57話「好きだった」
柚希がスマートフォンを裏返すと、田村から届いたLINEが画面に表示された。
《急にどうしたの?》
それだけだった。
ホテルには行かないことにも、二人の関係を聞きたいという言葉にも、答えていない。
柚希はしばらく画面を見つめていた。
「……何も、答えてくれてないですね」
『うん』
陽菜は短く答えた。
何かを決めつける言葉は口にしない。
ここで田村を悪く言えば、柚希はまた彼を庇おうとするかもしれない。それ以上に、田村を好きになった自分まで否定されたように感じるかもしれなかった。
柚希の指が、ゆっくりと動く。
《急じゃないです。ずっと聞けなかっただけです。今日は話をしたいです》
送信する前に、柚希は陽菜を見る。
陽菜は黙って頷いた。
メッセージを送ってから、数分が経った。
やがて既読がつき、少し間を置いて返信が届く。
《分かった。仕事終わったら駅前の店で》
柚希の肩から、わずかに力が抜けた。
「会っては、くれるみたいです」
『そっか』
「……何を聞けばいいんでしたっけ」
『あたしが決めた質問を、そのまま言わなくていいんだよ』
「でも、頭が真っ白で」
『じゃあ、いちばん知りたいことは?』
柚希は唇を結んだ。
考えているというより、もう分かっている答えを口にする覚悟を探しているように見えた。
「私のことを、本当に好きなのか」
『うん』
「私たちは、付き合ってるのか」
『うん』
「他に……誰かいるのか」
最後の一つだけ、声が震えた。
陽菜は手を伸ばしかけ、止めた。
代わりに、柚希の目を見て言う。
『それを聞いておいで』
「怖いです」
『怖いよね』
「もし、私が考えたくない答えだったら……」
『そのときは、あたしにLINEして』
「陽菜さんに?」
『一人になりたいなら、そう書いて。側にいてほしかったら、それも書いて。電話してほしいでも、迎えに来てほしいでもいいよ』
「迎えに来てくれるんですか?」
『行くよ。でも、勝手には行かない』
柚希は少し驚いた顔をしたあと、静かに笑った。
「……分かりました」
『あと、これ食べて』
陽菜がサンドイッチを指差す。
「まだ言います?」
『言うよ。空腹で戦いに行くのは禁止』
「戦いに行くわけじゃないです」
『自分の気持ちをちゃんと伝えるんでしょ。柚希ちゃんにとっては戦いみたいなもんじゃん』
「そうかもしれません」
柚希はサンドイッチをもう一口かじった。
味はほとんど分からなかった。
それでも陽菜が隣に座っている間に、どうにか半分だけ食べた。
◇
終業後、柚希は一人で駅前の喫茶店へ向かった。
田村は、すでに奥の席に座っていた。
ネクタイを緩め、テーブルの上にスマートフォンを置いている。いつもと変わらない姿なのに、柚希にはひどく遠い人に見えた。
「ごめん。待った?」
「いえ。私も今来たところです」
向かいの席へ座る。
店員にコーヒーを頼んでから、田村は小さく息を吐いた。
「それで、話って?」
柚希は膝の上で拳を握った。
「LINEに書いたことです」
「関係がどうとかってやつ?」
「はい」
「そんな難しく考えなくてもよくない?」
田村は、困ったように笑った。
その笑い方も、柚希は好きだった。
仕事で失敗して落ち込んでいたとき、同じ顔で励ましてくれた。その優しさに救われたことまで、嘘だったとは思いたくない。
「私は、難しく考えてます」
「柚希」
「田村さんは、私のことが好きですか?」
「好きだよ。だから会ってるんだろ」
「その“好き”は、付き合いたいという意味ですか?」
田村の笑顔が、わずかに固まった。
「前にも言ったけど、今は仕事が忙しいんだよ。彼女を作って、毎週休みを合わせてとか、そういうのは無理だから」
「毎週会いたいなんて言ってません」
「でも、付き合ったらそうなるだろ?」
「じゃあ、私たちは付き合ってないんですか?」
「……わざわざ名前をつける必要ある?」
柚希の胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
