↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/164

1話「足りないもの」

 六年前、Rose girlsというレディースチームが生まれた。


 始まりは、たった三人だった。


 総長は日高樹里。副総長は櫻井陽菜。そして、肩書きこそ持たなかったものの、誰より冷静に二人を支えていた中村美園。


 チーム名を決めた夜、三人で揃いの特攻服を作った。違う色の生地に、それぞれ同じ薔薇を刺繍した。


 出来上がったばかりの特攻服は、まだ生地が硬かった。陽菜はそれが嬉しくて、用もないのに何度も袖を通した。


 あの頃は、三人で走っていれば、それだけでよかった。


 次第に仲間が増え、Rose girlsは七十人近い大所帯になった。


 毎晩のようにバイクを走らせた。喧嘩もした。敵対するチームへ乗り込んだことも、一度や二度ではない。


 華やかさなんて、どこにもなかった。


 汗と泥と排気ガス。腫れた頬に、血の滲んだ拳。叱りつける樹里の声と、それを横で聞きながら煙草を吸う美園。


 それでも陽菜にとっては、あの騒がしい時間が世界のすべてだった。


 樹里と美園がいる。


 その後ろを走っていれば、自分は何にでもなれる気がしていた。


 だが、四年前。


 樹里は突然、姿を消した。


 前触れも、別れの言葉もなかった。


 電話はつながらず、住んでいた部屋も引き払われていた。バイクも、特攻服も、樹里がそこにいた痕跡ごと消えていた。


 誰も理由を知らなかった。


 陽菜は何度も美園へ詰め寄った。


 どうして総長が消えたのか。何か聞いていないのか。どこへ行けば会えるのか。


 美園は何も答えなかった。


 ただ、すでに何かを受け入れてしまったような顔で、黙っていた。


 樹里が消え、美園もチームへ戻らなくなった。


 陽菜は残ったメンバーをかき集め、Rose girlsを立て直そうとした。


 総長が帰ってくるまで、自分が守らなければならない。


 そう思っていた。


 けれど、樹里のようには誰も従わせられなかった。


 美園のように、暴れた後の人間を静かにまとめることもできなかった。


 人数だけは残っているのに、以前と同じ音では走れない。少しずつ仲間が離れ、最後には、陽菜自身が限界を迎えた。


 残ったメンバーを前にして、陽菜は告げた。


『……解散する』


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 狭い部屋に、陽菜の声だけが落ちた。


「総長がいない。美園さんもいない。それだけで、何もかも足りない」


 顔を上げられなかった。


 誰かと目が合えば、言えなくなる気がした。


『それに、あたしはあの二人みたいに、組織を束ねられる器じゃない。いくら頑張っても、あそこには届かない』


 誰かが何かを言いかけた。


 陽菜は首を横に振った。


『もういい。終わりだ』


 その日、Rose girlsは解散した。


     ◇


 解散してからしばらくの陽菜の生活は、自堕落そのものだった。


 昼過ぎまで眠り、起きてもやることがない。夜になれば適当な相手と遊び、明け方に帰ってまた眠る。


 樹里のことが頭をよぎりそうになるたび、考えても仕方がないと打ち消した。


 そのうち短期のアルバイトを転々とするようになった。


 働いていないわけではない。


 けれど、どこへ行っても長くは続かなかった。


 誰かに頭を下げることにも、細かい決まりに従うことにも慣れなかった。嫌なことがあれば辞め、少し金がなくなれば別の仕事を探した。


 何年経っても、自分の人生だけがあの夜で止まっている気がした。


 そんなある日、姉の佳菜から電話がかかってきた。


「島川不動産、事務職の求人が出てるよ。家からも近いし、未経験でも大丈夫みたい」


『不動産?』


「営業部の事務。陽菜、パソコンくらいは使えるでしょ」


『一応』


「だったら受けてみたら? いつまでも今みたいな生活してるわけにもいかないでしょ」


『うるさいな』


 口ではそう返したが、ほかに目標があるわけでもなかった。


 陽菜は深く考えずに応募した。


 面接では何度も言葉に詰まった。職歴の短さを聞かれた時には、正直に答えることもできなかった。


 それでも、なぜか採用された。


     ◇


 入社初日の朝。


 陽菜は鏡の前で、慣れない制服の襟を直した。


 白いシャツに、黒のベスト。スカートは膝が隠れる長さで、どこから見ても地味だった。


