5話「排気量」
陽菜が島川不動産へ入社して、三週間が過ぎた。
営業部事務の仕事にも、少しずつ慣れてきている。
顧客情報の入力、契約書類の確認、営業担当が持ち帰った資料の整理。まだ樹里に確認してもらうことは多いが、何をすればいいのかわからず立ち尽くすことはなくなった。
昼休み。
陽菜が給湯室で紙コップに湯を注いでいると、眼鏡をかけた遠藤凛が入ってきた。
凛は陽菜より先に島川不動産へ入社しているが、年齢は陽菜より下だ。仕事は丁寧で、頼まれたことは必ず期限までに終わらせる。その反面、冗談を真に受けやすく、少し融通が利かないところがある。
今日も昼食を終えたばかりだというのに、片手には仕事の資料があった。
『凛ちゃん、休憩中くらい仕事のこと忘れたら?』
「午後の分を確認しているだけです」
『それを仕事って言うんだよ』
「櫻井さんこそ、昨日入力した顧客情報、一件だけ番地が抜けていましたよ」
『……午後から直します』
陽菜は気まずそうに紙コップへ口をつけた。
その横では、樹里が何も聞いていないような顔でコーヒーを淹れている。
だが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
(絶対、笑ってる)
陽菜が横目で睨んでも、樹里は知らん顔をしている。
凛は資料を閉じると、窓の外へ視線を向けた。
「最近、通勤が少し不便で」
『遠いの?』
「距離はそれほどでもないんですけど、駅から自宅までのバスが少ないんです。残業すると、かなり待つことになるので」
『それは面倒だね』
「ですから、中古でいいので、バイクを買おうかと思っているんです」
その言葉が落ちた瞬間。
陽菜の手が止まった。
コーヒーを口へ運ぼうとしていた樹里の動きも、同時に止まる。
凛は二人の変化に気づかないまま続けた。
「ただ、私はあまり詳しくないので。とりあえず原付くらいでいいのかな、と」
『原付?』
陽菜が食いつく。
さっきまでの気の抜けた表情が消え、瞳が急に生き生きと輝き始めた。
『通勤で毎日乗るんでしょ? 片道どれくらい?』
「およそ九キロです」
『9キロなら、原付より125の方が絶対に楽だよ。車の流れにも乗りやすいし、坂道があっても余裕があるから』
陽菜が紙コップを置き、凛との距離を詰める。
樹里も静かに会話へ入ってきた。
『雨の日は乗らないとしても、通勤で使うなら余裕のある排気量の方が安全です。ただ、車体の大きさや重さもありますので、一度実物に跨って確認した方がいいですね』
「日高先輩も詳しいんですね」
『……多少は』
樹里は涼しい顔で答えた。
陽菜はその横顔を見ながら、危うく吹き出しそうになる。
(多少どころじゃないくせに)
自分でエンジンを開けるような人間が、よく言う。
もっとも、それを口にした瞬間に睨まれることはわかっていたため、陽菜は黙っておいた。
「中古だと、何を見ればいいんでしょうか」
凛が尋ねる。
その一言がいけなかった。
樹里と陽菜の中に眠っていたものが、完全に目を覚ました。
『まず整備記録ですね』
『走行距離だけで決めちゃ駄目だよ。距離が短くても、ずっと放置されてた車体はあるから』
『前の所有者の人数と、事故歴も確認してください』
『タイヤも見た方がいい。溝が残ってても、古かったら硬くなってるから』
『チェーンの状態もですね。錆や偏った伸びがないか、確認した方がいいです』
『エンジンは冷えた状態からかけてもらった方がいいよ。最初から暖めてある店は、ちょっと警戒した方がいいかも』
「え、ええと……」
凛は慌てて資料の余白を開き、メモを取り始めた。
陽菜は構わず続ける。
『ヘルメットは安すぎるのを選んじゃ駄目だからね。頭を守るものだし、毎日使うなら重さも大事』
『グローブも必要です。転倒した時、人は反射的に手をつきますから』