想像していなかった答えではない。
むしろ、ずっと見ないようにしていた答えだった。
「あります」
柚希は言った。
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
「私には、あります」
「柚希は真面目すぎるんだよ。お互い会いたいときに会って、楽しく過ごしてる。それでいいじゃん」
「私は、楽しくありませんでした」
田村の眉が動く。
「昨日、ホテルを出て、一人で駅まで歩いているとき……すごく寂しかったです」
「昨日は俺も朝が早かったんだから、仕方ないだろ」
「そういうことじゃないんです」
「じゃあ、何?」
届いたコーヒーには、二人とも手をつけなかった。
柚希は一度だけ目を伏せる。
聞かなければ、この関係をもう少し続けられるかもしれない。
夜になれば、また優しい言葉をくれるかもしれない。抱き締めてもらえるかもしれない。
それでも、陽菜の言葉が頭に残っていた。
答えないことも、答えなのだ。
「他に、付き合っている人はいますか?」
田村の視線が、ほんの一瞬だけ逸れた。
それだけで、柚希には分かってしまった。
「……それ、誰かに何か言われた?」
「質問に答えてください」
「会社の誰か?」
「今は、その話をしてません」
田村は苛立ったように椅子の背へ身体を預けた。
しばらく黙ったあと、諦めたように息を吐く。
「いるよ」
柚希の指先から、感覚が消えた。
「……いつからですか?」
「柚希と会う前から」
「その人と、今も付き合ってるんですか?」
「付き合ってる」
「その人は、私のことを知ってますか?」
「知ってるわけないだろ」
即座に返ってきた言葉だった。
田村は、そこで初めて柚希の顔を見た。
「でも、柚希だって無理やりじゃなかっただろ。俺は付き合おうとは一度も言ってない。お互い納得してると思ってた」
「好きだって、言いました」
「好きにもいろいろあるだろ」
胸の奥で、何かが切れた。
激しい音はしなかった。
怒りも、すぐには湧かなかった。
ただ、今まで大切に抱えていた言葉が、急に形を失った。
「……そうですね」
「柚希?」
「私と田村さんの“好き”は、違ったみたいです」
「だからって、もう会わないとか、極端なこと言うなよ」
田村が身を乗り出す。
「今までだって楽しかっただろ? 彼女とは最近うまくいってないし、そのうちちゃんと整理するから」
「いつですか?」
「それは、すぐには決められないけど」
「私がホテルに行かないと言っても、会ってくれますか?」
「……それとこれとは別だろ」
「別じゃないです」
「面倒くさいな」
小さな声だった。
けれど、柚希にははっきり聞こえた。
田村自身も口にしたことを後悔したのか、すぐに表情を変える。
「いや、違う。そういう意味じゃなくて」
「もう、いいです」
柚希は鞄を持って立ち上がった。
「私、田村さんのことが好きでした」
「だったら、もう少し落ち着いて話そう」
「好きだから、今まで聞けませんでした」
涙が滲み始める。
それでも、柚希は逸らさずに田村を見た。
「聞いたら会えなくなると思って、嫌なことも寂しいことも、全部なかったふりをしてました」
「柚希」
「でも、それで会えても……私が好きになってほしかった私は、どこにもいませんでした」
田村は何も言わなかった。
「もう会いません。LINEも、しないでください」
「待てって」
手首を掴まれそうになり、柚希は一歩後ろへ下がった。
「触らないでください」
強い声が出た。
田村の手が、途中で止まる。
柚希は伝票を手に取った。
「私の分は払います」
「そんなのいいって」
「払わせてください」
最後まで、何かを与えられたまま終わりたくなかった。
レジで自分のコーヒー代を払い、柚希は一度も振り返らずに店を出た。
◇
店の外は、もう暗くなっていた。
駅へ向かう人の流れに紛れながら、柚希は歩いた。
涙は出なかった。
胸が痛いはずなのに、身体の内側が空っぽになったようで、何も感じられない。
スマートフォンが何度も震える。
