1話「足りないもの」
六年前、Rose girlsというレディースチームが生まれた。
始まりは、たった三人だった。
総長は日高樹里。副総長は櫻井陽菜。そして、肩書きこそ持たなかったものの、誰より冷静に二人を支えていた中村美園。
チーム名を決めた夜、三人で揃いの特攻服を作った。違う色の生地に、それぞれ同じ薔薇を刺繍した。
出来上がったばかりの特攻服は、まだ生地が硬かった。陽菜はそれが嬉しくて、用もないのに何度も袖を通した。
あの頃は、三人で走っていれば、それだけでよかった。
次第に仲間が増え、Rose girlsは七十人近い大所帯になった。
毎晩のようにバイクを走らせた。喧嘩もした。敵対するチームへ乗り込んだことも、一度や二度ではない。
華やかさなんて、どこにもなかった。
汗と泥と排気ガス。腫れた頬に、血の滲んだ拳。叱りつける樹里の声と、それを横で聞きながら煙草を吸う美園。
それでも陽菜にとっては、あの騒がしい時間が世界のすべてだった。
樹里と美園がいる。
その後ろを走っていれば、自分は何にでもなれる気がしていた。
だが、四年前。
樹里は突然、姿を消した。
前触れも、別れの言葉もなかった。
電話はつながらず、住んでいた部屋も引き払われていた。バイクも、特攻服も、樹里がそこにいた痕跡ごと消えていた。
誰も理由を知らなかった。
陽菜は何度も美園へ詰め寄った。
どうして総長が消えたのか。何か聞いていないのか。どこへ行けば会えるのか。
美園は何も答えなかった。
ただ、すでに何かを受け入れてしまったような顔で、黙っていた。
樹里が消え、美園もチームへ戻らなくなった。
陽菜は残ったメンバーをかき集め、Rose girlsを立て直そうとした。
総長が帰ってくるまで、自分が守らなければならない。
そう思っていた。
けれど、樹里のようには誰も従わせられなかった。
美園のように、暴れた後の人間を静かにまとめることもできなかった。
人数だけは残っているのに、以前と同じ音では走れない。少しずつ仲間が離れ、最後には、陽菜自身が限界を迎えた。
残ったメンバーを前にして、陽菜は告げた。
『……解散する』
誰も、すぐには口を開かなかった。
狭い部屋に、陽菜の声だけが落ちた。
「総長がいない。美園さんもいない。それだけで、何もかも足りない」
顔を上げられなかった。
誰かと目が合えば、言えなくなる気がした。
『それに、あたしはあの二人みたいに、組織を束ねられる器じゃない。いくら頑張っても、あそこには届かない』
誰かが何かを言いかけた。
陽菜は首を横に振った。
『もういい。終わりだ』
その日、Rose girlsは解散した。
◇
解散してからしばらくの陽菜の生活は、自堕落そのものだった。
昼過ぎまで眠り、起きてもやることがない。夜になれば適当な相手と遊び、明け方に帰ってまた眠る。
樹里のことが頭をよぎりそうになるたび、考えても仕方がないと打ち消した。
そのうち短期のアルバイトを転々とするようになった。
働いていないわけではない。
けれど、どこへ行っても長くは続かなかった。
誰かに頭を下げることにも、細かい決まりに従うことにも慣れなかった。嫌なことがあれば辞め、少し金がなくなれば別の仕事を探した。
何年経っても、自分の人生だけがあの夜で止まっている気がした。
そんなある日、姉の佳菜から電話がかかってきた。
「島川不動産、事務職の求人が出てるよ。家からも近いし、未経験でも大丈夫みたい」
『不動産?』
「営業部の事務。陽菜、パソコンくらいは使えるでしょ」
『一応』
「だったら受けてみたら? いつまでも今みたいな生活してるわけにもいかないでしょ」
『うるさいな』
口ではそう返したが、ほかに目標があるわけでもなかった。
陽菜は深く考えずに応募した。
面接では何度も言葉に詰まった。職歴の短さを聞かれた時には、正直に答えることもできなかった。
それでも、なぜか採用された。
◇
入社初日の朝。
陽菜は鏡の前で、慣れない制服の襟を直した。
白いシャツに、黒のベスト。スカートは膝が隠れる長さで、どこから見ても地味だった。
かつて着ていた特攻服とは、何もかも違う。
