56話「答えない答え」
翌日の昼休み。
柚希は、自分の席でスマートフォンを見つめていた。
画面が消えても指は動かない。しばらくして再び点灯させ、何かを確かめてから、また伏せる。
机の上には、まだ開けられていないコンビニのサンドイッチが置かれていた。
『柚希ちゃん』
声をかけると、柚希の肩が小さく跳ねた。
「陽菜さん。どうしたんですか?」
顔を上げた柚希は、いつものように笑ってみせた。
けれど、その笑顔はひどく薄い。
『今、少し話せる?』
「はい。大丈夫です」
『話したくないなら、今日はやめてもいいけど』
その言葉に、柚希の笑顔が消えた。
伏せたスマートフォンへ、視線が落ちる。
「……どこで、ですか?」
『小会議室、空いてると思う』
陽菜が立ち上がると、柚希もサンドイッチを手に取った。
二人で廊下を歩き、小会議室へ入る。
陽菜は扉を閉めたが、鍵はかけなかった。
向かい合って座るのではなく、長机の角を挟んで隣に座る。柚希が問い詰められているように感じないよう、ほんの少しだけ距離を空けた。
『先に聞いていい?』
「はい」
『あたしに、ただ聞いてほしい? それとも、思ったことも言ってほしい?』
柚希は戸惑ったように瞬きをした。
「……選べるんですか?」
『選べるよ。柚希ちゃんの話だから』
少し考えてから、柚希は膝の上で両手を組んだ。
「最初は、聞くだけにしてもらってもいいですか」
『うん』
「たぶん……自分でも、何を話したいのか、ちゃんと分かってないので」
『まとまってなくていいよ』
陽菜がそう言うと、柚希は小さく息を吐いた。
それから、途切れ途切れに話し始めた。
相手は、同じ会社に勤める田村という男だった。
最初は、仕事帰りに二人で飲みに行った。
悩みを聞いてくれた。可愛いと言ってくれた。好きだとも言われた。
何度か会ううちに、身体を重ねるようになった。
けれど、昼間に会ったことは一度もない。
休日に誘っても予定があると言われる。会社の近くでは並んで歩かない。食事をしても、店を出る時間をずらされる。
連絡が来るのは、決まって夜だった。
「付き合ってるのかって聞いたことも、あるんです」
『うん』
「そしたら、“今は仕事が忙しいから、形にこだわりたくない”って。だけど、“柚希のことは好きだよ”って言ってくれて……」
柚希の声が、次第に小さくなる。
「その言葉を、信じたかったんです」
陽菜は何も言わなかった。
励ましも、否定もせず、ただ柚希の次の言葉を待つ。
「昨日も、会いたいってLINEが来ました。それで……ホテルに行きました」
柚希は組んだ指に力を込めた。
「無理やりじゃないです。私も会いたかったし……抱かれたかった。だから、田村さんだけが悪いわけじゃないんです」
『うん』
「でも、終わったらすぐ帰ってほしいって言われて。先に部屋を出て、駅まで一人で歩いて……」
柚希は笑おうとした。
今度は、笑顔にならなかった。
「私、何やってるんだろうって思ったら、急に惨めになっちゃって」
『……そっか』
「軽い女だって、思いますか?」
『思わないよ』
陽菜は迷わず答えた。
『柚希ちゃんが会いたいと思ったことも、抱かれたいと思ったことも、悪いことじゃない』
「でも、私も自分で行ったんです」
『それと、雑に扱われていいかどうかは別でしょ』
柚希が顔を上げる。
『身体を重ねることを選んだからって、心まで雑に扱っていい理由にはならないよ』
「……でも、好きなんです」
『うん。好きなんだよね』
陽菜は否定しなかった。
その相手を罵れば、柚希はきっと自分の気持ちまで否定されたように感じる。
陽菜にも、それくらいは分かった。
「陽菜さんは、すごいです」
『何が?』
「この前、中井さんに“今日はまだ”って言えたじゃないですか」
『あれ、なんで知ってるの?』
「陽菜さんが自分で話してました」
『そっか。あたしだった』
陽菜が納得すると、柚希の口元がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、すぐにまた俯いてしまう。
「私も言いたいんです。今日は会うだけにしたいとか、ホテルには行きたくないとか。でも、それを言ったら、もう連絡が来なくなる気がして」
陽菜は机の上に置いた手を見つめた。
『あたしが言えたのは、あたしが強かったからだけじゃないよ』
「え?」
