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55話「名前のない関係」

早川柚希には、好きな人がいた。


 営業部の別チームに所属する、田村という男性社員だった。


 誰とでも気軽に話せる明るい男で、場の空気を読むのも上手い。仕事で顔を合わせれば声をかけてくれ、柚希が笑うと、


「早川さんって、笑った顔かわいいよな」


 と、冗談のように褒めてくれた。


 最初は、ただ話しやすい同僚だった。


 複数人で飲みに行った帰りにLINEを交換した。


 翌日、田村から届いたのは、昨夜は楽しかったという短いメッセージだった。


 そこから仕事の愚痴や、昼に食べたもの、休日に見た映画の話をするようになった。


 田村から2人で飲もうと誘われたとき、柚希は何度も服を選び直した。


 その夜の店で、田村は会社にいるときより近かった。


「柚希ちゃんって呼んでいい?」


「うん」


「俺のことも、田村さんじゃなくていいよ」


「でも、会社の先輩だし」


「2人のときくらい、いいだろ」


 特別な関係になれたような気がした。


 酒が進み、店を出たあとも、田村は柚希の手を離さなかった。


 人気のない道で足を止め、唇を重ねられた。


「俺、柚希ちゃんのこと好きだよ」


 その言葉が、柚希には何より嬉しかった。


「私も、田村くんのことが好き」


 自分からそう返した。


 田村は笑い、もう一度キスをした。


 その夜、2人はホテルへ行った。


 嫌ではなかった。


 田村が好きだった。


 触れてほしかったし、もっと近くなれば、2人の関係にも自然と名前がつくのだと思っていた。


 翌朝、田村は優しかった。


「昨日、かわいかった」


「もう、言わないで」


「照れてるのもかわいい」


 髪を撫でられ、額へ軽く口づけられた。


 柚希は、それを恋人にすることだと思っていた。


 だが、会社へ戻ると田村の態度は変わった。


「早川さん、この資料、そっちのチームにも共有お願いします」


 名字で呼ばれる。


 声も、他の女性社員に向けるものと変わらない。


 目が合っても、少し笑うだけだった。


 社内恋愛を隠したいのだろうと、柚希は自分を納得させた。


 仕事と私生活を分けたい人もいる。


 周囲に知られたくない気持ちも、理解できる。


 夜になれば、田村からLINEが届いた。


「今度、会える?」


「会いたい」


 そう返すと、また優しい田村に戻った。


 ただ、会う時間はいつも遅かった。


 仕事を終えて食事をして、そのあとは決まってホテルへ向かう。


 休日の昼に出かけたことはない。


 映画や水族館の話をしても、


「今度行こうな」


 という言葉だけで終わった。


 その今度がいつなのか、田村から日程を出したことはなかった。


 一度だけ、柚希から尋ねたことがある。


「ねえ、私たちって、付き合ってるんだよね?」


 ホテルを出たあとの道だった。


 田村は、少し困ったように笑った。


「俺、柚希ちゃんのこと好きだって言ってるだろ」


「うん。でも、ちゃんと聞いてないから」


「付き合うとか付き合わないとか、言葉にしないと駄目?」


「駄目っていうか……分からなくて」


「俺は、今の関係で十分大事にしてるつもりだけどな」


 責められたわけではない。


 声も優しかった。


 だからこそ、柚希はそれ以上聞けなかった。


「そっか。ごめん」


「謝ることじゃないよ」


 田村は柚希の頭を撫でた。


「柚希ちゃんは考えすぎ。もっと気楽でいいんだって」


 その言葉を信じようとした。


 好きと言ってくれる。


 会いたいとも言ってくれる。


 抱きしめられているときは、確かに大切にされているように感じる。


 自分が欲張りなのかもしれない。


 恋人という言葉にこだわらなければ、今のままでも幸せなのかもしれない。


 そう思おうとしていた。


 月曜日の朝。


 柚希が自分の席で資料を整理していると、中井が陽菜の机へ小さな紙袋を置いた。


「陽菜さん、これ」


『何?』


「昨日話していたお菓子です。駅で見つけたので」


『覚えてたんだ。ありがと』


 陽菜は紙袋を開き、一つ取り出して中井の口元へ差し出した。


『中井くんも食べる?』


「ここ、会社ですよ」


『お菓子食べるだけじゃん』


「自分で取ります」


『つまんないの』


 中井は周囲を気にしながら、それでも陽菜の隣で笑っている。


 付き合っていることを隠していない。


 誰かに知られても、隣にいることをやめない。


 その光景を見て、柚希の胸に小さな痛みが走った。


 羨ましいと思った。


 そう感じた自分を、すぐに嫌いになった。


 陽菜と中井が悪いわけではない。


 2人が幸せであることを、柚希も嬉しく思っている。


 ただ、同じ「好き」という言葉なのに、自分のものとは形が違って見えた。


 昼前、廊下で田村とすれ違った。


 柚希は周囲に人がいないことを確認し、少しだけ笑いかけた。


「お疲れさま」


「ああ、お疲れ。早川さん」


 田村は足を止めなかった。


 後ろには同じチームの社員がいた。だから仕方がない。


 柚希はそう思い、何もなかったように歩き続けた。


 午後、田村からLINEが届いた。


「今日、会える?」


 胸が少しだけ明るくなる。


 すぐに返信を打ちかけ、指を止めた。


「何時?」


「仕事終わったあと。いつものところで」


 いつものところ。


 駅前の店でも、以前行きたいと話した映画館でもない。


 ホテルの近くにあるコンビニの前だった。


 柚希は画面を見つめた。


