6話「偵察」
「来月、部署対抗ボウリング大会をやるぞ!」
朝礼の終わり際、黒澤部長が声高らかに宣言した。
営業部のあちこちから、戸惑いと期待の混じった声が上がる。
「ボウリングですか?」
「部署対抗って、どこが参加するんです?」
「優勝賞品はあるんですか、部長?」
柚希たちが次々と質問する中、陽菜の手だけが止まっていた。
持っていた資料を机へ置き、ゆっくりと顔を上げる。
『……対抗?』
その響きには、社内の親睦行事へ向けるものとは思えない緊張感があった。
隣の席では、樹里も静かに黒澤を見ている。
『どこが相手ですか』
「え?」
『対抗する部署です』
「いや、製造部とか総務部とか、いろいろだな。参加者を何チームかに分けて、合計点を競うだけだ」
黒澤は軽い調子で答えたが、樹里と陽菜の表情は変わらない。
陽菜が身体ごと樹里の方を向く。
『総長』
『会社では、その呼び方をするな』
『日高先輩』
『何だ』
『やるからには、勝つよね?』
樹里は迷う様子もなく、短く答えた。
『当然だ』
声は小さかった。
だが、2人の近くにいた凛と柚希には、はっきりと聞こえていた。
柚希が困ったように笑う。
「親睦会ですよね?」
『はい』
樹里は会社用の穏やかな表情でうなずいた。
『親睦を深めたうえで、勝ちます』
「勝つ方が大事になってません?」
『気のせいです』
陽菜も笑顔で続ける。
『せっかく部署を背負うんだから、負けられないよね』
「そんなに重い大会じゃないと思うんだけど……」
柚希の呟きは、すでに2人の耳へ届いていなかった。
朝礼が終わった直後から、樹里と陽菜は動き始めた。
最初に確認したのは、各部署の参加者だった。
ただ名前を眺めるだけではない。過去の社内行事へ参加した経験、普段の会話に出てくる趣味、昼休みに見かける手や肩の使い方まで、2人は勝手に分析を始めた。
陽菜は休憩中、柚希の席へ近づいた。
『柚希ちゃん。製造部に、ボウリングが得意な人っている?』
「いますよ。益川さんがすごく上手いらしいです」
期待していた情報が出てきた瞬間、陽菜の目が鋭くなる。
『益川……』
「製造部の益川慎太郎さん。マイボールも持っているって聞きました」
『マイボール』
「大会でも、毎年かなりいい点を出すらしいですよ」
『なるほどね』
陽菜は真剣な顔でうなずいた。
「何でそんなに怖い顔をしてるんですか?」
『してないよ』
「してます」
柚希の指摘を笑ってごまかし、陽菜は樹里のもとへ戻った。
周囲に聞かれないよう身を寄せ、小声で報告する。
『製造部、益川慎太郎。経験者。マイボール持ち。過去の大会でも高得点』
『やはり、そいつか』
樹里はすでに手に入れていた参加者一覧の中から、益川の名前へ視線を落とした。
『製造部は益川を中心に点を取るつもりだろうな』
『本命ってこと?』
『ああ』
陽菜が目を細める。
『じゃあ、潰しに行こう』
『言い方を考えろ』
『勝負で、って意味だよ』
『お前が言うと別の意味に聞こえる』
樹里は呆れたように息を吐いた。
しかし、益川の名前から視線を外そうとはしない。
その日の昼休みから、2人による偵察が始まった。
とはいえ、社内でボウリングの実力を見る機会などない。
益川が荷物を運ぶ姿を遠くから眺め、利き腕を確認する。休憩中に肩を回していれば、何か特別な調整をしているのではないかと疑う。
陽菜が休憩室の陰から益川を覗き込み、樹里がその後ろに立っていた。
『右利きだね』
『そうだな』
『体幹も強そう』
『製造部だからな。普段から重いものを持つ機会は多いだろう』
『手首も太い』
『握力もありそうだ』
益川がふとこちらを向いた。
2人は同時に壁の陰へ引っ込む。
「……?」
益川は首を傾げたが、そのまま立ち去った。
足音が遠ざかってから、陽菜が顔を出す。
『危なかった』
『お前が身を乗り出しすぎなんだ』