『中井くんが、あたしの“今日はまだ”を受け止めてくれたから。言ったあとも、側にいてくれたから』
あの夜、陽菜の言葉を聞いた中井は止まった。
不満そうな顔もせず、理由を問い詰めることもせず、ただ陽菜の気持ちを受け入れた。
『嫌だとか、今日は違うとか。そう言っただけでいなくなる人なら、その人が好きなのは柚希ちゃんじゃない』
陽菜は柚希を見る。
『何でも受け入れてくれる、都合のいい柚希ちゃんが好きなだけだよ』
柚希の瞳が揺れた。
「……怖いです」
『うん』
「聞いて、終わるのが怖い」
『聞かなくても、今の苦しいままなんじゃない?』
柚希は答えなかった。
答えられないことそのものが、答えだった。
しばらく沈黙したあと、柚希が尋ねる。
「陽菜さんなら、どうしますか?」
『それ、あたしが決めちゃっていい?』
「……分かりません」
『別れた方がいいって言うのは簡単だよ。でも、その人を好きなのは柚希ちゃんだから。終わらせるかどうかも、信じるかどうかも、柚希ちゃんが決めないと駄目だと思う』
以前の陽菜なら、もっと早く答えを出していたかもしれない。
相手の男のところへ乗り込み、柚希の代わりに怒っていたかもしれない。
だが、それでは柚希の人生を勝手に奪うことになる。
正しいと思ったことでも、本人の許可なく踏み込んでいいわけではない。
『ただ、聞いていいことはあると思う』
「何をですか?」
『あたしたちは付き合ってるのか。他に付き合ってる人はいないのか。夜やホテルじゃなくても会えるのか』
陽菜は一本ずつ指を折った。
『ちゃんと聞いて、それでも曖昧にされたら――曖昧にすることを選んだのが、その人の答えだよ』
「答えないことも、答え……」
『うん』
机の上で、柚希のスマートフォンが震えた。
二人の視線が、同時に画面へ落ちる。
表示されたのは、田村からのLINEだった。
《今日、会える?》
短い一文。
挨拶も、昨日のことを気遣う言葉もない。
柚希の指が、スマートフォンへ伸びる。
けれど、触れる直前で止まった。
「いつもなら、すぐ返してました」
『今日は?』
「……分かりません」
『じゃあ、すぐ返さなくていいんじゃない?』
柚希は何度か呼吸を繰り返した。
やがてスマートフォンを手に取り、LINEの入力欄を開く。
文字を打っては消し、また打ち直す。
陽菜は画面を覗かなかった。
隣に座ったまま、柚希が自分で言葉を選ぶのを待った。
「陽菜さん」
『ん?』
「送る前に、見てもらってもいいですか?」
『もちろん』
差し出された画面には、短い文章が打たれていた。
《会いたいです。でも今日はホテルには行きません。会う前に、私たちがどういう関係なのか、ちゃんと話したいです》
柚希の指は、送信ボタンの上で震えていた。
「これを送ったら、終わるかもしれません」
『うん』
「止めてくれないんですか?」
『止めてほしい?』
柚希はしばらく陽菜を見つめたあと、首を横に振った。
「……背中を押してほしいです」
『じゃあ、押す』
陽菜は、柚希の背中へ手を添えた。
力は込めない。
逃げ道を塞ぐためではなく、そこにいると伝えるためだけに。
『大丈夫。どんな返事が来ても、柚希ちゃんが自分を大事にしようとしたことは、間違いにならないから』
柚希は目を閉じた。
そして、送信ボタンを押した。
メッセージの横に、既読はつかない。
柚希は画面を伏せ、深く息を吐いた。
「日高先輩にも……相談した方がいいでしょうか」
『相談したい?』
「まだ、分かりません」
『じゃあ、今はいいよ』
「陽菜さんから話したりは……」
『しない』
陽菜ははっきり答えた。
『これは柚希ちゃんの話だから。誰かに相談したくなったら、そのとき一緒に行こう』
「……ありがとうございます」
柚希の声が震えた。
陽菜は机の端に置かれたままのサンドイッチを指差す。
『で、それ食べないの?』
「今、その話します?」
『する。お腹空いてると、余計に悪い方へ考えるじゃん』
「陽菜さんらしいです」
『何それ。褒めてる?』
「褒めてます」
柚希はようやく袋を開け、一口かじった。
その直後、伏せていたスマートフォンが震える。
柚希の手が止まった。
陽菜は画面を見ない。
『読めそう?』
「……はい」
『一人で読む?』
柚希は少し迷ってから、首を横に振った。
「側にいてください」
『うん。いるよ』
その答えを聞いてから、柚希はゆっくりとスマートフォンを裏返した。




