4話「6年」
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
店内には低く抑えられた音楽が流れている。カウンターの奥では、琥珀色の照明を受けた酒瓶が静かに光っていた。
陽菜は手元のグラスに目を落としては、向かいに立つ美園の顔を盗み見る。
黒と金の髪は、昔のような刈り上げではなく、大人びた形にまとめられている。身にまとっているのも、水色の特攻服ではなく、身体の線に沿った上品な黒のドレスだ。
煙草を挟む指も、グラスを扱う手つきも落ち着いている。
昔の美園を知らない客が見れば、彼女がかつて七十人近い女たちを束ねていたチームの一員だったとは、まず思わないだろう。
それでも、伏せた目の奥に時折浮かぶ鋭さだけは変わっていない。
あの目で見られると、陽菜は今でも少しだけ背筋が伸びる。
美園は陽菜の視線に気づいていたらしい。グラスを布で磨きながら、わずかに口元を緩めた。
『さっきから何? 私の顔に何かついてる?』
『いや……変わったなあって思って』
『お互い様でしょ』
美園は磨き終えたグラスを棚へ戻した。
『あんなに落ち着きのなかった陽菜が、今は会社員なんだから』
『あたしは昔から落ち着いてたよ』
『どの口が言う』
間髪を入れずに樹里が言った。
陽菜は頬を膨らませたが、美園はそれを見て小さく笑う。
その笑い方も、昔よりずっと柔らかかった。
だが、陽菜の知らない時間が、美園にもあった。
それを思うと、胸の奥が少しだけ寂しくなる。
樹里と再会できなかった四年間。
美園とも会わなかった四年間。
自分が二人を探しながら過ごしていたように、二人にもそれぞれの時間が流れていたのだ。
美園は自分のグラスを手に取り、氷をゆっくりと回した。
そして、何でもないことのように言った。
『私、一度結婚したんだ』
陽菜は勢いよく顔を上げた。
『え……結婚!?』
思わず声が大きくなり、美園が唇の前に人差し指を立てる。
『声が大きい』
『だって、結婚って……美園さんが?』
『私が結婚したらおかしい?』
『おかしくはないけど……全然知らなかったから』
陽菜の視線が、反射的に美園の左手へ向かった。
指輪はない。
美園もその視線の意味を理解したらしい。
『もう別れたよ。長くは続かなかった』
声音は穏やかだった。
悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえない。ただ、ずっと前に片づけた出来事を話しているような口調だった。
『どうして……』
陽菜はそこまで口にして、言葉を止めた。
聞いていいことなのか、わからなかった。
美園はそんな陽菜を責めるでもなく、少しだけ視線を落とした。
『いろいろあったんだよ。私が、普通の奥さんって柄じゃなかった。それだけ』
軽く笑ってみせる。
けれど、その笑みは目元まで届いていなかった。
隣に座る樹里は何も言わない。
ただ、手にしたグラスの氷を見つめている。
その横顔を見た瞬間、陽菜は気づいた。
(総長は、知ってるんだ)
美園が口にしなかった何かを、樹里は知っている。
けれど、樹里が言わないのなら、自分が踏み込むことではない。
陽菜は胸の中に浮かんだ疑問を、グラスの中へ沈めた。
『そっか』
それだけ答えると、美園は一瞬だけ陽菜を見つめ、柔らかく目を細めた。
『うん。それだけ』
短い言葉の中に、これ以上は聞かないでくれという静かな願いと、聞かないでいてくれたことへの感謝が混じっているように思えた。
少し重くなった空気を変えたくて、陽菜は店内を見回す。
そして、ここへ来たときから気になっていたことを口にした。
『そういえば、店の名前……Roseにしたんだね』
美園はカウンターへ肘をつき、軽く肩をすくめた。
『チーム名からもらったんだ。何か一つくらい、残しておきたくなってね』
陽菜は入口の方を振り返った。
扉の向こうには、〖Rose〗と記された小さな看板がある。
Rose girls。
六年前、樹里を中心に生まれたレディースチーム。
白、水色、桃色。それぞれ異なる色の特攻服に、同じ赤と黒の薔薇を背負った女たち。
樹里が二十歳、美園が十九歳、陽菜が十八歳の頃だった。
二年ほどの活動で、仲間は七十人近くにまで増えた。
そして四年前、樹里が何も告げずに姿を消し、Rose girlsは解散した。
あれから、四年。
チームを結成した日から数えれば、もう六年になる。
失ったと思っていた名前が、こんな小さな店の看板として残されていた。
それが陽菜には、たまらなく嬉しかった。
『お客さんに、名前の由来を聞かれないの?』
『聞かれるよ』
『何て答えてるの?』
美園は煙草を灰皿へ置き、何食わぬ顔で答えた。
『“薔薇のように美しいママだから”って』
