↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/72

5話「排気量」

陽菜が島川不動産へ入社して、三週間が過ぎた。


 営業部事務の仕事にも、少しずつ慣れてきている。


 顧客情報の入力、契約書類の確認、営業担当が持ち帰った資料の整理。まだ樹里に確認してもらうことは多いが、何をすればいいのかわからず立ち尽くすことはなくなった。


 昼休み。


 陽菜が給湯室で紙コップに湯を注いでいると、眼鏡をかけた遠藤凛が入ってきた。


 凛は陽菜より先に島川不動産へ入社しているが、年齢は陽菜より下だ。仕事は丁寧で、頼まれたことは必ず期限までに終わらせる。その反面、冗談を真に受けやすく、少し融通が利かないところがある。


 今日も昼食を終えたばかりだというのに、片手には仕事の資料があった。


『凛ちゃん、休憩中くらい仕事のこと忘れたら?』


「午後の分を確認しているだけです」


『それを仕事って言うんだよ』


「櫻井さんこそ、昨日入力した顧客情報、一件だけ番地が抜けていましたよ」


『……午後から直します』


 陽菜は気まずそうに紙コップへ口をつけた。


 その横では、樹里が何も聞いていないような顔でコーヒーを淹れている。


 だが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


(絶対、笑ってる)


 陽菜が横目で睨んでも、樹里は知らん顔をしている。


 凛は資料を閉じると、窓の外へ視線を向けた。


「最近、通勤が少し不便で」


『遠いの?』


「距離はそれほどでもないんですけど、駅から自宅までのバスが少ないんです。残業すると、かなり待つことになるので」


『それは面倒だね』


「ですから、中古でいいので、バイクを買おうかと思っているんです」


 その言葉が落ちた瞬間。


 陽菜の手が止まった。


 コーヒーを口へ運ぼうとしていた樹里の動きも、同時に止まる。


 凛は二人の変化に気づかないまま続けた。


「ただ、私はあまり詳しくないので。とりあえず原付くらいでいいのかな、と」


『原付?』


 陽菜が食いつく。


 さっきまでの気の抜けた表情が消え、瞳が急に生き生きと輝き始めた。


『通勤で毎日乗るんでしょ? 片道どれくらい?』


「およそ九キロです」


『9キロなら、原付より125の方が絶対に楽だよ。車の流れにも乗りやすいし、坂道があっても余裕があるから』


 陽菜が紙コップを置き、凛との距離を詰める。


 樹里も静かに会話へ入ってきた。


『雨の日は乗らないとしても、通勤で使うなら余裕のある排気量の方が安全です。ただ、車体の大きさや重さもありますので、一度実物に跨って確認した方がいいですね』


「日高先輩も詳しいんですね」


『……多少は』


 樹里は涼しい顔で答えた。


 陽菜はその横顔を見ながら、危うく吹き出しそうになる。


(多少どころじゃないくせに)


