と陽菜が作った大きな穴を、他のメンバーが必死に埋めている状態だった。


「俺たちがいなかったら危なかったですね」


 滝本が得意げに言う。


「あなたは黙って次もストライクを取りなさい」


 彩花がボールを渡した。


「森下さん、俺への要求だけ厳しくないですか?」


「口を動かす余裕があるなら、腕を動かして」


 最終盤。


 営業部と製造部の点差は、わずかだった。


 営業部の最後の投球を任されたのは凛だった。


 ピンは数本残っている。


 すべて倒せば、営業部が逆転できる。


 陽菜が凛の肩を掴んだ。


『凛ちゃん』


「はい」


『絶対に倒して』


「急に圧をかけないでください」


『でも、これで勝負が決まるんだよ』


「わかっています。ですから、少し離れていてください」


 凛に睨まれ、陽菜は素直に手を離した。


 樹里が横から声をかける。


『普段どおりに投げればいい。余計なことは考えるな』


「日高先輩と櫻井さんを見て、私もそう思いました」


『どういう意味だ』


「考えすぎたり、力を入れすぎたりすると失敗するということです」


 樹里は黙った。


 反論できなかった。


 凛はレーンへ向き直り、静かにボールを構える。


 大きく力むことも、必要以上に腰を落とすこともない。


 短い助走から、真っ直ぐに腕を振る。


 ボールは穏やかな速度で進み、狙った位置へ吸い込まれた。


 残っていたピンが、きれいに倒れる。


 スペア。


 一瞬の静寂の後、営業部から歓声が上がった。


「勝った!」


 柚希が凛へ抱きつく。


 滝本が拳を上げ、彩花もほっとしたように笑った。


 黒澤は誰よりも大きな声で叫ぶ。


「よし! やっぱり俺の指揮がよかったな!」


「部長、何もしてませんよね?」


「応援も立派な仕事だ!」


 陽菜は凛の両肩を掴み、嬉しそうに揺らした。


『凛ちゃん、すごい! やった!』


「櫻井さん、揺らさないでください」


『営業部の勝ちだよ!』


『落ち着け。まだ正式結果が出ていない』


 そう言いながら、樹里の口元もわずかに緩んでいる。


 集計の結果、営業部は製造部をわずかな差で上回った。


 辛勝だった。


 樹里と陽菜のスコアは、営業部の中でも下から数えた方が早い。


 それでも2人は、結果発表を聞いた瞬間、満足そうにうなずいた。


『作戦どおりだな』


『うん』


 凛が眼鏡の奥から2人を見る。


「どの部分が作戦どおりだったのでしょうか」


『全体として勝った』


『個人の成績は問題ではない』


「大会前は、誰よりも個人の成績を気にしていたように見えましたが」


『終わったことを気にするな』


『勝ったんだからいいじゃん』


 都合よくまとめようとする2人を見て、凛は小さく息を吐いた。


 夜。


 樹里と陽菜はスナック【Rose】のカウンターに並んでいた。


 美園は2人の前へ水と酒を置きながら尋ねる。


『それで、勝ったの?』


『ああ』


 樹里が短く答え、陽菜も誇らしげに胸を張る。


『営業部の勝ち。かなり接戦だったけどね』


『へえ。偵察までした甲斐があったじゃない』


『当然だ』


 美園はグラスを拭きながら、2人を交互に見る。


『で、あんたたちの点数は?』


 陽菜の視線が、ゆっくりと逸れた。


 樹里は無言で酒へ口をつける。


『……どうしたの?』


『凛ちゃんたちが上手かった』


 陽菜が答える。


『滝本さんと彩花さんも点を取ってくれたし、柚希ちゃんも後半は結構倒してた』


『あんたたちは?』


『初めてだったから、仕方ない部分もある』


『点数を聞いてるんだけど』


 美園は逃がさない。


 陽菜はしばらく黙った後、小さな声で白状した。


『あたしは、ガターが多かった』


『樹里は?』


『……当てはした』


『何本?』


『毎回違う』


『つまり、下手だったんだ』


 美園が結論を出す。


 樹里は否定しなかった。


 できなかった。


 美園は呆れたように息を吐く。


『初めてで、相手の偵察をして、果たし状まで書いて、練習の妨害までしたわけ?』


『妨害っていうほどじゃないよ』


『益川の集中を乱した』


『それを妨害って言うんだよ』


 陽菜は気まずそうにグラスを両手で包んだ。


『……勝ちたかったし』


『自分たちの練習はしなかったの?』


 樹里と陽菜が同時に黙る。


 その反応だけで、美園には十分だった。


『相手を調べる前に、自分たちがボウリングできるか確認しなよ』


『結果としては勝った』


 樹里が静かに反論する。


『凛ちゃんたちのおかげでね』


『営業部はチームだ。誰が点を取っても勝ちは勝ちだ』


『都合のいい時だけ、会社員みたいなことを言うね』


 美園が笑う。


 樹里はそれ以上反論せず、グラスを傾けた。


 陽菜も照れ臭そうに笑っている。


 美園はそんな2人を眺めながら、新しいグラスを棚へ戻した。


 かつては、他のチームを相手に同じ目をしていた。


 相手の人数や戦い方を調べ、勝つためなら夜通し走り回った。


 今、2人が本気で挑んでいるのは、会社のボウリング大会だ。


 あまりにも平和で、あまりにも馬鹿らしい。


 だからこそ、美園は少しだけ安心した。


『まあ、揃って馬鹿やってる分には、悪くないけどね』


 樹里は何も言わず、差し出されたグラスを受け取った。


 陽菜は美園の言葉の意味を考え、やがて小さく笑う。


『うん。悪くないね』


 特攻服を着なくても、3人は同じ場所で笑っていられる。


 それだけで、昔とは違う勝ち方をしているような気がした。

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