2話「日高先輩」
入社二日目。
陽菜は自分のデスクに座り、朝から配られた書類の束を眺めていた。
顧客情報の入力手順。契約書類の確認項目。営業担当者ごとの予定表。来客対応の決まりと、電話を受けた際の取り次ぎ先。
昨日説明されたはずなのに、半分も頭に残っていない。
営業部事務。
主な仕事は、営業担当の補助、契約書の確認、顧客データの入力、来客対応。そのほかにも、資料の準備や予定の管理など、細かな仕事がいくつもある。
喧嘩なら、相手の目を見れば次に何をしてくるか分かった。
目の前の書類は、どれだけ睨んでも何も教えてくれない。
(普通の仕事って、もっと普通にできるもんじゃないの……?)
陽菜が小さく息を吐く。
隣の席では、樹里がすでに仕事を始めていた。
黒のベストに白いシャツ。背筋を伸ばし、パソコンの画面と手元の書類を交互に確認している。
電話が鳴れば、二度目の呼び出し音までに受話器を取る。
『お電話ありがとうございます。島川不動産、営業部の日高でございます』
声は穏やかで、言葉遣いにも一切の乱れがない。
昨日、廊下で陽菜を怒鳴りつけた人物と同じとは思えなかった。
(……本当に総長なんだよね?)
疑う余地などない。
あの目も、声も、呆れた時に額へ手を当てる癖も、陽菜が知っている樹里そのものだった。
それでも、目の前で「日高先輩」を完璧に演じている姿には違和感しかなかった。
陽菜の視線に気づいたのか、樹里が顔を上げる。
『櫻井さん』
『は、はい』
『先ほどお渡しした一覧への入力は終わりましたか?』
『あ、もう少しです』
『分からない箇所があれば、そのまま進めずに聞いてください。入力後の修正は手間になりますので』
『分かりました』
陽菜も仕事用の笑顔を作って答えた。
樹里は小さくうなずくと、すぐに画面へ視線を戻す。
(怖っ)
怒っているわけではない。
話し方も丁寧だった。
それなのに、間違えればただでは済まない気がする。
陽菜は慌てて自分の画面へ向き直った。
◇
午前の仕事が一段落した頃、陽菜は給湯室へ向かった。
コーヒーの淹れ方くらいなら、書類より簡単だ。
そう思って扉を開けると、先に来ていた樹里が棚からカップを取り出していた。
ほかに人はいない。
陽菜は廊下を確認してから、静かに扉を閉めた。
『総長』
『声』
『小さいって』
樹里は給湯室の外へ目を向けた後、ため息をついた。
陽菜は紙コップを取り、コーヒーメーカーの前に立つ。
『総長、完璧に馴染んでるね』
『当たり前だ。何年やってると思ってる』
『何年?』
『余計なことは聞くな』
『聞いてないよ。今、総長が自分で言ったんじゃん』
樹里が目を細める。
陽菜は慌ててコーヒーメーカーへ向き直った。
『でも、なんかすごい。誰も疑ってない感じ』
『疑われないようにやってるだけだ』
『言葉遣いも、電話も、全部ちゃんとしてるし。昨日の廊下と別人じゃん』
『お前も早く覚えろ。今のままだと、そのうちボロが出る』
『出さないってば』
『すでに私を見すぎだ』
陽菜の手が止まった。
『……見てた?』
『朝から何度もな』
『だって、まだ信じられないんだよ。総長がこんな普通にOLやってるなんて』
『信じろ。でないと、お前が余計なことを言い出す』
『言わないって』
『言いそうな顔をしてる』
『どんな顔だよ』
樹里は答えず、コーヒーをひと口飲んだ。
陽菜はその横顔を見る。
四年間、どこにいたのかも、何をしていたのかも分からなかった。
どうしてRose girlsを捨てたのか。なぜ陽菜たちへ何も告げなかったのか。
聞きたいことは、今も胸の中に溜まっている。
けれど、ここで問い詰めたところで、樹里が答えるとは思えなかった。
昔から樹里は、話さないと決めたことだけは、誰に何を言われても話さない人だった。
陽菜は自分のコーヒーへ砂糖を入れた。
『……ねえ、総長』
『ここでは日高だ』
『今は二人しかいないじゃん』
『それでもだ。癖になる』
『四年も呼んでないのに、顔見たら勝手に出てくるんだよ』
樹里の指が、カップの縁で一瞬止まった。
陽菜はそれに気づいたが、何も言わなかった。
樹里はカップを置き、給湯室の扉へ向かう。
『先に戻る。時間をずらして出ろ』
『そんなところまで気にする?』
『昨日入社した人間と二人で密談していたと思われたくない』
『密談してたじゃん』
『していない』
『機密条約の確認は?』
『黙れ』
樹里は扉を少しだけ開け、廊下に人がいないことを確かめてから出ていった。
陽菜は残された給湯室で、笑いを堪える。
(やっぱり、全然変わってないじゃん)
◇
部署へ戻ると、眼鏡をかけた女性が陽菜の席の横に立っていた。
真っ直ぐに切り揃えた前髪。姿勢も表情も、樹里とは別の意味で堅い。
「櫻井さん」
『はい』
「先ほど入力していただいた顧客データですが、この資料と照合をお願いします。住所に旧字体が含まれているので、登録内容をそのまま使ってください」
『あ、分かりました』
「分からなければ呼んでください。遠藤凛です」
『ありがとうございます。櫻井陽菜です。昨日も名乗りましたけど』
「知っています。念のためです」
凛は真顔のまま答え、自分の席へ戻っていった。
(真面目……)
陽菜は渡された資料を見る。
細かな文字が隙間なく並んでいる。
隣から樹里が、画面を見たまま言った。
『遠藤さんの説明どおりに進めれば問題ありません』
『聞こえてたの?』
『隣だからな』