『総長だって見てたじゃん』
『日高先輩と呼べ』
それから大会までの間、2人は益川の情報を少しずつ集めていった。
社内での聞き込みだけでは飽き足らず、ボウリングのルールや得点計算も調べた。
ストライク、スペア、スプリット。
専門用語を覚えるたび、陽菜は大会の勝利へ近づいているような気になった。
樹里は投球動画を見ながら、助走や腕の振り方まで研究している。
しかし、2人には重大な問題があった。
どちらも、ボウリングをした経験がほとんどない。
陽菜がその事実に気づいたのは、大会を数日後に控えた昼休みだった。
『ねえ、日高先輩』
『何だ』
『あたしたち、ボウリングやったことないよね』
『……ないな』
『大丈夫かな』
『ルールは覚えた』
『ルールを覚えただけで勝てる?』
『勝てるようにする』
何の根拠もない断言だった。
それでも、樹里が言うと不思議と勝てるような気がしてしまう。
陽菜は納得したようにうなずいた。
『じゃあ大丈夫か』
『ああ』
近くで会話を聞いていた凛が、眼鏡の奥から2人を見つめていた。
「練習した方がいいのではないでしょうか」
もっともな意見だった。
だが、2人は顔を見合わせる。
『……手の内を見せることになる』
『そうだね。誰が見てるかわからないし』
「誰に見られるんですか?」
『敵に』
「他部署の社員です」
『今は敵です』
「親睦会ですよね?」
凛の問いに、2人は答えなかった。
大会前日。
終業後、益川は会社を出ると、駅前のボウリング場へ向かった。
その少し後ろを、樹里と陽菜が歩いている。
2人とも私服姿だが、会社帰りであることに変わりはない。人通りのある道で、成人女性2人が同僚の男性を尾行している。
冷静に考えれば、かなり不審な状況だった。
『距離、近くない?』
『これ以上離れたら見失う』
『でも、振り返られたらバレるよ』
『その時は買い物中のふりをしろ』
『何を買うの?』
『知らん。自分で考えろ』
益川が一度足を止めた。
2人は即座に近くの店先へ視線を向ける。
そこに並んでいたのは、女性用の下着だった。
陽菜が真剣な顔でショーウインドーを眺める。
『これ、総長に似合いそう』
『殺すぞ』
益川が再び歩き始める。
樹里は陽菜の腕を掴み、その場から離れた。
『余計なことを言うな』
『買い物中のふりしろって言ったじゃん』
『選ぶ店を考えろ』
『たまたま目の前にあったんだから仕方ないでしょ』
小声で言い争いながらも、2人は益川を見失わなかった。
やがて、益川が駅前のボウリング場へ入っていく。
事前に得た情報どおりだった。
樹里と陽菜も少し時間を空けて中へ入り、益川から離れた場所に席を取った。
益川は専用のバッグからマイボールを取り出している。
靴も備え付けのものではない。
軽く肩を回し、立ち位置を確かめると、迷いのない動きで助走に入った。
投げられたボールが、乾いた音を立ててピンを弾き飛ばす。
ストライク。
陽菜の表情から、わずかに余裕が消えた。
『……上手いね』
『ああ』
樹里も益川から目を離さない。
次の投球では、わずかにピンが残った。
しかし益川は、残った位置を確認しただけで、正確にスペアを取った。
フォームは安定している。
投げるたびに大きく崩れることもない。
偶然高い点を出す人間ではなく、確実に点を積み上げる人間だった。
『あの男が本命か』
『間違いないね』
『製造部は益川だけで、かなりの点を稼ぐ』
陽菜はしばらく益川の投球を眺めていた。
やがて、真剣な顔で口を開く。
『どうする?』
『まず、投球の癖を見る』
『それだけ?』
『他に何がある』
『バレないように、邪魔をする』
樹里がゆっくりと陽菜を見た。
『お前、何をするつもりだ』
『集中を乱すだけ。怪我させたりはしないよ』
『当たり前だ』
『勝負の前に相手の調子を崩すのも、作戦のうちでしょ?』