 今日は家へ帰って、溜まっている洗濯をするつもりだった。凛からも、仕事のあとに食事へ行かないかと誘われている。


 それでも、田村に会いたかった。


「会えるよ」


 送信すると、すぐに返事が来た。


「よかった。楽しみにしてる」


 その一文だけで、断らなくてよかったと思ってしまう。


 終業後。


 柚希は凛へ、今日は用事ができたと謝った。


「大丈夫。急な予定なら仕方ないよ」


「ごめんね、凛ちゃん。また今度」


「うん。また誘うね」


 凛は何も聞かなかった。


 聞かれなかったことに安心しながら、柚希は少しだけ胸が痛んだ。


 待ち合わせ場所へ着くと、田村はすでにいた。


「お疲れ。今日もかわいいな」


「会社でも会ったじゃん」


「会社と外は違うだろ」


 田村は自然に柚希の腰へ手を回した。


 その瞬間だけ、昼間の距離が嘘のように消える。


「ご飯は?」


「俺、軽く食べた。柚希ちゃんは?」


「まだだけど」


「ホテルで何か頼む? 時間、あまりないんだよね」


「そっか」


「ごめんな。今度、ちゃんと食べに行こう」


 また、今度だった。


 柚希は笑ってうなずいた。


「うん」


 ホテルの部屋でも、田村は優しかった。


 乱暴には扱わない。


 嫌なことを無理に求めるわけでもない。


 何度もかわいいと言い、抱きしめ、終わったあとには髪を撫でてくれる。


 だから、苦しいと思う自分がおかしいのだと感じた。


 隣で田村がスマートフォンを確認している。


 柚希はシーツを胸元まで引き上げ、天井を見た。


「ねえ」


「ん?」


「今度の休み、昼から会わない?」


「次の休み?」


「うん。映画とか、ご飯とか。普通に出かけたい」


 田村の指が、画面の上で止まる。


「今ちょっと、仕事が読めないんだよな」


「日曜日も?」


「急に入るかもしれないし。分かったら連絡する」


「そっか」


「何。今日だけじゃ足りない?」


 田村が笑いながら、柚希の頬を指でつついた。


「そういう意味じゃないよ」


「柚希ちゃん、寂しがり屋だな」


 もう一度抱き寄せられる。


 柚希はその胸へ顔を預けた。


 寂しいと言えば、こうして抱きしめてくれる。


 けれど、抱きしめられるほど、何かが足りなくなっていく。


「私たちのこと、会社ではずっと内緒?」


「社内恋愛って、知られると面倒だろ。別れたときも気まずいし」


「……別れること、考えてるの?」


「例え話だよ。重く受け取るなって」


 田村は困ったように笑った。


「俺は柚希ちゃんが好きだよ。それじゃ駄目?」


 また、その言葉だった。


 柚希は首を横に振った。


「駄目じゃない」


「なら、いいじゃん」


「うん」


 答えながら、自分の声が遠く聞こえた。


 帰る時間になると、田村は先に服を着た。


「俺、明日朝早いから、先に出るな」


「一緒に駅まで行かないの?」


「会社のやつに見られたら困るだろ。少し時間ずらして出て」


「……分かった」


「また連絡する」


 田村は柚希の額へキスをした。


「今日もかわいかった。好きだよ」


 ドアが閉まる。


 一人になった部屋で、柚希はすぐには起き上がれなかった。


 好きと言ってもらえた。


 今日も優しかった。


 痛いことも、嫌なこともされていない。


 それなのに、涙が出そうになる。


 柚希は両手で顔を覆った。


(私が、もっと気楽ならいいのかな)


 恋人という言葉を求めなければいい。


 昼間に会いたいと言わなければいい。


 会社で名字を呼ばれても、気にしなければいい。


 連絡が来たときだけ会うことを、幸せだと思えればいい。


 そうすれば、田村に嫌われずに済む。


 関係を失わずに済む。


 けれど、考えれば考えるほど、自分の中から何かが削れていく。


 帰宅した柚希は、田村へLINEを送った。


「今日はありがとう。楽しかった」


 既読はつかなかった。


 翌朝になっても、そのままだった。


 会社へ着くと、田村は別の社員と笑いながら話していた。


 柚希の姿に気づいても、目を合わせない。


 昨日、自分を抱きしめた人とは思えないほど、普通の同僚の顔だった。


 始業直前になって、ようやくLINEに既読がつく。


 返信はなかった。


「柚希ちゃん」


 声をかけられ、柚希は慌ててスマートフォンを伏せた。


 陽菜が、自分のデスクの横に立っている。


『おはよう』


「おはよう、陽菜さん」


『今日、早いね』


「やることが残ってたから」


『そっか』


 陽菜はそれ以上聞かず、自分の席へ戻った。


 柚希も笑顔を作り、仕事を始める。


 電話を取り、資料を運び、凛といつもどおり話した。


 誰にも心配させないように、明るく振る舞った。


 ただ、昼休みになっても食事はほとんど喉を通らなかった。


 陽菜は離れた席から、その様子を見ていた。


 笑っている。


 仕事にも遅れはない。


 それでも、いつもの柚希とは何かが違う。


 スマートフォンを見るたび、目の奥から光が消える。


 誰かからの連絡を待っている顔だった。


(……無理してる)


 陽菜はまだ、声をかけなかった。


 聞くなら、周囲に誰もいない場所がいい。


 柚希が笑って逃げられないときではなく、自分から話せる余白があるときがいい。


 ただ面白がって踏み込むことと、相手を心配して待つことは違う。


 昨日、樹里に叱られた言葉が残っている。


 陽菜は柚希のスマートフォンではなく、その横顔だけを見た。


 今は、まだ待つ。


 けれど、一人で沈ませるつもりはなかった。

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