『会社だと、本当に丁寧なんだね』
樹里が横目で陽菜を見る。
陽菜はすぐに画面へ視線を戻した。
少し離れた席から、誰かの小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げると、髪を軽く巻いた女性がこちらを見ている。
樹里と同年代くらいだろうか。目が合うと、女性は親しげに笑った。
「日高さん、ずいぶん熱心に教えてあげてるのね」
『教育を任されていますので』
樹里は淡々と答えた。
「ふうん」
女性はそれ以上何も言わず、自分の書類へ戻る。
笑顔だったが、言葉の端には小さな棘があった。
陽菜が樹里へ視線で尋ねる。
樹里は小声で答えた。
『森下彩花。私の同期だ』
『仲悪いの?』
『仕事をしろ』
否定しないんだ、と陽菜は思った。
午後になると、黒澤部長が営業部へ戻ってきた。
四十代ほどの、小太りの男性。歩くたびにスーツの腹回りが窮屈そうに揺れる。
黒澤は部署をひと通り見回し、樹里の席へ近づいた。
「日高さん、新しい子の教育、頼んだぞ」
『はい。承知しています』
「俺は昔から、人を見る目には自信があってな。櫻井さんも、磨けば光ると思って採ったんだ」
陽菜は思わず顔を上げた。
採用された理由が、初めて判明した。
『ありがとうございます』
「俺も若い頃は、入社初日に電話を三本同時に取ったもんだ。まあ、今の時代は無理をしなくていいけどな」
『……はい』
三本の電話をどうやって同時に取ったのか。
陽菜が考えているうちに、黒澤は満足そうな顔で自分の席へ戻っていった。
隣から、樹里の低い声がする。
『真に受けるな』
『今の、嘘?』
『ほとんど武勇伝だ。話は半分で聞け』
『総長がそれ言う?』
樹里の目が細くなった。
『日高先輩』
陽菜はすぐに言い直した。
その呼び方が妙におかしくて、笑いそうになる。
樹里は陽菜の顔を見た後、何も言わずに書類へ戻った。
◇
夕方、外回りから戻ってきた男性が、陽菜のデスクへ近づいてきた。
年齢は陽菜より少し上に見える。明るい髪と、人慣れした笑顔。ネクタイもほかの社員より少しだけ緩い。
「櫻井さん、ですよね?」
『はい』
「滝本英司です。昨日は外に出てたんで、ちゃんと挨拶できなくて。困ったことがあったら言ってください。俺、けっこう頼れるんで」
『ありがとうございます』
「この部署、堅い人が多いから。息苦しくなったら、俺が息抜きに連れ出しますよ」
陽菜は明るく笑いながら、滝本の顔を見る。
(この手のタイプ、得意だな)
距離の詰め方が早い。自信があり、断られるとはあまり考えていない。
昔なら適当にあしらっていたが、ここでは相手も同僚だ。
『その時は、お願いします』
「ぜひ」
滝本は満足そうに笑い、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送った後、陽菜は隣へ目を向ける。
樹里は何も言わず、書類を確認している。
横顔はいつもどおりだった。
だが、滝本が話しかけている間、一度だけこちらを見ていたことを陽菜は知っている。
(心配してた? ……まさかね)
さらに向こうの席には、もう一人の男性がいた。
神谷悠真。
派手さはなく、少し不器用そうな雰囲気の男性だ。書類を持って席を立つたび、なぜか樹里の方を気にしている。
視線が向く。
樹里が顔を上げる。
神谷は慌てたように目を逸らす。
(分かりやす……)
陽菜が二人を交互に見ていると、今度は横から女性の声が飛んできた。
「ねえねえ、櫻井さん」
短めに整えた髪と、親しみやすい笑顔。早川柚希が、いつの間にか陽菜のデスクへ肘をついていた。
「日高先輩と、前から知り合いだったりする?」
陽菜の心臓が跳ねた。
『え?』
「昨日から、なんか二人の空気が気になって。初対面にしては、日高先輩が櫻井さんのこと見てる気がするんだよね」
陽菜は反射的に樹里を見る。
樹里は画面から顔を上げない。
ただ、キーボードを打つ音が一瞬だけ止まった。
『普通だと思いますけど。昨日、初めて会いましたし」
「本当に?」
『本当です』
「ふうん」
柚希は陽菜と樹里を順番に見る。
納得した顔ではない。
「まあ、いいけど。何か面白いことがあったら教えてね」
『面白いことって?』
「何でも」
柚希は笑いながら自分の席へ戻っていった。
(この子、絶対に噂好きだ)
陽菜は心の中で、柚希の名前の横に注意印をつけた。
その日の仕事が終わる頃には、陽菜の頭は数字と名前でいっぱいになっていた。
遠藤凛。森下彩花。滝本英司。神谷悠真。早川柚希。そして黒澤部長。
新しい仕事に、新しい人間関係。
誰も陽菜の過去を知らない。
それなのに、すぐ隣には過去そのもののような人物が座っている。
樹里が書類を片づけ、席を立った。
陽菜の横を通る際、ほかの社員には聞こえない声で言う。
『今日はこれで終わりだ。余計なことをするなよ』
『……してない』
『しそうな顔をしている』
『してないってば』
樹里は先に出口へ向かった。
陽菜は残った書類をまとめながら、その背中を見る。
四年前までは、誰もが樹里を総長と呼んでいた。
今、この場所で樹里は「日高先輩」と呼ばれている。
陽菜も明日からは、そう呼ばなければならない。
まだ口に馴染まない呼び方だった。
(……日高先輩、か)
不思議だった。
昔よりずっと遠い呼び方のはずなのに、また同じ場所にいられることが、少しだけ嬉しかった。