 自分でエンジンを開けるような人間が、よく言う。


 もっとも、それを口にした瞬間に睨まれることはわかっていたため、陽菜は黙っておいた。


「中古だと、何を見ればいいんでしょうか」


 凛が尋ねる。


 その一言がいけなかった。


 樹里と陽菜の中に眠っていたものが、完全に目を覚ました。


『まず整備記録ですね』


『走行距離だけで決めちゃ駄目だよ。距離が短くても、ずっと放置されてた車体はあるから』


『前の所有者の人数と、事故歴も確認してください』


『タイヤも見た方がいい。溝が残ってても、古かったら硬くなってるから』


『チェーンの状態もですね。錆や偏った伸びがないか、確認した方がいいです』


『エンジンは冷えた状態からかけてもらった方がいいよ。最初から暖めてある店は、ちょっと警戒した方がいいかも』


「え、ええと……」


 凛は慌てて資料の余白を開き、メモを取り始めた。


 陽菜は構わず続ける。


『ヘルメットは安すぎるのを選んじゃ駄目だからね。頭を守るものだし、毎日使うなら重さも大事』


『グローブも必要です。転倒した時、人は反射的に手をつきますから』


『あとは靴。普通のスニーカーでも乗れなくはないけど、くるぶしまで守れる方が安心だよ』


『可能であれば、プロテクターの入った上着も用意してください』


 凛のペンが止まった。


「そこまで揃えないと、乗ってはいけないんですか?」


『いや、乗れないことはないけど——』


『安全を考えるなら、必要です』


 陽菜と樹里の声が重なった。


 二人は一度顔を見合わせ、何事もなかったように凛へ視線を戻す。


 凛は完全に圧倒されていた。


「バイクって、思ったより大変なんですね……」


『大変じゃないよ。ちゃんと選べば便利だし、楽しいから』


 陽菜は笑顔で答えた。


『朝の空気の中を走るの、気持ちいいよ。渋滞してる車の横を——』


 そこまで言って、陽菜は口を閉じた。


 樹里の視線が刺さっている。


『……安全運転で走るの、気持ちいいよ』


 慌てて言い直す。


 凛は首を傾げたが、深くは追及しなかった。


 樹里が話題を戻す。


『購入を決める前に、信頼できる人へ一度相談した方がいいですね。車体を見てもらえる人がいれば、なお安心です』


「日高先輩に見ていただくことはできますか?」


『私に?』


「これだけ詳しいのでしたら、お願いできないかと」


 樹里がわずかに言葉を詰まらせた。


 陽菜は笑いを堪えながら、すかさず横から口を挟む。


『いいと思う。日高先輩なら、音を聞いただけでも大体わかるし』


『櫻井さん』


 樹里が穏やかな声で名前を呼んだ。


 表情は笑っている。


 だが、目は笑っていなかった。


『余計なことを言わないでください』


『すみません』


 陽菜は即座に謝った。


 凛は二人を交互に見つめる。


「以前、バイクに乗っていたんですか?」


 給湯室の空気が、一瞬だけ止まった。


 陽菜と樹里の視線が交わる。


 特攻服に身を包み、夜の道路を何台ものバイクで走った記憶。


 排気音が重なり、背中に縫いつけられた赤と黒の薔薇が風を受けていた。


 先頭を走る白い特攻服。


 その後ろを追う、桃色と水色。


 すべてが一瞬で陽菜の脳裏を駆け抜ける。


 樹里が先に表情を整えた。


『昔、少しだけ』


『あたしも、知り合いに教えてもらって』


 陽菜も曖昧に笑う。


「そうなんですね」


 凛は疑う様子もなくうなずいた。


 そして、びっしりと文字の書き込まれた資料の余白を見る。


「まずは125㏄を中心に調べてみます。ありがとうございました」


『気になる車種があったら、いつでも聞いて』


『販売店を決める前にも、一度相談してください』


「はい」


 凛は真面目に頭を下げ、給湯室を出ていった。


 扉が閉まる。


 陽菜と樹里は、しばらく何も言わなかった。


 先ほどまでの熱が嘘のように、給湯室が静かになる。


 陽菜は紙コップを持ち直し、ぽつりと呟いた。


『……エンジンの音、久しぶりに聞きたいな』


 樹里が即座に反応する。


『言うな』


『今は二人しかいないじゃん』


『そういう問題じゃねえ』


『総長だって、途中から楽しそうだったよ』


『楽しんでない』


『タイヤとチェーンの話をしてる時、ちょっと目が輝いてた』


『気のせいだ』


『また乗りたいと思わない?』


 樹里は答えなかった。


 代わりにコーヒーを一口飲み、陽菜の横を通り過ぎる。


『仕事に戻るぞ』


『あ、逃げた』


『聞こえてる』


 樹里が給湯室を出ていく。


 陽菜はその背中を見送りながら、小さく笑った。


 あれは否定しなかった時の樹里だ。


 陽菜も紙コップを持ち、少し遅れて営業部へ戻った。


 その日の夕方。


 凛は自分のデスクで仕事を終えると、周囲に見えないよう小さく検索画面を開いた。


 検索欄に、覚えたばかりの言葉を一つずつ入力する。


 ――中古バイク 125㏄ おすすめ。


 表示された大量の車種と専門用語を前に、凛は眼鏡の位置を直した。


 そして、給湯室で急に別人のようになった二人を思い出す。


(どうして、あんなに詳しいんだろう……)


 疑問は残った。


 だが今の凛にとっては、二人の過去よりも、候補に表示されたバイクの違いを理解する方が難しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。