『あとは靴。普通のスニーカーでも乗れなくはないけど、くるぶしまで守れる方が安心だよ』
『可能であれば、プロテクターの入った上着も用意してください』
凛のペンが止まった。
「そこまで揃えないと、乗ってはいけないんですか?」
『いや、乗れないことはないけど——』
『安全を考えるなら、必要です』
陽菜と樹里の声が重なった。
二人は一度顔を見合わせ、何事もなかったように凛へ視線を戻す。
凛は完全に圧倒されていた。
「バイクって、思ったより大変なんですね……」
『大変じゃないよ。ちゃんと選べば便利だし、楽しいから』
陽菜は笑顔で答えた。
『朝の空気の中を走るの、気持ちいいよ。渋滞してる車の横を——』
そこまで言って、陽菜は口を閉じた。
樹里の視線が刺さっている。
『……安全運転で走るの、気持ちいいよ』
慌てて言い直す。
凛は首を傾げたが、深くは追及しなかった。
樹里が話題を戻す。
『購入を決める前に、信頼できる人へ一度相談した方がいいですね。車体を見てもらえる人がいれば、なお安心です』
「日高先輩に見ていただくことはできますか?」
『私に?』
「これだけ詳しいのでしたら、お願いできないかと」
樹里がわずかに言葉を詰まらせた。
陽菜は笑いを堪えながら、すかさず横から口を挟む。
『いいと思う。日高先輩なら、音を聞いただけでも大体わかるし』
『櫻井さん』
樹里が穏やかな声で名前を呼んだ。
表情は笑っている。
だが、目は笑っていなかった。
『余計なことを言わないでください』
『すみません』
陽菜は即座に謝った。
凛は二人を交互に見つめる。
「以前、バイクに乗っていたんですか?」
給湯室の空気が、一瞬だけ止まった。
陽菜と樹里の視線が交わる。
特攻服に身を包み、夜の道路を何台ものバイクで走った記憶。
排気音が重なり、背中に縫いつけられた赤と黒の薔薇が風を受けていた。
先頭を走る白い特攻服。
その後ろを追う、桃色と水色。
すべてが一瞬で陽菜の脳裏を駆け抜ける。
樹里が先に表情を整えた。
『昔、少しだけ』
『あたしも、知り合いに教えてもらって』
陽菜も曖昧に笑う。
「そうなんですね」
凛は疑う様子もなくうなずいた。
そして、びっしりと文字の書き込まれた資料の余白を見る。
「まずは125㏄を中心に調べてみます。ありがとうございました」
『気になる車種があったら、いつでも聞いて』
『販売店を決める前にも、一度相談してください』
「はい」
凛は真面目に頭を下げ、給湯室を出ていった。
扉が閉まる。
陽菜と樹里は、しばらく何も言わなかった。
先ほどまでの熱が嘘のように、給湯室が静かになる。
陽菜は紙コップを持ち直し、ぽつりと呟いた。
『……エンジンの音、久しぶりに聞きたいな』
樹里が即座に反応する。
『言うな』
『今は二人しかいないじゃん』
『そういう問題じゃねえ』
『総長だって、途中から楽しそうだったよ』
『楽しんでない』
『タイヤとチェーンの話をしてる時、ちょっと目が輝いてた』
『気のせいだ』
『また乗りたいと思わない?』
樹里は答えなかった。
代わりにコーヒーを一口飲み、陽菜の横を通り過ぎる。
『仕事に戻るぞ』
『あ、逃げた』
『聞こえてる』
樹里が給湯室を出ていく。
陽菜はその背中を見送りながら、小さく笑った。
あれは否定しなかった時の樹里だ。
陽菜も紙コップを持ち、少し遅れて営業部へ戻った。
その日の夕方。
凛は自分のデスクで仕事を終えると、周囲に見えないよう小さく検索画面を開いた。
検索欄に、覚えたばかりの言葉を一つずつ入力する。
――中古バイク 125㏄ おすすめ。
表示された大量の車種と専門用語を前に、凛は眼鏡の位置を直した。
そして、給湯室で急に別人のようになった二人を思い出す。
(どうして、あんなに詳しいんだろう……)
疑問は残った。
だが今の凛にとっては、二人の過去よりも、候補に表示されたバイクの違いを理解する方が難しかった。