田村からのLINEだった。
《さっきは悪かった》
《でも急に終わりとか言われても困る》
《ちゃんと話そう》
柚希は立ち止まった。
少し迷ってから、田村のアカウントをブロックする。
指は震えていた。
けれど、自分で押した。
次に陽菜とのLINEを開く。
《終わりました》
それだけを送る。
すぐに既読がついた。
《一人になりたい?》
柚希は答えようとして、指を止めた。
本当は一人で帰れると思っていた。
終わらせると決めたのは自分なのだから、その後も自分で立っていなければならない気がしていた。
だが今だけは、強がれなかった。
《側にいてほしいです》
送信してから、一分も経たずに返信が来た。
《今どこ?》
柚希が店の名前を送ると、陽菜から電話がかかってきた。
「陽菜さん」
『そこから動かないで。あたし、今から行くから』
「でも、陽菜さんも帰るところですよね」
『迎えに行ってって言ったの、あたしじゃん』
「……はい」
『電話、切っても大丈夫?』
「切らないでほしいです」
『分かった。じゃあ、あたしが着くまで話そっか』
「何をですか?」
『今日の晩ご飯。柚希ちゃん、何食べたい?』
「今は、何も……」
『じゃあ、ラーメンにする?』
「どうしてそうなるんですか」
『泣いたあとは塩分が必要でしょ』
「まだ、泣いてません」
『そっか』
陽菜は、それ以上何も聞かなかった。
田村に何を言われたのかも、きちんと別れられたのかも尋ねない。
電話の向こうで、どうでもいい話を続けている。
中井が昼休みに買ったコーヒーを盛大にこぼしたこと。
黒澤がそれを見て、中井に雑巾を投げたこと。
凛が笑いを堪えきれず、眼鏡を外していたこと。
いつもなら笑える話だった。
けれど、その日はうまく笑えなかった。
やがて、人混みの向こうから陽菜が走ってくるのが見えた。
仕事帰りの格好のまま、息を切らしている。
『柚希ちゃん』
電話と、目の前から、同じ声が聞こえた。
通話が切れる。
柚希はスマートフォンを握ったまま、陽菜を見つめた。
『お待たせ』
「……陽菜さん」
『うん』
「私、ちゃんと聞きました」
『うん』
「他に、付き合ってる人がいました」
『そっか』
「私と会う前から、ずっと」
『うん』
「好きにも、いろいろあるって言われました」
そこで初めて、陽菜の表情が歪んだ。
怒りを堪えているのだと、柚希にも分かった。
それでも陽菜は田村を罵らず、柚希の言葉を待った。
「もう会わないって、言いました」
『言えたんだ』
「LINEも、ブロックしました」
『頑張ったね』
その一言で、止まっていたものが溢れた。
「でも……好きだったんです」
『うん』
「本当に、好きだったんです」
『うん。知ってるよ』
「全部、嘘だったんですか?」
『柚希ちゃんの気持ちは、嘘じゃないよ』
陽菜が両腕を広げる。
『抱き締めてもいい?』
柚希は何度も頷いた。
陽菜の胸に顔を埋めた瞬間、声を抑えられなくなった。
好きだった。
会えるだけで嬉しかった。
LINEが届けば胸が高鳴った。
名前を呼ばれることも、抱き締められることも、同じ時間を過ごすことも、すべてが大切だった。
相手にとって同じ重さではなかったからといって、その気持ちまで簡単には消えてくれない。
「悔しい……」
『うん』
「まだ好きな自分が、悔しいです」
『今日すぐに嫌いにならなくていいよ』
「でも……」
『好きだったままで、離れていいんだよ』
陽菜は、柚希の背中をゆっくり撫でた。
『気持ちが消えたから終わらせたんじゃなくて、自分を大事にするために終わらせたんでしょ』
柚希の手が、陽菜の服を強く掴む。
『それでいいよ』
人通りの多い駅前で、柚希は陽菜に縋りついて泣いた。
陽菜は恥ずかしがることも、急かすこともしなかった。
泣き止むまで、ただ抱き締めていた。
好きだったことは、間違いではない。
ただ、その気持ちを預ける相手を、間違えた。
柚希がそれを受け入れられるようになるまでには、もう少しだけ時間が必要だった。