一瞬、沈黙が落ちた。
次の瞬間、陽菜が吹き出した。
『はっ……薔薇のように美しいママ!?』
樹里も堪えきれなかったように、小さく鼻を鳴らす。
『よく真顔で言えたな、それ』
『うるさい。適当なんだってば』
『でも、自分で美しいって言ってるんでしょ?』
『陽菜。あんた、外に放り出されたい?』
『ごめんなさい』
そう言いながらも、陽菜の笑いは止まらない。
樹里も口元を緩め、美園は呆れたように煙を吐いた。
六年前と同じだった。
三人でいると、誰かが余計なことを言い、誰かが突っ込み、最後には全員で笑う。
服も、髪型も、暮らしも変わった。
それでも、変わらないものが確かに残っていた。
笑いが落ち着いたところで、陽菜はグラスを両手で包み込んだ。
『……あの頃のあたし、すぐ暴れてたよね』
美園がくすりと笑う。
『すぐだったよ。何かあれば、誰よりも先に飛び出してた』
『だって、みんな遅かったんだもん』
『状況も見ずに突っ込むあんたが早すぎたの』
『それで、いつも美園さんが止めてくれてた』
『止めてたっていうか、止めないと周りに被害が出たんだよ』
樹里がグラスを置く。
『お前が暴れた後の収拾は、ほとんど美園がやってたからな』
『総長だって暴れてたじゃん』
『私は必要な時しか動いてない』
『必要な時の規模が違ったけどね』
美園の指摘に、樹里は黙った。
陽菜は嬉しそうに身を乗り出す。
『でもさ、最終的にキレたら、一番怖かったのは美園さんだったよね』
『私?』
『そう。怒鳴らないで、逆に静かになるじゃん。あれが一番ヤバかった』
美園は否定するでもなく、煙草を灰皿へ押しつけた。
『まあね』
『認めるんだ』
『否定するほど、昔の自分を美化してないから』
『で、美園さんでも収まらなくて、総長が出てきたら終わり。完全に終わり。全部、一瞬で片づいちゃう』
陽菜が得意げに語ると、樹里が横目で睨んだ。
『何でお前が誇らしそうなんだ』
『だって、うちの総長だよ?』
『今は同じ会社の先輩だ』
『ここでは総長でいいって言ったじゃん』
『声を抑えろ、バカ』
叱られても、陽菜は笑っていた。
六年前の泥臭い日々は、もう戻ってこない。
戻す必要もないのかもしれない。
特攻服を脱ぎ、それぞれ違う道を歩いた。
傷ついたことも、失ったものも、きっと一つや二つではない。
それでも今、三人は同じカウンターを囲んでいる。
その事実だけで、陽菜の胸は不思議なほど満たされていた。
翌日。
営業部の自席で、陽菜は何度目かわからない小さなあくびを噛み殺した。
昨夜は楽しくて、思っていたより帰宅が遅くなってしまった。
少し離れた席では、樹里が何事もなかったような顔で書類を整理している。
眠そうな様子など欠片もない。
(総長、朝強いんだ……)
また一つ、知らなかったことを知った気がした。
樹里が席を立ち、書類を持って通路へ出たところで、陽菜は周囲を確かめてから小声で呼び止めた。
『日高先輩』
会社の呼び方を使う。
樹里が足を止めた。
『何ですか、櫻井さん』
返事も、完全に会社の先輩だった。
近くに人がいないことを確かめ、陽菜はさらに声を落とす。
『昨日、楽しかった。美園さんにも、総長にも……こうしてまた会えて、本当に嬉しい』
樹里は書類を抱えたまま、陽菜を見た。
その目が、一瞬だけ昔の樹里に戻る。
『……そうか』
それ以上は何も言わなかった。
だが、ほんの少しだけ緩んだ口元を、陽菜は見逃さなかった。
そのとき、営業部の入口から黒澤部長が入ってきた。
樹里は即座に表情を戻す。
陽菜も背筋を伸ばし、何事もなかったように自分のパソコンへ目を向けた。
黒澤は自席へ戻る途中、なぜか樹里の前で足を止めた。
「日高さん、聞いてくれよ。昨日、ちょっと飲みに行ってな」
『はい』
「それで昔の話になったんだけど、俺も若い頃は結構やった方でさ」
黒澤はどこか誇らしげに胸を張った。
樹里はいつもの穏やかな表情を崩さない。
『そうなんですね』
「夜の公園で仲間と立ち話してたら、警察に声をかけられてな。もう少しで補導されるところだったんだ」
『それは……大変でしたね』
樹里の返答に、ほんのわずかな間があった。
陽菜は慌てて口元を引き締める。
「まあ、若い頃は誰にでもあるよな、そういうの」
『へ、へえ……そうですね』
「今じゃ考えられないだろ?」
黒澤は満足そうに笑うと、自分の席へ戻っていった。
その背中が遠ざかるまで、樹里も陽菜も何も言わなかった。
やがて、二人はほぼ同時に顔を見合わせる。
樹里の目が、余計なことを言うなと告げていた。
陽菜は無言でうなずき、手元の書類へ視線を戻す。
(……武勇伝、しょぼ)
補導されかけた話を、あれほど誇らしげに話せる黒澤部長が、陽菜には少しだけ羨ましかった。