樹里は否定しなかった。
否定しないどころか、少しだけ考え込んでいる。
陽菜はその反応を見て、楽しそうに笑った。
『総長も乗り気じゃん』
『日高先輩と呼べ』
『今、会社じゃないよ』
『誰が聞いているかわからない』
『はいはい、日高先輩』
こうして、2人による妨害工作が始まった。
益川が助走へ入ろうとした瞬間、陽菜が隣の空いているレーンでハウスボールを転がす。
狙って投げたとは思えないほど遅いボールが、大きな音を立てながらガターへ落ちた。
益川の視線が、わずかに陽菜へ向く。
『ごめんなさーい。初めてだから、失敗しちゃって』
陽菜は申し訳なさそうに笑った。
その顔だけを見れば、本当に失敗した初心者にしか見えない。
だが、席へ戻った陽菜は、小さく拳を握った。
『成功』
『まだだ。あれくらいでは崩れない』
次に樹里が動いた。
益川が投げる直前、飲み物を買いに行くふりをして、視界の端を横切る。
動きを止めるほど露骨ではない。
だが、集中している人間には確実に気になる位置だった。
益川のボールはわずかに中央を外れ、ピンが2本残った。
『効いた』
『声が大きい』
陽菜は慌てて口を押さえた。
それからも2人は、偶然を装った小さな妨害を繰り返した。
益川が使おうとしていたハウスボールの位置を、手洗い場から戻る途中で少しだけずらす。
投球に入るタイミングで、陽菜が派手なくしゃみをする。
樹里が飲み物の蓋を落とし、床へ小さな音を響かせる。
どれも投球そのものを邪魔するほどではない。
ただ、集中しかけるたびに、何かが起きる。
益川は最初こそ気にしていなかったが、徐々に眉を寄せ始めた。
陽菜と樹里の方を、何度か不審そうに見る。
そのたびに、2人は何も知らない客の顔へ戻った。
『……効いてる』
陽菜が笑いを堪えながら囁く。
『やりすぎるな。気づかれたら終わりだ』
『もう少しいけそう』
『次で最後にしろ』
『了解』
最後は、陽菜が益川の後ろを通りながら、わざとらしく樹里へ話しかけた。
『明日の部署対抗、製造部が優勝候補なんだって』
『そうらしいな』
『でも、練習で調子悪そうな人もいるし、案外大したことないかもね』
益川の肩が、目に見えて動いた。
陽菜はそのまま通り過ぎる。
益川は振り返ったが、2人はすでに離れた席へ戻っていた。
『今のはやりすぎだ』
『でも、効いたよ』
その直後、益川が投げたボールは大きく中央を外した。
残ったピンを見つめる益川の背中には、明らかな苛立ちが滲んでいる。
陽菜は満足そうにうなずいた。
『よし』
『帰るぞ。これ以上いたら、本当にバレる』
『はーい』
結局、その日の益川の練習は、本人にとってかなり不本意な結果に終わった。
ボウリング場を出た2人は、駅へ続く夜道を並んで歩く。
陽菜は少しだけ不安になり、隣の樹里を見た。
『明日、勝てるかな』
樹里は前を向いたまま答える。
『勝つ』
『あたしたち、まだまともに投げてないけど』
『勝つ』
『自信ある?』
『相手に勝つと言った人間が、負けるつもりで行くのか』
樹里の声に迷いはない。
陽菜は一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
『うん。そうだね』
2人は知らなかった。
ボウリングは気合だけで上手くなる競技ではない。
そして、相手の偵察と妨害に時間を使うくらいなら、自分たちも練習した方がよほど勝利へ近づけたということを。
もっとも、今の2人へそれを教えられる者はいなかった。
製造部の社内郵便受けには、すでに1通の封筒が入れられていた。
中には、太い黒字で短い文章だけが書かれている。
――明日、正々堂々勝負する。逃げるな。
差出人の名前はない。
偵察と妨害工作を終えた人間が書いたとは思えないほど、堂々とした果たし状だった。




