3話「Rose」
陽菜が島川不動産へ入社して、二週間が経った。
電話の取り次ぎでは、まだ相手の会社名を一度で聞き取れないことがある。顧客情報の入力にも時間がかかり、契約書を見れば、似たような言葉が何行も並んでいるように思えた。
それでも、初日に比べれば仕事の流れは分かるようになった。
遠藤凛から渡される資料にも、以前ほど身構えなくなった。滝本英司の軽い誘いは笑って流せるようになり、早川柚希が近づいてきた時だけは、何を探られるのかと少し警戒する。
そして隣の席では、今日も樹里が「日高先輩」として働いている。
『櫻井さん。こちらの確認をお願いします』
『はい』
会社では、互いに丁寧な言葉を使う。
陽菜も最初の数日は、それだけで笑いそうになっていた。今ではどうにか顔へ出さずに返事ができる。
それでも、樹里が誰かに微笑むたびに違和感があった。
(営業用の顔、まだ慣れないな)
樹里が元総長だという事実は、日を追うごとに現実味を失っている。
二人きりになれば、あの頃と同じ口調で陽菜を叱る。だが会社へ戻った瞬間、背筋を伸ばし、穏やかな声で電話に出る。
どちらが本当の樹里なのか。
陽菜には、まだ分からなかった。
◇
終業時刻を少し過ぎた頃、樹里は最後の書類を閉じた。
部署にはまだ何人か残っている。陽菜も自分の机を片づけながら、樹里の動きを横目で見ていた。
樹里は鞄を持って席を立つ。
陽菜の後ろを通る際、足を止めずに言った。
『陽菜。この後、少し付き合え』
仕事用の声ではなかった。
ただし、周囲には聞こえないほど小さい。
陽菜は机の引き出しを閉めながら、同じように声を落とす。
『どこに行くの?』
『会わせたいやつがいる』
『誰?』
『行けば分かる』
『そういう言い方されると、怖いんだけど』
『お前が言うな』
樹里はそれ以上説明せず、先に営業部を出ていった。
陽菜は少し時間を空けてから立ち上がる。
「櫻井さん、日高先輩と一緒に帰るの?」
柚希が早速、声をかけてきた。
陽菜の手が一瞬止まる。
『違うよ。たまたま帰る時間が同じだけ』
「そう?」
『そう』
柚希は疑うように目を細めた。
陽菜はそれ以上追及される前に、鞄を持って営業部を出た。
◇
会社の裏手で待っていた樹里と合流し、二人は駅とは反対の方向へ歩いた。
陽菜は何度か行き先を尋ねたが、樹里は答えなかった。
大通りから一本外れた道へ入る。
人通りは少なく、古い飲食店が並んでいる。その一角に、低い照明を灯した小さな店があった。
入口の横に、黒地の看板が出ている。
書かれている文字は、一つだけだった。
【Rose】
陽菜の足が止まった。
六年前、三人で決めた名前。
四年前、陽菜が自分の口で終わらせた名前。
『……Rose』
声が漏れた。
胸の奥に、特攻服の背中へ刺繍された薔薇が浮かぶ。
樹里は何も答えず、店の扉へ手をかけた。
蝶番が小さく鳴る。
中から流れてきたのは、低く抑えられた照明と、酒、それから煙草の匂いだった。
壁際にはボックス席が二つ。奥には木目のカウンターがあり、磨かれたグラスが逆さに並んでいる。
カウンターの向こうで、一人の女性がグラスを拭いていた。
身体の線に沿う、上品な黒いドレス。
黒を基調とした髪には金色が残っているが、かつての荒々しい髪型ではない。刈り上げていた部分も伸び、今は自分で簡単にまとめている。
化粧も、あの頃より穏やかだった。
女性は顔を上げ、樹里を見る。
『珍しいね。こんな時間に』
落ち着いた声だった。
陽菜は入口に立ったまま、女性の顔を見る。
どこかで会った気がする。
だが、すぐには名前が出てこない。
樹里が先にカウンターへ歩く。
『客を連れてきた』
『総長が? 余計に珍しい』
総長。
その呼び方を聞いた瞬間、陽菜の中で何かがつながった。
女性の視線が、樹里の後ろにいる陽菜へ向く。
一度目は、確認する目だった。
二度目には、目元がわずかに緩んだ。
『陽菜。久しぶりだね』
その声が、記憶の中にある声と重なった。
喧嘩の後、興奮の収まらない陽菜をなだめていた声。
樹里に反発する陽菜を、呆れながら止めていた声。
普段は穏やかで、怒ると誰より静かになった人の声。
陽菜の身体が固まった。
『……え』
声がうまく出ない。