 かつて着ていた特攻服とは、何もかも違う。


 鏡の中にいるのは、Rose girlsの元副総長ではない。


 島川不動産へ入社する、ただの新人だった。


 誰も自分の過去を知らない。


 ここでは喧嘩も、バイクも、総長も関係ない。


 新しい自分として、普通に働けばいい。


 そう思っていた。


 島川不動産の営業部へ案内された瞬間、一人の女性が顔を上げるまでは。


 黒いベストに、皺のない白いシャツ。


 髪は耳を隠すように整えられ、机の上には書類が隙間なく並んでいる。表情は穏やかで、誰が見ても真面目な社員にしか見えなかった。


 四年という時間は、陽菜の知っている女性をすっかり別人に変えていた。


 それでも、目だけは変わっていなかった。


 陽菜を見るなり、一瞬だけ鋭くなった目。


 何度もその背中を追い、何度も叱られ、それでもずっと探し続けていた人の目だった。


 声を抑える余裕などなかった。


『……総長?』


 営業部の空気が、わずかに止まった。


 女性は陽菜を見つめた。


 ほんの一瞬だけ、その指が書類の上で止まる。


 だが、次に顔を上げた時には、穏やかな社員の表情へ戻っていた。


『人違いですよ』


 完璧な否定だった。


 陽菜は何も言えなかった。


 声も、話し方も、表情も、記憶にある樹里とは違う。


 それなのに、間違えるはずがなかった。


「日高さん」


 小太りの男性が、二人の間へ入るように声をかけた。


「新しい櫻井さんだ。ちょっと社内を案内してやってくれ」


『承知しました、黒澤部長』


 日高と呼ばれた女性――樹里は、何事もなかったように席を立った。


『櫻井さん。こちらへどうぞ』


『あ……はい』


 陽菜は慌てて後を追った。


 背筋を伸ばして歩く樹里の後ろ姿を見つめる。


 歩き方まで、以前とは違う。


 けれど陽菜が少し遅れると、樹里は振り返らないまま歩調を落とした。


 その癖だけは、四年前と同じだった。


 誰もいない廊下へ出たところで、樹里が足を止めた。


 周囲を確認し、勢いよく振り返る。


『バカ! いきなり『総長』じゃねえよ!』


 陽菜の肩が跳ねた。


 次の瞬間、驚きより先に、胸の奥から笑いが込み上げてきた。


『だって! 今の人を殺しそうな目、総長以外にいないでしょ!』


『するか、そんな目』


『するって! 総長、キレそうな時は絶対ああいう目になるじゃん!』


 樹里は額に手を当て、深く息を吐いた。


 その呆れ方も、昔のままだった。


『……ここでは日高だ。総長でも何でもない。分かったな』


『分かってるよ。でも、びっくりしたんだって。なんで総長がここにいるの?』


『それはこっちの台詞だ。どうしてお前が入ってくる』


『姉ちゃんに勧められただけ。本当に偶然だよ』


 樹里の動きが止まった。


『……姉ちゃん?』


『うん。『島川不動産が求人を出してる』って。総長、姉ちゃんのこと知ってるの?』


 樹里は廊下の天井を見上げた。


 抑えていたものが漏れるように、低く呟く。


『あのクソ女……図りやがったな』


『え?』


『佳菜とは同級生だ』


『は!? 姉ちゃんと総長が!?』


『バカ、声がでかい!』


 樹里が慌てて陽菜の口を手で塞いだ。


 陽菜は目を丸くしたまま、何度もうなずいた。


 廊下の向こうから人の気配がして、樹里はすぐに手を離す。何事もなかったように髪とベストを整えた。


 その切り替えの速さに、陽菜は思わず笑いそうになった。


 樹里は声を落とす。


『お互い、過去のことはここでは一切出すな。誰にも言わない。聞かれても知らないで通せ。いいな』


『……機密条約ってやつ?』


『そうだ。破ったら、ただじゃ済まさない』


『分かってるよ。こっちだって、今さら言いたくないし』


 樹里は短くうなずいた。


『仕事に戻るぞ』


 先に歩き出す背中を、陽菜は少し遅れて追いかけた。


 四年間、どれほど探しても見つからなかった背中が、今は数歩先を歩いている。


 聞きたいことは山ほどあった。


 どうして消えたのか。


 なぜ何も言ってくれなかったのか。


 どうして、この会社で普通の顔をして働いているのか。


 けれど、今はまだ何も聞けなかった。


 ただ、その背中が本当に目の前にあることだけで、胸の奥に空いていた場所が、少しだけ埋まった気がした。


(……やっぱり、総長だ)


 陽菜は緩みそうになる口元を押さえ、樹里の後ろを歩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。