鏡の中にいるのは、Rose girlsの元副総長ではない。
島川不動産へ入社する、ただの新人だった。
誰も自分の過去を知らない。
ここでは喧嘩も、バイクも、総長も関係ない。
新しい自分として、普通に働けばいい。
そう思っていた。
島川不動産の営業部へ案内された瞬間、一人の女性が顔を上げるまでは。
黒いベストに、皺のない白いシャツ。
髪は耳を隠すように整えられ、机の上には書類が隙間なく並んでいる。表情は穏やかで、誰が見ても真面目な社員にしか見えなかった。
四年という時間は、陽菜の知っている女性をすっかり別人に変えていた。
それでも、目だけは変わっていなかった。
陽菜を見るなり、一瞬だけ鋭くなった目。
何度もその背中を追い、何度も叱られ、それでもずっと探し続けていた人の目だった。
声を抑える余裕などなかった。
『……総長?』
営業部の空気が、わずかに止まった。
女性は陽菜を見つめた。
ほんの一瞬だけ、その指が書類の上で止まる。
だが、次に顔を上げた時には、穏やかな社員の表情へ戻っていた。
『人違いですよ』
完璧な否定だった。
陽菜は何も言えなかった。
声も、話し方も、表情も、記憶にある樹里とは違う。
それなのに、間違えるはずがなかった。
「日高さん」
小太りの男性が、二人の間へ入るように声をかけた。
「新しい櫻井さんだ。ちょっと社内を案内してやってくれ」
『承知しました、黒澤部長』
日高と呼ばれた女性――樹里は、何事もなかったように席を立った。
『櫻井さん。こちらへどうぞ』
『あ……はい』
陽菜は慌てて後を追った。
背筋を伸ばして歩く樹里の後ろ姿を見つめる。
歩き方まで、以前とは違う。
けれど陽菜が少し遅れると、樹里は振り返らないまま歩調を落とした。
その癖だけは、四年前と同じだった。
誰もいない廊下へ出たところで、樹里が足を止めた。
周囲を確認し、勢いよく振り返る。
『バカ! いきなり『総長』じゃねえよ!』
陽菜の肩が跳ねた。
次の瞬間、驚きより先に、胸の奥から笑いが込み上げてきた。
『だって! 今の人を殺しそうな目、総長以外にいないでしょ!』
『するか、そんな目』
『するって! 総長、キレそうな時は絶対ああいう目になるじゃん!』
樹里は額に手を当て、深く息を吐いた。
その呆れ方も、昔のままだった。
『……ここでは日高だ。総長でも何でもない。分かったな』
『分かってるよ。でも、びっくりしたんだって。なんで総長がここにいるの?』
『それはこっちの台詞だ。どうしてお前が入ってくる』
『姉ちゃんに勧められただけ。本当に偶然だよ』
樹里の動きが止まった。
『……姉ちゃん?』
『うん。『島川不動産が求人を出してる』って。総長、姉ちゃんのこと知ってるの?』
樹里は廊下の天井を見上げた。
抑えていたものが漏れるように、低く呟く。
『あのクソ女……図りやがったな』
『え?』
『佳菜とは同級生だ』
『は!? 姉ちゃんと総長が!?』
『バカ、声がでかい!』
樹里が慌てて陽菜の口を手で塞いだ。
陽菜は目を丸くしたまま、何度もうなずいた。
廊下の向こうから人の気配がして、樹里はすぐに手を離す。何事もなかったように髪とベストを整えた。
その切り替えの速さに、陽菜は思わず笑いそうになった。
樹里は声を落とす。
『お互い、過去のことはここでは一切出すな。誰にも言わない。聞かれても知らないで通せ。いいな』
『……機密条約ってやつ?』
『そうだ。破ったら、ただじゃ済まさない』
『分かってるよ。こっちだって、今さら言いたくないし』
樹里は短くうなずいた。
『仕事に戻るぞ』
先に歩き出す背中を、陽菜は少し遅れて追いかけた。
四年間、どれほど探しても見つからなかった背中が、今は数歩先を歩いている。
聞きたいことは山ほどあった。
どうして消えたのか。
なぜ何も言ってくれなかったのか。
どうして、この会社で普通の顔をして働いているのか。
けれど、今はまだ何も聞けなかった。
ただ、その背中が本当に目の前にあることだけで、胸の奥に空いていた場所が、少しだけ埋まった気がした。
(……やっぱり、総長だ)
陽菜は緩みそうになる口元を押さえ、樹里の後ろを歩いた。