女性はグラスを置き、カウンター越しに陽菜を見ている。
樹里とは違う。
あの頃の荒々しさは、ほとんど残っていない。纏っている空気も、立ち方も、声の温度も変わっている。
だから、すぐには分からなかった。
けれど、目元にある小さなほくろも、笑う時に片方の口角だけが先に上がる癖も、陽菜は知っていた。
『美園さん……?』
女性――中村美園は、静かに笑った。
『遅いよ』
『だって、全然違うから……』
『四年も経ってるんだ。少しくらい変わるさ』
『少しどころじゃないよ。美園さん、こんな……』
『こんな?』
陽菜は言葉に詰まった。
綺麗になった。
落ち着いた。
怖くなくなった。
どれを言っても怒られそうな気がする。
樹里が陽菜の横を通り、カウンター席へ座った。
『諦めろ。こいつの口から、まともな感想は出ない』
『ちょっと総長、余計なこと言わないでよ』
『店では樹里でいい』
『総長が先に陽菜って呼んだんじゃん』
『会社じゃないからな』
二人のやり取りを見て、美園が小さく笑う。
『聞いてたよ。会社で会ったんだって?』
美園はカウンターの中から二人分のグラスを出した。
陽菜はまだ状況を飲み込めないまま、樹里の隣へ座る。
『う、うん……。本当にびっくりした。まさか総長が、普通に会社で働いてるなんて思わないし』
『普通に、は余計だ』
『しかも、すっごく真面目な先輩みたいな顔してるんだよ』
『実際に真面目に働いてる』
『昨日もあたしに、入力後の修正は手間になりますので、とか言ってきた』
陽菜は樹里の会社での声を真似た。
美園が吹き出す。
樹里は陽菜を横目で睨んだ。
『お前、明日から指導方法を変えるぞ』
『ほら。すぐそうやって脅す』
『会社で余計なことを言うなと、何度言えば分かる』
昔と変わらないやり取りだった。
美園は笑いながら、陽菜の前へグラスを置く。
『私は総長から聞いた時、まさかと思ったよ。陽菜が同じ会社に入ってくるなんてね』
『総長も最初は、あたしと同じくらい驚いた?』
『同じ顔してたよ』
『余計なことを言うな、美園』
『いいじゃない。陽菜には教えてやっても』
樹里は短く息を吐き、カウンターへ視線を落とした。
陽菜はそんな二人を交互に見る。
四年間、探しても会えなかった二人が、今は自分の左右にいる。
夢のようだと思った。
けれど、夢にしてはグラスの冷たさも、酒の匂いも、二人の声もはっきりしすぎている。
陽菜は店内を見回した。
あらためて【Rose】の文字が目に入る。壁に飾られた小さな薔薇の意匠。カウンターの端にも、同じ花が一輪だけ挿してある。
『この店、美園さんの店なの?』
『そうだよ』
『名前……』
美園はグラスへ炭酸を注ぎながら、陽菜を見る。
『気になる?』
『気になるに決まってるじゃん』
『その話は、ゆっくりしよう。今夜は、再会しただけで十分だろ』
はぐらかされた。
だが、陽菜はそれ以上追及しなかった。
美園が三人目のグラスを取り出し、自分の分も注ぐ。
三つのグラスが、カウンターの上に並んだ。
美園が自分のグラスを持つ。
『ここでは、好きにしていいよ。会社の人間も時々来るから、客がいる時だけは気をつけな』
樹里が短くうなずく。
『分かってる』
陽菜もグラスを手に取った。
『あたしだって、そこまでバカじゃないよ』
『昨日、営業部の真ん中で総長と呼んだ人間が言う台詞か』
『あれは、びっくりしたから!』
『次はないからな』
『分かってるってば』
美園が二人を見ながら、懐かしそうに目を細める。
『変わらないね、二人とも』
『こいつが成長してないだけだ』
『総長だって、口の悪さは全然変わってないじゃん』
陽菜は反論しながら、グラスを持つ指へ少しだけ力を込めた。
笑っていなければ、泣いてしまいそうだった。
あの頃の時間は、もう戻らない。
七十人で走った夜も、揃いの特攻服も、解散したRose girlsも戻ってこない。
それでも、樹里がいる。
美園がいる。
そして、自分もここにいる。
外から見れば、スナックの店主と二人の客が、昔話をしているだけにしか見えないだろう。
陽菜にとっては、四年前に失った場所が、形を変えて目の前に現れた夜だった。
三つのグラスが、小さく触れ合った。




